5月度総合朝礼

一条真也です。
新型コロナウイルスの感染拡大が収まらないどころか悪化する中、5月になりました。1日の朝、わが社が誇る儀式の殿堂である小倉紫雲閣の大ホールで、サンレー本社の総合朝礼を行いました。もちろん、ソーシャルディスタンスには最大限の配慮をしています。

f:id:shins2m:20210501103714j:plain最初は、もちろん一同礼!

f:id:shins2m:20210501084720j:plain社歌斉唱のようす

f:id:shins2m:20210501084940j:plain
新緑カラーのマスク姿で登壇しました

f:id:shins2m:20210501151643j:plain
新緑カラーのマスクを取りました

 

全員マスク姿で社歌の斉唱および経営理念の唱和は小声で行いました。それから社長訓示の時間となり、わたしが五月(さつき)の新緑をイメージしたマスク、ネクタイ、ポケットチーフという姿で登壇しました。わたしは、まず、「4月25日から東京・大阪・京都・兵庫の4都府県に3回目の緊急事態宣言が発出されました。アナクロそのものである禁酒法と灯火統制には、あきれてものが言えません。そこまでして、東京五輪を開催したいのでしょうか?」と言いました。

f:id:shins2m:20210501085335j:plain社長訓示のようす

 

それから、わたしは以下のような内容の社長訓示を行いました。国民のほとんどは、五輪の開催に反対しています。また、落語家の立川志らく氏も言っていましたが、子どもたちが運動会もできずに悲しい思いをしているのに、どうして大人の運動会を無理して開催しなければならないのか。世界的に変異株が生まれているのに、どうして世界の人々を日本に集めるのか。命より大事な運動会などありません。そもそも五輪を「平和の祭典」などと表現する輩もいますが、結婚こそは「最高の平和」であり、本当の平和の祭典とは、五輪などではなく、結婚式のはずです。

f:id:shins2m:20210501085006j:plain
日本人にとって儀式とは何か?

 

ところで、「入学式も卒業式もムダ。3月4月すべての儀式が日本人を不幸にする」という記事が配信され、強い違和感をおぼえました。記事のリード文には、「3月4月の日本では、卒業式や入学・入社式等々多くの行事が行われますが、それらはすべて『ムダな儀式』と言い切ってしまって間違いないようです。今回のメルマガ『冷泉彰彦プリンストン通信』では米国在住作家の冷泉彰彦さんが、前掲の行事を『オワコン』と一刀両断。その上で、それらの儀式を無意味と判断せざるを得ない理由を、冷静な筆致で明らかにしています」と書かれています。記事を読んでみると、率直な感想は「春の一連の儀式について悪意を持って書くとこのようになるのかな」と思いました。また、主張に論拠もなく、主観を振りかざすばかりで、特に得るものがありませんでした。

f:id:shins2m:20210501115655j:plain
1年遅れの入学式について

f:id:shins2m:20210501085232j:plain
熱心に聴く人びと

儀式については、当然いろいろな意見があると思いますが、1人1人の多様な人間が、それぞれの儀式で何を得るかなどを考えず、価値感の押し付けをする独善的な印象です。この春、新型コロナウイルスの影響で昨春の入学式を中止とした大学が今春、新2年生向けに「1年遅れの入学式」を行うケースが相次ぎました。オンライン授業中心でキャンパスに通うこともままならなかった学生たちは「ようやく大学生の実感が湧く」と喜んでいました。1年遅れの入学式を希望するかと大学側が新2年生たちにアンケートを取ったところ、じつに80%以上の学生が希望したそうです。これを知ったわたしは、彼らが入学式もないまま大学生活をスタートして、どんなに不安な毎日を送っていたかと思い、泣けてきました。わたしが客員教授を務める上智大学でも、新型コロナウイルスの影響で去年中止となった入学式が開かれ、400人もの新2年生たちが一年遅れの式典に臨みました。

f:id:shins2m:20210501085127j:plain儀式は何のためにあるのか?

 

そもそも、儀式は何のためにあるのか?
儀式が最大限の力を発揮するときは、人間のココロが不安定に揺れているときです。もともと、「コロコロ」が語源であるという説があるぐらい、ココロは不安定なものなのです。まずは、この世に生まれたばかりの赤ちゃんのココロ。次に、成長していく子どものココロ。そして、大人になる新成人者のココロ。それらの不安定なココロを安定させるために、初宮参り、七五三、成人式、結婚式があります。さらに、老いてゆく人間のココロも不安に揺れ動きます。なぜなら、人間にとって最大の不安である「死」に向かってゆく過程が「老い」だからです。しかし、日本には老いゆく者の不安なココロを安定させる一連の儀式として、長寿祝いがあります。

f:id:shins2m:20210501115929j:plainココロを安定させるカタチ を!

f:id:shins2m:20210501085455j:plain
熱心に聴く人びと

そして、人生における最大の儀式としての葬儀がある。葬儀とは「物語の癒し」です。愛する人を亡くした人のココロは不安定に揺れ動きます。ココロが動揺していて矛盾を抱えているとき、儀式のようなきちんとまとまったカタチを与えないと、人間のココロはいつまでたっても不安や執着を抱えることになります。このように、カタチにはチカラがあるのです。葬儀という儀式の本質は卒業式です。そう、「人生の卒業式」です。卒業とは環境が激変することであり、最もココロが不安定となってストレスが増大します。これに続く入学式ではストレスが最大になります。だから、ココロを安定させるカタチである卒業式や入学式が必要なのです。

f:id:shins2m:20210501085217j:plain鎌田先生からのメッセージ

 

わたしの文通相手である宗教哲学者の鎌田東二先生も、「シンとトニーとムーンサルトレター第193信」において、「儀礼や儀式は思いをカタチにするために必要なプロセスであり様式であり大切な象徴作用であると考えているので、それは無駄であるどころか、人間文化と人間行動の根幹をなすエートス(倫理)とパトス(情念)の基盤であると認識しています。実際、上智大学の学生の入学式や卒業式、また 上智大学グリーフケア研究所グリーフケア人材養成講座への社会人受講生への開講式の様子を見たり、感想を聞いたりしていると、今もなお、節目節目の儀式がいかに大事であるか、各人各個の人生の節目や覚悟やふりかえりや思い出になっているか、痛感します」と述べられています。

f:id:shins2m:20210501120003j:plain
最後に道歌を披露しました

 

人のココロは、人生のさまざまな場面でのカタチによって彩られます。人には誰にでも「人生の四季」があるのです。その生涯を通じて春夏秋冬があり、その四季折々の行事や記念日があります。大切なことは、自分自身の人生の四季を愛でる姿勢でしょう。そして、最後に「儀式は日本人を不幸にするどころか、幸福にするテクノロジーです。わたしたちは儀式を生業(なりわい)としていることに誇りを持って、日本人の幸福のために励みましょう! 」と述べてから、以下の道歌を披露しました。

 

カタチにはチカラがあると思い知れ

     儀式なくして人生はなし 

 

f:id:shins2m:20210501090325j:plain「今月の目標」を唱和

f:id:shins2m:20210501120107j:plain
最後は、もちろん一同礼!

 

総合朝礼の終了後は、サンレーの本部会議を行います。昨年はなんとかコロナイヤーを黒字で乗り切りましたが、コロナ2年目となる今年は正念場を迎えています。全社員が全集中の呼吸で全員の力を合わせて最後まで走り抜きたいです。大型連休の最中ではありますが、変異種の感染にも万全の注意を払いながら、気を引き締めていきたいです。

 

2021年5月1日 一条真也拝