「長崎の郵便配達」 

一条真也です。東京に来ています。
5日は夕方から埼玉県大宮市にお通夜に行きましたが、朝一番で編集者と打ち合わせ。その後、シネスイッチ銀座に向かい、この日から公開のドキュメンタリー映画「長崎の郵便配達」の初回上映を観ました。「広島原爆の日」の前日に公開されたわけですが、タイトルからもわかるように、これは長崎原爆についての映画です。ブログ「長崎原爆の日」に書いたように、長崎に落とされた原爆は、もともと小倉に落ちるはずでした。小倉生まれで小倉育ちのわたしは、祈るような気持ちでこの映画を観ました。


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「ピーター・タウンゼントさんのノンフィクション『ナガサキの郵便配達』を基に、娘のイザベル・タウンゼントさんが長崎で父親の足跡をたどるドキュメンタリー。2018年に来日したイザベルさんが、父親のボイスメモに耳を傾けながら長崎を訪ね歩く。『あめつちの日々』などの川瀬美香が監督などを手掛け、『親密な他人』などに携わってきた大重裕二が構成などを担当する。ピーターさんや核廃絶活動家の谷口稜曄さんらが出演している」

 

ヤフー映画の「あらすじ」は、「元イギリス空軍所属のピーター・タウンゼントさんは、後にジャーナリストとなり長崎を訪れる。彼はそこで、16歳のときに郵便配達中に被爆核廃絶のための運動に生涯をささげてきた谷口稜曄さんと出会い、1984年に谷口さんへの取材をまとめたノンフィクションを出版する。2018年8月、ピーターさんの娘である女優のイザベル・タウンゼントさんが長崎を訪問し、父親の本に登場する場所をめぐる」です。


わたしは、ピーター・タウンゼントという人を知りませんでした。英王室の元侍従武官で、マーガレット王女との世紀の恋で有名だそうです。映画「ローマの休日」でオードリー・ヘプバーン演じるアン王女が恋をした新聞記者のモデルだとか。新聞記者を演じたグレゴリー・ペックは知的な風貌をしていますが、モデルとなったタウンゼントもなかなかの知的なハンサムです。王女が恋に落ちたのも納得できます。そのタウンゼントの娘であるイザベル・タウンゼントさん、さらにそのお嬢さんたちも気品のある容貌をしていました。やはり、知性や人間性は顔に表れますね。映画「長崎の郵便配達」は、イザベルさんが亡き父親の面影を求めて、長崎の街を巡るドキュメンタリーです。父であるピーター・タウンゼントが来日してインタビューを重ねた相手が、谷口稜曄(スミテル)でした。

Wikipedia「谷口稜曄」の「概要」には、「1929年(昭和4年)1月26日、福岡県糟屋郡志賀島村で谷口家の三人目の子供として生まれる。『光が届かない場所を隅々まで照らす』という意味を込めて、稜曄と名付けられた。翌年母が亡くなり、父は一人満州に渡り南満州鉄道(満鉄)に就職。稜曄を含む三人の子供は長崎市の母方の実家に預けられる。1943年(昭和18年)、淵国民学校(高等科)を卒業し、本博多郵便局で働き始める。1945年(昭和20年)8月9日、16歳のとき自転車に乗って郵便物を配達中、爆心地から1.8km地点の長崎市北郷(現:長崎市住吉町)で被爆。原爆の爆風で自転車は大破し、激しい熱線により背中と左腕に大火傷を負う」と書かれています。彼の被爆直後の写真は有名ですが、あまりに無残で正視に堪えません。この写真が、核廃絶運動に与えた影響は計り知れないと思います。


谷口稜曄は、戦後、原爆によって被害を受けた自らの体験をもとに、核兵器廃絶のための活動を続けました。2012年8月8日、ハリー・S・トルーマンの孫のクリフトン・トルーマン・ダニエルと面会した際に、谷口は服を脱ぎ、被爆で背中などに負ったやけどの痕を見せました。 ダニエルは「この星に住む全ての人が見るべきだ」と述べ、核兵器廃絶の決意をあらためて示しました。谷口は「原爆を投下したのは戦争を早く終わらせるためだったと聞いている。広島の後、なぜ長崎にも落としたのかが疑問」と話し、「被爆の事実を知ってほしい」との思いから服を脱ぎました。面会後、ダニエルは「心が破れるような思いをした」と述べています。2017年8月30日、谷口稜曄は十二指腸乳頭部がんにより長崎市で死去。享年88歳。


ピーター・タウンゼントは、「自分は戦争で人を殺した。物書きとして、その責任を取りたい」と語っています。彼にとっての責任の取り方が、長崎を訪れて谷口稜曄を取材し、『ナガサキの郵便配達』を書くことでした。そして、彼の娘がその映画化を実現します。郵便配達とは、誰かの想いを誰かに届ける職業のことですが、その意味で作家も映画監督も女優も、その本質はみんな郵便配達なのかもしれません。長崎の高校生(長崎県立東高等学校生徒)が制作した「長崎の郵便配達」上映会の予告映像があります。2021年8月9日に、彼らが企画に参加した「中高生上映会」が開催予定でしたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響により直前に中止になってしまっていました。そこで、映画の全国公開決定を受けて、2022年6月29日に【ジャパンプレミア高校生試写会】としてリベンジ開催されたのです。ここで、平和への想いを胸に刻んだ多くの新しい郵便配達が誕生したことだと思います。


挨拶する川瀬美香監督


挨拶するイザベル・タウンゼントさん

 

この日、シネスイッチ銀座に入場しようとしたら、入口で行列ができていました。公開初日の初回上映につき、「長崎の郵便配達」の舞台挨拶があるということでした。上映が終了した後に、川瀬美香監督とイザベル・タウンゼントさんが登壇して、舞台挨拶が行われました。複数のマスコミも取材に来ていました。わたしは最後列の中央通路側のO-11(シネスイッチ銀座でのわが指定席)から舞台挨拶を眺めましたが、川瀬監督もイザベルさんもマスク姿のままで淡々と映画への想い、そして平和への想いを語りました。この映画は、谷口稜曄とピーター・タウンゼント両氏の鎮魂の作品であることはもちろん、長崎原爆の犠牲者への供養にもなったように思います。前日は、同じシネスイッチ銀座ブログ「島守の塔」で紹介した日本映画を観ました。長崎原爆も、沖縄戦も、後世に必ず語り継いでいかなければならない出来事ですが、それらの映画を同時に上映しているのは素晴らしいことだと思いました。


舞台挨拶のようす


頑張れ、シネスイッチ銀座

 

わたしは、正直言って、シネスイッチ銀座という映画館が苦手です。施設は老朽化しているし、トイレも和式だし、何よりもスタッフが愛想も糞もないからです。また、この映画館の代名詞ともなったブログ「ニューシネマ・パラダイス」で紹介したイタリア映画も、世間では過剰なまでの高評価を受けているようですが、わたしはまったく評価していません。観たい映画の上映館がシネスイッチ銀座だと知ったとき、ちょっと憂鬱な気分にもなります。それでも、ウクライナで戦争が行われているこの時期に、沖縄戦と長崎原爆の映画を上映するというのはやはり素晴らしい。日本で公開される映画の70%は全映画館のスクリーンのわずか6%を占めるだけのミニシアターでしか公開されません。もし、ミニシアターがなくなったら、シネコンで上映される大作映画しか観れなくなってしまいます。その意味で、日本におけるミニシアターの先駆的存在であるシネスイッチ銀座には、いつまでも頑張ってほしい! 

