終戦記念日に思う

一条真也です。
今年も、8月15日の終戦記念日が来ました。
日本人だけで実に310万人もの方々が亡くなられた、あの悪夢のような戦争が終わって68年目を迎えました。


全国戦没者追悼式のようす(NHKより)

戦没者を追悼される天皇・皇后両陛下(NHKより)

「君が世」を歌う閣僚たち(NHKより)

全国から6000人の遺族が参集(NHKより)



今日は、日本武道館で「全国戦没者追悼式」が開催されました。
今年で51回目の追悼式となり、天皇・皇后両陛下も参列されました。
安倍晋三首相をはじめ閣僚の方々、そして6000人もの戦没者の遺族の遺族の方々も全国から式典に参列されました。
正午の黙祷では、わたしも一緒に黙祷させていただきました。


式辞を読む安倍首相(NHKより)



追悼式では、安倍首相が式辞を読み上げました。
安倍首相は、靖国神社公式参拝しませんでした。
代わりに、自民党総裁として玉串料を奉納されました。
英霊に対する想いの強い安部首相も、今のこの時期にあえて混乱を招く行為は控えたわけです。中国や韓国と緊張関係にある中で、正しい判断だったのかもしれません。しかし、日本の首相として先の戦争で亡くなられた戦没者への慰霊と鎮魂の務めもあるはずです。そこで、わたしはぜひ、北九州市門司港にある世界平和パゴダを安倍首相に参拝していただきたいと願っています。
パゴダこそは、靖国神社に代わりうる戦没者の慰霊施設だからです。


世界平和パゴダ



わたしは、安倍首相こそは、本当の意味で先の不幸な戦争を総括できる政治家であると確信し、大いに期待しています。そのためには、靖国公式参拝だけでなく、さまざまな形で戦没者の慰霊や鎮魂の仕事をされるべきでしょう。そのためには、一刻も早く世界平和パゴダを参拝していただくことが望まれます。



今から8年前の終戦60周年に当たる2005年8月、わたしは次の短歌を詠みました。「ひめゆりよ 知覧ヒロシマ長崎よ 手と手あわせて祈る八月」
先の戦争について思うことは、あれは「巨大な物語の集合体」であったということです。真珠湾攻撃戦艦大和、回天、ゼロ戦、神風特別攻撃隊ひめゆり部隊沖縄戦満州硫黄島の戦い、ビルマ戦線、ミッドウェー海戦東京大空襲、広島原爆、長崎原爆、ポツダム宣言受諾、玉音放送・・・挙げていけばキリがないほど濃い物語の集積体でした。それぞれ単独でも大きな物語を形成しているのに、それらが無数に集まった巨大な集合体。それが先の戦争だったと思います。



実際、あの戦争からどれだけ多くの小説、詩歌、演劇、映画、ドラマが派生していったでしょうか・・・・・。「物語」といっても、戦争はフィクションではありません。紛れもない歴史的事実です。わたしの言う「物語」とは、人間の「こころ」に影響を与えうる意味の体系のことです。人間ひとりの人生も「物語」です。
そして、その集まりこそが「歴史」となります。
そう、無数のヒズ・ストーリー(個人の物語)がヒストリー(歴史)を作るのです。



戦争というものは、ひときわ歴史の密度を濃くします。
ただでさえ濃い物語が無数に集まった集積体となるのです。
ブログ「風立ちぬ」ブログ「終戦のエンペラー」で紹介した現在大ヒット公開中の映画にしても、この物語集積体のほんの一部を切り取ったものです。
「巨大な物語の集積体」といえば、神話が思い浮かびます。
そう、『古事記』にしろ『ギリシャ神話』にしろ、さまざまなエピソードが数珠つながりに連続していく物語の集合体でした。
いま、今日が終戦記念日であることも知らない若者が増えているそうです。
そんな若者たちも「風立ちぬ」だけはしっかり観ている現実に複雑な思いを抱いてしまいますが、彼らにとって戦争など遠い過去の出来事なのでしょう。
それこそ、太古の神話の世界の話なのかもしれませんね。


