『怪異と遊ぶ』

怪異と遊ぶ


一条真也です。
『怪異と遊ぶ』怪異怪談研究会[監修]一柳廣孝/大道晴香[編著](青弓社)を読みました。ブログ『怪異を歩く』ブログ『怪異を魅せる』ブログ『怪異とは誰か』で紹介した「時空の怪異」全3巻の続編的内容です。一見サブカルチャーの本を思わせる装丁ですが、じつはアカデミックな論文集となっています。

 

本書のカバー前そでには、「怪異は、恐怖の対象として忌避されると同時に、好奇心を刺激して多くの人々を魅了してきた。怪談師、心霊術、分身、透明人間、『トワイライトシンドローム』、「意味が分かると怖い話」――怪異が娯楽を趣味としても受容されてきたことを、多角的な視点から照らし出す」と書かれています。

 

アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「日常を逸脱した存在や現象である『怪異』は、恐怖の対象として忌避されてきた。しかし同時に、怪異は好奇心を刺激して多くの人々を魅了してきた。私たちはなぜ『怖いもの見たさ』で怪異をのぞき込み、怪異と戯れてしまうのだろうか。怪談師、心霊術、分身、透明人間、キューピッドさん、『トワイライトシンドローム』、妖怪と地域文化、『意味が分かると怖い話』――多様なジャンルの事例から、怪異と遊びとの関係性を描き出す。怪異を自らの手で日常生活へと呼び込む心性に迫り、怪異が単なる恐怖の対象ではなく娯楽や趣味として受容されてきたことを、文学研究や民俗学社会学、宗教学などの視点から照らし出す。作家・川奈まり子との座談会も所収」

 

本書の「目次」は、以下の通りです。
「はじめに 」大道晴香
第1部 怪異を語る
第1章 幽霊に萌える、怪異で遊ぶ(伊藤龍平)
第2章 語り継がれる狸合戦
    ――阿波における憑依と遊戯(斎藤喬)
第3章 怪談師の時代 一柳廣孝
第4章  「意味が分かると怖い話」とは何か
    ――「似ている話」を探して、作って、
    読み換える、遊び(永島大輝)
第2部 怪異を表現する
第5章 分かたれた「己」で、遊ぶ
    ――森鷗外「不思議な鏡」が
    映し出す分身譚の愉しみ(構大樹)
第6章 大正、〈霊交術事件〉の夏
    ――奇術としての心霊術(今藤晃裕) 
第7章 透明人間現る
    ――隠れる物語から露わにする物語まで
   (橋本順光)
第3部 怪異を操る
第8章 一九八〇年代の「こっくりさん
    ――降霊の恐怖を払拭する
    「キューピッドさん」の戦略(大道晴香)
第9章 怪異と「遊ぶ」装置
    ――『トワイライトシンドローム』を手がかりに
    (橋迫瑞穂)
第10章 怪異に学び戯れる人々
     ――妖怪文化を育む虚構の共同体に着目して
    (市川寛也)
特別座談会「怪異を創る楽しみ」
     (川奈まり子一柳廣孝/大道晴香)
「おわりに」一柳廣孝


「はじめに」で、國學院大學神道文化学部助教(宗教学)の大道晴香氏は、日常の理を逸脱した存在ないし現象であるところの怪異は、恐怖の対象として忌避されるものであると同時に、その恐怖の要素ゆえに人々の好奇心を捉えてやまない、魅惑的な存在でもあると指摘し、「怪異の独壇場であるホラー映画を考えてみるとわかりやすいだろう。ホラー映画が苦手な人にとって、そこに生じる怖さは嫌悪の対象でしかない。他方、愛好者からしてみれば、それこそがホラー映画の醍醐味なのであって、怖くないホラー映画は『楽しくない』。そう、『怖い』は『楽しい』の源泉でもあるのだ」と述べています。