2022年8月6日 一条真也

「島守の塔」

一条真也です。
石川県が記録的大雨とのことで、大変心配しています。
北陸と沖縄は、わが社にとって大切な大切な土地です。
東京に来ています。4日、ヒューマントラストシネマ有楽町でブログ「アプローズ、アプローズ! 囚人たちの大舞台」で紹介したフランスを映画を観た後、シネスイッチ銀座に移動して日本映画「島守の塔」を観ました。沖縄の人々の深いグリーフに接し、魂を揺さぶられました。


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「第2次世界大戦末期、住民を巻き込む壮絶な地上戦が行われた『沖縄戦』を描くドラマ。戦況が悪化する中、沖縄県民の命を守ろうと奔走する知事と警察部長、そして沖縄戦に翻弄された人々の葛藤を映し出す。『地雷を踏んだらサヨウナラ』などの五十嵐匠がメガホンを取り、同監督作『二宮金次郎』などの柏田道夫が共同で脚本を担当。知事を『BOX 袴田事件 命とは』などの萩原聖人、警察部長を『夕方のおともだち』などの村上淳が演じるほか、吉岡里帆、池間夏海、香川京子らが共演する」

 

ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「第2次世界大戦末期の1945年。沖縄が戦場となる危機が迫る中、知事として本土から赴任した島田叡(萩原聖人)は、自分が来る以前から県民の疎開に尽力していた沖縄県警察部長の荒井退造(村上淳)と共に県民の安全確保を目指す。4月、アメリカ軍が沖縄本島に上陸し日本軍との間で激しい戦闘が行われ、住民を巻き込む凄惨な地上戦へと突入。島田は住民を追い詰める軍の指令に苦悩しながらも、荒井と共に県民の命を守るために奔走する」


ブログ「沖縄『慰霊の日』」にも書いたように、今から77年前の1945年4月1日、アメリカ軍は、ついに沖縄本島への上陸作戦を開始。日本で唯一、住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられ、住民の死者は9万4000人に上りました。沖縄県民の4人に1人の命が失われたのです。けっして忘れてはならない悲劇です。その沖縄戦の悲劇を描いた「島守の塔」を観て、わたしは涙が止まりませんでした。また、無残に命を落としていく非戦闘民、すなわち沖縄県民の姿が目に焼き付きました。ブログ「セルビアン・フィルム」で紹介したホラー映画は「史上最悪のトラウマ映画」と呼ばれているようですが、わたしの場合は、フィクションならば、いくら描写が残酷でも絶対にトラウマにはなりません。しかし、実話を基にしたノンフィクションの残酷描写はトラウマになります。


「島守の塔」の主人公である島田叡は、1901年兵庫県神戸市生まれ。1922年に東京帝国大学法学部へ入学。東大卒業後、1925年に内務省に入省。主に警察畑を歩み、1945年1月、沖縄への米軍上陸が必至とみられている状況の中、辞令を受け、県知事として着任しました。沖縄戦の混乱により県庁が解散するまでの約5ヶ月間、疎開の促進と食糧確保等、沖縄県民の生命保護に尽力。戦争が激化し、摩文仁の丘に追い詰められた際、県庁組織の解散を命じ、ともに死ぬという部下に「命どぅ宝、生きぬけ」と伝え、逃しました。最期は荒井警察部長とともに壕に留まり、後に摩文仁の森にて消息を断ちました。今日まで、その遺体は発見されていません。享年43歳。


島田叡と運命を共にした荒井退造は、1900年栃木県宇都宮市生まれ。明治大学夜間部を卒業、同年内務省に入省。1943年、沖縄県警察部長に就任。沖縄が戦場となる危機が迫る中、戦況を楽観視していたため疎開政策に消極的だった当時の知事に代わり、県民の疎開・保護に尽力。島田叡が沖縄県知事着任後は二人三脚で奔走し、1945年3月までに県民7万3000人の県外疎開に成功。米軍上陸により県外疎開が不可能となった状況でも島田知事と共に延べ20万人の命を救いました。最期は島田知事と摩文仁の森へ向かった後、消息を断ちました。今日まで、その遺体は発見されていません。享年44歳。


映画「島守の塔」は、荒井退造の故郷である栃木県で撮影されました。映画は新型コロナの影響で撮影が1年8カ月延期されるなど苦難を経て制作されましたが、奇しくも沖縄の本土復帰50年の年に公開となりました。東京で開催された映画の特別試写会で、五十嵐監督は「内務官僚の2人が苦悩をしながら沖縄の人たちを助けたことを知るにつれ、今だから、ウクライナの戦争もあるが撮影する意義があると考えた。(荒井退造は)地味ではあるが魅力的な方」と語っています。また、荒井退造役の村上淳は、「映画界や世界に一石を投じる作品になった。先人たちが平和というタスキを渡し続けている。見ていただく観客の方々にタスキを渡せたら」と語り、島田叡役の萩原聖人は「(島田叡知事は)発する言葉に二言がない。とにかく『人間』を見てほしい。昔の話ではなくこれからを考える人たちに見てほしい」と語りました。


この映画の俳優陣の中では、沖縄県出身で軍国主義に染まった県職員の比嘉凛役を演じた吉岡里帆の演技が素晴らしかったです。鬼気迫る表情で「生きて虜囚の辱めを受けず!」と叫び、「神国日本は必ず勝つ!」「最後は神風が吹く!」と絶叫する姿には圧倒的な迫力がありました。正直、吉岡里帆というグラドル出身の女優を見直しました。特別試写会で、彼女は「心が押しつぶされるような思いに何度も何度もなった。伝えようとエネルギーを放出しないと伝わらない。想像以上にエネルギーを込めないとと思った」と語っています。しかし、彼女の熱演を心から称賛した上で、比嘉凛役を吉岡里帆にしたのはミスキャストだと思います。京都出身の「京女」である彼女に、沖縄の女性は似合わないからです。それは比嘉凛の妹をはじめ、沖縄の女学生を演じた女優たちにも言えます。どうして、戦時中の沖縄の女学生たちが色白の八頭身の美女ばかりなのか? こういうリアリティを無視したキャスティングには大きな違和感をおぼえます。


女学生たちはガマ(洞窟)の中で従軍看護婦を務め、多くの兵士の最期を看取りました。その姿は、ひめゆり部隊を彷彿とさせます。女学生の1人が、亡くなった兵士たちの亡骸の上に、ひめゆりの花を1輪捧げるシーンがあります。それは7万年前のネアンデルタール人が死者に花を捧げたという姿を連想させました。それを見た別の女学生が、「この人たちは花を供えてもらえて幸せだ。わたしらが死んだら、誰も花を供えてくれない」と言います。また、ガマの中に投げ入れられた手榴弾で絶命するとき、「こんな所で死んだら、わたしがここで死んだことがわからなくなる。わたしのお墓参りもできなくなってしまう」と言い放った女学生の言葉が心に刺さりました。何よりも死者への想い、先祖の供養を大切にする沖縄の「唯葬論」的世界観や死生観を垣間見ることができ、感動しました。


沖縄は今、新型コロナウイルス感染拡大の第7波により、医療崩壊の危機が叫ばれています。わたしは、医療逼迫により沖縄の病床数が足りなければ、観光客やゴルフ客などの県外からの感染者は入院させるべきではないと思います。そもそも、こういう非常事態の中で、行動制限がないのをいいことに沖縄を訪れる来訪者には怒りさえ感じます。かりゆしを着たぐらいで沖縄を愛しているフリをしても無駄で、そんなパフォーマンスだけでは沖縄県民の目を誤魔化せません。沖縄を本気で愛しているのなら、服装だけでなく行動で示す必要があります。


現在、新型コロナ対策で苦境にある玉城デニー知事は、命がけで沖縄県民の命を守ろうとした島田叡知事を見習っていただきたいです。先の戦争で米軍が真っ先に沖縄に上陸してきたように、台湾有事の際には中国軍が沖縄に上陸する可能性も大です。デニー知事は、中国軍の前に、まずはコロナから沖縄県民を守らなければなりません。そのためにも、観光やゴルフを目的とした県外からのレジャー客の来訪禁止を掲げてもいいぐらいです。逆に沖縄に遊びに来る連中には、「もしコロナ感染で重症化しても、入院できないという覚悟で来い!」と言いたいです。映画「島守の塔」には、エイサーやカチャーシーの場面もありましたが、豊かな精神文化が根付く守礼之島をこれ以上「悲しみの島」にしてはなりません。映画のラストで沖縄の海上に浮かんだ太陽の光(SUNRAY)が胸に染みました。

 

