『語彙力こそが教養である』

語彙力こそが教養である (角川新書)


一条真也です。
ブログ『日本人は何を考えてきたのか』ブログ『悔いのない人生』ブログ『使う哲学』で紹介した本に続いて、齋藤孝氏の著書を紹介いたします。『語彙力こそが教養である』(角川新書)です。著者は「読書」や「教養」といったテーマにおける第一人者ですので、安心して読めますね。


本書の帯



帯には、いつものように書棚を前にした齋藤氏の写真が使われ、「その一言に知性は滲み出る。」と大書され、「珠玉の言葉を血肉にする技術」の一文が添えられています。
また、カバー後そでには、以下のような内容紹介があります。
「ビジネスでワンランク上の世界にいくために欠かせない語彙力は、あなたの知的生活をも豊かにする。読書術のほか、テレビやネットの活用法など、すぐ役立つ方法が満載!読むだけでも語彙力が上がる実践的な一冊」


本書の帯の裏



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「はじめに」
第1章 教養は言葉の端々に表れる
第2章 語彙力アップには名著が近道
第3章 テレビやネットでも言葉は磨ける
第4章 8つの訓練で「使える語彙」にする
第5章 洗練された言葉づかいを身につける
「おわりに」



「はじめに」で、語彙を身につけることについて、著者は述べます。
「より多くの語彙を身につけることは、手持ちの絵の具が増えるようなものです。8色の絵の具で描かれた絵画と、200色の絵の具で描かれた絵画。どちらの絵が色彩豊かで美しいか?いわずもがな、200色のほうでしょう。語彙力を身につけることは、いままで8色でしか表現できなかった世界が、200色で表現できるようになるということなのです」



続いて、著者は以下のように述べています。
「『すごい』『やばい』『なるほど』『たしかに』ばかり使う人は、8色の絵の具しか持っていない人。一方で、200色の絵の具を使える人は、あまねく表現を駆使して相手を動かせます。部下にかける言葉も、自己アピールの言葉も、ビジネスでの商談も、プライベートな雑談も、『200色』の彩りをもって表現できるようになる。当然、それに伴って、あなたが受ける評価も大きく変わっていくでしょう」



第1章「教養は言葉の端々に表れる」では、「日本語は語彙の多い言語だから、大きな差がつく」として、著者は以下のように述べています。
「日本語の90%を理解するために必要な語彙数は、およそ1万語と言われています。ところが、諸外国を見てみると、ケタが違う。英語は日本語の3分の1にも満たない3000語、スペイン語やフランス語にいたっては2000語足らずで、その言語を90%理解できるのです」



続けて、著者は以下のように述べます。
「つまり、日常のコミュニケーションを円滑に進めたり文章を読んだりするために、私たち日本人はスペイン人の5倍の語彙を持たなくてはならない、ということです。片仮名を持っているため外国語を取り入れやすく、和語と漢語が入り交じり、「咲き乱れる(咲く+乱れる)」のように動詞を組み合わせて新しい言葉にもできる言語は、世界に目を向けてもなかなかありません。日本語を習得している外国の方には、本当に頭が下がります。
 


さらに著者は、以下のように述べます。
「日本の大学生が持っている平均的な語彙数がおよそ5万語で、『広辞苑』には24万語も掲載されていることを考えると、大学を卒業してからさらに残りの19万語を網羅して、ようやくほぼ100%の日本語が理解できる計算になります。これもまた、気が遠くなりそうな数字です」



著者は、「なぜ、日本人の語彙力は低下しているのか?」では、以下のような「語彙」についての持論を述べます。
「語彙とは『教養』そのものである。しかもその『教養』は、会話の表現力や説明力に直結し、一瞬にして自分の知的レベルを映し出す。また、日本語の語彙は他言語に比べても非常に豊富である。そのため、レベルの差が開きやすく、語彙力にギャップがある者同士だとコミュニケーションが円滑に回らなくなってしまう。だからこそ、語彙が少ない人は軽んじられてしまう可能性があり、結果としてビジネスでもプライベートでも自分の評価を落とすことにつながってしまう」



また、「引用は『教養のアウトプット』である」として、著者は述べます。
「和歌の『本歌取り』(過去に作られた有名な歌を取り入れて作歌する方法)に代表されるように、引用は古くから育まれてきた文化です。それは決して『知識人ぶりを見せつけてやろう』という傲慢な気持ちからではなく、内側から自然とこぼれ出てくる教養の象徴として大切にされてきたのでしょう。ちなみに紫式部は『清少納言は自分の知識をひけらかしてばかりいる』と日記に書いていますが、本人にそのつもりがあったのか、今となってはわかりません」



