一条真也です。
たった一字に深い意味を秘めている文字は、世界でも漢字だけです。そこには、人のこころを豊かにする言霊が宿っています。その意味を知れば、さらに、こころは豊かになるでしょう。今回の「こころの一字」は、「」です。

唯葬論――なぜ人間は死者を想うのか』(三五館)

 

平成27年8月15日は70回目の「終戦の日」でした。
日本人だけでじつに310万人もの方々が亡くなられた、あの悪夢のような戦争が終わって70年目の節目です。70年間における日本の変貌は著しいですが、最大の変化は日本人が「死者を軽んじる民族」になってしまったことではないかと思います。この年、わたしは、万感の想いをこめて『唯葬論』(三五館)を上梓しました。

葬式に迷う日本人』(三五館)

 

当時、「0葬」というものが話題になりました。通夜も告別式も行わずに遺体を火葬場に直行させて焼却する「直葬」をさらに進めた形で、遺体を完全に焼いた後、遺灰を持ち帰らずに捨ててくる葬法です。これらの超「薄葬」がいかに危険な思想を孕んでいるかを知る必要があります。葬儀を行わずに遺体を焼却するという行為は、ナチスオウム真理教イスラム国の巨大な闇に通じているのです。わたしは、そのことを宗教学者島田裕巳氏との対談本『葬式に迷う日本人』(三五館)の中で指摘しました。

 

先祖の話

 

わたしは「日本民俗学の父」と呼ばれる柳田國男の名著『先祖の話』の内容を思い出します。『先祖の話』は、敗戦の色濃い昭和20年春に書かれました。柳田は、連日の空襲警報を聞きながら、戦死した多くの若者の魂の行方を想って、『先祖の話』を書いたといいます。日本民俗学の父である柳田の祖先観の到達点であると言えるでしょう。柳田がもっとも危惧し恐れたのは、敗戦後の日本社会の変遷でした。具体的に言えば、明治維新以後の急速な近代化に加え、日本史上初めての敗戦によって、日本人の「こころ」が分断されてズタズタになることでした。

 

 

柳田の危惧は、それから50年以上を経て、現実になりました。家族の絆はドロドロに溶け出し、「血縁」も「地縁」もなくなりつつあります。日本社会は「無縁社会」と呼ばれるまでになりました。この「無縁社会」の到来こそ、柳田がもっとも恐れていたものでした。彼は「日本人が先祖供養を忘れてしまえば、いま散っている若い命を誰が供養するのか」という悲痛な想いを抱いていたのです。



約7万年前に、ネアンデルタール人が初めて仲間の遺体に花を捧げたとき、サルはヒトへと進化しました。その後、人類は死者への愛や恐れを表現し、喪失感を癒すべく、宗教を生み出し、芸術作品をつくり、科学を発展させ、さまざまな発明を行いました。つまり、「死」ではなく「葬」こそ、われわれの営為のおおもとなのです。「葬」とは、「死者と生者との豊かな関係性」にほかなりません。


唯葬論』(サンガ文庫)

 

葬儀は人類の存在基盤です。葬儀は、故人の魂を送ることはもちろんですが、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。もし葬儀を行われなければ、配偶者や子供、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自死の連鎖が起きたことでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。そして、死者を弔う行為は「人の道」そのものなのです。

葬式は必要!』(双葉新書

 

わたしは、葬儀という営みは人類にとって必要なものであると考えます。故人の魂を送ることはもちろんですが、葬儀は残された人々の魂にも生きるエネルギーを与えてくれます。もし葬儀が行われなければ、配偶者や子ども、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きるでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。葬儀という「かたち」は人間の「こころ」を守り、人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。


永遠葬――想いは続く』(現代書林)

 

日本人の葬儀のほとんどは、仏教によって執り行なわれます。日本仏教は「葬式仏教」などと揶揄されることが多いです。しかし、わたしは日本仏教の強みは葬儀にあると思っています。「成仏」というのは有限の存在である「ヒト」を「ホトケ」という無限の存在に転化させるシステムではないでしょうか。ホトケになれば、永遠に生き続けることができます。仏式葬儀には、ヒトを永遠の存在に転化させる「永遠葬」としての機能があるのです。また、日本仏教の本質は「グリーフケア仏教」であると思います。たとえば、お盆や年忌法要というのは日本人の死生観に合った優れたグリーフケア文化となっています。


問われるべきは「死」ではなく「葬」である!

 

オウム真理教の「麻原彰晃」こと松本智津夫が説法において好んで繰り返した言葉は、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という文句であった。死の事実を露骨に突きつけることによってオウムは多くの信者を獲得したが、結局は「人の死をどのように弔うか」という宗教の核心を衝くことはできなかった。言うまでもないが、人が死ぬのは当たり前だ。「必ず死ぬ」とか「絶対死ぬ」とか「死は避けられない」など、ことさら言う必要はありません。最も重要なのは、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということなのです。問われるべきは「死」でなく「葬」なのです!

論語と冠婚葬祭』(現代書林)

 

仏教はインドで誕生しましたが、そこで「輪廻転生」という考えが生まれながらも、中国人はそれを受け容れずに「浄土」という考え方を打ち出しました。中国で仏教は大きく変容し、そこから浄土教信仰が生まれますが、そこで中国の土着の宗教である儒教が影響を与えました。儒教では、孝の観念を強調します。仏教は儒教の「孝」の考え方を取り入れて、追善供養というやり方を編み出しました。追善供養の代表が、故人の命日に行われる年忌法要です。その際には法事を行い、先祖の供養を任せている菩提寺に布施をします。これによって、亡くなった先祖は極楽往生を果たすことができるとされました。こうした考え方が日本にも浸透することで、日本の「葬式仏教」の体制が確立されることとなりました。そして、葬式仏教は曹洞宗を中心に発展していくことになります。このように、インド仏教、中国仏教、日本仏教を仏教として一緒くたにせず、別の宗教であると理解した方がいいと思います。

供養には意味がある』(産経新聞出版

 

著書『葬式消滅』の最後で、島田氏は、仏教の根本は悟りにあるとして、「これからの仏教は、ふたたび釈迦の悟りとは何かを問うものになっていくのではないでしょうか。もし仏教が、そちらにむかうのだとしたら、それは、仏教と葬式の関係が切れた成果なのかもしれないのです」と結論づけています。しかし、これはインド仏教と日本仏教を混同した考えだと言わざるをえません。日本人の「こころ」は仏教、儒教、そして神道の三本柱から成り立っています。その共通項は「先祖供養」です。また、日本における仏教の教えは本来の仏教のそれとは少し違っています。インドで生まれ、中国から朝鮮半島を経て日本に伝わってきた仏教は、聖徳太子を開祖とする「日本仏教」という一つの宗教と見るべきでしょう。

葬式不滅』(オリーブの木

 

日本人の葬儀の今後の大きなテーマは「グリーフケア」です。島田氏は「追善供養はいらない」と述べていますが、グリーフケアにおいては追善供養ももちろん重要な意味を持っています。現在、グリーフケアの舞台は寺院からセレモニーホールに移行していく流れにありますが、わたしは儀式とグリーフケアの力を信じています。日本人は、「死者を忘れてはいけない」「死者を軽んじてはいけない」ということを思い知るべきであると思います。柳田國男のメッセージを再びとらえ直し、「血縁」や「地縁」の重要性を訴え、有縁社会を再生する必要がある。わたしは、そのように痛感しています。葬儀は不滅です!

 

2023年8月10日  一条真也