2022年8月5日 一条真也

「アプローズ、アプローズ! 囚人たちの大舞台」

一条真也です。東京に来ています。
4日、打合せの後にヒューマントラストシネマ有楽町でフランス映画「アプローズ、アプローズ! 囚人たちの大舞台」を観ました。ラストに予想を超えるどんでん返しが待っていて、感動しました。これが実話とは驚きです。連日のゲリラ豪雨に銀座で遭遇しましたが、天気よりもずっと人生の方が不条理ですね! まさに、「人生は不条理」ということを見事に描いたヒューマンドラマでした。


ヤフー映画の「解説」には、「スウェーデンの俳優ヤン・ジョンソンの実体験を基に描くヒューマンドラマ。刑務所で演技指導をする役者と囚人たちによる芝居が評判になり、やがてパリのオデオン座からのオファーが届く。監督と脚本を手掛けるのは『アルゴンヌ戦の落としもの』などのエマニュエル・クールコル。『クイーンズ・オブ・フィールド』などのカド・メラッド、『レディ・チャタレー』などのマリナ・ハンズをはじめ、ピエール・ロタン、ソフィアン・カメスらが出演する」と書かれています。

 

ヤフー映画の「あらすじ」は、「役者のエチエンヌ(カド・メラッド)は、囚人たちの演技のワークショップの講師として招かれる。彼は演目をサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』に決め、さまざまな背景を持つ囚人たちと向き合いながら芝居に打ち込んでいく。やがてエチエンヌの芝居への情熱は囚人たちをはじめ、刑務官らの心も動かし、塀の外での公演が実現する」です。


鑑賞前は、刑務所で演技指導をする俳優が囚人たちを信じた結果、舞台は大成功して感動のフィナーレを迎える・・・・・・そんな展開を予想していましたが、ところがどっこい。現実は、そんなに甘くありませんでした。甘くないがゆえに、役者として崖っぷちに立っていたエチエンヌが一世一代の晴れ舞台に立ち、予想外の拍手と歓声を受けるというサプライズが待っています。「事実は 小説よりも奇なり」と言いますが、この演劇界の奇跡ともいえる事実に目をつけて映画化したエマニュエル・クールコル監督はさすがですね。クールコル監督は、「単純にいい物語だったから、映画化したかった」と語っています。


この映画は日本の演劇人たちにも強いインパクトを与えたようで、串田和美(俳優・演出家・舞台美術家)氏は「この映画の題材は、かつて世界中の演劇界で話題になった実際の事件だ。僕もそのことに刺激を受け、かつて緒形拳さんらと全国ツアーをした『ゴドーを待ちながら』は網走の刑務所でも上演した。この映画はさらに刺激的だ!」と述べ、鴻上尚史(作家・演出家)氏は「『ゴドーを待ちながら』という戯曲は、本当にやっかいで、それを六カ月で服役囚が劇場で上演するというだけで大冒険なのに、次々とすさまじいことが起こり、これが実話だって言うんですから、まったくもう、言葉を失います。ガツーンとやられました」と述べます。


串田氏が実際に演出し、鴻上氏が「本当にやっかい」と表現した「ゴドーを待ちながら」は、アイルランドの劇作家サミュエル・ベケットによる戯曲です。1940年代の終わりにベケットの第2言語であるフランス語で書かれました。初出版は1952年で、その翌年パリで初演。不条理演劇の代表作として演劇史にその名を残し、多くの劇作家たちに強い影響を与えています。Wikipedia「ゴドーを待ちながら」の「評価」には、「ストーリーは特に展開せず、自己の存在意義を失いつつある現代人の姿とその孤独感を斬新なスタイルで描いている。当初は悪評によって迎え入れられたが、少しずつ話題を呼び人気を集めるようになった。同作品は不条理劇の傑作と目されるようになり、初演の約5年後には、20言語以上に翻訳され、現在も世界各地で公演され続けている」と書かれています。

 

ゴドーを待ちながら」は2幕劇で、木が1本立つ田舎の一本道が舞台です。Wikipedia「ゴドーを待ちながら」の「あらすじ」には、「第1幕ではウラディミールとエストラゴンという2人の浮浪者が、ゴドーという人物を待ち続けている。2人はゴドーに会ったことはなく、たわいもないゲームをしたり、滑稽で実りのない会話を交わし続ける。そこにポッツォと従者・ラッキーがやってくる。ラッキーは首にロープを付けられており、市場に売りに行く途中だとポッツォは言う。ラッキーはポッツォの命ずるまま踊ったりするが、『考えろ!』と命令されて突然、哲学的な演説を始める。ポッツォとラッキーが去った後、使者の少年がやってきて、今日は来ないが明日は来る、というゴドーの伝言を告げる。第2幕においてもウラディミールとエストラゴンがゴドーを待っている。1幕と同様に、ポッツォとラッキーが来るが、ポッツォは盲目になっており、ラッキーは何もしゃべらない。2人が去った後に使者の少年がやってくる。ウラディミールとエストラゴンは自殺を試みるが失敗し、幕になる」とあります。



ゴドーを待ちながら」の舞台では、木一本だけの背景は空虚感を表現しているとされます。似たような展開が2度繰り返されることで、永遠の繰り返しが暗示されます。ウラディミールとエストラゴンが待ち続けるゴドー(Godot)の名は英語の神(God)を意味するという説もありますが、ゴドーが実際に何者であるかは劇中で明言されません。解釈はそれぞれの観客に委ねられています。しかし、その「ゴドーを待ちながら」の見事な解釈がパリのオデオン座で実現されました。その映画化がまさに「アプローズ、アプローズ! 囚人たちの大舞台」なのです。


原作者のベケット自身が述べたように、演劇史に残る不条理劇は現実の世界に再現されたのです。わたしは、「人生は不条理であるがゆえに、面白い!」と思いました。また、最後まで過酷な状況から逃げずに運命に立ち向かったエチエンヌの雄姿を見て、泣けて仕方がありませんでした。多くの観客と同じく、エチエンヌが演出した「ゴドーを待ちながら」に出演した囚人たちの“その後”が気になります。彼らは、果たして自由になれたのでしょうか?

 

2022年8月5日 一条真也

「セルビアン・フィルム」

一条真也です。
3日、静岡から東京へ入りました。
もう、身体から湯気が立つほど暑かった!
日比谷のホテルで出版関係や映画関係の打ち合わせをした後、新宿へ。夜はシネマート新宿で映画「セルビアン・フィルム」を観ました。これまでの人生で観た映画の中で、最も不愉快で胸糞の悪い最低の映画でした!

 

ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「生活のために高額ギャラの仕事を引き受けた元ポルノ男優が、悪夢のような出来事を体験する戦慄のハードコア・スリラー。そのあまりにも過激でグロテスクな内容から、世界各国のホラー・ファンタジー系映画祭を騒然とさせた。そんな問題作のメガホンを取ったのは、セルビアの新鋭、スルディアン・スパソイェヴィッチ。主演は、『アンダーグラウンド』『黒猫・白猫』のスルジャン・トドロヴィッチ。容赦のないバイオレンスにポルノ・シーン、さらには常軌を逸したストーリーにぼう然となる」

 

ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「元ポルノスターのミロシュ(スルジャン・トドロヴィッチ)は、高額ギャラをもらえる映画への出演を持ちかけられる。妻子との平凡な日々を送っていたものの、生活に困っていたこともあり、ミロシュは怪しみながらも迎えの高級車で依頼人の元へ。そこでミロシュは、富豪のクライアントの要求に応える芸術的なポルノ映画に出演してほしいと頼まれ・・・・・・」


この映画のポスターには、「人でなしの映画。」というキャッチコピーとともに「これが噂の鬼畜残酷ホラー史上、一番ヤバいやつ。一生分のトラウマがここにある」と書かれています。一応、「ホラー」とあるので、ちょっと苦手な新宿まで嬉々として観に行きました。じつは、この夏はブログ「ブラック・フォン」ブログ「Xエックス」ブログ「哭悲/THE  SADNESS」ブログ「女神の継承」などなど、ホラー映画が豊作なのですが、わたしはすべてを観ています。「最後に『セルビアン・フィルム』も押さえて、パーフェクト!」と意気込みましたが、上映開始後すぐに違和感を覚えました。すなわち、「これって、ポルノ?」と思ったのです。ただのポルノは次第にハードコア・ポルノになっていきましたが、ある地点から一気に狂気の鬼畜映画に! なんと言いますか、ポルノ映画が1周回ってホラー映画になった感じですね。はい。