第2章「語彙力アップには名著が近道」では、著者はまず語彙について以下のように述べています。
「語彙とは、主に活字で鍛えられるものです。大切なのは、活字によるインプットの機会を、どれだけ日常のなかに取り込むか。この『日常の中に』という点が、継続的に語彙を増やすポイントになります。
それから著者は以下のように本を読むことを薦めます。
「相撲の世界には『三年先の稽古』という言葉があります。本を読む習慣が、半年後、1年後、5年後の語彙をつくり、あなたをつくっていくのです。なんとなくSNSを見ようとする手を止め、オフラインの読書に切り替えましょう」



では、どんな本を読めばいいのでしょうか。著者は重厚で難解というハードルを取っ払ってぜひとも読んでほしい作家としてドストエフスキーの名を挙げます。特に、『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』の5大長編はいずれも、人生の課題図書と言ってもいいとさえ評価しています。著者は「ドストエフスキー・ワールドとは何か」と問い、ここでは『語彙」という視点からひとつだけ魅力を挙げたいとして、「それは、登場人物が異常なほどに饒舌なところ」だといいます。著者は述べます。
「ひとつだけ挙げる魅力がそこか、とお思いかもしれませんが、これはドストエフスキー作品を読む醍醐味でもあります。とにかく、出てくる人出てくる人みな発話量が半端なく多い。地の文でさえも、言葉が多い。読みながらつい、『ロシア人はみんなこんなにおしゃべりなんだろうか?』と首をひねってしまうほどです。もはや通常の会話ですら、ディスカッション然とした過剰な言葉の応酬には、ぐいぐい引き込まれてしまいます」



また著者は、シェイクスピアの魅力についても以下のように述べます。
シェイクスピアの代表的な4、5作を読まないで死ぬなんて、富士山を見ずに人生を終える静岡県民のようなもの。こう言うとみなさん笑いますが、本当にそれくらいもったいないことなのです。振り返れば雄大な美しさが鎮座しているのに、ずっと背中を向けている。死ぬ間際になって、『え、そんなにいい山だったの?』と後悔してもあとの祭りです。そんな人がいたら、もったいないを通り越して、もはや愚かとも言えるでしょう。
私がこれだけ強く言うほどに、シェイクスピアの作品は人生を変えてくれます。というのも、16世紀の作家ながら、シェイクスピアの作品は愛や嫉妬、親との関係など、現代人が抱える苦悩や笑いをすべて包含しているのです。どの作品を読んでもはっとするし、『シェイクスピアは人生の師だ』とも感じさせてくれます。そして、なんといってもシェイクスピアの語彙は、どこをとってもきらびやか。日本語に訳してもその輝きは衰えません。しかも、どの翻訳でもシェイクスピアらしさは失われないのです」



ドストエフスキーシェイクスピアに続いて著者が取り上げる作家は、夏目漱石です。どうやら著者は、文豪がお好きなようですね。
第4章「8つの訓練で『使える語彙』にする」では、「日本語は、夏目漱石一人でマスターできる」として、著者は述べます。
「ここだけの話、小学校の国語6年分の教科書よりも、『坊ちゃん』1冊を繰り返し声に出して読んだほうが、よっぽど日本語力はつくのではないかと考えています。漱石の文章は漢字と平仮名のバランスが整っているし、漢熟語の難易度も割合もちょうどいい。これは、大人にとっても同じです」



また、著者は漱石について以下のようにも述べています。
夏目漱石は、日本の語彙を大きく変えた人物です。漱石以前と漱石以後では、日本語の豊かさはまったく違ったものになりました。そのひとつが、言文一致の文章。漱石の書く文章は喋り言葉と非常に近いということで、それまでの文学と一線を画しています。『吾輩は猫である』より少し前に発表された『浮雲』を書いた二葉亭四迷とともに、漱石は『言文一致運動』を推し進めた中心人物だったのです」



第5章「洗練された言葉づかいを身につける」では、「これからの『モテ』の指針を考えよう」として、著者はイケメンよりも読書によって教養豊かな男性がモテることを推奨します。著者は述べます。
「なにより、イケメンは、希少種です。絶対数が少ないため女性からしたら競争率が非常に高いもので、私の周りでも『イケメンにいいようにされた』という被害報告も多数耳にしています。イケメンとは言いがたくとも、語彙が豊かで教養深く、古今東西のあらゆる事象を語ることができる人のほうが絶対数が多い。そして、末永く平和に暮らせるのです。



この教養人がモテる社会の到来というのは大賛成です!
わたしには2人の娘がいますが、その配偶者はイケメンでなくともいいから、教養のある賢い青年がいいなと思います。
そして、著者は教養についての持論を以下のように述べるのでした。
「教養というのは、雑学とは違います。本当に教養がある人は透徹したものの見方を持ち、『生命観』や『人生観』、『絵画観』、『哲学観』といった『○○観』を携えているもの。バラバラとした知識を集め、それをつないで体系立てて考えられる。せめて1本のコラムを書けるくらいの自分なりの考えを持っていなくては、その知識には意味がありません」



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2016年9月21日 一条真也