だからこそ、わたしたちは怪異を恐れながらも、それらを自らの手でわざわざ日常生活の内へと呼び込み、戯れるとして、大道氏は「一見アンビバレントにみえる、そんな怪異と人間との関わりに光を当てる視座が『遊び』である。私たちは怪異と遊ぶのが大好きだ。怖い怖いと言いながら、私たちは霊との遭遇を求めて、降霊儀礼である『こっくりさん』や『ひとりかくれんぼ』をおこない、喜々として心霊スポットへと足を踏み入れる。この手の行為には『霊に取り憑かれる』というトラブルが付いて回るように、怪異と人間とのあいだに成立する『遊び』は、非常にあやういバランスのうえに成り立っている」と述べるのでした。


第1部「幽霊に萌える、怪異で遊ぶ」の「はじめに――怪異と戯れる」では、國學院大學文学部教授(伝承文学)の伊藤龍平氏が、「怪異」との戯れ方には大きく分けて二態あると述べます。1つつは、怪異を怖がりながら楽しむあり方で、「怪談」がそれに当たります。もう1つは、怪異をパロディー化して楽しむあり方で、この場合は「笑い話」になります。伊藤氏は、「もっとも、両者の境目は曖昧で、怪談かと思って聞いていたら笑い話になることもあるし、その逆もある。怖さと笑いが同居している場合もあり、稲川淳二はたしか『面白怖い』と表現していた。お笑い芸人が怪談師を兼ねることが多いのは、必然といえる。パロディーをパロディーとして成り立たせるのは『型』の存在である。『パロディー』を日本語訳すると『ちゃかし』『もどき』『にせ』あたりになると思うが、茶化す/擬く/似せるためには、対象になるものに『型』があったほうが効果的である」と述べます。


「型」を外せば容易にパロディが作れます。「水戸黄門」や「大岡越前」など、ひところの日本の時代劇には明瞭な「型」があり、そのためにパロディーも作りやすかったと言えます。古典的な恐怖映画にも「型」はあるので、パロディーは作りやすいとして、伊藤氏は「ドラキュラ映画から『吸血鬼』(監督:ロマン・ポランスキー、1967年)、フランケンシュタイン映画から『ヤング・フランケンシュタイン』(監督:メル・ブルックス、1974年)、狼男映画から『狼男アメリカン』(監督:ジョン・ランディス、1981年)などが生まれた。昨今流行のゾンビ映画にも明確な「型」があるので、あまたのパロディー映画が生まれ、もはや何が本道かわからなくなっている」と述べます。


日本の例を挙げるならば、江戸怪談の定番である「皿屋敷」には明確な「型」があり、格好のパロディーネタになっています。その1つが落語「お菊の皿」(一名『皿屋敷』)です。「皿屋敷」に関する論文は多いですが、伊藤氏は「本来、虐待されて死んだ下女の幽霊が主家を滅ぼすパートと、女幽霊が皿を数えるパートは別の話だったという説がある」と指摘します。現行の「皿屋敷」のもとになった『皿屋舗弁疑録』(馬場文耕、1758年)の生成過程について、小二田誠二は「下女虐待=主家報復譚としてのお菊伝承と、皿数えの幽霊の登場する皿数え伝承は、播州で合成されたのであろう」と述べているそうです。


皿屋敷」はきわめて近世(江戸時代)的な怪談です。この時代は、話の重要なアイテムである陶磁器の皿や竪掘り井戸が普及し始めた時期であり、女中奉公という制度が整った時期でした。そして何よりも、怪談を娯楽として楽しもうという心根が近世的であるとして、伊藤氏は「柳田國男は、中世(鎌倉・室町時代)ならば観音霊験譚になるべき内容の『皿屋敷』が現行のような筋立てになったのは、『ぞくぞくと身震いしなければならぬように怖いところで、話を切り上げてしまうという趣味』が広まったからだとしている。まさに江戸の怪談文化が花開いたもとに、生まれるべくして生まれた話なのである」と述べています。