その中でも、「Xエックス」がちょっと「セルビアン・フィルム」に近い印象があります。というのも、ポルノ×映画撮影×ホラーという三重構造が同じだからです。もっとも、「セルビアン・フィルム」の方が圧倒的に下劣ですが。「Xエックス」は、ある老夫婦が暮らす家に足を踏み入れた若者たちの運命を描いています。1979年のアメリカ・テキサス州を舞台に、3組のカップルが映画撮影のために訪れた農場で悪夢のような出来事に遭遇します。女優のマキシーン(ミア・ゴス)、マネージャーのウェインをはじめ6人の男女は、映画「農場の娘たち」を撮影するために借りた農場を訪れます。そこで彼らを迎え入れた老人ハワードは、宿泊場所となる納屋へ一同を案内します。一方マキシーンは、母屋の窓から自分たちを凝視する女性に気付くのでした。



映像のグロさ、衝撃度から言えば、「哭悲/THE  SADNESS」で紹介した台湾ホラーも「セルビアン・フィルム」に通じるところがあります。というか、負傷して眼球が取れた人物の眼窩にイカれた野郎がペニスを突っ込むショッキング・シーンは両作品に共通しています。「セルビアン・フィルム」は2012年公開で、「哭悲/THE SADNESS」は10年後の2022年公開なので、おそらく後者が前者の影響を受けたのでしょう。「哭悲/THE  SADNESS」は、人が感染すると凶暴化する未知のウイルス「アルヴィン」がまん延した台湾で、決死のサバイバルに挑む人々の姿を描いています。感染しても風邪に似た軽い症状しか現れないことからアルヴィンに対する警戒心が緩んでいましたが、突如ウイルスが変異します。感染者たちは凶暴性を増大させ、罪悪感を抱きながらも殺人や拷問といった残虐な行為を始めるのでした。


「Xエックス」も、「哭悲/THE  SADNESS」も、ホラー映画というよりは鬼畜映画と呼んだ方がいい内容です。しかし、そんな両作品も「セルビアン・フィルム」の鬼畜度には到底かないません。とにかく、「セルビアン・フィルム」は度外れてヤバい映画なのです。ネタバレになるのであまり書きたくはありませんが、レイプや拷問や同性姦などは当然のこと、一般にはタブーとされる獣姦や屍姦や近親相姦も当然で、なんと新生児姦などという神をも恐れぬトンデモFUCKの数々が登場するのです。もう、この映画そのものがFUCKINな存在で、観ていて呆然としました。「よくぞ、まあ、ここまでやったもんだ!」と変な意味で感心してしまいましたね。この映画のレビューの中に「R-30くらいでいい。」というものがありましたが、わたしも同感です。


それにしても、こんな観るに堪えない残酷映画をわざわざ4Kリマスターで映像をクリアにする必要があるのか? わたしには疑問です。そもそも、こんな下劣な映画を企画して製作すること自体も疑問です。疑問といえば、1人で鑑賞している年配のご婦人が何人かいましたが、「あのお婆さん、こんな鬼畜映画だと知っていて観に来たの?」と思いました。また、若いカップルも何組かいたのにビックリ! 「デートでこんな気持ちの悪い映画観て、どうするの?」と彼らにインタビューしてみたくなりました。わたしの娘が彼氏からこの映画に誘われたとしたら、即刻、「そんな変態男とは別れなさい!」と言うと思います。わたし自身、「これを観たことをブログで発信すれば、自分の品性が疑われないか」と、そんな心配をしてしまうぐらい、とにかくトンデモなく、ヤバい映画なのです!!


上映されたシネマート新宿の真向かいには新宿伊勢丹がありますが、わたしは「伊勢丹で高級ブランド品とか買い物しているお客さんたちは、すぐ近くで最低の狂った鬼畜映画が上映されているのを知っているのだろうか?」と余計な心配をしてしまうほどのクレージー・ムービーでした。でも、「そんなに不愉快だったのなら、観ない方が良かったか」といえば、そうは思いません。「映画というのは、ここまで醜悪な世界も描くことができる」ということがわかり、映画表現における可能性のようなことまで考えることができました。ちなみに、本作は「トラウマ映画」の代表作とのことですが、わたしにはトラウマは残りませんでした。鑑賞直後は「うへー、嫌なものを観てしまった!」とは思いましたが、その後に旨い鮨をつまみながら好きな冷酒を飲んだら、すべてを忘れてゴキゲンになりました。半世紀以上をかけてホラー免疫のできているわたしのメンタルは、そんなにヤワではないのです!

 

2022年8月4日 一条真也

『テクノロジーが予測する未来』

テクノロジーが予測する未来 web3、メタバース、NFTで世界はこうなる (SB新書)

 

一条真也です。
『テクノロジーが予測する未来』伊藤穣一著(SB新書)を読みました。「web3、メタバース、NFTで世界はこうなる」というサブタイトルがついています。著者は、デジタルガレージ取締役・共同創業者・チーフアーキテクト。千葉工業大学・変革センター長。デジタルアーキテクト、ベンチャーキャピタリスト、起業家、作家、学者として主に社会とテクノロジーの変革に取り組む。民主主義とガバナンス、気候変動、学問と科学のシステムの再設計など様々な課題解決に向けて活動中。2011年から2019年までは、米マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボの所長を務め、2015年のデジタル通貨イニシアチブ(DCI)の設立を主導。また、非営利団体クリエイティブ・コモンズの取締役会長兼最高経営責任者も務めました。ニューヨーク・タイムズ社、ソニー株式会社、Mozilla財団、電子プライバシー情報センター(EPIC)などの取締役を歴任。2016年から2019年までは、金融庁参与を務めました。


本書の帯

 

本書の帯には、著者の写真とともに「全人類不可避。」「働き方、アイデンティティ、文化、教育、民主主義・・・」「破壊的ゲームチェンジに備える63のヒント」と書かれています。


本書の帯の裏

 

帯の裏には、「すべてが大転換する時代をサバイブせよ。」として、「働き方――仕事は、『組織型』から『プロジェクト型』に変わる」「文化――人々の『情熱』が資産になる」「アイデンティティ――僕たちは、複数の『自己』を使いこなし、生きていく」「教育――社会は、学歴至上主義から脱却する」「民主主義――新たな直接民主制が実現する」と書かれています。


アマゾンより

 

また、カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「web3、メタバース、そしてNFT――最先端テクノロジーは、私たちの社会、経済、個人の在り方にどのような変革をもたらすのか? 米国MITにてメディアラボ所長を務め、デジタルアーキテクト、ベンチャーキャピタリスト、起業家として活動する伊藤穰一が見通す、最先端テクノロジーがもたらす驚きの未来」



本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
 序章 web3、メタバース、NFTで世界はこうなる
第1章  働き方――仕事は、「組織型」から
    「プロジェクト型」に変わる

第2章  文化――人々の「情熱」が資産になる
第3章  アイデンティティ――僕たちは、
     複数の「自己」を使いこなし、生きていく

第4章  教育――社会は、学歴至上主義から脱却する
第5章  民主主義――新たな直接民主制が実現する
第6章  すべてが激変する未来に、
     日本はどう備えるべきか
「おわりに」



「はじめに」の「世界は、新しいルールで動きはじめた」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「世界は、新しいルールで動きはじめたいま僕は、これまでにないほど、ワクワクしています。というのも、これまで、インターネットの登場やそのほかの刺激的なムーブメントなどさまざまな事柄に出合ってきましたが、新たなテクノロジーによって歴史的な大転換が起ころうとしているからです。最近、『web3』『メタバース』『NFT』という言葉を耳にする機会が増えました。一部のテクノロジー好きの人たちの間で盛り上がっているだけで、自分には関係のない話・・・・・・そんなふうに思っている人も多いかもしれません。インターネットも最初はそうでした」


