「儀式讃」PV 

一条真也です。出張で静岡に来ています。
ブログ「儀式讃」で紹介したように、拙著『儀式論』(弘文堂)の巻末に、わが儀式への想いを「儀式讃」としてまとめました。このたび、そのPV(プロモーション・ヴィデオ)を作成いたしました。


「儀式讃」は、『古今和歌集』で紀貫之が和歌への想いを綴った「仮名序」をイメージして作成しました。ブログ『歌と宗教』で紹介した鎌田東二先生の著書を読んで、「仮名序」の存在を知りました。


儀式論』(弘文堂)

儀式論』巻末の「儀式讃」

これが「儀式讃」のオリジナルだ!

「儀式讃」オリジナルの冒頭部分



本当は「儀式序」として巻頭に置こうかとも考えましたが、それだと14章にわたる論考の意味がなくなると思い、巻末に「儀式讃」として掲載した次第です。「儀式讃」というタイトルも鎌田先生のアドバイスによるものです。
一流の書道家である福成喜光先生にお願いして巻物に毛筆で書いていただいた「儀式讃」を『儀式論』の巻末に8ページにわたって掲載しました。
PVの冒頭では、雅楽の調べをBGMとして、皇産霊神社において瀬津神職が「儀式讃」を読み上げる声が流れ、神秘的な森の光景が映し出されます。
続いて、PVでは以下のようなテロップが流れます。



やまとうたは、人の心を種として、
万の言の葉とぞなれりける

古代、三十六歌仙のひとり、
紀貫之は『古今和歌集』において
和歌の力を明らかにし、
それを称え、やまとうたへの想いを
『仮名序』へとつづった。

そして現代。
「儀式」こそが人間を人間たらしめることを
明らかにした『儀式論』。
自らの集大成ともいえる書を結ぶに臨み、
作家・一条真也は、
儀式への溢れんばかりの想いをしたためた。

あらゆる民族のあらゆる儀式へのたたえごと。
これこそが「儀式讃」である。



儀式論』と「儀式讃」

「儀式讃」を広げて・・・・・・



わたしは、合計600ページの『儀式論』を何かに取り憑かれたように一気に書き上げました。「俺が書かねば誰が書く」という大いなるミッションを感じながら、ドン・キホーテのような心境で書きました。「儀式讃」は、天から文章が降ってくるようなイメージで一晩で書きました。その根底には、人類は生存し続けるために儀式を必要としたのであり、現代日本を蔽う「儀式不要」の風潮が文化的危機であるという強い「想い」があります。
人間が人間であるために儀式は存在します。まさに「儀式なくして人生なし」です。「儀式讃」のメッセージが1人でも多くの日本人に届き、幸福な人生を送っていただけるように心から願っています。


儀式論』(弘文堂)の内容見本



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2017年8月4日 一条真也