『老害の人』

老害の人

 

一条真也です。
老害の人』内館牧子著(講談社)を読みました。大変面白い小説でした。『終わった人』『すぐ死ぬんだから』『今度生まれたら』に続く著者「高齢者小説」第4弾です。第1弾の『終わった人』は ブログ「終わった人」で紹介した映画の原作小説、第2弾はブログ『すぐ死ぬんだから』で紹介した終活小説、第3弾は未読です。そして第4弾である本書は、現在執筆中の『年長者の作法』(仮題、主婦と生活社)の編集担当者から薦められて読みました。年長者の作法、すなわち、高齢者のマナーとは「老害にならないこと」が目的の1つだからです。



定年、終活、人生のあとしまつ・・・・・・。自分のこと、親のこと、いずれは誰もが直面する「老後」。「最近の若い人は・・・・・・」というぼやきが今や「これだから『老害』は」となってしまった時代。本書『老害の人』では、内館節でさらなる深部に切り込んでいます。著者は、1948年秋田市生まれの東京育ち。武蔵野美術大学卒業後、13年半のOL生活を経て、1988年脚本家としてデビュー。1991年ギャラクシー賞、1993年第1回橋田壽賀子賞(「ひらり」)、1995年文化庁芸術作品賞(「てやんでえッ!」)、日本作詩大賞(唄:小林旭/腕に虹だけ)、2001年放送文化基金賞(「私の青空」)、2011年第51回モンテカルロテレビ祭テレビフィルム部門最優秀作品賞およびモナコ赤十字賞(「塀の中の中学校」)など受賞多数。小説家、エッセイストとしても活躍し、2015年刊行の小説『終わった人』は累計30万部を超える大ヒットを記録、2018年6月映画公開となりました。


本書の帯

 

本書のカバーはピンク&イエローで色鮮やかです。帯には、「発売即大反響 10万部とっぱ!」「今があるのは老害の人のおかげですぞ!(80代・男性)」「この本は私の生きる指針です。(70代・女性)」「タイトルを見て即購入しました。(70代・男性)」「私自身が今年高齢者の仲間入りをし、共感を覚えます。(60代・女性)」「トーハン週刊ベストセラー・文芸書ランキング・10月25日調べ 第1位」と書かれています。

本書の帯の裏

 

帯の裏には、「累計100万部超!」「『終わった人』『すぐ死ぬんだから』『今度生まれたら』に続く衝撃の最新作。」「昔話に説教、趣味の講釈、病気自慢に孫自慢。そうかと思えば、無気力、そしてクレーマー。」「戸山福太郎は85歳。とっくに第一戦を退いてはいるが、誰彼かまわず捕まえては同じ手柄話をくり返す。彼の仲間も老害の人ばかり。素人俳句に下手な絵をそえた句集を配る吉田夫妻に、「私はもう死ぬ」と言い続ける春子など、“老害五重奏(クインテット)”は絶好調。『もうやめてよッ』福太郎の娘・明代はある日、たまりかねて腹の中をぶちまけた」と書かれています。

 

本書の「第一章」には、「高齢者」という言葉は、ことを荒立てることなく便利だとして、著者は「若い人にしてみれば『高齢者』も『シニア』も単なる老人である。そんな老人が、若さや頭脳や分別を自任したところで、たかが知れている。それより、自分が『老害の人』ではないかと、時々考えるべきだろう。というのも、若い人がやんわりと遠回しに『そろそろ、お引き取り下さいな』とでも言うか。まず言わない。いくらやんわりと遠回しに言おうが、老人が傷つくのがわかるからだ。それは、若い時分のいじめだと感じさせられる。その後味の悪さを引きずりたくない」と述べています。

 

著者は、「考えてみれば、老害をバラまくということは、その老人が元気だということだ」と言います。人間は年齢とともに、できないことが増えて行きます。それでも、老害とされる人たちは、まだ何とか自分のことは自分でやっていけるレベルが多いわけですが、周囲にとっては「ありがたいこと」なのです。何よりも、老害をバラまくことは、本人にとっても「どっこい、生きている」のアピールだとして、著者は「困ったことに『老害の人』の多くは、自分は『余人をもって代え難い人間だ』とまだ思っている」と述べます。

