一条真也です。
たった一字に深い意味を秘めている文字は、世界でも漢字だけです。そこには、人のこころを豊かにする言霊が宿っています。その意味を知れば、さらに、こころは豊かになるでしょう。今回の「こころの一字」は、「拝」です。



人を動かすには、心を動かさなければなりません。心を動かすには言葉だけではだめで、態度も重要です。「経営の神様」と言われた松下幸之助は、よく部下に手を合わせて拝んでいたといいます。小さい会社の経営者であれば、率先垂範して部下に命令しながらやることも必要ですが、これが100人とか1000人とかになれば、それではだめです。心の底に「こうしてください、ああしてください」というような心持ちがないといけません。これがさらに1万人、2万人となれば、「どうぞ頼みます」という心根に立たないといけません。



しかし、もっと大きくなると、部下に対して、「手を合わせて拝む」という想いがないといけないのです。松下幸之助はそういう心で経営をやってきたといいます。手を合わせて拝むことを「合掌」といいます。合掌とは、単に社交で頭を下げる低頭や、手を握り合う握手と違い、相手の人の地位や身分を尊敬するのではありません。合掌は、先方の人の身中に宿る仏心を拝むのです。相手の全人格をたたえる作法ですから、合掌は握手と低頭とを総合した最高のご挨拶です。ですから、傍らにいるものでも感動するのです。



しかし、臨済宗の大家で知られる松原泰道師によると、必ずしも形のごとく両手を合わせるだけが合掌ではないそうです。相手の仏心を拝む心のない合掌は、ただ右の手と左の手とを合わせただけのポーズです。それと反対に、出会った人に心の中で「どうぞ、お幸せでありますように、あなたさまのお心に、少しでも御仏のお智慧とお慈悲が得られますように」と念じて握手をし、頭を下げるなら、たとえ手を合わさずとも尊い合掌なのです。



仏教の人間観は、性別や年齢や民族に関係なく、等しくみな「仏に成る」可能性を具えているとします。仏に成る、とは人間性の完成を意味し、その可能性を仏性と言うのです。松原師は仏性を「純粋な人間性」と表現しています。これは言い換えると、「ほとけさまになる種」です。年齢や性別その他すべての区別を超えて、ほとけさまになる種を持っているから、人間は尊厳なのです。



人間誰もが持つ、この純粋な人間性を、単なる尊敬でなく拝んでいくのが、仏教思想の人間観です。ですから、仏教徒は相互にあいさつするときは、お辞儀や握手ではなく合掌をするのです。それは相手の心中にある仏性を拝み合うのです。単なるパフォーマンスではなく、心からの合掌ができる人間になりたいものですね。なお、「拝」については、『龍馬とカエサル』(三五館)に詳しく書きました。

 

 

2022年12月22日 一条真也