ブログ『最後の授業』で、きたやまおさむ氏を紹介しました。
きたやま氏の代表作の1つに「戦争を知らない子供たち」があります。この歌は単純な反戦ソングなどでなく,もっと深い意味があるように思えます。「神話からの解放」そして「新たな神話の創造」を宣言する歌のように思えるのです。
戦争という愚行を忘れるのはいい。でも、先人の死を忘れてはなりません。
死者を忘れて生者の幸福など絶対にありえないからです。
そんなことを考えながら「戦争を知らない子供たち」を聴くと、また違ったメッセージを感じることができます。これから、わたしは平和の歌を口ずさみながら、門司港にある世界平和パゴダを参拝する予定です。そこで、わたしなりに戦没者の方々に心からの祈りを捧げたいと思います。



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2013年8月15日 一条真也

原爆ドーム

一条真也です。
ブログ「広島原爆平和記念館」で紹介した施設をを訪れた後、同じ平和公園内にある原爆ドームへ・・・。蜃気楼が出現してもおかしくないような炎天下の中、理由あってピンクのジャケット姿で徒歩で向かいました。クラクラしました。


原爆ドームを訪れました



原爆ドームは、第2次世界大戦末期に人類史上初めて使用された核兵器により、被爆した建物です。ほぼ被爆した当時の姿のまま立ち続ける原爆ドームは、核兵器の惨禍を伝えるものであり、時代を超えて核兵器の廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑となっています。


平和公園内にあります

遠く、慰霊碑と原爆ドームを背にして



観光サイト「ひろしまナビゲーター」には、以下のように説明されています。
「平成8年(1996年)12月、ユネスコ第20回世界遺産委員会メリダ会議で、核兵器の惨禍を伝える建築物として世界文化遺産に登録されました。
指定範囲:原爆ドームの所在する地域/約0.39ヘクタール
原爆ドームは、大正4年(1915年)に広島県内の物産品の展示・販売をする施設として建てられ、広島県美術展覧会や博覧会も催されていました。設立当初は 『広島県物産陳列館』という名称でしたが、その後「広島県立商品陳列所」、昭和8年(1933年)には『広島県産業奨励館』に改称されています。設計者はチェコの建築家ヤン・レツル氏で、構造は一部鉄骨を使用した煉瓦造、石材とモルタルで外装が施されていました。全体は3階建で、正面中央部分に5 階建の階段室、その上に銅板の楕円形ドーム(長軸約11メートル、短軸約8メートル、高さ4メートル)が載せられていました。その頃の広島は、都心部のほとんどは木造2階建ての建築であり、、こうした大胆なヨーロッパ風の建物は非常に珍しく、川面に映えるモダンな美しさ とあいまって広島名所の一つに数えられていました」



そして、原爆投下後の原爆ドームについて、次のように書かれています。
「昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。人類史上最初の原子爆弾が炸裂したのは、広島県産業奨励館から南東約160メートル、高度約600メートルのところです。爆風の圧力は1平方メートルあたり35トン、風速は440メートルという凄まじいもので、建物は爆風と熱線を浴びて大破し、 天井から火を吹いて全焼。爆風がほとんど垂直に働いたため、本館の中心部は奇跡的に倒壊を免れたものの、館内にいた人はすべて即死しています。戦後、旧産業奨励館の残骸は、頂上の円蓋、鉄骨の形から、いつしか市民から原爆ドームと呼ばれるようになりました」



さらに、戦後の原爆ドームについても次のように説明されています。
「昭和28年(1953年9に広島県から広島市に譲渡され、昭和41年(1966年)7月には広島市議会が原爆ドームの保存を決議を行い、その後、風化が進み、国内外での善意の募金により3回の大規模な保存工事が行われました。また、世界遺産リストへの登録を求めて、市や市議会、広範な市民運動の結果、平成7年(1995年)6月に国の史跡に指定され、文化庁からユネスコに登録申請。平成8年(1996年)12月、世界文化遺産へ登録されました。現在では、被爆当時の惨状を残す姿がノーモア・ヒロシマの象徴として、時代を越えて核兵器の廃絶と恒久平和の大切さを世界へ訴えるシンボルになっています」


