『資本主義の次に来る世界』

資本主義の次に来る世界

 

一条真也です。
『資本主義の次に来る世界』ジェイソン・ヒッケル著、野中香方子訳(東洋経済新報社)を読みました。「サロンの達人」こと佐藤修さんに紹介された本です。著者は、経済人類学者。英国王立芸術家協会のフェローで、フルブライト・ヘイズ・プログラムから研究資金を提供されています。エスワティニ(旧スワジランド)出身で、数年間、南アフリカで出稼ぎ労働者と共に暮らし、アパルトヘイト後の搾取と政治的抵抗について研究。「ガーディアン」紙、アルジャジーラ、「フォーリン・ポリシー」誌に定期的に寄稿し、3冊の著書があります。欧州グリーン・ニューディールの諮問委員を務め、「ランセット 賠償および再分配正義に関する委員会」のメンバーでもあります。


本書の帯

 

本書の帯には、「『少ない方が豊か』である。」と大書され、「『アニミズム対二元論』というかつてない視点で文明を読み解き、成長を必要としない次なる社会を描く希望の書。」とあります。


本書の帯の裏

 

帯の裏には、「本書が語るのは破滅ではない。語りたいのは希望だ。どうすれば、支配と採取を軸とする経済から生物界との互恵に根差した経済へ移行できるかを語ろう。――『はじめに 人新世と資本主義』より」「ケイト・ラワース(『ドーナツ経済学が世界を救う』著者)、ダニー・ドーリング(『Slowdown 減速する素晴らしき世界』著者)ほか、世界の知識人が大絶賛!」とあります。



また、カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
デカルトの二元論は『人間』と『自然』を分離した。そして資本主義により、自然や身体は『外部化』され、『ニーズ』や『欲求』が人為的に創出されるようになった。資本主義の成長志向のシステムは、人間のニーズを満たすのではなく、『満たさないようにすること』が目的なのだ。それでは、人類や地球に不幸と破滅をもたらさない、『成長に依存しない次なるシステム』とは何か? 経済人類学者が描く、かつてない文明論と未来論」



本書の「目次」は、以下の構成になっています。
はじめに「人新世と資本主義」
第1部 多いほうが貧しい
第1章 資本主義――その血塗られた創造の物語
第2章 ジャガノート(圧倒的破壊力)の台頭
第3章 テクノロジーはわたしたちを救うか?
第2部 少ないほうが豊か
第4章 良い人生に必要なものは何か
第5章 ポスト資本主義への道
第6章 すべてはつながっている
「謝辞」「原注」

 

「はじめに『人新世と資本主義』」で、著者は「地球上の昆虫の総重量は、人間を含めた他のすべての動物の総重量より重いのだよ」と父親から教わったことを覚えていると告白します。著者は驚き、なぜか励まされるように感じたそうです。幼い頃の著者は生物の運命が気がかりで、他の子どももきっと同じように心配していると思っていました。ですから、その話を聞いて、ほっとした。生物はいくらでもいるから心配しなくていいと思ったのだとか。


2017年末、科学者のチームが少々奇妙でかなり心配な発見を報告しました。彼らはドイツ自然保護区に生息する昆虫の数を数十年にわたって計測してきました。虫は大量にいて、そのような調査は不要だと思えるので、こうした研究に時間を費やす科学者はごくわずかです。そのため、この珍しい調査の結果に誰もが注目したのです。著者は、「それは衝撃的だった。ドイツの自然保護区では、この25年間で飛ぶ昆虫の4分の3が消えたのだ。原因は、周辺の森林が農地に変えられ、農薬が大量に使用されたことだと彼らは結論づけた」と述べています。

 

昆虫の減少は広域で起きています。大陸や地球規模で把握するのは難しいですが、見えてきた証拠には暗澹とした気持ちにさせられます。研究者たちは、陸上昆虫の数が10年ごとに9%減少してきたことを発見しました。少なくとも10種に1種は絶滅の危機にあるというのです。著者は、「驚くべき数字であり、『連鎖的絶滅』の可能性も懸念される。それは、ある種の絶滅が別の種の絶滅を導くことで、そうなると生物多様性が予測できないスピードで失われていく。この危機は非常に深刻で、2020年に科学者たちは昆虫の運命について『人類への警告』を発表した。『昆虫が絶滅すると種をはるかに超えるものが失われる。生命の木の大部分が失われるのだ』と彼らは書いている。そのような損失は『人類が依存する重要な生態系サービスの衰退につながる』。こうした意見に応じて、近年、昆虫の生物多様性の世界的専門家によるシンポジウムが開かれた。その報告書は、シンプルだが不吉な次の言葉から始まった。『自然は危機に瀕している』」と述べます。


欧米などの工業地帯の沿岸には「デッドゾーン」が広がっています。かつて生命が躍動していた海は、魚よりプラスチックのほうが多い。不気味なほど閑散とした場所になりつつあります。海は気候変動の影響も受けています。地球温暖化がもたらす熱の90%以上を海は吸収しています。海は緩衝材となって、人間によるCO₂排出がもたらす最悪の影響からわたしたちを守っているのです。しかし、その結果として海は苦しんでいます。著者は、「海温が上昇するにつれて栄養のサイクルは乱れ、食物連鎖は断ち切られ、海洋生物の生息地の多くが消滅しつつある。同時に、排出されるCO₂のせいで海洋の酸性度が高まっている。これは問題だ。というのも、海洋の酸性化には、過去に何度も大量絶滅を招いているからだ」と述べています。