 

ここで「余人」という言葉が出てきましたが、じつは若い世代の人たちであっても余人なんぞいくらでもいるという著者は、「犬も歩けば余人にあたる。それが社会というものだ。だが、年を取るほどに自分をアピールしたがる。それは、もう自分の世ではないと気づいているからか。その悲しみのなせるあがきだろうか。いずれ誰もがその道を行く。そうなった時、無視されたり避けられたりはしたくない。そう思うと、今、多少の老害くらいは我慢して当然かもしれない」と述べるのでした。これは、なかなか簡にして要を得た老害論であると思います。

 

老害には色々な種類がありますが、昔の自慢話はその典型です。著者は、「統計でも取ったなら、これが第1位ではないだろうか。そしてたぶん、第2位は『世代交代に抵抗』だろう。いつまでも現役でいたがり、若い者にポジションを譲らない。両方とも若い人には迷惑千万で、言えるものならば、『もうとっくにあなたの時代は終わったんです。お話も行動も、誰も喜ばないんです。国のためにもお引き取り願えませんか』と言いたいだろう。だが、最近の若い人はもめごとを嫌う。だから、耐えて老害を浴びる。どうせ、先は見えている人たちだ。そう思うと、時には感嘆してみせる。質問さえする。もめるくらいなら、これでいいのだ」と書いています。

 

本書の主人公である戸山福太郎は、「自慢話」と「世代交代に抵抗」という先の第1位と第2位を併せ持った最強最悪な「老害の人」です。85歳でとっくに第一線を退いている彼は、週に1・2回は必ず出社します。現社長である福太郎の娘婿の純市はたまったものではありません。一時は完全に引退していた福太郎が再び出社するようになったのは、妻の八重を亡くしてかたでした。一見して豪快で元気そのものな福太郎ですが、やはり妻との死別はこたえたのでしょう。その寂しさもあって、彼の足は再び会社へと向いたのだと思います。

 

出社する福太郎に困惑しているのは、娘婿の純市だけではありません。若い社員たちも同様で、福太郎の昔話&自慢話にイヤイヤながらもつきあいます。そこには、どこかにボランティア精神があるとして、著者は「老害の人に向かってハッキリと言わないのは、後味の悪さを引きずりたくないばかりではない。80年も90年も頑張って生き抜き、二度と再び若くはなれない老人の繰り言くらい、聴いてやればいいという思いもある。それはボランティアの一種かもしれない」と書いています。

 

本書には、昔話や自慢話の他にも、いろんな老害が登場します。素人俳句を詠む90歳の吉田老人に、水彩画をたしなむ妻の桃子は、夫の俳句に妻の水彩画を添えた自費出版本を作ります。作るだけならいいのですが、それを周囲に配ったうえに、個々の作品の感想を聞いて回るのです。これは、たまりません。著者は、「自分の趣味の何かを他人に渡し、喜ばれていると思うのは老害ではないか。吉田夫妻はいい生き方をしているが、素人の作品に感想を言わされ、その感想に講釈をたれるのは、つきあえない」と書きます。識者は「作品を見せあって、仲間と交流しましょう」と言いますが、交流は「仲間」内に限ることです。それ以外を巻き込まないことが大切ですね。

 

孫自慢も老害です。福太郎の長女である明代は、ボランティアで川越市の観光ガイドをやっています。観光客は老人ばかりで、孫自慢を聞かされることが多いです。孫のいない明代は孫自慢を聞くたびに心の中で、「お宅の孫なんて、いわば普通の子じゃないの。そりゃ織田信長とかベートーベンとか、小野小町なら自慢してもいいわよ。だけど、どの子もどの子もそこらにいる凡庸な子じゃないの」と思うのでした。明代の親友も、電話で孫自慢を延々と繰り返すので、明代は閉口してしまいます。相手は孫に電話を代わってくるので、そのたびに「かわいいわね!」を繰り返さねばならず、たまりません。

 

