一条真也です。
たった一字に深い意味を秘めている文字は、世界でも漢字だけです。そこには、人のこころを豊かにする言霊が宿っています。その意味を知れば、さらに、こころは豊かになるでしょう。今回の「こころの一字」は、「縁」です。

 

 

日本人の自殺率は先進国中でワースト2位です。しかし、ここ最近は、「身元不明の自殺と見られる死者」や「行き倒れ死」などが急増し、引き取り手のない遺体が増えています。その原因は、日本社会があらゆる「絆」を失っていき、「無縁社会」と化したことにあるというのです。かつての日本社会には「血縁」という家族や親族との絆があり、「地縁」という地域との絆がありました。日本人は、それらを急速に失っているようです。

 

 

わたしは冠婚葬祭会社を経営していますが、各種の儀式の施行をはじめ、最近では地域社会の人々が食事をしながら語り合う「隣人祭り」や「婚活セミナー」などに積極的に取り組み、全社をあげてサポートしています。これらの活動は、すべて「無縁社会」から「有縁社会」へ進路変更する試みだと思っています。わたしたちは一人では生きていけません。誰かと一緒に暮らさなければなりません。では、誰とともに暮らすのか。まずは、家族であり、それから隣人です。考えてみれば、「家族」とは最大の「隣人」かもしれませんね。


「人間の幸せ」とは?

 

現代人はさまざまなストレスで不安な心を抱えて生きています。ちょうど、空中に漂う凧のようなものです。そして、わたしは凧が最も安定して空に浮かぶためには縦糸と横糸が必要ではないかと思います。縦糸とは時間軸で自分を支えてくれるもの、すなわち「先祖」です。この縦糸を「血縁」と呼びます。また、横糸とは空間軸から支えてくれる「隣人」です。この横糸を「地縁」と呼ぶのです。この縦横の二つの糸があれば、安定して宙に漂っていられる、すなわち心安らかに生きていられる。これこそ、人間にとっての「幸福」の正体だと思います。

 

 

この世にあるすべての物事や現象は、みなそれぞれ孤立したり、単独であるものは1つもありません。他と無関係では何も存在できないのです。すべてはバラバラであるのではなく、緻密な関わり合いをしています。この緻密な関わり合いを「縁」と呼びます。そして、縁ある者の集まりを「社会」と呼びます。ですから、「無縁社会」という言葉は本当はおかしいのであり、明らかな表現矛盾なのです。「社会」とは最初から「有縁社会」なのです。

 

 

社会に生きているすべての人間には、それぞれの居場所があり、役割があります。
ドラッカーは、「社会は、一人ひとりの人間に位置づけと役割を与える」と述べました。『ドラッカー365の金言』の中には、次のような言葉が紹介されています。
「一人ひとりの人間が、社会的な位置づけと役割を与えられなければ社会は成立せず、大量の分子が目的も目標もなく飛び回るばかりとなる」(上田淳生訳)
ドラッカーはよく「絆としての社会」という表現を使いましたが、これなどまさに「有縁社会」を言い換えたものでしょう。逆に言えば、「無縁社会」とは人間に社会的な位置づけと役割が与えられずに、大量の分子が目的も目標もなく飛び回る社会だということになります。


無縁社会から有縁社会へ

 

人間には、家族や親族の「血縁」をはじめ、地域の縁である「地縁」、学校や同窓生の縁である「学縁」、職場の縁である「職縁」、業界の縁である「業縁」、趣味の縁である「好縁」、信仰やボランティアなどの縁である「道縁」といったさまざまな縁があります。わが社では、それらの縁をもう一度強く結び直す具体的な方法を実践しています。すなわち、血縁を結び直す「法事・法要」、地縁を結び直す「隣人祭り」、学縁を結び直す「同窓会」、職縁を結び直す「OB会」、業縁を結び直す業界の「勉強会」、好縁を結び直す「サークル」、道縁を結び直す各種の「集会」、さらには新たな血縁を作り出す「婚活」などです。

 

 

異色の哲学者である中村天風は、「要するにこの広い世界に、幾多数え切れないたくさんの人という人のいるなかに、自分たちだけが、一つ家のなかに、夫婦となり、親となり、子となり、兄弟姉妹となり、さては使うもの使われるものとなって、一緒に生活しているということが、並々ならぬ、換言すればとうてい人間の普通の頭では考えきれない縁という不思議以上の幽玄なるものが作用した結果だという、極めて重大な消息を、重大に考えないからである」と言いました。天風の有名な「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」という言葉も、この世に張りめぐらされた縁というネットワークが持つ不思議以上の幽玄さを表現しているのでしょう。

 

 

 陽明学者の安岡正篤は、「仏語に、縁尋機妙という語がある。縁尋機妙とは、縁が尋ねめぐって、そこここに不思議な作用をなすことである。縁が縁を産み、新しい結縁の世界を展開させる。人間が善い縁、勝れた縁に逢うことは大変大事なことなのである。これを地蔵経は聖縁・勝縁という」と言いました。さすがに中村天風安岡正篤も、豊かな縁を得て、幾多の政治家や実業家を指導しただけあって、含蓄のある言葉を残していますね。



いわゆる「柳生家の家訓」といわれるものに、「小才は縁に出会って縁に気づかず 中才は縁に気づいて縁を生かさず 大才は袖すり合った縁をも生かす」という言葉があります。この世は最初から縁に満ちており、多くの者はそれに気づいていないだけなのです。われわれの周囲には目に見えないさまざまな縁が張りめぐらされており、その存在に気づくことが大切なのです。そう、社会とは最初から「有縁社会」なのです。「無縁社会」など、妄言にすぎません。なお、「縁」については、『孔子とドラッカー 新装版』(三五館)に詳しく書きました。


 

2022年10月13日 一条真也