インターネットが誕生して、約半世紀。世の中に普及して20年余り。ほとんどの人にとって、「インターネットなしの生活」はもはや、考えられないだろうという著者は、「web3、メタバース、NFTも、そうなっていく可能性が高い。『これがない時代があったなんて信じられない』『これを使いこなせない人はすごく困る』というほどの劇的な変化が、いま、新たに起ころうとしているのです。『働き方』『文化』『アイデンティティ』『教育』『民主主義』・・・・・・大変化の波は、あらゆる領域に及びます。誰も、逃れることはできません。その大変化とは、いったいどのようなものか? ――それをわかりやすく解明するのが本書です」と述べています。


序章「web3、メタバース、NFTで世界はこうなる」の「Web1・0は『読む』、Web2・0は『書く』、web3は『参加する』」では、端的にいえば、Web1・0ではグローバルに「read=読む」ことが可能になり、Web2・0ではグローバルに「write=書く」ことが可能になり、そしてweb3ではグローバルに「join=参加する」ことが可能になったとして、著者は「一般にはweb3は『own=所有する』という言葉がよく使われていますが、僕はあえて『join=参加する』と表現したいと思います。つまりWeb1・0、Web2・0、web3という流れのなかで、できることが『変化した』のではなく、『増えた』ということです」と述べています。


「『メタバース』はどこにあるのか」では、メタバースというと、「バーチャルリアリティ」の意味で語られているのをよく見かけますが、本来的にはもっと広義なものであるとして、著者は「この言葉の発祥は、アメリカの小説家で僕の友人でもあるニール・スティーブンスンさんが、1992年に発表した『スノウ・クラッシュ』という小説です。連邦政府が弱体化しきった近未来のアメリカを舞台に、オンライン上に築かれた仮想空間『Metaverse(メタバース)』で生きる人々が描かれています」と述べます。

 

 

スノウ・クラッシュ』で描かれているメタバースは、ある人は自宅のパソコンからアクセスし、ある人は街中の公衆端末からアクセスする、という具合に、それぞれ違うアクセスモードで入ることができる仮想空間であると紹介し、著者は「描写自体はバーチャルリアリティっぽいのですが、あらゆる人々が何の障壁もなくメタバースに参加し、コミュニケーションをとったり物品や金銭をやりとりしたりしています。つまり仮想空間がバーチャライズされていることよりも、オンライン上の仮想空間に誰もが一人前に参加しているということのほうが、本来のメタバースの定義においては重要です」と説明しています。


「世界はこれから、こうなる」では、来たるweb3時代に、結局のところ、世界はどうなっていくのかについて、著者は「ガバナンスはトップダウン型からボトムアップ型へ、消費は、大企業主導の大量生産・大量消費型から、より細分化されたリレーション型へ、という具合に、社会のあらゆるところで「Decentralized=分散化(非中央集権化)」が起こっていく可能性は高いでしょう。そのなかで、web3で生まれたさまざまな仕組みが、環境問題をはじめとする社会問題の是正に役立てられていくことも、大いに考えられます」と述べています。


著者は、web3はある意味で1960~70年代、アメリカでヒッピー文化が盛り上がった頃の雰囲気に似ていると指摘し、「ベトナム戦争中のアメリカで、ヒッピーたちが旧来社会から離反して新しい文化を生み出したように、web3世代は、経済一辺倒の資本主義的な価値観から離反して、新しい文化を生み出そうとしている。組織に属さずDAOで自分の能力やスキルを発揮したり、NFTでお金に換算できない価値を大切にしたり、といったことです。ヒッピー文化は、長引くベトナム戦争に対する厭戦ムードから生まれたムーブメントでした」と述べます。


web3がヒッピー文化と文化的にどこか似た雰囲気を漂わせているのは、いまなお悪化し続ける環境問題や経済格差、それに加えてコロナ禍と、改めてさまざまな問題が噴出している世の中で、特に若者を覆うムードが似ているからなのかもしれないと考える著者は、「Web1・0やWeb2・0は『インターネット、おもしろいよね』『SNS、イケてるよね』というような気軽なノリでしたが、web3には、社会変革につながるような強い文化的なエネルギーを感じます」と述べます。この著者の見方は非常に面白いと思います。


さらに、著者は「僕個人の所感をいわせてもらえば、Z世代と呼ばれる若い人たちは、それほど物欲も強くなく、環境問題などの社会問題に敏感に見えます。その点で高度経済成長期やバブル期の空気を吸ってきた世代とはかなり感覚が違います。そう考えると、世代交代が進むにつれて、テクノロジーを活用してフェアで平等で持続可能な社会へと向かうべく、大きなパラダイムシフトが起こっていく可能性が高いというのが僕の予測です」と述べるのでした。


第1章「働き方――仕事は、『組織型』から『プロジェクト型』に変わる」の「ビジネスは『映画制作』のようになる」では、web3では、個人の働き方は「組織ベース」ではなく「プロジェクトベース」になっていくと指摘し、著者は「その主体は『DAO』です。DAOは会社組織ではなく、プロジェクトごとに立ち上げられるので、個人は、自分が興味を持ち、貢献できそうなDAOを見つけるごとに『参加する』というかたちで働いていくことになります。作品ごとに制作チームが立ち上げられて、スタッフや俳優を集めて進められる映画制作のような感じです」と述べています。映画製作ビジネスではなく、ビジネスそのものが映画製作のようになるというのはワクワクしますね。


「DAOは万能なのか」では、ビットコインブロックチェーンを用いた仮想通貨というアイデアに多くの賛同者が集まったことで、世界最大の仮想通貨へと成長したことを紹介し、著者は「ビットコインというプロジェクトは、世界中に散らばるエンジニアたちの手によって発展してきましたが、その責任者は誰でしょうか。ビットコインの考案者は『サトシ・ナカモト』なる人物ですが、この名前が本名であるかですら定かではなく、どこの誰であるのかを知る人はいません。しかし、そのアイデアには賛同する人がたくさん集まりました。どこの会社が開発しているかわかれば、国家がそれを潰すこともできるかもしれません。しかし、ビットコインのように誰が開発しているのかがわからない、人でも組織でもないコンピュータープログラムを規制することはできません。つまり、ビットコインのエコシステムは現行の法律の範疇に収めるのが非常に難しいのです」と述べています。


「仕事の『内容・場所・時間』からの解放は、格差是正につながるか」では、著者は「仕事の内容も場所も時間も、誰かに指示されるのではなく、自分主導で決められるというのが、web3的な働き方です。そういう働き方を僕たちが当たり前にしていけば、仕事にまつわる格差を小さくしていくこともできるとして、著者は「たとえば男女の格差。日本のジェンダーギャップ指数は156カ国中120位前後と、惨憺たる状況が続いています」と述べています。


男性優位の価値観はもちろん正していかねばなりませんが、仕組み面でボトルネックとなっているのは、やはり妊娠・出産という大きなライフイベントに対する無理解や不寛容であるとして、著者は「男性の育休など、以前に比べれば改善している部分もあるかもしれませんが、まだまだ、子どもを持つ女性が働きづらいという現状があります」と述べるのでした。こうした男女格差以外にも、介護などさまざまな事情によりフルタイムで働けない人、あるいは自身の心身が不自由で、会社に出勤することが難しい人もいるでしょう。既存の社会では、どうしても、そういう人たちが置き去りにされがちでした」と述べるのでした。


第2章「文化――人々の『情熱』が資産になる」の「たとえば『宗教的行為』『学位』をNFT化する」では、宗教的行為や学位をNFT化するという試みが提案されていますが、特に宗教的行為のNFT化が非常に興味深かったです。たとえば無形の宗教的行為は、まず非金銭的である、そして長期的な価値である(教徒にとって信仰は永遠)という2点でNFTと相性がいいとして、著者は「神職にある人や宗教学者の間で真剣に議論を進めたら、宗教的価値に連結させたNFTという、新しい信仰のかたちが誕生するかもしれません。たとえば『参詣NFT』。これは、あるお寺の僧侶と話をしていたときに思いついたアイデアなのですが、年に1回、参詣してお布施をすると付与されるNFTです。そのNFTは転売不可ですが、相続としての譲渡は可とし、なおかつ参詣とお布施が途切れると無効になるようにプログラムします。そうなると、信徒は必ず年1回は参詣し、お布施をするようになる」と述べています。