第3章「怪談師の時代」の1「遊びとしての怪談語り」では、横浜国立大学教育学部教授(日本近現代文学・文化史)の一柳廣孝氏が、心霊スポット訪問などが現実的な体験型の遊び方だとすれば、キャラ化された怪異と戯れるのは、より空想的で想像型の遊び方であると指摘し、「だとすれば怪談語りを楽しむ行為は、この両者の特徴を併せ持つ。実際にあった出来事(現実)に基づく話が、聴衆に向かって語られる。聴衆はその話を事実として受け止めたうえで、話の隙間を想像力で補い、恐怖心を高めていく。ノンフィクションとフィクションのはざまで、恐怖が増殖する。怪談語りは、話者から直接話を聞くという意味で体感的である。一方、実体を伴わない『声』を媒介として伝えられるにもかかわらず、聞き手は想像力によって、その語りからリアルな恐怖を感受するという意味で、それは空想的でもある」と述べています。

 

 

「明治の怪談師たち」では、1900年代から欧米の科学的心霊研究や神智学などの本格的な紹介が始まり、霊に対する関心が高まった結果、文壇で一種の怪談ブームが起きたことが紹介されます。この頃には精神主義的な志向のもと、催眠術の流行もあいまって「精神」や「心」をめぐる問題に注目が方集まっていました。一柳氏は、「新聞メディアが、いわゆるご当地怪談をしきりに取り上げるのも1900年代以降である。こうした動きと連動するかのように『文芸倶楽部』(便利堂)は、07年から14年にかけて、5回にわたり落語や講談の怪談を特集した増刊号を出している。怪談そのものには需要があったのだ。ではなぜ、高座の怪談噺は廃れたのか。もちろん、明治の終わりごろには寄席の数が激減していたという、外的な要因は無視できない。浅草を中心に新たな大衆芸能が次々に生まれるなか、落語界自体が不振に陥っていた」と述べます。


当時はその原因を「座組の乱雑」にあるとして「変な芸は一切排斥すべし」といった議論もあったようです。この「変な芸」のなかに、怪談噺が含まれていた可能性は否定できないとして、一柳氏は「しかし何よりも大きかったのは、高座で語られる怪談と聴衆の認識との落差だったろう。端的に言えば、高座の怪談を支えてきた世界観が時代に合わなくなったのだ。江戸怪談の基盤をなす、仏教的な因果応報の理に基づいた怨霊の祟りの物語は、明治末年の『霊』をめぐるリアリティからは程遠い。過ぎ去った江戸の時代に思いをはせ、ノスタルジックな郷愁を味わうには適していても、そこからリアルな恐怖を感じるのは難しい。焼酎火が飛び交い、幽霊が徘徊して怖がってくれるのは、地方の舞台だけになりつつあった」と述べます。


3「そして、現代の怪談師へ」では、現代の怪談師が注目され始めたのは2010年前後とされていることが紹介されます。怪談・オカルト研究家の吉田悠軌氏によれば、2000年代に各地で個人的な営みとして催されていた怪談会や怪談イベントが、10年代になって一気に「面」になって拡大したといいます。大手メディアが実話怪談をコンテンツとして取り上げ、「怪談グランプリ」「怪談最恐戦」などのショーレースが始まりました。また音声配信や動画配信といった、怪談を披露する新たな場が生まれました。これらのメディアを利用して、数多くの怪談師が活動を始めたと指摘し、一柳氏は「現代の怪談師が語る話は、ほぼすべて『実話怪談』である。これは、1990年代に始まる実話怪談ブームと無縁ではない。実話怪談について、吉田は『不思議な体験をした人から取材した体験談』と定義している。そもそも怪談という語りの形式自体『ほんとうにあったこと』という事実性に立脚したものなのだが、実話怪談はその『実話』性をより強調する」と述べています。

 

 

