「ザ・ホエール」

一条真也です。東京に来ています。
10日、各種打ち合わせをした後、夜はTOHOシネマズシャンテで映画「ザ・ホエール」を観ました。深いグリーフが描かれているのですが、それはケアされずに最後まで救いを感じることはできませんでした。非常に重い内容でしたが、本年度アカデミー主演男優賞を獲得した ブレンダン・フレイザーの鬼気迫る演技に圧倒されました。


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『ブラック・スワン』などのダーレン・アロノフスキー監督が、劇作家サミュエル・D・ハンターによる舞台劇を映画化。同性の恋人と暮らすために家族を捨てた男が自らの死期を悟り、疎遠になっていた娘との絆を取り戻そうと試みる。体重270キロを超える主人公を『ハムナプトラ』シリーズなどのブレンダン・フレイザーが演じ、『ELI/イーライ』などのセイディー・シンク、『ダウンサイズ』などのホン・チャウのほか、タイ・シンプキンス、サマンサ・モートンらが共演」

 

ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「同性の恋人アランに先立たれてから過食状態になり、極度の肥満体となった40代の男チャーリー(ブレンダン・フレイザー)。看護師である妹のリズに支えられながら、オンライン授業でエッセーを指導する講師として生計を立てていた。そんな中、心不全となり死期が近いことを悟った彼は、8年前にアランと暮らすために家庭を捨てて以来、疎遠になっていた娘エリーに会おうと決意する。彼女との関係を修復しようとするチャーリーだったが、エリーは学校生活や家庭にさまざまな問題を抱えていた」


主人公チャーリーは学生たちに文章の書き方をオンラインで指導しています。再会した娘にもエッセイを書くアドバイスをしますが、彼が最も言いたいことは「本当に大事だと思うことを書け」「真心で書け」でした。この日の午後、水天宮のホテルで次回作『年長者のマナー』(仮題、主婦と生活社)の打ち合わせをしていたのですが、「老害」に話題が及んだことを連想しました。一般に高齢者の老害には「昔話」「自慢話」「説教」などがありますが、若い人を見下すのではなく、本当に相手の将来を想い、その幸福を願っている場合は昔話・自慢話・説教も許されるのではないかと話しました。要は、その言葉が虚栄心とか見栄でなく、真心からくるものかどうかが大切なのです。

 

 

この映画のタイトルからもわかるように、主人公チャーリーの肥満体は鯨に似ています。比喩だけでなく、この映画にはハーマン・メルヴィルの長編小説『白鯨』の名が何度も登場します。19世紀前期、初老の捕鯨船長エイハブが巨大な白いマッコウクジラ、モービィ・ディックに片脚を咬み取られ、その報復を求めて執拗に巨鯨を追跡し、太平洋の赤道近くで3日間に及ぶ死闘を繰り広げたあとついに敗北、捕鯨船ピークォド号もろとも海底の藻屑と消える物語で、これをただ1人生還した青年イシュメールに語らせる仕組みになっています。チャーリーはエイハブとモービィ・ディックの両方に自分を重ね合わせています。

 

 

アメリカ人は『聖書』の次に『白鯨』を重要な書物として考えているようですが、日本でも最近、鯨にまつわる素晴らしい小説が生まれました。ブログ『52ヘルツのクジラたち』で紹介した町田そのこ氏の作品で、2021年「本屋大賞」を受賞しました。52ヘルツのクジラとは、他の鯨が聞き取れない高い周波数で鳴く、世界で1頭だけのクジラです。多くの仲間がいるはずなのに何も届かない、何も届けられない。そのため、世界で一番孤独だと言われている存在です。この小説では、自分の人生を家族に搾取されてきた女性と、母に虐待されていた少年が出会い、新たな魂の物語が生まれます。「ザ・ホエール」のチャーリーも、わたしには52ヘルツのクジラに見えました。