原爆の子の像」を見上げました


熱中症寸前のわたしは、近くにある「原爆の子の像」を見上げました。
ブログ「INORI〜祈り〜」にも書いたように、「原爆の子の像」のモデルは、故・佐々木禎子さんです。彼女は2歳のときに被爆し、12歳で亡くなりました。彼女に捧げられた歌が、シャンソン歌手のクミコさんが歌う「INORI〜祈り〜」です。
USENチャートで1位にもなりましたが、まさに魂を揺さぶられるような歌だと思います。語りかけるようなクミコさんの歌声からは、「こわい!」「死にたくない!」「生きたい!」という禎子さんの心の叫びが聞えてくるような気がします。


猛暑で放心状態になりながらも、わたしは原爆ドームをじっと眺めました。
もちろん人類史を代表する愚行の象徴なのですが、このような建物が当時の状態のままで保存されていることは、本当に凄いと思います。なんだか神々しく思えてきました。もはや神殿の雰囲気さえ醸し出しています。
そう、ブログ「伊勢神宮」に書いた日本最高権威の神社にも似て、人間の愚かさとサムシング・グレートの実在を感じさせてくれるのです。
戦後、どれほど多くの人々が原爆ドームを訪れ、写真を撮影し、スケッチをし、眺め、何かを考えたことでしょう。その想念の巨大さを思うだけで、眩暈してしまいます。世界最高の平和のシンボルである原爆ドームよ、永遠なれ!



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2013年8月15日 一条真也

広島平和記念資料館

一条真也です。
8月15日になりました。終戦記念日です。
日本において、終戦記念日は「お盆」と重なっています。
ブログ「義父の初盆」に書いたように広島県にある妻の実家を訪れました。
その後、平和記念公園の中にある広島平和記念資料館に行ってみました。


広島平和記念資料館の前で

広島平和記念資料館の入口


平和記念公園広島市の中心部にある広大な公園です。
世界の恒久平和を願って爆心地に近いこの場所に建設されたそうです。
園内には、原爆投下当時の広島の様子を展示した広島平和記念資料館世界遺産に登録されている原爆ドーム原爆死没者慰霊碑、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館、広島国際会議場などがあります。
平和への願いを込めて鳴らされる平和の鐘の音もなり響きます。
この音は、環境省が選んだ「残したい日本の音風景100選」にも選ばれました。


館内のようす

原爆投下の時

原爆投下直後の広島市



広島平和記念資料館ですが、観光サイト「ひろしまナビゲイター」によれば、以下のように説明されています。
広島平和記念資料館は、原子爆弾による被害の実相を世界中の人々に伝え、ヒロシマの心である核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に寄与することを目的に、1955年(昭和30年)に開館しました。1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島は世界で初めて原子爆弾による被害を受けました。まちはほとんどが破壊され、多くの人々の生命が奪われました。かろうじて生き残った人も、心と体に大きな痛手を受け、多くの被爆者が今なお苦しんでいます。
広島平和記念資料館は、被爆者の遺品や被爆の惨状を示す写真や資料を収集・展示するとともに、広島の被爆前後の歩みや核時代の状況などについて紹介しています。また、被爆者による被爆体験講話会などを実施するほか、平和学習のための資料の貸出しも行っています」