とはいえ、個人の体験を取材してまとめる以上、彼らが披露する実話怪談には、情報の整理や表現の整除といった編集作業が介在します。それは「声」を「文字」に変換する作業でもあります。実話怪談は、事実そのもののルポルタージュでも完全な虚構でもありません。そのはざまに位置する「作品」であり、だからこそ「実話」にもかかわらず、怪談作家たちのオリジナリティが問われるのであると指摘し、一柳氏は「1990年代の実話怪談ブームを主導したのが『新耳袋』(1990年、1998-2005年)と『「超」怖い話』(1991-2000年、2003年-)の両シリーズだったことは、よく知られている。飯倉義之は、この時期からジャンルとして成立していった実話怪談の文体の特徴を『生の体験を説明抜きで提示する』点としたうえで『怪談の送り手が意味づけをあえてせず、事実をそのまま読者へと投げかけようと試みる、いわばコミュニケーション型の怪談といえる。それは当時、黎明を迎えつつあったインターネット上でのコミュニケーションとも相似形だったといえる』と指摘している」と述べるのでした。

 

 

第6章「大正、〈霊交術事件〉の夏――奇術としての心霊術」では、日本女子大学附属高等学校教諭(日本近現代文学)の今藤晃裕氏が、奇術の演目におけるセカンド・サイトとして知られる霊交術を取り上げます。奇術研究家の松田道弘氏は、著書『メンタルマジック事典』で、「ショウとしてのセカンド・サイトの名を高めたのは1846年2月にフランスのロベール・ウーダンが彼の息子と組になって行った“当てものショウ”である」と述べています。ヨーロッパではすでに知られていたこの演目(現象)は日本でも広く認知されますが、それは1925年夏、東京で各種メディアや心理学者、心霊学者らを巻き込んで行われ、「霊交術事件」とでも呼ぶべき様相を呈したゲーゼル夫妻による「実験」に端を発するのでした。

 

 

3「エンターテインメント化する心霊術」では、〈霊交術事件〉は千里眼事件後の社会における心霊学受容の傾向を示しているとしながらも、もう1つ、霊交術の実態を通してみえてくる傾向が興行化であるとして、今藤氏は「科学の領野から追い出された心霊学は、高尚な学問的実証としての実験から、通俗的な興行としての〈実験〉へと装いを変え、媒楽として受容されるようになっていくと考えられるのだ」と述べます。このような文脈で、当時の新聞広告に「心霊界の民衆化」という惹句が躍ったのも理解できるといいます。今藤氏は、「ここで心霊学、そしてその実践としての心霊術は、かつてのような時代の先端をいく学問ではなく、人々を不思議がらせ、楽しませることを主眼としたパフォーマンスになっている。同時に、ゼーゲル夫妻の〈実験〉がおこなわれたのが、映画館や劇場といった大衆娯楽の場だけではなかったことも見逃せない」と述べます。


ゼーゲル夫妻は、華族会館交詢社、青山会館といった場所で霊交術の「実験」を行いました。名士が集うこれらの場は、いずれも社会的な「権威」と結び付いた場所と目されやすいと指摘し、今藤氏は「このような場所で(実験〉を催すことで、夫妻の能力がもしかするとホンモノかもしれない、という権威性を保ちえていたとも考えられる。インチキなのか、はたまたホンモノなのか? この間で生じる期待が霊交術のエンターテインメント性を高めたのではないか。ところで、霊交術、もといセカンド・サイトを日本で演じたのは、ゼーゲル夫妻が初めてではない。1875年から来日していたヴェルテリ夫妻が横浜座でおこなった公演の第一部(二部構成)でトリとして演じていたことを長野栄俊が調査報告していて、これがかなり早い事例だろう)と述べます。

 

 

日本における催眠術ブームが加速したのは1903年と目される。催眠術関連書の刊行点数が爆発的に増えた時期でした。この背景には「煩悶の時代」における「精神」に対する関心の高まり」があったと考えられ、その延長上に千里眼事件を位置づけることができるとして、今藤氏は「このことを踏まえると、ヴェルテリ夫妻がセカンド・サイトの演技をおこなった明治初頭の日本には、まだセカンド・サイトのように人間の精神の不思議を題材とした奇術を受け入れる土壌がなかったのではないか、ということが考えられる。精神という未知の領域への関心の高まりを背景として、一見地味とも思える霊交術のような演目がウケるのである。その土壌はやはり催眠術ブーム――千里眼事件が用意したといっていいだろう。以上のように、〈霊交術事件〉は千里眼事件が生んだ徒花の一つだった」と述べるのでした。