親友の孫自慢を疎ましく思っていた明代でしたが、自分に孫が誕生してからは考えが一変しました。孫が可愛くて可愛くて仕方なくなったのです。それで、親友に「孫が可愛くて、そのことを人に伝えるのは自然体よね」と言います。しかし、明代のこれまでの冷たい態度から孫自慢をしてきたことを反省した親友は、「孫自慢は自然体? 自然体なんておバカのやることよ。自然体なんてそのまんまなんだから。頭も使わないし、やせがまんもいらない。どんなことに対しても、自然体こそが人間らしいんだって叫ぶ人たちはいるけどさ、要は自然体しかできない頭なのよ」と返します。これは親友の方が正しいと思いました。動物と人間を分けるものが「礼」であり、自然体で生きるのは単なる動物にすぎません。人間には相手の気持ちに配慮した生き方が求められるのは当然です。



「礼」といえば、本書には克二という礼儀正しい30歳の青年が登場します。ボランティアで消防団の活動をしている彼の座右の書は「教育勅語」と「五箇条の御誓文」。そして中学生の頃に、マンガで知った「空手バカ一代」こと大山倍達に憧れました。克二は空手道場に通い始め、そこで礼節や人の倫を叩きこまれました。それは30歳の今も克二のバックボーンになっており、「消防団とは人の倫だ」と団員たちに説き聞かせます。敬語だの長幼の序だの、礼儀作法にうるさいのに、若い団員たちには人気があります。著者は、「若者に嫌われたくない大人が多い中、『嫌わば嫌え』という姿勢がかえって好感を持たれるのかもしれない」と書いています。

 

そんな克二は消防団の団長を務める松木に向かって、「松木さん、老人の責任とは『若い人間に仕事の面白さと生きる面白さを伝えること』です。他には何もしなくていい」などと言うのでした。松木の妻の美代子のセリフも印象的でした。彼女は笑顔で、「私も若い時は海外旅行がしたい、お金が欲しい、雑誌に出ていた服がほしい、すてきな人と出会いたい、友達より幸せになりたい、あの人には負けたくないって、もう欲だらけよ。でも何十年かたった時、ふと気づいたの。今の私はどれも全然欲しくないって。何であんなに欲があったんだろうね。あの時、若い時代は遠くに遠くに・・・・・・行ったんだと思った」と語ります。この言葉が自身にも思い当たる高齢者は多いことでしょう。

 

本書に登場する高齢者たちは、思ったことをズバズバ言います。主人公の福太郎がその典型ですが、著者は「常識人は忖度して言えないことを、老人は平気で言う。老害も役に立つというものだ。思えば老害とされる人は、口数が多い。後先を考えず、言いたいことをいう。そんな自分に酔い、際限なくいくらでも言う。まだまだ先のある人間は、つい相手の立場を考えたり、言葉を選んだりする。これからも生きていく以上、ことを荒立てたくない。だが、老人はどうせ、近々お迎えが来るのだ。強気だ」と書いています。鋭いですね。

 

しかし、常識人は忖度して言えないことを平気で言うのも、過剰なクレームの形では困りますね。本書には、かつて公民館の館長を務めていたサキという79歳の女性が登場しますが、彼女はとにかく気位が高く、ランチタイムに訪れたレストランでもクレームをつけまくります。その姿を見た福太郎は、「イチャモンつけるのが生き甲斐の年寄ってのは、昔からいるんだよ。イチャモンつけてる間は、少なくとも相手にしてもらえるからな」「年寄はいつも感じてんだよ。自分は『いてもいなくてもいい人間』に扱われていることをさ」「まともな年寄なら、俺はいらない人間だなってわかるよ。だから、クレームでもつけなきゃ、生きてンだか、自分でもわかんねえ・・・・・・」などと言うのでした。

 

この福太郎、「老害の人」として描かれているわけですが、わたしには魅力的な人物に思えました。彼の会社は、応接間だけは重厚な調度品で整えられています。福太郎の「客には一発かませ」の哲学によるのですが、若い得意客に対しても堂々たる態度で接します。第一線を退いたとはいえ、仕立てのいいスーツにヨーロッパブランドのネクタイの装いで、柔和な笑顔を見せながらも、そこらのジイさんとは別のオーラを発しているのです。そんな福太郎について、純市は「福太郎にあって自分にはないもの、それは社長になってから通関していた。スター性だ。華だ。仕事の能力とは別だ。容姿や経歴とも関係がない。敵も味方もつい一目置き、魅力を感じる。そういうスター性と華が、上に立つ者には必要なのだ。いかなる仕事であってもだ」と考えるのでした。まったく同感です。