パリ協定での各国の温室効果ガス排出削減目標(任意であって拘束力はない)を計算に入れても、地球の気温は3.3℃上昇するとされています。しかもそれは徐々に起きる変化ではありません。著者は、「人類はそのような惑星で暮らしたことがない。2003年にヨーロッパを襲った恐ろしい熱波は普通の夏になるだろう。スペイン、イタリア、ギリシャは地中海気候ではなくなり、サハラ砂漠のようになる。中東は恒常的な干ばつに陥るはずだ。同時に、海面の上昇によって世界はすっかり様変わりする。1900年から現在までに、海面は約20センチメートル上昇した。この、一見わずかに思える上昇さえ、より頻繁な洪水と、より危険な高潮をもたらしている」と述べます。

 

さらに、気温が3℃か4℃上がれば、海面は1メートルから2メートル上昇する可能性があります。そうなったら海岸地域の多くが海面下に沈むでしょう。著者は、「1億6400万人が暮らすバングラデシュは消える。巨大な防潮堤を築かなければニューヨークやアムステルダムなどの都市は水没し、ジャカルタ、マイアミ、リオデジャネイロ、大阪も同じ運命を辿る。そうなると無数の人々が居住地からの立ち退きを余儀なくされるだろう。すべては今世紀中に起きることだ」と述べます。なお、おそらくこのすべてと同等に破壊的で、最も懸念される気候変動の影響はもっと日常的なものと関係があります。それは食料です。


アジア人口の半分はヒマラヤ山脈の氷河に由来する水に頼っています。飲み水や家事に使う水だけでなく、農業用水もです。何千年もの間、氷河から流れ出る水は、毎年新たな氷ができることで補充されてきました。しかし現在、氷河は補充が追いつかないスピードで溶けているとして、著者は「気温が3℃か4℃上昇すれば、氷河の大半は今世紀末には消滅し、その地域のフードシステムの根幹を破壊し、8億人を苦境に陥れるだろう。ヨーロッパ南部、それにイラク、シリアなど中東のほとんどの国では、深刻な干ばつと砂漠化が進み、国全体が農業に適さなくなる可能性がある。アメリカと中国の主要な食料生産地域も打撃を受ける。NASAによると、アメリカの草原地帯と南西部で干ばつが発生すると、これらの地域は黄塵地帯になる恐れがある」と述べます。

 

通常、ある地域が食料不足になっても、他の地域の余剰でカバーすることができます。しかし、気候が破綻すると、複数の大陸で同時に食料不足が起こり得ます。「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)の報告書は、気温上昇が2℃を超えると「世界規模の長期的な食料不足」が起きると予測します。報告書の筆頭著者は、「複数の穀物地帯が不作になる潜在的リスクが高まっている」と述べています。これと土壌の劣化、受粉を助ける昆虫や鳥の死滅、漁業の衰退からなる食料危機に向かう負のスパイラルを、わたしたちは目撃しているのです。


森林にもフィードバックループが働きます。地球の温度が高くなるにつれて、森林は乾燥し、燃えやすくなります。森林が燃えると大気中にCO₂が放出されますが、同時にCO₂の吸収剤である森林が失われます。これは地球温暖化を加速させるだけでなく、雨量にも直接影響する。森林は文字通り、雨を生み出しているからです。著者は、「森林は生命の源となる水を世界中に送り出す巨大な心臓のようなもので、地球の循環系にとって非常に重要なのだ。森林が枯れたら、干ばつは日常的になり、森林は火災に対していっそう脆弱になる。これは驚異的なスピードで進んでいる。このまま行けば今世紀末までに森林の大半はサバンナに変わるだろう」と述べます。


2016年にアメリカの2人の科学者――ロバート・デコントとデヴィッド・ポラード――が、『ネイチャー』誌に発表した論文において、それははるかに早く起きると予測しました。氷床は端よりも中央部が厚いので、氷床の端が崩れると、より高い氷崖が現れます。そこに問題が生じるのです。より高い氷崖は自重を支えられないので、ドミノ式に崩れて後退していきます。その結果、氷床は数百年ではなく数十年――おそらくわずか20年から50年――以内に融解する恐れがあるというのです。著者は、「もしそのようなことが起きたら、わたしたちが生きている間に、西南極氷床の融解だけで海面が1メートル以上、上昇する可能性がある。同じことがグリーンランドで起きると、事態はさらに悪化する。世界中の沿海都市は対処する間もなく水没するだろう。カルカッタ、上海、ムンバイ、ロンドン――そのすべてが世界経済のインフラの大半を道連れにして海に沈む。想像も及ばない規模の大惨事になるはずだ」と述べています。


その大惨事が起こり得ることを、わたしたちは知っています。なぜなら、同じことがすでに起きたからです。最終氷河期の終わりにそれは起きました。氷崖のダイナミクスを研究する科学者は、政府の気候モデルがこのリスクを考慮していないことを声高に批判します。著者は、「科学者の中には、気温上昇をパリ協定が前提とする2℃に『とどまらせる』のは不可能だろう、と危惧する人もいる。もし、2℃上昇すれば、制御不能なカスケードが発生し、地球を恒常的な『温室状態』に追いやるかもしれない。しかし、気温は目標値をはるかに超えて上昇する可能性があり、そうなったらわたしたちは無力だ」と述べます。


これらのリスクを考えると、唯一、理にかなう対策は、あらゆる手を尽くして気温の上昇を1.5℃以下に保つことです。そのためには現在のどの計画よりはるかに早く、全世界の排出量をゼロにしなければなりません。「エコ・ファクトの裏側」では、苦境を招いたことに関して、化石燃料企業と買収された政治家の責任は重いといいます。しかし、それだけでは無為無策の説明にはなりません。他に何か――もっと深い何かがあるという著者は、「社会が石油燃料に依存していることと、化石燃料企業の異常な行動は、より深刻な問題の症状にすぎない。その問題とは、過去数世紀にわたって多かれ少なかれ地球全体を支配するようになった経済システム、資本主義である」と述べます。