ブレンダン・ブレイザーが熱演したチャーリーは、自宅のソファからほとんど動かず、引きこもり生活を送り続けた結果、重度の肥満症となりました。彼は自らの死期を悟りますが、けっして病院へは行こうとしません。疎遠だった娘との絆を取り戻そうとし、長年押し込めてきたトラウマと向き合うことを決意します。その心えぐる喪失と深い絶望の前に、観客も暗澹たる気分になります。彼には「家族を捨て、恋を選んだ」過去があるのですが、大きな犠牲と引き換えに得た恋人アランを亡くしてしまいます。拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)には「親を亡くした人は過去を失う。配偶者を亡くした人は現在を失う。子を亡くした人は未来を失う。恋人・友人・兄弟を亡くした人は自分の一部を失う」と書かれていますが、チャーリーはまさに自分の一部を失った悲嘆者なのです。


アカデミー賞の主演男優賞を獲得するほどの一世一代の名演技を見せたブレンダン・フレイザーもまた、深い悲嘆の持ち主でした。彼の場合は、愛する人を亡くしたというより、かけがえのない時間・人生の一部を理不尽に奪われたのです。ブレンダンは、1990年代から2000年代にかけて、ガタイのいい爽やかなイケメン俳優として活躍しました。代表作は、1999年公開の「ハムナプトラ」(原題は“The Mummy”)です。ところが、それ以降忽然と映画界から姿を消し、体重も増加しました。2014年からはテレビシリーズには出演していたものの、2019年までしばらく映画出演はありませんでした。


それについて2018年、ブレンダンは「Me Too」の流れを受けて重い口を開きました。彼は、2003年に、ゴールデン・グローブ賞を主催するハリウッド外国人映画記者協会(HFPA)の元会長フィリップ・バークから、握手をしながら下半身を触られるというセクハラが理由で、映画界から遠ざかったことを明らかにしたのです。ブレンダンは、自責の念で精神を病んでしまったことや、過度なアクションシーンをいくつも演じたことで体がボロボロになり、手術を繰り返して約7年を費やし、激太りしてしまったことも認めています。やむなく摂食障害になるという「ザ・ホエール」の主人公チャーリーはブレンダンに通じる人物だったのです。そのチャーリーは同性愛者として描かれますが、ホモ・セクハラで運命が大きく狂ったブレンダンが演じたわけです。きっと、彼の心中には複雑なものがあったと推察します。


映画「ザ・ホエール」は、ブログ「ノック  終末の訪問者」で紹介した映画に共通する要素がありました。終末論を唱える宗教の存在もそうですし、同性愛やアジア人が登場するポリコレ映画の要素も共通していました。最近は、この手の映画が本当に多いですね。また、「ザ・ホエール」はハリウッドのトップスターに昇りつめながらも、心身のバランスを崩して表舞台から遠ざかっていたブレンダン・フレイザーの奇跡的なカムバック劇でもありました。ある意味で、映画そのものよりもドラマティックでした。その感動的な瞬間は、まず、第79回ヴェネチア国際映画祭における感動的な瞬間が世界中に発信されました。フレイザーの驚嘆すべき演技に多くの絶賛の声が寄せられ、その称賛はとどまることなく、ついにはアカデミー賞主演男優賞獲得となったのです。その他にセイディー・シンク、ホン・チャウ、サマンサ・モートンら豪華俳優陣が脇を固め、心を揺さぶる物語を生み出しました。


さて、272キロにまで太ったチャーリーの巨体は見ていて辛いものがあります。また、「これだけ身体が大きいと、ただ生活するだけでも色々と不便だろうな」と思ってしまいます。わたしは、巨漢プロレスラーを連想しました。ブログ『平成マット界 プロレス団体の終焉』で紹介した本には多くのアクセスが寄せられましたが、平成をさかのぼって昭和のマット界にはさまざまな巨漢レスラーが活躍しました。ヘイスタック・カルホーン(273キロ)、マクガイヤー兄弟(2人とも300キロ前後)などが代表です。彼らの度外れた巨体に、昭和のプロレスファンは大いに熱狂したものでした。このカルホーンの体重が273キロ、チャーリーが272キロとほぼ同じであるのを知って、わたしは「おばけカボチャ」と呼ばれたカルホーンをなつかしく思い出したのでした。


