兵馬俑

一条真也です。
「アジア冠婚葬祭業国際交流研究会」のミッションで中国に来ています。2017年4月22日、2005年以来、じつに12年ぶりに兵馬俑を訪れました。


兵馬俑に到着しました



あのときは、兵馬俑の発見者である楊志発氏にもお会いしました。そして、わたしは始皇帝についての思いを「始皇帝の夢、アレクサンダーの志 東西二大英雄の心を読む」という文章に書きました。


12年前に兵馬俑を訪問
(「Ray!」2005年12月号より)



兵馬俑とは、言わずと知れた秦の始皇帝の死後を守る地下宮殿です。二重の城壁を備えた始皇帝の巨大陵墓の下には、土で作られた兵士や馬の人形が立ち並んでいます。実に8000体におよぶ平均180センチの兵士像が整然と立ち並ぶさまはまさに圧巻で、「世界第8の不思議」などと呼ばれていることも納得できます。


入口は大渋滞!



Wikipedia「兵馬俑」の「概要」には以下のように書かれています。
「古代中国の俑は死者の墓に副葬される明器の一種であり、被葬者の死後の霊魂の『生活』のために製作された。春秋戦国時代には殉葬の習慣が廃れて、人馬や家屋や生活用具をかたどった俑が埋納されるようになり、華北では主として陶俑が、湖北湖南の楚墓ではとくに木俑が作られた。兵馬俑は戦国期の陶俑から発展したものだが、秦代の始皇帝兵馬俑においてその造形と規模は極点に達する。漢代以降も兵馬俑は作られたが、その形状はより小型化し、意匠も単純化されたものとなった」


兵馬俑一号坑

兵馬俑一号坑

兵馬俑一号坑

土曜日なので見学者が多かったです



この兵馬俑をながめながらも、わたしはさまざまなことを考えました。
春秋・戦国の舞台は、それが当時の全世界でした。秦、楚、燕、斉、趙、魏、韓、すなわち『戦国の七雄』がそのまま続いていれば、その世界は7つほどの国に分かれ、ヨーロッパのような形で現在に至ったことでしょう。当然ながらそれぞれの国で言葉も違ったはずです。そうならなかったのは、秦の始皇帝が天下を統一したからでした。その意味で、始皇帝は中国そのものの生みの親と言えます。中国を知ろうと思えば、それを生んだ秦の始皇帝を知らなければなりません。彼は前人未到の大事業を成し遂げましたが、その死後、彼の大帝国は脆くも崩壊してしまいました。とはいえ、統一の経験は、中国の人々の胸に強く、そして長く残りました。


一号坑の正面入口を望む

横から見た兵士像

12年ぶりの訪問でした



三国時代南北朝、宋金対峙など、中国はその後しばしば分裂しましたが、そのときでも、誰もがこれは常態ではないと思っていたのです。中国が1つであることこそ、本来の自然な姿であると思っていたのです。これは、イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、スペインなどの国々に分かれ、20世紀の終わりになってやっとEUという緩やかな共同体が誕生したヨーロッパの歴史を考えると、本当にものすごいことです。よほど強烈なエネルギーがなければ、中国統一のような偉業を達成することはできませんし、1人の人間が発したそのエネルギーの量たるや、私などには想像もつきません。


リアルに作られた兵士像

崩れた場所もありました

修復中の兵士像

いろいろ思うところあり!



中国すなわち当時の世界そのものを統一するとは、どういうことか。他の国々をすべて武力で打ち破ったことは言うまでもありませんが、それだけでは天下統一はできません。始皇帝は度量衡を統一し、「同文」で文字を統一し、「同軌」で戦車の車輪の幅を統一し、郡県制を採用しました。そのうちのどれ1つをとっても、世界史に残る一大事業です。始皇帝は、これらの巨大プロジェクトをすべて、しかもきわめて短い期間に1人で成し遂げたわけです。


兵馬俑二号坑

兵馬俑二号坑

兵馬俑三号坑



かくして、広大な中国は統一され、彼はそのシンボルとして「皇帝」という言葉を初めて使いました。以後、王朝や支配民族は変われど、中国の最高権力者たちは20世紀の共産主義革命が起こるまで、ずっと皇帝を名乗り続けました。すなわち、秦の始皇帝がファースト・エンペラーであり、清の宣統帝溥儀がラスト・エンペラーでした。この2人の皇帝の間には2000年を超える時間が流れています。


兵士像を観賞する人びと

兵馬俑博物館

入口に置かれた「道徳守礼」の看板

博物館の内部のようす



また、始皇帝は2つの水利工事や阿房宮という未完の宮殿を造ろうとしたことでも知られていますが、何と言っても有名なのが、かの万里の長城です。いま残っているのは明時代のもので、始皇帝の時代はもう少し原始的なものだったそうですが、それにしても国境線をすべて城壁にするというのは、実に雄大な英雄ならではの発想です。月から地球をながめるというのは私の人生最大の夢ですが、万里の長城こそは月面から肉眼で見える唯一の人工建造物だと俗に言われています。この上ない壮大なスケールと言う他はありません。


それほど絶大な権力を手中にした始皇帝でしたが、その人生は決して幸福なものではありませんでした。それどころか、人類史上もっとも不幸な人物ではなかったかとさえ思います。なぜか。それは、彼が「老い」と「死」を極度に怖れ続け、その病的なまでの恐怖を心に抱いたまま死んでいったからです。


始皇帝



始皇帝ほど、老いることを怖れ、死ぬことを怖れた人間はいません。そのことは世の常識を超越した死後の軍団である兵馬俑の存在や、徐福に不老不死の霊薬をさがせたという史実が雄弁に物語っています。


始皇帝像と



中国統一という誰もなしえなかった巨大プロジェクトを成功させながら、その晩年は、ひたすら生に執着し、死の影に脅え、不老不死を求めて国庫を傾け、ついには絶望して死んだ。そして、その墓は莫大な財を費やし、多くの殉死者を伴うものでした。兵馬俑とは、不老不死を求め続けた始皇帝の哀しき夢の跡にほかならないのです。わたしは、12年前に兵馬俑で次のような歌を詠みました。


不老不死求めてあがく夢の跡
   まこと哀しき兵馬俑かな  庸軒


いくら権力や金があろうとも、老いて死ぬといった人間にとって不可避の運命を極度に怖れたのでは、心ゆたかな人生とはまったくの無縁です。逆に言えば、地位や名誉や金銭には恵まれなくとも、老いる覚悟と死ぬ覚悟を持っている人は心ゆたかな人であると言えます。どちらが幸福な人生かといえば、疑いなく後者でしょう。心ゆたかな社会、ハートフル・ソサエティを実現するには、万人が「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」を持つことが必要なのです。そのことを兵馬俑をながめながら、考えました。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2017年4月23日 一条真也