「永遠に続く経済成長という資本主義の幻想」では、資本主義は「市場」や「取引」といった馴染みのある平凡な言葉で説明されがちですが、その説明は正確ではないといいます。著者は、「市場と取引は資本主義が始まる数千年前から存在し、それらに罪はない。資本主義が歴史上の他の経済システムの大半と異なるのは、それが絶え間ない拡大、すなわち『成長』の要求を中心として組織されているからだ。産業の生産と消費は増え続け、国内総生産(GDP)という単位で計測される。成長は資本主義の最優先命令だ。資本主義における生産の増大が目的とするのは、人間のニーズを満たすことでも、社会を向上させることでもなく、利益を引き出し蓄積することだ。それが何より重要な目的なのだ。このシステムは一種の全体主義的論理の上に成り立っている。その論理とは、すべての産業、すべての部門、すべての国の経済は、終着点がないまま常に成長し続けなければならない、というものだ」と述べます。


著者は、わたしたちは気候変動を回避するために何をすべきかをよく知っているといいます。化石燃料の消費を大幅に削減し、クリーンエネルギーを急速に普及させ、世界の排出量を10年間で半減し、2050年までにゼロにする、すなわち、世界規模のグリーン・ニューディールを推し進めるのです。もっとも、これが世界の平均目標であることを忘れてはならないとして、著者は「高所得国は、長年に及ぶ排出に多大な責任を負っているため、より速く実行し、2030年までに排出量をゼロにするべきだ。それがいかに大変かは、いくら強調しても強調したりないだろう。人類がこれまで直面した中で最も困難な任務である。良いニュースは、この目標の達成は可能であることだ。だが、問題が1つある。科学者たちは、高所得国が成長を追求し続けるのであれば、気温の上昇を1.5℃以下、ましてや2℃以下に抑えるのは不可能だ、と指摘する。なぜなら、さらに成長しようとするとエネルギー需要が高まり、残された短い時間で、クリーンエネルギーでカバーするのは難しく、実際のところ不可能だからだ」と述べます。


資本主義は基本的に成長に依存しています。経済が成長しなければ、不況に陥り、債務が積み重なり、人々は仕事と家を失い、生活が破綻します。そうした危機を回避するために、政府は産業活動を継続的に成長させようと奔走するのです。こうしてわたしたちは罠に囚われるとして、著者は「成長は構造上の必然であり、鉄則である。その上、鉄壁のイデオロギーに支えられている。右派と左派の政治家は、成長がもたらす配当の分配については言い争うかもしれないが、成長の追求に関して、両者に隔たりはない。成長主義とでも呼ぶべきものは、近代史において最も強力なイデオロギーの1つになっており、誰も立ち止まってそれを疑おうとしないのだ」と述べています。

 

「世界中で高まる資本主義への反感」では、アメリカの思想家フレドリック・ジェイムソンの「世界の終わりを想像するより、資本主義の終わりを想像するほうが難しい」という有名な言葉が紹介されます。著者は、「驚くには値しない。結局、わたしたちは資本主義しか知らないのだ。仮に資本主義を終わらせたとして、その後はどうなるだろう。代わりになるのは何だろう。革命の次の日、わたしたちは何をするだろう。それを何と呼ぶだろう。わたしたちの思考は――言葉さえ――資本主義の枠内にとどまり、その枠を超えた先には、身のすくむような深い淵が待ち構えている。わたしたちの文化は新しいものに惹かれ、発明や革新が大好きで、創造的で型にはまらない考えを称賛する。たとえば、スマートフォンや芸術作品について、『これまでに作られた中で最高の装置、あるいは絵画であって、これを超えるものは決して現れないだろうし、超えようとすべきでもない!』と言ったりはしない。そんなことを言えば、人間の創造力を過小評価する愚か者と見なされるだろう」と述べています。



アニミズムから二元論、そして再びアニミズムへ」では、人類学者たちが、「歴史の大半を通じて人間は二元論とはまったく異なる存在論、すなわち、広義に精霊信仰と呼ばれるものに依拠してきたこと」を以前から指摘していることが紹介されます。長い年月、人間は他の生物界との間に根本的な隔たりを感じていませんでした。川、森、動物、植物、さらには地球そのものと相互依存の関係にあると考えていました。それらを人間と同様に感情を持ち、同じ精神によって動くものと見なし、場合によっては、親類のような近しさを感じていました。著者は、「環境主義者は『限界』、乏しさ、個人的厳格主義という言葉で自らの考えを語ろうとした。しかし、限界という概念は、最初からわたしたちを間違った方向へ向かわせる。その概念は、自然は人間と切り離された『外』に存在し、必然的に人間と対峙することを前提とする。この種の考え方は、人間を苦境に陥らせた二元論的存在論から生まれた。今わたしたちが必要としているのはまったく別の概念だ。それは限界ではなく相互関連性であり、他の生物との親密さを取り戻すことだ。厳格主義ではなく喜びと友好と楽しさだ。乏しさではなく大きさであり、人間のコミュニティ、言語、意識の境界を広げることなのだ」と述べるのでした。



第1部「多いほうが貧しい」の第1章「資本主義――その血塗られた創造の物語」の冒頭を、著者は「人類はこの惑星に30万年近く生きている。その間に十分な進化を遂げて知的になった。その年月のおよそ97%の間、人類は地球の生態系と相対的な調和を保って生きてきた。もっとも、初期の人類社会が生態系を変化させなかったわけではなく、問題がなかったわけでもない。たとえばケナガマンモス、巨大ナマケモノ、サーベルタイガーといった古代メガファウナ(巨型動物類)の絶滅には、特定の人類社会が関与したことがわかっている。しかし、今日わたしたちが目撃しているような生態系の多面的な崩壊を、彼らは決して引き起こさなかった」と書きだしています。