巨漢レスラーといえば、わたしはやはり、アンドレ・ザ・ジャイアントが思い出されます。彼は身長223センチ、体重236キロで、「大巨人」とか「人間山脈」と呼ばれました。アンドレの最大の悩みはトイレでした。人間、食べれば排泄する。体の割りには食べなかったようですが、それでも半端な量ではありません。女性がよく使うコーラックというピンク色の下剤があります。女性の便秘のひどい人でも1錠か2錠使うのが普通ですが、アンドレは1箱全部飲んでしまい、帰国の際には飛行機に乗る前に空港で全部出していったといいます。これで体に良いはずがありません。アンドレは、45歳の若さでパリで亡くなりました。大巨人に生まれたがゆえに、つねに好奇の目にさらされ、トイレをはじめとした諸問題にも悩んだであろう彼の人生を思うと悲しくなります。

 

映画「ザ・ホエール」は画面が暗く、ほとんど場面が変わりません。それゆえに鑑賞中は睡魔に襲われるのですが、もとは舞台劇であったと知って納得しました。この映画のメガホンを取ったのがダーレン・アロノフスキーと知って、ちょっと驚きました。彼の作品では、ナタリー・ポートマンが第83回アカデミー主演女優賞を受賞した「ブラック・スワン」(2010年)が有名です。内気なバレリーナが大役に抜てきされたプレッシャーから少しずつ心のバランスを崩していく様子を描いています。ニューヨーク・シティ・バレエ団に所属するバレリーナのニナ(ナタリー・ポートマン)は、踊りは完ぺきで優等生のような女性。芸術監督のトーマス(ヴァンサン・カッセル)は、花形のベス(ウィノナ・ライダー)を降板させ、新しい振り付けで新シーズンの「白鳥の湖」公演を行うことを決定します。ニナは念願かなって次のプリマ・バレリーナに抜てきされますが、気品あふれる白鳥は心配ないものの、で官能的な黒鳥を演じることに不安がありました。そこから奇妙なドラマが展開するのでした。


また、ダーレン・アロノフスキー作品といえば、わたしはブログ「マザー!」で紹介したジェニファー・ローレンス主演の怪作が忘れられません。舞台はある郊外の一軒家です。そこには、スランプに陥った詩人の夫と若くて美しい妻が住んでいました。ある夜、家に不審な訪問者が訪れますが、夫はその訪問者を拒むこともせず招き入れます。それをきっかけに、翌日からも次々と謎の訪問者たちが現れ、夫婦の穏やかな生活は一転します。それととともに夫も豹変し始め、招かれざる客たちを拒む素振りを見せず次々と招き入れていきます。そんな夫の行動に妻は不安と恐怖を募らせます。訪問者たちの行動は次第にエスカレートし、常軌を逸した事件が相次ぐ中、彼女は妊娠して、混乱の中で出産します。母親になった彼女と赤ん坊には、想像もつかない出来事が待ち受けていました。


ブラック・スワン」も、「マザー!」も、観る者の心に大きな不安を与えるサイコ・スリラーといえますが、「ザ・ホエール」も同じような見方ができることに、いま気づきました。ダーレン・アロノフスキーは子どもの頃から創作活動を好み、ハーバード大学で映画を専攻。卒業制作の短編作品「Supermarket Sweep」(1991年)が高い評価を得ました。「π」(1998年)で長編監督デビューを果たし、インディペンデント・スピリット・アワードで新人脚本賞を受賞。ミッキー・ロークを主演に迎えた「レスラー」(2008年)でベネチア国際映画祭の金獅子賞を獲得しました。2006年に公開した「ファウンテン 永遠につづく愛」の主演女優レイチェル・ワイズと同年に婚約しましたが、2010年破局。その年に「ブラック・スワン」を公開したことになります。観る者の心をここまで不安にできるダーレン・アロノフスキーは、間違いなく天才だと思います。

 

2023年4月11日 一条真也