信仰としての行為が、半ば義務的になり「形骸化しないだろうか」という危惧もあることを認めた上で、著者は「技術的には可能だ、ということ自体がおもしろいことではないでしょうか。この習慣が親から子へ、子から孫へと受け継がれていけば、参詣NFTが、50年、100年・・・・・・にもわたるお寺と家族の系譜になります。いままでは古文書に記されていたようことを、ブロックチェーンに記していこうというわけです。テクノロジーによって認証された『デジタルな古文書』が、家宝として代々受け継がれていく。そんなことまで想像できてしまいます」と述べます。たしかに、この想像はおもしろいです。わたしは、「冠婚葬祭のNFT化」という大きなヒントを得ました。


第3章「アイデンティティ――僕たちは、複数の『自己』を使いこなし、生きていく」の「人類は、『身体性』から解放される」では、メタバースには重要なキーワードとして、「多様性」を挙げます。「ここはFacebook」「ここはTwitter」といったプラットフォームごとの分断がなく、オンライン上のさまざまなコミュニケーション空間が一緒になって「超=メタ」な「1つの世界=バース」を形成しているというのがメタバースの概念であると説明し、著者は「したがって空間と空間の行き来は自由で、なおかつ誰もが等しく参加できなくてはいけません」と述べています。


第6章「すべてが激変する未来に、日本はどう備えるべきか」の「デジタル人材の海外流出を防げ」では、日本は先進国のなかで唯一、賃金が上がっていない国であると指摘し、著者は「停滞に次ぐ停滞で、国の経済力はどんどん下がっている。『こんなに働いているのに、どうしてぜんぜんお金がないんだろう』とモヤモヤしている人は、特に若年層に多いに違いありません。この状況を打破するには何か大きなインパクトが必要で、web3は、そのインパクトになりうる、と僕は思います」と述べています。



過去にもきっかけはありました。2000年代初頭には「IT革命」の気運が高まり、著者も政府の要請で、何をどうしたらいいのかとずいぶん提言をしたと告白し、「その頃は『IT革命に乗り遅れたら、もう日本はおしましだ!』という空気がかなり強かったのですが、インターネットが一般に普及したあたりから、あっという間に盛り下がってしまいました。その後、東日本大震災が起こり、直近では新型コロナウイルスパンデミック。しかし日本は、そのつど危機に対応・対処してきただけで、社会や政治、産業が構造から変わったようには見えません。結局のところ、保守的なのです」と述べます。


「『ネクスト・ディズニー』が日本を席巻する日」では、いま、世界的に大きな関心事になっているのは「誰がweb3時代の覇者になるか」であり、著者は「マイクロソフト、Meta、Twitter、ソニー VS Bored Ape」の戦いになっていくと見ているとして、「単なる『猿の姿のPFP』からはじまったweb3の寵児が、ものすごいレベルの技術力と資金力で既存大企業をなぎ倒し、日本を席巻する日も近いかもしれない。それが、すでにリアルな未来として思い浮かぶくらいの話になっているのです」と述べます。


「ドメスティックをデジタルへ、デジタルをグローバルへ」では、日本は技術力には定評がありますが、それを武器として世界を相手に競争するのは、あまり得意ではないといいます。日本企業発でグローバルスタンダードになったものが少ないことがその証しであるとして、著者は「これから日本が行っていくべき変革とは、ドメスティックなものを、ただデジタル化するだけでなく、デジタル化を通じてグローバルな存在へと変えていくことだと思います。これを大きな目標とし。世界に照準を定めたゴール設定をすることが、日本再生の道を開く唯一の鍵だと考えます」と述べるのでした。


「おわりに」では、ゴールはビジョンから生まれ、ビジョンはパラダイムから生まれるとして、著者は「700年前、中世のイタリアで複式簿記が発明されたことによって、その後、経済を中心とした近代的な資本主義社会の仕組みが生まれました。お金をとにかく集めた人が勝ち、というパラダイムが生まれたのです。現代社会もこのパラダイムのなかにあります。経済の成長により、より多くの人たちが社会に参加できるようになり、生活は便利になり、豊かにもなりました。ただ、やはり、資本主義社会では、資本家にお金や権力が集中し、中央集権的になっていきます。その結果、貧富の差が生まれ、環境破壊なども進むことになってしまったのです。成長を前提としている以上、こうしたことはどうしても起こってしまう。このまま突き進んでいけば、きっと、破壊的な未来が僕たちを待ち受けているでしょう。要するに、既存のパラダイムが、そろそろ限界を迎えているのではないか、ということです」と述べています。



著者によれば、web3の最大の特徴は「Decentralized」=「分散」です。すべてを非中央集権化するテクノロジーをきっかけとして、わたしたちの社会は非中央集権的なパラダイムへと移行しようとしているとして、著者は「ここで何としても避けたいのは、『旧パラダイム VS 新パラダイム』という対立構造が生まれ、激化することです。多少の淘汰が生じるのは仕方ないと思いますが、社会的に許容できる範囲を超えて旧パラダイムの側で大きな犠牲や反発が生じれば、それこそスクラップからのビルドという破壊的な社会変革になってしまうでしょう。そんな事態を避けるためにも、やはり、テクノロジーに対するリテラシーを社会的に高め、そのテクノロジーによってどんなことが起こりうるのか、というビジョンを共有することが欠かせません」と述べるのでした。

 

 

2022年8月3日 一条真也

小倉から静岡へ

一条真也です。
8月に入って、さらに暑くなりましたね。
2日、わたしはJR小倉駅に向かいました。
互助会業界の会合で静岡に出張するためです。
今日は本当に暑いので、帽子を被っていきました。

JR小倉駅の前で

新幹線のぞみ28号に乗りました

 

現地では、全互協の新旧の正副会長が集合します。昨日、業界の大先輩にあたる大物経営者の方の訃報に接し、みんな悲しみに包まれています。現地では、その話も出ることと思います。小倉駅からは12時31分発の新幹線のぞみ28号に乗って、まずは神戸を目指しました。夏休みというのに、車内はガラガラで、貸し切り状態でした。やはり、全国的な感染拡大の影響でしょうか?

のぞみ28号の車内で


夏休みなのに、車内はガラガラ

読書をしました

 

すでに昼食は済ませていましたので、車内では読書をしました。『映画評論家への逆襲』荒井晴彦森達也白石和彌井上淳一共著(小学館新書)を読みました。コロナ禍で苦戦する全国のミニシアターを応援すべく、4人の映画脚本家・監督が行なったオンライントークショーの記録です。この4人は、単なる作品論、監督論を逸脱して、世評の高いヒット作をこき下ろし、名作の裏事情を暴露し、大監督を疑い、そして意外な作品をほめるという、かつてない映画座談会となりました。その濃厚かつ超辛口な内容をあますところなく伝える1冊で、興味深く読みました。


JR新神戸駅に到着しました


JR新神戸駅で乗り換え

 

JR新神戸駅には14時29分に到着。ホームには機動隊のような人々がたくさんいて、ものものしい雰囲気でした。新神戸駅にはいつも警官がたくさんいる印象ですが、どうやら暴力団対策の関係のようですね。小倉という平和な街に住んでいると、暴力団と言われてもピンと来ませんが。ホームにいた警官たちがわたしの方を見たので、ちょっとドキッとしました。「今日はハットも被って、サングラスもしているのでヤクザに間違えられたら嫌だなあ」と思いましたが、大丈夫でした。わたしは、同じホームから、14時34分発の新幹線ひかり512号に乗り換えました。そして、一路、目的地である静岡を目指しました。


ひかり512号の車内で


こちらもガラガラでした

ここでも読書をしました

 