地球規模でバランスが崩れ始めたのは、この数百年間に資本主義が台頭し、1950年代から産業化が驚異的に加速するようになってからです。それを理解すれば、問題に対する考え方が変わるといいます。この人間の時代は「人新世」と呼ばれますが、この危機は人間が引き起こしたわけではありません。真の原因は、ある経済システムにあるとして、著者は「このシステムは最近になって始まり、歴史上の特定の時代に特定の場所で発展した。社会学者のジェイソン・ムーアが指摘するように、現代は人新世(アントロポセン)ではなく――資本新世(キャピタロセン)と呼ぶべきなのだ」と述べます。

 

資本主義イコール市場ではありません。市場は何千年にもわたって、さまざまな時代や場所に存在しましたが、資本主義が誕生したのはわずか500年前です。資本主義の特徴は、市場の存在ではなく、永続的な成長を軸にしていることだと指摘し、著者は「事実、資本主義の史上初の、拡張主義的な経済システムであり、常にますます多くの資源と労働を商品生産の回路に取り込む。資本の目的は、余剰価値の抽出と蓄積であるため、資源と労働をできるだけ安く手に入れなくてはならない。言い換えれば、資本主義は、『自然と労働から多く取り、少なく返せ』という単純な法則に従って機能しているのだ」と述べています。

 

「人為的希少性というパラドックス」では、囲い込みの結果、ヨーロッパの農民――都市に移住せず、農村にとどまった人々――は、気がつくと新たな経済体制に組み込まれていたことが指摘されます。彼らは再び地主に支配されましたが、今回の立場はいっそう不利だったとして、著者は「かつての農奴制では少なくとも農地の利用は保障されていたが、今や農地は一時的にしか借りられなくなった。しかも生産性に応じて割り当てられた。農地を使い続けるために農民は、生産性を高める工夫をし、より長く働いて、年々収穫量を増やさなければならなかった。この競争に負けると借地権を失い、飢えに直面する。農民は互いと競争し、親類や隣人とも張り合うようになった。かつての協力的なシステムは、絶望的な敵対を中心とするシステムへと変わっていった」と述べます。

 

生産性の論理を土地と農業に適用したことは、人類の歴史に根本的な変化をもたらしました。人々の生活が「生産性を高め、生産量を最大化する」という要求に支配されるようになったのです。著者は、「生産は、もはや必要を満たすためのものでも、地域の充足を目的とするものでもなくなった。利益を中心に計画され、資本家の利益を増やすためのものになったのだ。これはきわめて重要なポイントだ。わたしたちが人間の本性に刻み込まれていると思っていた『ホモ・エコノミクス』の性質は、囲い込みによって導入されたのだ」と述べています。

 

ここで理解しておくべき重要なポイントは、資本主義の特徴であるきわめて高い生産能力は、人為的希少性の創出と維持に依存していたことであるとして、著者は「希少性――および、飢餓の脅威――は、資本主義を成長させる原動力になった。実際には資源は不足していなかったので、その希少性は人為的なものだった。土地、森、水源は以前と同じだったが、突如として、利用を制限されたのだ。希少性は、上流階級が富を蓄積するためにつくり出したものだった。人為的希少性は国によって暴力的に強制され、勇気を奮って自分たちと土地を隔てる柵を壊そうとした農民は虐殺された」と述べるのでした。

 

「二元論による人間と自然の分断」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。「囲い込みと植民地化は、ヨーロッパで資本主義が台頭するための前提条件だった。その2つは資源を強奪するための新たなフロンティアを開き、自給自足経済を破壊し、安価な労働力を大量に生み出し、人為的希少性を生み出すことで競争的な生産性を作動させた。これらの力はパワフルだったが、依然として上流階級による富の蓄積を阻む障壁が存在した。その壁を崩すには、別の何か――もっとさりげないが、等しく暴力的な何かが必要だった。初期の資本家は、人々を強制的に働かせる方法を見つけるだけでなく、人々の考え方を変えなければならなかった。生物界に対する見方を変える必要があったのだ。最終的に、資本主義は自然についての新しい物語を必要としたのである」

 

人類は、30万年に及ぶ歴史の大半を通じて、他の生物と親密な関係を保ってきました。初期の社会に生きる人々は、数千ではないとしても数百の植物、昆虫、動物、川、山、土の名前と性質と特徴を説明できたと考えられています。現代人が俳優、有名人、政治家、製品ブランドについて詳しく知っているのと同じだとして、著者は「彼らは自らの生存が周囲の生物システムに依存していることを知っていたので、そうしたシステムの働きに細心の注意を払った。人間は生物コミュニティの一員であり、本質的な特性は他の生物と同じだと彼らは考えていた。遠い祖先たちが世界中の岩壁に描いた絵画からは、人間と他の動物との間に精神的交流があると信じていたことがうかがえる」と述べています。

 

人類学者はこの世界観を精霊信仰(アニミズム)と呼びます。アニミズムでは、すべての生物は互いとつながっていて、同じ精神あるいは霊的本質を共有するとされます。アニミズムを信仰する人々は、基本的に人間と自然を区別しません。両者は根本的につながっていると考えており、動物を親類と見なすことさえあります。そのため、他の生物システムからの搾取を抑制する強力な道徳律を持っています。著者は、「現代のアニミズムの文化圏では、人々は当然ながら漁業や狩猟、植物採集、畜産を行うが、根底にあるのは抽出ではなく『互恵』の精神だ。人と人が贈り物を交換するように、他の生物との取引においても敬意と礼儀が重んじられる」と述べています。

 