 

純市の妻である明代は、父親の福太郎の行動を「老害」だと非難します。福太郎は、明代に向かって「バカ娘。教えとく。老人の自慢も説教も昔話も、何もかも老害じゃねえよ」と言い放ち、さらに「個性だ。お前ら、『個性』って言葉、大好きだろ。算数ができねえ子供も、かけっこが遅い子供も、人みしりなのも落ち着きがないのも、みんな欠点じゃなくて個性だって、すぐ言うだろ。他人と同じである必要はない、何もかも個性なんだからって、お前ら言ってるじゃねえか。それと同じだよ。自慢も説教も繰り返しも、上から目線も足が弱るのも頭が弱るのも、みんな個性だ。覚えとけ、バカ娘」と言い放つのでした。「バカ娘」は余計ですが、スカッとするような啖呵ですね。

 

福太郎は純市に対しても、「純市君は言ったろ。世の中で一番つまらねえのは毒にも薬にもならねえ人間だって。そうなんだよ。人間として生まれた以上、人は毒か薬にならなきゃいかんのだよ。どっちにもなれねえ人間にあ、魅力というものがまったくねえんだ」と言います。また、「老害は若いヤツたには毒だ。だけど老人には薬なんだよ。な、老害は毒にも薬にもなってんだよ。珍しいよ、こんなの」「若いヤツらはたっぷりと毒の魅力を味わえ。こっちもたっぷりと薬の魅力を振りまくからよ。イヤァ、老害ってヤツは一挙両得だよ。純市君に教えられた」などと言うので、明代は上ずった声で「パパ、老害は毒じゃない。単なる迷惑よ」と反論します。福太郎は、叫ぶ娘とうつむく婿を見て、「バカ娘、迷惑は毒の一種だ」と歯切れよく言うのでした。

 

本書には「老い」や「死」についての高齢者の考え方も興味深く書かれています。若鮎サロンのメンバーになった元クレーマーのサキは、「老いるということは、人間の能力を超えた事象ですからね。どうにもならないんです。だけど、若い人はそれがわからない。すぐに老害と言ったり、バカにしたり。そういうとき、老人たちが何も感じていないと思ったら、大間違いですよ。加齢とともに自分が消されていく哀しさ、感じてますよ」と言います。また、竹下という老人は、「俺、最近、人って本当に死ぬんだなァと思うんだよ」「有名な芸能人とか政治家がどんどん死ぬじゃないかよ。そうすると、やっぱり人はみんな必ず、本当に死ぬんだなって」「俺、恐くねえよ、死ぬことは。ホントだよ。だけど、この世から色んな人と別れるのがさ、恐いっていうか、切ないっていうかさ」と言うのでした。

 

福太郎も、「人の寿命ってのは、ちょうどいいとこでちゃんと終わるんだよな。あいつもこいつもみんないなくなって、どこ行ったんだかなと思う頃、自分にもちょうど寿命が来るんだよ」と言い、吉田老人も「人がいなくなると、少しづつこの世に未練がなくなる」「うん。一人ひとりいなくなるたびに、自然にそうなる。いい時期に用意されてるんだよ。寿命は」と言うのですが、いずれも、多くの高齢者にとって心に染みる言葉ですね。

 

「死」とともに、人間の最大の苦悩として「死別」があります。もともと、福太郎も妻と死別してから「老害の人」となったわけですが、夫婦で俳句&水彩画という趣味を楽しんでいた吉田老人も妻の桃子を亡くします。悲しいはずなのに、吉田老人は涙ひとつ見せませんでした。彼は九十歳です。今どきの自然体とは違う教育を受けています。それは福太郎も同じです。福太郎は、竹下老人に「今は男も女もないが、当時は『男たる者』という教育を徹底された。吉田はたぶん、女房を亡くして、取り乱して号泣するということを恥じている。毅然と受け入れるべきだとしている」と言いました。

 