ひかり車内もガラガラでしたが、その後、姫路駅から117の山下社長(全互協会長)が同じ車両に乗ってこられました。山下さんも静岡に行くのです。ひかり車内では、また読書をしました。『映画評論家への逆襲』は読み終わったので、今度は『見るレッスン 映画史特別講義』蓮實重彥著(光文社新書)を読みました。著者は、1936年東京生れ。映画評論家、フランス文学者。東京大学教養学部教授を経て、東京大学第26代総長。映画雑誌「リュミエール」の創刊編集長も務めました。本書の「はじめに」には、「まず読者の皆様にお伝えしたいのは、世間で評判になっている映画だけを見るのではなく、評判であろうとなかろうと、自分にふさわしいものを自分で見つけてほしいということです。とにかく、ごく普通に映画を見ていただきたい。蓮實個人の視点など学ばれるにはおよびません。もっぱら自分の好きな作品だけを見つけるために、映画を見てほしい」とあります。『映画評論家への逆襲』の帯には「勝手に観るな、この映画はこう観ろ」と書かれていますが、『見るレッスン』の帯には「他人の好みは気にするな、勝手に見やがれ!」と書かれています。メッセージが真逆で面白いですね。


JR静岡駅に到着しました


JR静岡駅のホームで

 

JR静岡駅には16時37分に到着しました。駅の改札口を出たところに、静岡を代表する冠婚葬祭互助会である「あいネット静岡」の杉山社長をはじめ、全互協の正副会長のみなさんが待っていて下さいました。その後、わたしたちは送迎のバスへ。明日の朝は一番で東京に向かい、5日は埼玉県の大宮で行われるお通夜に参列いたします。

 

2022年8月2日 一条真也

『22世紀の民主主義』

22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる (SB新書)

 

一条真也です。
『22世紀の民主主義』成田悠輔著(SB新書)を読みました。「選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる」というサブタイトルがついています。著者は、夜はアメリカでイェール大学助教授、昼は日本で半熟仮想株式会社代表。専門は、データ・アルゴリズム・ポエムを使ったビジネスと公共政策の想像とデザイン。ウェブビジネスから教育・医療政策まで幅広い社会課題解決に取り組み、企業や自治体と共同研究・事業を行うとか。東京大学卒業(最優等卒業論文に与えられる大内兵衛賞受賞)、マサチューセッツ工科大学(MIT)にてPh.D.取得。一橋大学客員准教授、スタンフォード大学客員助教授、東京大学招聘研究員、独立行政法人経済産業研究所客員研究員 などを兼歴任。内閣総理大臣賞・オープンイノベーション大賞という気鋭の経済学者・データ科学者です。


本書の帯

 

本書のカバー表紙には、「民主主義が意識を失っている間に手綱を失った資本主義は加速している――私たちはどこを目指せばいいのか? 人類は世の初めから気づいていた。人の能力や運や資源はおぞましく不平等なこと。」とあります。また、帯には著者の写真とともに、「言っちゃいけないことはたいてい正しい」と書かれています。


本書の帯の裏

 

帯の裏には「断言する。若者が選挙に行って『政治参加』したくらいでは日本は何も変わらない。これは冷笑ではない。もっと大事なことに目を向けようという呼びかけだ。何がもっと大事なのか?  選挙や政治、そして民主主義というゲームのルール自体をどう作り変えるか考えることだ。ルールを変えること、つまりちょっとした革命である」と書かれています。ちなみに、この帯の裏にはグリーンの蛍光ペンでマーカーされている趣向になっていますが、わたしは、こういうマーカーは好きではありません。読者を馬鹿にしていると思うからです。


アマゾンより

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
A.はじめに断言したいこと
B.要約
C.はじめに言い訳しておきたいこと
第1章 故障
第2章 闘争
政治家をいじる
メディアをいじる
選挙をいじる
UI/UXをいじる
第3章 逃走
第4章 構想
選挙なしの民主主義に向けて
民主主義とはデータの変換である
アルゴリズムで民主主義を自動化する
不完全な萌芽
政治家不要論
「おわりに:異常を普通に」
「脚注」


「A.はじめに断言したいこと」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。「分厚いねずみ色の雲が日本を覆っている。停滞と衰退の積乱雲だ。どうすれば打開できるのか? 政治だろう。どうすれば政治を変えられるのか? 選挙だろう。若者が選挙に行って世代交代を促し、政治の目を未来へと差し向けさせよう。選挙のたびにそんな話を聞く。だが、断言する。若者が選挙に行って「政治参加」したくらいでは何も変わらない」


今の日本の政治や社会は、若者の政治参加や選挙に行くといった生ぬるい行動で変わるような甘い状況にないことを指摘する著者は、「数十年びくともしない慢性の停滞と危機に陥っており、それをひっくり返すのは錆びついて沈みゆく昭和の豪華客船を水中から引き揚げるような大事業だ。具体的には、若者しか投票・立候補できない選挙区を作り出すとか、若者が反乱を起こして一定以上の年齢の人から(被)選挙権を奪い取るといった革命である。あるいは、この国を諦めた若者が新しい独立国を建設する。そんな出来損ないの小説のような稲妻が炸裂しないと、日本の政治や社会を覆う雲が晴れることはない。私たちには悪い癖がある。今ある選挙や政治というゲームにどう参加してどうプレイするか?そればかり考えがちだという癖だ。だが、そう考えた時点で負けが決まっている。『若者よ選挙に行こう』といった広告キャンペーンに巻き込まれている時点で、老人たちの手のひらの上でファイティングポーズを取らされているだけだ、ということに気づかなければならない」と述べています。


「何がもっと大事なのか?」と読者に問いかける著者は、「選挙や政治、そして民主主義というゲームのルール自体をどう作り変えるか考えることだ。ルールを変えること、つまりちょっとした革命である。革命を100とすれば、選挙に行くとか国会議員になるというのは、1とか5とかの焼け石に水程度。何も変えないことが約束されている。中途半端なガス抜きで問題をぼやけさせるくらいなら、部屋でカフェラテでも飲みながらゲームでもやっている方が楽しいし、コスパもいいんじゃないかと思う。革命か、ラテか? 究極の選択を助けるマニュアルがこの本である」と述べるのでした。


「B.要約」の「逃走」では、著者はこう述べます。
「たとえば、どの国も支配していない地球最後のフロンティア・公海の特性を逆手に取って、公海を漂う新国家群を作ろうという企てがある。お気に入りの政治制度を実験する海上国家やデジタル国家に、億万長者たちから逃げ出す未来も遠くないかもしれない。21世紀後半、資産家たちは海上・海底・上空・宇宙・メタバースなどに消え、民主主義という失敗装置から解き放たれた『成功者の成功者による成功者のための国家』を作り上げてしまうかもしれない。選挙や民主主義は、情弱な貧者の国のみに残る、懐かしく微笑ましい非効率と非合理のシンボルでしかなくなるかもしれない。私たちが憫笑する田舎町の寄り合いのように。そんな民主主義からの逃走こそ、フランス革命ロシア革命に次ぐ21世紀の政治経済革命の大本命だろう」


また、「構想」の要約として、著者は「無意識データ民主主義」を打ち出し、「インターネットや監視カメラが捉える会議や街中・家の中での言葉、表情やリアクション、心拍数や安眠度合い・・・・・・選挙に限らない無数のデータ源から人々の自然で本音な意見や価値観、民意が染み出している。『あの政策はいい』『うわぁ嫌いだ・・・・・・』といった声や表情からなる民意データだ。個々の民意データ源は歪みを孕んでハックにさらされているが、無数の民意データ源を足し合わせることで歪みを打ち消しあえる。民意が立体的に見えてくる」と述べます。無数の民意のデータ源から意思決定を行うのはアルゴリズムです。アルゴリズムとは、問題を解決するための手順をコンピューターのプログラムとして実行可能な計算手続きにしたものです。検索エンジンからおすすめ表示までウェブ上のあらゆる場所で動いています。

 

このアルゴリズムのデザインは、人々の民意データに加え、GDP・失業率・学力達成度・健康寿命ウェルビーイングといった成果指標データを組み合わせた目的関数を最適化するように作られます。意思決定アルゴリズムのデザインは次の二段階からなるといいます。
(1)  まず民意データに基づいて、各政策領域・論点ごとに人々が何を大事だと思っているのか、どのような成果指標の組み合わせ・目的関数を最適化したいのかを発見する。「エビデンスに基づく目的発見(Evidence-Based Goal Making)」と言ってもいい。
(2)  (1)で発見した目的関数・価値基準にしたがって最適な政策的意思決定を選ぶ。この段階はいわゆる「エビデンスに基づく政策立案」に近く、過去に様々な意思決定がどのような成果指標に繋がったのか、過去データを基に効果検証することで実行される。