わたしたちが親類から搾取しないのと同様に、アニミズムを信仰する人々は、生態系が再生できる量より多くは取らないよう注意を払い、土地を守り修復することで生態系にお返しをしています。近年、人類学者は、これは単なる文化の違いではないと考えるようになりました。もっと根深い違いです。アニミズムの人間観は、二元論とは根本的に異なります。アニミズムはインター・ビーイング(相互依存)の存在論オントロジー)なのです。「支配」という原則は、枢軸時代(紀元前500年頃)に、ユーラシア大陸の主要な地域で超越的な哲学や宗教――中国では儒教、インドではヒンドゥー教ペルシャではゾロアスター教、レヴァントではユダヤ教ギリシャではソフィズム(詭弁)――が生まれるに従って、より確固になっていったと指摘し、著者は「人間を自然界の支配者と見なす考え方は3000年前の古代メソポタミアの文献にすでに詳述されている。おそらく最もはっきり記しているのは、創世記そのものだ」と述べます。

 

ヨーロッパ各地のいわゆる異教徒の文化は、アニミズムの考え方を受け継ぎ、聖と俗を区別するキリスト教の見方を拒絶ました。著者は、「異教徒たちは生物界――植物と動物、山と森、川と雨――を、精霊や神のエネルギーが宿る魅惑的な存在と捉えた。キリスト教は、ヨーロッパで拡大するにつれて、こうした思想を抑圧し、ケルト族のドルイド僧を迫害したりしたが、完全に排除することはできなかった。その後も、アニミズム的思想は農民の間に広く浸透し続けた。そして1200年以降、アニミズム的思想は目覚ましい復活を遂げた。アリストテレスの著作の新訳がヨーロッパで出回るようになり、農民の信念に正当性を与えたのだ。さらには1350年以降、農民の反乱をきっかけとして封建制が崩壊し、平民が封建領主から土地の支配権を奪取すると、アニミズム的思想は広く受け入れられるようになった」と述べます。

 

1500年代、ヨーロッパ社会では2つの強力なグループが、アニミズム的思想の目覚ましい復活を憂い、その破壊に乗り出します。その1つは教会です。物質世界に精霊が満ちているという考え方は、「自らが神に通じる唯一のパイプであり神の正当な代理人である」という聖職者の主張を脅かしました。アニミズム的思想を問題視する強力なグループがもう1つありました。資本家たちです。1500年以降、優勢になったその新しい経済システムは、土地、土壌、地中の鉱物との新しい関係を必要としました。その関係は、所有、抽出、商品化、成長し続ける生産性(当時の言葉では「向上」)を原則として築かれました。

 

しかし、何かを所有したり搾取したりするには、まず、その何かをモノと見なさなくてはならなりません。あらゆるものが生きていて精霊や主体性(エージェンシー)を内包する世界では、万物は権利を持つ存在と見なされ、所有および搾取――すなわち、財産化――は倫理的に許されないのです。著者は、「アニミズムを信仰する人々が土地からの搾取や山での採掘を行わなかったわけではない。彼らも行ったが、常に慎みと礼儀を忘れなかったのだ。鉱山労働者、鍛冶屋、農民は地球に供物を捧げた。贈り物を受け取ることが許されるように、地球からの搾取は許されると彼らは考えたが、過剰に採ったり乱暴に採ったりすると災いが起きる、と信じていた」と述べています。


自然を機械と見なすイギリスの哲学者フランシス・ベーコンのビジョンを、わずか数年後に一貫性のある哲学にしたのはフランスの思想家ルネ・デカルトでした。デカルトは、ベーコンが主張する自然の支配は、自然が生命を持たない場合にのみ正当化できることに気づきました。そこで彼は、世界を天上界(イデア)と現実世界に二分したプラトンの哲学に立ち返り、新たな解釈を加えて、「精神と物質は基本的に二分される。人間はすべての生物の中で唯一、神との特別なつながりの証である精神(あるいは魂)を持っている。一方、人間以外の生物は思考力のない物質にすぎない。植物や動物は、精神も主体性も、意志も動機も持たない。単なる自動機械(オートマトン)で、予測可能な機械的法則によって時計のようにカチカチと動いているだけだ」と論じたのです。ちなみに、デカルトが時計に夢中だったことはよく知られています。

 

「経済の『外』に存在する『安い自然』」では、植民地の先住民は、人間と自然を分離する二元論を受け入れなかったので、「原始的」と見なされたことが指摘されます。植民地の支配者や宣教師は、「驚くべきことに自分たちが出会った先住民の多くは、世界は生きていて、山、川、動物、植物、さらには土地までもが主体性と精神を備えていると信じている」と著しています。ヨーロッパの支配階級は、ヨーロッパと同様に植民地でもアニミズム思想は資本主義の障害になると考え、その根絶を図りました。この取り組みは「文明化」の名のもとに行われました。著者は、「先住民は、文明化した完全な人間になるために(そして資本主義世界経済に自ら進んで参加するために)、アニミズム思想を捨て、自然をモノと見なすことを強制された」と述べています。


第2章「ジャガーノート(圧倒的破壊力)の台頭」の「私的な成長要求から公的な執着へ」では、世界恐慌アメリカと西ヨーロッパの経済を荒廃させ、政府は対応を迫られたことが指摘されます。アメリカの政府高官は、1年間に自国が生産するすべての商品とサービスの貨幣価値を明らかにするシステムの開発を、ベラルーシ出身の若き経済学者サイモン・クズネッツに依頼しました。経済の動きをより明確に把握できれば、うまくいっていないところを見つけて効果的に介入できると考えたからだ。クズネッツは「国民総生産」(GNP)と呼ばれる測定基準を開発しました。現在用いられている「国内総生産」(GDP)の基礎になるものです。しかし、クズネッツは、GDPは完璧ではないことを強調したといいます。著者は、「GDPは総生産額の市場価値を集計するが、その生産が有益か有害かには関知しない。GDPは100ドル分の催涙ガスと100ドル分の教育を区別しない。おそらくより重要なこととして、生産に伴う生態学的・社会的コストをGDPは考慮しないのだ」と説明しています。