吉田老人は、「俺、桃子が死んでよかったと思うこと、あるんだよ」と言いました。「俺のこと心配する人がいなくなっただろ。これは本当に楽だよ。病気でも仕事でも何でも、桃子が心配するから隠したり・・・・・・ウソまでついて」と言いながら、ゆっくりとビールを飲みました。さらには「強がりでも何でもないよ。本当に楽になった」と、いい笑顔を見せ、「あと・・・・・・桃子があっちにいると思うと、死ぬのが恐くなくなったってかさ」と言うのでした。もちろん強がりもあるでしょうが、本心もあると思います。特に、愛する人が彼岸にいると思うと、死ぬのが恐くなくなるというのは真実でしょう。

 

そんな吉田老人も、俳句についの文化講演の最中に、今は亡き愛妻への想いが込みあげてきて嗚咽します。彼は泣きながら、「皆さん、夫婦は・・・・・・どっちかが先に死ぬんです。死なれて初めて・・・・・・今までの毎日こそが幸せだったとわかります。・・・・・・どうか晩年は夫婦で・・・・・・夫婦で認めあって楽しめる何かを・・・・・・見つけて下さい。もう桃子とは何もできない私・・・・・・からの・・・・・・羨望をこめて言わせてもらいます・・・・・・」と言うのでした。それを聞いていた人々が貰い泣きしたのは言うまでもありません。

愛する人を亡くした人へ』(現代書林)

 

拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)で、わたしは「親を亡くした人は、過去を失う。配偶者を亡くした人は、現在を失う。子を亡くした人は、未来を失う。恋人・友人・知人を亡くした人は、自分の一部を失う」と書きました。同書は多くの読者を得たので、この言葉も有名になりました。じつは、これはユダヤ教の聖職者でありグリーフケア・カウンセラーでもあるアール・A・グロルマンが著者『愛する人を亡くした時』(春秋社)で述べた「愛児を失うと親は人生の希望を奪われる。配偶者が亡くなると、共に生きていくべき現在を失う。友人が亡くなると、人は自分の一部を失う。親が亡くなると、人は過去を失う」という言葉をわたしなりにアレンジしたものです。ちなみに、『愛する人を亡くした人へ』を原案としたグリーフケア映画「君の忘れ方」が今年9月にクランクインし、来年中には公開の予定です。



そのように「老い」「死」「死別」と向き合っている老人には絶望しかないのでしょうか。そうではありません。何かあると「早く死にたい」などと悲観的なことばかり口にしていた春子は、「わたしは自分の老後を、他人の老後のために使う」と言うようになりました。それを喜んだ福太郎は春子の背を叩いて、ガラス棚の中にある双六を示します。そして、「俺たちはさんざん頑張って、とうとうめでたい上がりにこぎつけたんだ。『あがり』は姥捨て山じゃねえよ。好きなようにやれる毎日だよ。何が老害だ。いいか、俺たちは残りの人生を、切ない老人のために尽くすんだ」と言うのでした。

老福論〜人は老いるほど豊かになる』(成甲書房)

 

福太郎は「老人のために生きる老人」という姿勢に自信を持ちます。そして、若鮎サロンに集った人々に向かって「皆さん、私たちはさんざん働いて、がんばって、気がつくとあと少ししかこの世にいられない年齢になっていました。ならば、いられるうちに何をするか。世間は老人に『自分のために何か挑戦せよ』とばかり言います。我々は自分のために何かをやる気はありません。世の老人のために、何かをやります。この視点が、今の日本の老人本人にもかけている」と言うのでした。これまた、まったく同感です。そして、この視点があれば、拙著『老福論』(成甲書房)のサブタイトルにある「人は老いるほど豊かになる」ということが実現すると思えてなりません。

 

「老い」は人類にとって新しい価値です。自然的事実としての「老い」は昔からありましたし、社会的事実としての「老い」も、それぞれの時代、それぞれの社会にありました。しかし、「老い」の持つ意味、そして価値は、これまでとは格段に違ってきています。老いること、病むこと、そして死ぬこと、すなわち「生老病死」を人間にとっての苦悩とみなしています。現在では、生まれることが苦悩とは考えられなくなったにせよ、まだ老病死の苦悩が残ります。しかし、私たちが一個の生物である以上、老病死は避けることのできない現実です。それならば、いっそ老病死を苦悩ととらえない方が精神衛生上もよいし、前向きに幸福な人生が歩めるのではないでしょうか。すべては、気の持ちようなのです。