第7章「透明人間現る――隠れる物語から露わにする物語まで」の「はじめに――透明になることと透明であること」では、大阪大学大学院文学研究科教授(日英比較文学)の橋本順光氏が、日本語の「透明人間」という表現は、アメリカ映画『透明人間』(監督:ジェイムズ・ホエール、1933年)によって広まったようだとして、「ハーバート・G・ウェルズの小説『透明人間』(1897年)を原作としながら、帽子とサングラスで包帯の姿を隠し、犯罪を引き起こしては都会の住人を疑心暗鬼にさせる透明人間は、この映画によって定着したといっていい。日本の透明人間の映画も、この映画を原型として円谷英二が特殊効果を担当した『透明人間現わる』(監督:安達伸生、1949年)をもって始まる。神出鬼没に出現しては、見えない力で社会を支配しようとする透明人間は、こうして日本でも定着していった」と述べています。

 

 

1「透明人間の誕生――ギュゲスと龍樹の逸話からウェルズまで」では、東西の透明人間の系譜を概観します。おそらく人類最古の透明人間は、プラトンが記録しているといいます。『国家』(紀元前4世紀ごろ)第二巻第三節によれば、ギュゲスという羊飼いが、偶然、穴のなかで指輪を見つけ、指輪の玉を自分のほうへ回すと自分の姿が見えなくなり、外側へ戻すと元に戻ることに気づくのです。そうしてギュゲスは、王宮へと忍び込んで王妃と通じ、それから妃と共謀して王を殺し、ついには王権を手に入れたといいます。橋本氏は、「『国家』以降、この逸話は性悪説の寓話になった。他人に見られず、見つかりもしなければ、人は悪行を犯すというわけである」と述べています。


1933年の映画『透明人間』から映画『インビジブル』(監督:ポール・バーホーベン、2000年)、さらに透明人間と戦う人間もまた同じく怪物になってしまうというひねりを加えた『透明人間』(監督:リー・ワネル、2020年)まで、いわゆる透明人間の物語はおおむねこのタイプに分類できると指摘する高橋は、「一方、東洋にも、プラトンの『国家』から700年から800年後に成立した『龍樹菩薩伝』(5世紀ごろ)に、よく似た物語が残っている。大乗仏教の祖・龍樹が、仏教へ帰依するきっかけになった逸話である。龍樹はありとあらゆる学問を修めたあと、残された楽しみは快楽だけと思い至り、とある師匠から隠れ身の薬の処方を習う。そうしてギュゲス同様に龍樹も、友人と一緒に王の後宮に忍び込み、妃らと通じるようになる」と述べています。



ところが宮中での妃の妊娠から侵入者が疑われ、国王の側近が魔者か人間かを確かめるため王宮に砂をまかせます。はたして足跡が現れ、家来たちが足跡があるところを刀でめった切りにし、龍樹の仲間はみな殺されてしまいます。幸い龍樹は王の近くに身を潜めていたため、九死に一生を得たのでした。こうして欲は苦しみのもとと悟り、龍樹は仏法に目覚めたと紹介し、高橋氏は「この逸話を冒頭に記す『龍樹菩薩伝』は、紀元後4世紀ごろの鳩摩羅什による漢訳だが、サンスクリット語の原典は失われて残っていない。したがって、プラトンの『国家』と無関係に成立したのか、あるいは約800年かけてインドまで物語が伝播したのか詳細は不明である。ただ両者を比較すれば、ギュゲスも龍樹も王妃と王権を侵犯するという点で共通していることは明らかだろう。ウェルズ以降、様々な変種が生まれた透明人間の物語も、主題はほぼここに出尽くしている」と述べます。非常に興味深いですね。

 

 