クズネッツは「GDPを経済成長の尺度にすべきではない」と警告しました。成長に伴う社会的コストをGDPに組み入れ、人間の幸福に配慮する、よりバランスの取れた目標を政府は追求すべきだ、と彼は考えたのです。しかしちょうどその時、第二次世界大戦が起きました。ナチの脅威が高まるにつれて、クズネッツの幸福に関する懸念は置き去りにされていったのです。著者は、「政府はあらゆる経済活動――良くないものも含め――を数え上げ、戦争に利用できる生産能力と収益を、どれほど些細なものも見逃さないようにしなければならなかった。この攻撃的なGDPのビジョンがやがて主流になった。1944年のブレトン・ウッズ会議で、戦後の世界経済を統制するルールについて世界の指導者たちが検討した時、GDPは経済発展の重要な指標として正式に認められた。まさにクズネッツが警告したことが起きたのである」と述べています。

 

「成長という拘束衣」では、現在、国が豊かでも貧しくても、ほぼすべての政府がGDP成長率に心を奪われていることが指摘されます。もはや選択の余地はないとして、著者は「グローバル化した世界では、マウスをクリックするだけで国境を越えて資本を動かすことができるため、各国は、外国からの投資をめぐって競いあうことを余儀なくされる。そのプレッシャーのせいで、各国政府は気がつくと、労働者の権利の削減、環境規制の緩和、公用地の開発業者への払い下げ、公共サービスの民営化など、国際資本が喜ぶことは何でもするようになっていた。言うなれば、構造調整計画を自らに課すことが世界的な奔流になっているのだ。これらすべてが、成長の名のもとに行われている」と述べています。

 

世界中の政府が新たなルールに縛られています。それは「生産高を上げて賃金や社会ービスを向上させることを目指すのではなく、成長そのものを追求せよ」というルールです。経済生産の具体的な使用価値(人間の要求を満たすこと)より、抽象的な交換価値(GDP成長率)が優先されているのです。政府はそれを正当化するために、「GDP成長は貧困を減らし、雇用を創出し、人々の生活を向上させる唯一の方法だ」と主張します。著者は、「実のところGDP成長は、人間の幸福、さらには進歩の代名詞にさえなっている。GDPが経済活動のごく一部しか測定しないことを思えば、驚くべきことだ。GDP成長率は『資本主義の成功』の指標にすぎないのだが、それをわたしたちが『人間の幸福』の指標と見なしていることは、イデオロギーにおいて過激なクーデターが起きたことを示している」と述べるのでした。


第4章「良い人生に必要なものとは何か」の冒頭を、著者は「成長主義がわたしたちの政治的想像力を支配していることを、どう説明すればよいだろう」と書きだしています。成長と人類進歩との関係は、以前考えらえていたほど明白ではありませんでした。著者は、「重要なのは、成長そのものではなく、わたしたちが何を生産しているか、人々が必要なものやサービスにアクセスできているか、所得がどのように分配されているかということなのだ。ある段階を過ぎると、人間の福利を向上させるためにGDPを増やす必要はまったくなくなる」と述べています。


「GDPは人を幸福にできない」では、所得では人を幸福にできないことが指摘されます。所得でないとすれば、いったい何が幸福感を高めるのか。2014年、政治学者のアダム・オクリックズ=コザリンは、この疑問に関する既存のデータを見直し、驚くべきことを発見しました。他の因子をコントロールすると、幸福度が最も高いのは堅牢な福祉制度を持つ国だったのです。福祉制度が手厚く寛大であるほど、すべての人がより幸福になる。すなわち、国民皆保険、失業保険、年金、有給休暇、病気休暇、手頃な価格の住宅、託児所、最低賃金制度などが整っている国ほど、国民の幸福度が高いのです。著者は、「誰もが平等に社会財を利用できる、公平で思いやりのある社会で暮らす人々は、日々の基本的ニーズを満たすことを心配することなく人生を楽しみ、隣人と常に競いあうのではなく、社会的連帯を築くことができる」と述べます。

 

「成長のない繁栄」では、人間の幸福に関して言えば、重要なのは収入そのものではないと指摘されます。その収入で何が買えるか、より良く生きるために必要なものにアクセスできるかが重要なのだといいます。カギになるのは「福利購買力」です。著者は、「アメリカでは、3万ドルの年収で家庭を切り盛りするのは大変だろう。子供を良い大学へ入れることなど到底考えられないはずだ。しかし、国民皆保険、良質の公教育、家賃統制を享受しているフィンランドの人々は、同じ収入でも満ち足りた気分を味わえるだろう。つまり、こういうことだ。公共サービスやその他のコモンズへのアクセスを拡大すれば、人々の『福利購買力』を向上させられる。そうなれば、さらなる成長を遂げなくても、すべての人の豊かな生活を実現できる。公正さは成長要求の解毒剤であり、ひいては気候危機を解決するカギになるのだ」と述べます。

 

第5章「ポスト資本主義への道」の「民主主義の力」では、長い間、わたしたちは資本主義と民主主義はセットになっていると教えられてきましたが、実際には両者はおそらく両立しないことが指摘されます。著者は、「資本主義は、生物界を犠牲にしても永続的な成長に執着し、多くの人が重視する持続可能性に背を向ける。この問題について発言の機会を与えられたら、大多数の人は、成長要求とは逆の、定常経済の原理に基づく経済を選択するだろう。言い換えれば、資本主義には反民主主義的な傾向があり、民主主義には反資本主義的な傾向があるのだ」と述べています。ちなみに、日本の経済学者でイェール大学アシスタント・プロフェッサー、東京大学招聘研究員、半熟仮想株式会社代表取締役の成田悠輔氏は、「民主主義は無くなり全てが資本主義の世界になっていく」と主張しています。