 

 

わたしは古今東西の人物のなかで孔子を最も尊敬しており、何かあれば『論語』を読むことにしています。その『論語』には、「われ十有五にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず」という、あまりにも有名な言葉が出てきます。60になって人の言葉が素直に聞かれ、たとえ自分と違う意見であっても反発しない。70になると自分の思うままに自由にふるまって、それでいて道を踏み外さないようになった。ここには、孔子が「老い」を衰退ではなく、逆に人間的完成としてとらえる思想が明らかにされています。そう、人は老いるほど豊かになるのです。

論語と冠婚葬祭』(現代書林)

 

わたしは、日本における儒教研究の第一人者である大阪大学名誉教授の加地伸行先生と対談し、その内容は『論語と冠婚葬祭』(現代書林)として書籍化されています。ブログ「加地伸行先生と対談しました」に書いたように、わたしたちは、2021年7月7日に大阪で対談しました。加地先生は1936年(昭和11年)生まれで、対談時は85歳でした。儒教研究の権威ということから、正直言って加地先生には厳格で近寄りがたいイメージがあったのですが、先生は非常に優しく、ユーモアに満ち、人間的魅力に溢れておられました。「老害」の欠片も感じさせず、「老福」を感じさせる方でした。対談の中で加地先生が「孔子が最も言いたかったことは、人間の幸せは志をもって他人のため、社会のために尽くすということですよ」と言われた言葉が忘れられません。

老福の人加地伸行先生と

 

老害の人』の「あとがき」で、著者は、本書を八十代、九十代の群像劇にしたいと思ったことを明かしています。「老害」という現実の他に、「人生はあっという間だった」と実感している年代だからです。著者は、「ともに過ごした者たちの多くは消え、自分もすぐです。百年近く生きても、人生は一瞬の夢。父や母と一緒に暮らした昭和の日々は、現実だったのだろうか。葬式しかない将来と、もはや夢としか思えない過去。そんな老人たちであっても、命がある以上、どう生きたらいいのか。少なくとも、若年層に押しつけられた趣味や挑戦などの『自分磨き』ばかりではない。そう思います」と述べています。

コンパッション!』(オリーブの木

 

そして、著者は著者自身に重ねて、「私は今まで多くの方々から多くを教わって生きてきましたが、それを社会に少しでも還元し、伝える年齢だと気づかされています。つまり『自分磨き』ではなく『利他』ができないか。小さいコトでも主体的にそれができれば、力が湧くはずです」と述べるのでした。わたしは、この「利他」という言葉に感銘を受けました。「利他」を英語にすると「コンパッション」となります。「利他」と同じく仏教の言葉である「慈悲」や孔子が重んじた儒教の「仁」も英訳すると「コンパッション」です。人は、自分の幸せをいくら追及しても幸せにはなれませんが、そこに他人を幸せにしたいという思いやりが生まれたとき、初めて幸せになれるのではないでしょうか? そう、幸せの追求としての「ウェルビーイング」と思いやりの実践としての「コンパッション」が一体となって、心ゆたかな人生が実現するのです。

還暦を迎えた日にツインブックスを持って

 

最後に、本書のメインテーマでもある「老害」について。福太郎は「年取ると昔話とか自慢話とか愚痴とか嘆き節とか、それを言ってる時だけが楽しくてな。生きてる実感があってさ。いつまでも仕事にしがみつく老人たちも、その仕事だけが自分を生かしてくれてるんだよ」と言っています。また、「老害ってのは若い人には迷惑で、老人には生きてる証なんだ。この二つを何とか共存させられないものかと、俺はずっと考えてたよ」とも語ります。わたしは、この二つの共存こそ、「ウェルビーイング」と「コンパッション」の一体化にあると信じます。その具体的な方法については、拙著『ウェルビーイング?』『コンパッション!』(ともに、オリーブの木)のツインブックスをお読み下さい。また、日常生活の中で「老害の人」と呼ばれないための具体的行動については、10月刊行予定の次回作『年長者の作法』で詳しく紹介いたします。お楽しみに!

 

 

2023年7月17日  一条真也