第3部「怪異を操る」の第8章「1980年代の『こっくりさん』――降霊の恐怖を払拭する『キューピッドさん』の戦略」では、大道晴香氏が以下のように述べています。「現在でも降霊遊戯の代表格になっている『こっくりさん』は、明治期に欧米から持ち込まれた外来の締霊術を源泉としている。1887年前後に一世を風靡したとされる『こっくりさん』は、その当時、従来の定番だった巫女の口寄せに代わる新たな降霊術という側面を有していた。ブーム絶頂期に刊行された『こっくりさん』の解説書『西洋奇術狐狗狸怪談――一名西洋の巫女』の緒言には、表紙に記された原名の『スピリチュアリズム』ではなく、あえてこの題名にした理由に関して『世人の狐狗狸様と称へ又巫女の口寄に似たりと謂ふに拠り馴し称呼を取て耳目に入り易からしめんが為なり』という記述がみられる。ここには、人々の暮らしのなかにありふれたものとして存在していた巫女の口寄せ、そして類似の現象とみなされた『こっくりさん』という、二つの『身近な』降霊術の交わりをうかがうことができるだろう」

 

 

神霊と接触した人物が心身を病んだり、ときに死に至ったりする話は珍しくありません。そのうえ、交流の主導権を神霊側が握った場合、人間は他者の他律性のうちに巻き込まれ、主体的な生を奪われる可能性があると指摘し、大道氏は「『霊に取り憑かれる』ことの恐怖はいまもって健在だろう。こうしたリスクをもつがゆえに、降霊は従来、専門家や厳格な手順をもつ儀礼の遂行によって実現されてきた。日本の文脈と接合した降霊術である以上、『こっくりさん』もまた神霊の制御という課題に直面してきた。とりわけ、戦後の『こっくりさん』をめぐる文化は、憑依や祟りのような恐怖との格闘の産物といっても過言ではない。この点で、降霊遊戯とされるところの『こっくりさん』は、確実で安全な降霊を実現する宗教儀礼としての巫女の口寄せと区別される。では、制御できない神霊の恐怖を克服しようとするとき、『こっくりさん』は宗教儀礼へと近づくのだろうか。


1「『こっくりさん』と制御できない神霊の恐怖」では、「こっくりさん」は、1880年代ごろにアメリカから輸入されたウィジャ盤やテーブル・ターニングなどの降霊の技法に、日本の憑物信仰が接合して生まれた文化であるという一柳廣孝氏の研究結果が紹介されます。ただし、明治期の「こっくりさん」は現代に比して娯楽色が強く、求められたのは「なによりもその遊戯性だった」といいます。大道氏は「したがって、今日まとわりつく恐怖の要素は、初発の段階少階では希薄だった。明治期の流行を第一次ブームとした場合、現在の『こっくりさん』に直接的な影響力を有しているのは、戦後に起きた第二次ブームである。戦後の「こっくりさん」ブームは、1970年代から90年代まで続いた、日本のオカルトブームの一端を担う潮流であった」と述べます。

 

 

日本のオカルトブームの特徴は、マスメディアを介した大衆的なコンテンツの消費にあありました。「こっくりさん」ブームの場合、その牽引役とされたのは、73年から「週刊少年マガジン」(講談社)で連載が始まった、つのだじろう「うしろの百太郎」と、74年に刊行された中岡俊哉の『狐狗狸さんの秘密」(二見書房)でした。大道氏は、「再び脚光を浴びた明治由来の降霊術は、今度はティーンエイジャーを主要な担い手として、学校生活のなかの『遊び』として過熱していく。ところが、この『遊び』には、『遊び』自体を破綻させるような要素が付随していた。参加者が心身異常を示すトラブルが頻発したのである」と述べています。


こっくりさん」を再発見するに際して、1970年代のオカルトブームは、いつしか付帯するようになった制御できない神霊の恐怖を消費価値の一部として浮上させ、コミュニティごとの差異だったそれを、「こっくりさん」の普遍的な特徴へと押し上げたといえるとして、大道氏は「事件が散発し、マスコミに危険性が取り沙汰された結果、安易な『遊び』での『こっくりさん』を禁じるべきという世論が形成されることになった。しかし、タブーとされながら、その後も人気が衰えなかったことは、80年代にも尽きなかったトラブルからも明らかである。オカルトブーム以降の『こっくりさん』は、常に制御できない神霊の恐怖にさらされてきたのであり、その克服を課題としてきた。そうした流れのなかで登場してきたのが、『キューピッドさん』などと呼ばれる、80年代の「こっくりさん」である。