来場者の数の多さに驚きました

核兵器について

核兵器の恐怖

核の地球儀



わたしも久々に訪れましたが、とにかく来場者の数の多さに驚きました。
また、外国人の多さにも驚きました。その多くは、アメリカ人のようです。
なんでも、今年の旅行情報サイト『トリップアドバイザー』の調査「外国人に人気の日本の観光スポット」の第1位に広島平和記念資料館が選ばれたとか。
これまでアメリカでは原爆を「第二次世界大戦終結させるための不可抗力」として正当化する論調が強くありましたが、ここ最近では流れが変わっているような気がします。ブログ「終戦のエンペラー」にも書いたように、映画「終戦のエンペラー」の冒頭では、テニアン島から出撃したエノラ・ゲイに搭載された原子爆弾が広島に投下されるシーンが登場します。ハリウッド映画でこのシーンが登場するのを、わたしは初めて観ました。そして、胸が熱くなりました。
タイタニック」や「アバター」のジェームズ・キャメロン監督が原爆をテーマにした3D映画を製作する予定だそうです。わたしは、広島と長崎の悲劇そのものを描いた映画がハリウッドから生まれる日を心から待っています。


本館のようす

リアルな被爆者の蝋人形

広島に投下された原子爆弾

被爆の状況がよくわかります

ショッキングな写真も多いです

ふれてください

原爆の悲惨さを教えてくれます



広島平和記念資料館の入場料は、なんと大人50円でした。
また、フラッシュさえ焚かなければ撮影もOKでした。さすがです。
平和の必要性を発信するためには、来場者の写真撮影が欠かせません。
わたしは東館から入って、本館に向かいました。館内の展示物ですが、非常にショッキングな写真などもありますが、昔はもっとショッキングだったそうです。多くの子どもたちも泣きもせず、怖がりもせず、じっと被爆者の写真を見ていました。彼らは、何を考えていたのでしょうか。


水をください



館内に、「水をください」という文字が刻まれた柱がありました。
ブログ「水と人類」に書いたように、わたしは「火と水」に人類の謎があるような気がします。人類がどこから来て、どこへ行こうとしているかの謎を解く鍵があるように思います。もともと、各地の神話において世界は水から生まれたとされていますが、人類は火の使用によって文明を生みました。
ギリシャ神話のプロメテウスは大神ゼウスから火を盗んだがゆえに責め苦を受けますが、火を得ることによって人間は神に近づき、文明を発展させてきたのです。そして、文明のシンボルとしての火の行き着いた果てが核兵器でした。


ヒロシマ ナガサキ」という原爆のドキュメンタリー映画がありますが、広島で被爆した男性が「原爆が落ちた直後、きのこ雲が上がったというが、あれはウソだ。雲などではなく、火の柱だった」と語った場面が印象的でした。その火の柱によって焼かれた多くの人々は焼けただれた皮膚を垂らしたまま逃げまどい、さながら地獄そのものの光景の中で、最後に「水を・・・・・」と言って死んでいったといいます。 命を奪う火、命を救う水という構造が神話のようなシンボルの世界ではなく、被爆地という現実の世界で起こったことに、わたしは大きな衝撃を受けました。考えてみれば、鉄砲にせよ、大砲にせよ、ミサイルにせよ、そして核にせよ、戦争のテクノロジーとは常に「火」のテクノロジーでした。火焔放射器という、そのずばりの兵器など象徴的です。


はだしのゲン原画展」が開かれていました


また、館内で「はだしのゲン原画展」が開かれていました。「はだしのゲン」といえば、わたしが小学生時代に「週刊 少年ジャンプ」で連載され、愛読した作品です。非常にグロテスクな描写などもあり、怖かったのですが、毎週貪り読んでいました。この作品から、わたしは原爆の怖ろしさを骨の髄まで知ったように思います。わたしと同世代の方々も同じでは?
しかし今では、その内容があまりにも反日に偏っており、実際に原爆を投下したアメリカよりも日本を糾弾する点に違和感を覚えてしまいます。



大勢の来場者の間を縫い、わたしは館内をくまなく見学しました。
見学しながら、わたしは人類の「業」について考えました。
人類はどこから来たのか。人類とは何なのか。人類はどこに行くのか。
そんなことを考えました。アメリカが原爆を日本に投下した時点で、人類は一回終わったのではないのか。そんなことも考えました。
館内には英語で話している白人もたくさんいました。彼らは、ここで何を感じたのでしょうか。出来るものなら、彼らの本音を聞いてみたいです。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2013年8月15日 一条真也