第6章「すべてはつながっている」では、わたしたちが過剰な産業活動を縮小し始めれば、生物界は驚くべきスピードで回復すると指摘。著者は、「これは遠い夢ではない。わたしたちは生きている間に、この目でその再生を見ることができるだろう。しかし、迅速に行動しなければならない。地球温暖化がこれ以上進めば、生態系がその再生能力を失う可能性が高いからだ」と述べます。この観点に立てば、脱成長は結局のところ、脱植民地化のプロセスだと考えざるを得ません。資本主義の成長は常に領土拡大の論理を中心として組み立てられてきました。資本が自然の領域を次々に蓄積の回路へ引き入れるにつれて、土地、森林、海、さらには大気さえ植民地化されてきました。過去500年にわたって、資本主義の成長は、囲い込みと奪取のプロセスであり続けました。著者は、「脱成長とはこのプロセスを逆転させることだ。それは解放であり、治療と回復と修復の機会が訪れることを意味する」と述べます。

 

16世紀から17世紀にかけての資本主義の台頭は、何もないところから始まったわけではありませんでした。資本主義が台頭するには、暴力と収奪と奴隷化が必要とされましたが、自然についての新たな物語も必要でした。資本主義は歴史上初めて、自然を人間とは根本的に異なるもの、すなわち人間より劣っていて、人間に従属し、人間に備わる精神を持たないものと見なすことを人々に求めたと指摘し、著者は「つまり、世界を二分することを求めたのである。過去500年にわたってこの地球を支配してきた資本主義という文化は、その裂け目に根差している。ひとたびそれを理解すれば、わたしたちが直面している闘いは、単に経済をめぐる闘いではないことがわかる。それは、人間の存在論オントロジー)をめぐる闘いであり、勝利を収めるには、土地や森林や人を脱植民地化するだけでなく、わたしたちの心も脱植民地化しなければならない。この旅を始めるには、新たな希望の源、新たな可能性の泉、すなわち他の可能性を探る新たなビジョンが必要となる。この旅の途上では、環境に配慮した文明の構築は、限界や乏しさとは無縁であることを知るだろう。それは桁違いにスケールが大きく、想像をはるかに超える取り組みなのだ」と述べています。


アニミズムのエコロジカルな暮らし」では、マレー半島から4000キロメートル離れたニューギニア島のべダムニ族には「わたしたちは動物を見ると、ただの動物だと思いがちだが、彼らが人間と実によく似ていることを、わたしたちは知っている」という言葉が伝わっていることが紹介されます。近くのニューカレドニア島に住むカナック族にも同様の倫理観があり、その対象は、動物だけでなく植物にまで及びます。彼らは、「人間と植物にはつながりがあり、人間と植物は同じ種類の身体を持っている。祖先は死後、戻ってきて、一本の樹木に宿る」と主張します。べダムニ族とカナック族は、西洋人が当然と見なしている人間、植物、動物の区別を否定し、その間に階層を認めようとしません。著者は、「長年にわたって西洋哲学の中心にあり続けてきた、人間を頂点とし他の生物を従属物と見なす『存在の大いなる連鎖』のような考え方は、彼らの世界には存在しない」と述べます。

 

これらのコミュニティにとって、人間と「自然」を区別することは不可能です。一方、資本主義社会に生きるわたしたちは、両者を日常的に区別しています。この区別は、初期のメソポタミア文明、神を超越した存在と見なす宗教、ベーコンやデカルトのような啓蒙哲学者から受け継いだものだと指摘し、著者は「そのような区別は無意味だ。それどころか、道徳的に非難されるべきであり、暴力的でさえある。それは、人間のある集団が他の集団の人間性を否定し、人種の違いを理由に権利を奪うようなものだ。かつてヨーロッパ人はそうやって植民地化と奴隷制を正当化した。そのような区別は、相互依存の理解に基づく正しい生き方に対する冒涜とさえ思える」と述べるのでした。


多くの先住民族の社会では、とりわけシャーマンが、人間と非人間との関係を円滑にするスキルを磨いています。20世紀の大半を通じて、人類学者はシャーマンを人間と祖先との仲介役と見なしてきました。しかし現在では、多くの場合、シャーマンは人間のコミュニティと、人間が拠り所とする幅広いコミュニティを仲介していることが明らかになっているとして、著者は「シャーマンは人間以外の生物と親密になる。アマゾンのシャーマンは、トランス状態や夢の中でそれらとコミュニケーションをとり、メッセージや意思を伝えあう。彼らは人間ではない隣人たちとの交流に長い時間を費やすので、生態系の働きについて専門的な知識を身につけている。たとえば川にいる魚について、翌年の産卵に必要な量を維持しながら、どの季節に、どの種類を、どれだけ獲っていいかを知っている。また、サルの集団を損なうことなく、どれだけ狩っていいかを知っている。果樹の森がいつ健康で、いつ弱るかを知っている」と述べています。


シャーマンたちは、このような知識を用いて、森が安全に提供できる分を超えた植物や動物を、部族の人々が決して取らないようにしています。著者は、「この意味で、シャーマンは生態学者(エコロジスト)のような存在だ。ジャングルの生態系を支える脆弱な相互依存関係を理解し維持する専門家であり、その植物学と生物学の知識は、高名な大学教授でさえ押し黙るほどだろう」と述べています。宗教学者のグラハム・ハーヴェイはアニミズムをきわめてシンプルに定義しています。彼は、「その世界は人で満ちているが、人間はその一部でしかなく、常に他の生物との関係の中で生きている」と述べます。アニミストは、動物、植物、ひいては川や山さえ、客体としてではなく、主体と見なします。そのような世界観に「それ」(it)は存在しません。あらゆるものは「あなた」(you)です。

 