 

 

4「『宗教儀礼』にも『遊び』にもなれない『こっくりさん』」では、制御できない神霊は、「遊び」から分離された「こっくりさん」の、降霊術としての真正性を保証する役割を担っているのだといえるだろうとして、大道氏は「この制御できない神霊によって降霊の真正性を主張する戦法は、1980年代に特有のものではなく、すでに中岡の『狐狗狸さんの秘密』にも見て取れる。心霊現象の科学的探究を目指す中岡にとって、『宗教的、信仰的なもの』である憑依は科学と無縁の迷信的な解釈にすぎず、基本的に価値が置かれていない。ただし、霊魂の実在を認める中岡の心霊科学は、『怨霊』のような宗教的文脈を再度呼び込んでおり、『霊魂さんを呼ぶ場合、遊び半分でしてはいけない』と『こっくりさん』を『遊び』から引き離したうえで、『霊魂もわれわれ生きた人間と同じように、意思も行動もあるのだから、遊び半分にやった場合、かならずその報いを受けることになる』と、両者の峻別を制御できない神霊によって正当化している」と述べます。

 

 

明治期に輸入された「こっくりさん」は、元来、遊戯性を重視した娯楽の一種でした。「降霊」と「遊び」とは併存可能な要素だったわけです。大道氏は、オカルトの俎上に載せられた戦後の『こっくりさん』は、『遊び』との決別によって、自らの降霊術としての真正性を主張する戦略をとったのであり、そこで真正性の証左とされたのが制御できない神霊の要素なのであった。したがって、『遊びではない本物の降霊術』という自己のアイデンティティを主張すればするほど、『こっくりさん』は皮肉にも、神霊の完全な制御を志向する宗教儀礼、すなわち、巫女の口寄せのようなプロの降霊術からは遠ざかる。と同時に、『遊び』を破綻させる制御できない神霊のために『遊び』にもなりきれない。加えて、『遊び半分やいいかげんな気持』と表現されているように、この『遊び』からの離脱が術者の精神面にまで及んで効力を発揮していることも、事態をさらに厄介なものにしている」と述べます。


そして、1980年代の事例からみえてきたのは、制御できない神霊をアイデンティティの一部に抱え込んでしまったがために「宗教儀礼」にも「遊び」にもなりきれずにいる、そんな戦後の「こっくりさん」の姿だったとして、大道氏は「冒頭で掲げた『制御できない神霊の恐怖を克服しようとするとき、「こっくりさん」は宗教儀礼へと近づくのだろうか』との問いに対する答えは、『No』である。なぜなら、それは、克服することのかなわない恐怖を抱えた、恐怖を運命づけられた降霊術だからだ」と述べるのでした。

 

 

特別座談会「怪異を創る楽しみ」では、怪談関連の著作が多い作家の川奈まり子氏の「怪談実話は、フィクションとノンフィクションの境目にあると私は思っています。こうした過程を経るうちに、そのつもりがなくても、フィクションが入り込む隙間が生じてしまうので」という発言が印象的でした。「おわりに」では、一柳廣孝氏の「怪異が単なる恐怖の対象ではなく、多様な領域において娯楽として享受されてきたことがよくわかる。どうやら怪異は、私たちに必要なのだ。私たちが目常生活を営むうえで、怪異を召喚しないではいられない心性について、あらためて考える必要があるだろう」という言葉に共感しました。「時空の怪異」全3巻に続いて読んだ本書も非常に興味深い論考がたくさんありましたが、昔から存じている大道晴香氏がどんどん凄い怪異研究家になっているので、なんだか嬉しくなりました。

 

 

2023年9月15日 一条真也