デカルトの敗北とスピノザの勝利」では、ヨーロッパは岐路に立っていたことが指摘されます。道は2つ。一方はデカルト、もう一方はスピノザへと続いていました。やがて教会と資本家の全面的な支援を得て、デカルトの思想が勝ちました。その思想は、支配階級の力に正当性を与え、彼らが世界に対して行っていることを良しとしました。その結果として現在、わたしたちは二元論に基づく文化の中で暮らしているのです。しかし別の道もあったはずだとして、「わたしはふと、スピノザの思想が主流になっていたら、この世界はどうなっていただろうか、と考える。人々の倫理観はどうなっていただろう。経済は? もしそうなっていたら、わたしたちは生態系の崩壊という悪夢に直面していなかったのではないだろうか」と述べます。

 

「第二の科学革命が明らかにする人間と他の生物との関係」では、カナダの科学者たちが木の恩恵を数値化する研究を行い、木がわたしたちの健康と幸福に及ぼす影響は多額の金銭より強力であることを発見したことが紹介されます。1ブロックの街路樹がたった10本増えるだけで心血管代謝は向上し、その効果は2万ドルの臨時収入に匹敵しました。その10本の木がもたらす幸福感の向上は、1万ドルの臨時収入、平均年収が1万ドル高い地域への引っ越し、あるいは7歳の若返りに匹敵したのです。著者は、「これらの結果は衝撃的で、実に謎めいており、科学者はまだその理由を解明できていない。しかし、それほど驚くようなことではないだろう。何といっても、人類は何百万年もの間、木と共に進化してきたのだ。DNAを木と共有してさえいる。数えきれないほどの世代を経た後、わたしたちは他の人間に依存するのと同じように、健康と幸福を木に依存するようになった。木と人間は、本当の意味で、親類なのだ」と述べています。


「ポスト資本主義の倫理」では、結局のところ、資本主義は「与えるより多く取る」という包括的な原則を拠り所にしていることが指摘されます。この論理は囲い込みと植民地化に始まり、以来500年間、作動し続けています。余剰を蓄積するには、自然と身体をモノと見なして「外部化」し、それらから一方的に価値を抽出する必要があるからです。著者は、「互恵の原理を、個々のやり取りを超えて、植物、動物、生態系にまで拡大することは何を意味するのだろうか。経済システム全体をこうしたルールで管理することには、どのような意味があるだろうか。興味深いことに、生態経済学者たちはすでにこの方向へ進み始めている。前述したように、生態経済学の基本原則は、経済を定常状態に保つことだ。それは、再生可能な量を超えては採取せず、安全に吸収される量を超えては廃棄しないことを意味する。アチュアル族とチェウォン族は大いに共感することだろう」と述べています。

 

では、どうすればその閾値を知ることができるか。ここで生態学者(エコロジスト)の出番となります。生態学エコロジー)はユニークな科学分野で、あるシステムの構成要素を解明するたけでなく、全体の中での相互作用を解明しようとします。生態学者は生態系の健全さを理解し、管理することに長けており、ある意味でシャーマンに似ていると指摘し、著者は「大学教育によるものであれ、土地との長年の関わりによるものであれ、彼らの専門知識を利用すれば、生態系のバランスを崩すことなく、どれだけの木を伐採できるか、どれだけの魚を獲っていいか、どれだけの鉱石を採掘できるかを判断し、それに応じて制限や割当を設定することができるだろう。さらに良いこととして、害を最小限に抑えるだけでなく、生態系を積極的に再生する方向へ転換できる」と述べます。互恵関係とは、受け取ったのと同じだけお返しをすれば、生態系の健全さは大幅に回復するものです。生命が甦るのです。再生型のアプローチは農業に限ったものではありません。林業や漁業でも展開され、多くの場合、先住民族やグローバル・サウスの小規模農家が長年用いてきた技術を利用しています。


「謝辞」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「次の物語は、仏陀が戒めとして語ったとされる。ある夫婦が、幼い一人息子を連れて砂漠を越える旅をしていた。食料が乏しくなり、彼らは日に日に飢えていった。しかし、目的地に辿り着きたいという思いがあまりに強く、進路を変えることができなかった。飢餓のあまり我を忘れた夫婦は、生き延びるために子供を殺して食べた。やがて砂漠の果てに辿り着いたが、目的地は魅力を失い、我に返った夫婦は悲しみと後悔で呆然とするばかりだった。わたしたちはここで何をしているのか? どこへ行こうとしているのか? それは何のためなのか? 人間が存在する目的は何なのか? 成長主義は、わたしたちが立ち止まってこれらの疑問について考えることを阻む。どのような社会を実現したいかを考えることを阻む。実のところ成長の追求は、考えること自体を阻むのだ。わたしたちは我を忘れ、あくせく働き、深く考えようとせず、自分が何をしているか、周囲で何が起きているかに気づかず、自分が何を、そして誰を犠牲にしているかに気づかない」

慈経 自由訳』(現代書林)

 

本書の最後が、ブッダのエピソードで終わったことに感銘を受けました。わたしは、ブッダの最初のメッセージとされる慈経 自由訳(現代書林)を上梓しました。生命のつながりを洞察したブッダは、すべての人にある「慈しみ」の心を育てるために『慈経』のメッセージを残しました。その「慈しみ」の心は人間だけに向けられるものではなく、動物や鳥や魚や虫、さらには花や草木といった「あらゆる生きとし生けるもの」に対して向けられています。その万物へのコンパッション・マインドは、アニミズムという人類の精神における「初期設定」であり、成長や競争を超えた「アップデート」なのかもしれません。とても大切なことを、あの手この手で読者に訴えかける著者の情熱に触れて、わたしがハートフル・ソサエティ(三五館)や心ゆたかな社会(現代書林)を書いたときの想いを思い出しました。名著を紹介して下さった佐藤修さんに感謝いたします。

 

 

2023年12月13日  一条真也