 

無意識民主主義=
(1)  エビデンスに基づく目的発見

     +

(2)  エビデンスに基づく政策立案

として、著者は「民主主義は人間が手動で投票所に赴いて意識的に実行するものではなく、自動で無意識的に実行されるものになっていく。人間はふだんはラテでも飲みながらゲームしていればよく、アルゴリズムの価値判断や推薦・選択がマズいときに介入して拒否することが人間の主な役割になる」「無意識民主主義は大衆の民意による意思決定(選挙民主主義)、少数のエリート選民による意思決定(知的専制主義)、そして情報・データによる意思決定(客観的最適化)の融合である。周縁から繁りはじめた無意識民主主義という雑草が、既得権益、中間組織、古い慣習の肥大化で身動きが取れなくなっている今の民主主義を枯らし、22世紀の民主主義に向けた土壌を肥やす」と述べています。

 

この無意識データ民主主義という考え方を知って、わたしはSF的であると思いました。他の多くの読者もそうだとお思います。しかし、著者は「無意識データ民主主義の構想はSF(サイエンス・フィクション)ではない。SFは、想像力の限りを尽くして、ありえる世界とありえない世界の境界に触れ、ありえることを押し広げる営みだ。浮世離れして現実に追いつかれないことが価値になる」と言い切ります。そして、「無意識データ民主主義は構想というより予測である」と訴えるのでした。


「C.はじめに言い訳しておきたいこと」では、著者は「この本の内容が私独自の新しい見解だと主張するつもりはまったくない。独自性や親規性はほとんどどうでもよく、他人の考えも自分の発見も等しく部品として組み合わせ、未来に向けて走る自転車を作ってみたいという気分で書いてみた。私自身が新たに分析したり想像したり思考したりした情報もあれば、どこかの誰かが言ったり書いたりやったりしたことを意識してか無意識にか拝借したものもある。できるだけ参考文献を引用したが、不十分だろう。『それは私の(あるいは誰それの)言ったことだ』と思われたら、たぶんその通りだ。ありがとうございます」と述べます。そして最後に、「逆に、この本の内容を再利用したい場合はジャンジャンやってしまってほしい。私に連絡する必要も名前を記す必要もない。切り抜くなりパクるなりミックスするなり自由にしてほしい。自分のシマや功績が増えることより、世界や政治がちょっとでも変わることの方が楽しいからだ」と述べるのでした。これは、わたしの考え方とも共通するものであり、度量の広い著者に拍手をしたいと思います。


第1章「故障」の「○□主義と□○主義」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「人類を突き動かすのは主義(ism)である。経済と言えば「資本主義」、政治と言えば「民主主義」。嵐の前の静けさかと思うほどかつてない安全と豊かさの泡に包まれた欧米や日本にここ半世紀ほどの間に生まれた者にとって、子どもの頃から何千回と聞かされて、もはや犬も食わない合言葉だろう。2つを抱き合わせて民主資本主義(democratic capitalism)や市場民主主義(market democracy)と呼ぶことも多い。だが、ちょっと考えるとこの提携は奇妙である。ふんわりと言って、資本主義は強者が閉じていく仕組み、民主主義は弱者に開かれていく仕組みだからだ。だが、ちょっと考えるとこの提携は奇妙である。ふんわりと言って、資本主義は強者が閉じていく仕組み、民主主義は弱者に開かれていく仕組みだからだ」


資本主義経済では少数の賢い強者が作り出した事業がマスから資源を吸い上げます。事業やそこから生まれた利益を私的所有権で囲い込み、資本市場の福利の力を利かせて貧者を置いてけぼりにします。戦争や疫病、革命がなければ、富める者がますます富むとして、著者は「平時の資本主義のこの経験則を描いたものにはピケティ『21世紀の資本』からシャイデル『暴力と不平等の人類史』まで枚挙にいとまがない。そんな強者や異常値に駆動される仕組みが資本主義だ」と述べます。一方の民主主義はその逆であるとして、著者は「そもそも民主主義とは何か? 民主主義(democracy)の語源はギリシア語のdemokratiaで、『民衆』や『人民』などを意味するdemosと、『権力』や『支配』などを意味するkratosを組み合わせたものだという。『人民権力』『民衆支配』といった意味になる」と説明します。


暴れ馬・資本主義をなだめる民主主義という手綱・・・・・・その躁鬱的拮抗が普通選挙普及以後のここ数十年の民主社会の模式図だったと指摘し、著者は「資本主義はパイの成長を担当し、民主主義は作られたパイの分配を担当しているとナイーブに整理してもいい。単純すぎるが、単純すぎる整理には単純すぎるがゆえのメリットがある」と述べています。また、「感染したのは民主主義:人命も経済も」では、著者は「民主主義的な国ほど命も金も失った。そして、コロナ禍初期における民主国家の失敗もまた、民主主義が原因で引き起こされたものだと示すことができる。このことは、コロナ禍初期によく議論された『人命か経済か』という二者択一(トレードオフ)の議論がおそらく的外れなことも意味する。現実には人命も経済も救えた国と、人命も経済も殺してしまった国があるだけだったのだ」と述べます。


「21世紀の追憶」では、民主主義の失われた20年がはじまった2000年前後は、偶然か必然か、世界経済を牛耳ることになる独占ITプラットフォーム企業が勃興した時期と重なると指摘し、著者は「アマゾンの創業が1994年、グーグルが誕生したのは1998年だ。日本でも、ライブドアオン・ザ・エッヂ)やヤフージャパンの創業が1996年、楽天(エム・ディー・エム)の創業が1997年、NTTドコモのiモードの立ち上げが1999年、LINE(ハンゲームジャパン)の創業が2000年だ。その直後に同じくらい重大な、しかしあまり目立たない出来事が起きている。もう1つのその後のスーパーパワー中国のWTO世界貿易機関)加盟である。一見すると地味なこの出来事は、しかし、世界経済に強烈な衝撃を与えたと考えられている」と述べます。


「失敗の本質」では、ビル・ゲイツが、2015年のTED講演で「次の世界大戦はウイルスとの戦争になる。そしてその戦争に向けた準備を人類はできていない」と語り、驚くほど高い解像度でコロナ禍のような感染症の混乱を予言していたことを紹介します。さらにオバマ政権からトランプ政権への引き継ぎの重要項目が、来るべき感染症危機だったことも公開情報になっているとして、著者は「民主主義を象徴する世界一の大国の住民であり、世界でも最も影響力のある経済人と政治家が具体的な提言をはるか以前からしていた。にもかかわらず、その警告をアメリカや他の民主国家はほぼ見事に無視してきた」と述べています。


「デマゴーナス・ナチス・SNS」では、選挙は、みんなの体と心が同期するお祭りなので、空気に身を任せる同調行動にうってつけであるとして、著者は「数百年前であれば、同調は狭い村落内に閉じた内輪ウケでいてくれた。だが、メディアやメディアハッカーが存在する今では国や地球の規模に同調が伝播するようになった。さらに、生活や価値が分岐するにつれ政策論点も微細化して多様化しているのに、いまだに投票の対象はなぜか政治家・政党でしかない。個々の政策論点に細かな声を発せられない。こうした環境下では、政治家は単純明快で極端なキャラを作るしかなくなっていく。キャラの両極としての偽善的リベラリズムと露悪的ポピュリズムのジェットコースターで世界の政治が気絶状態である」と述べるのでした。


第2章「闘争」の「シルバー民主主義の絶望と妄想の間で」では、かつての英国の宰相ウィンストン・チャーチルか誰かが「君が25歳で進歩派でないなら心に問題がある。35歳で保守派でないなら頭に問題がある」と語ったことを紹介し、著者は「確かに、若者と老人の価値観のズレは人間の常である」として、さらに「世代間の衝突は人類の原動力でもある。歴史を塗り替えるのはいつも『若くて無名で貧乏』(毛沢東)なひよっ子だ。老害への怒りとさげすみを胸に革命を起こした若者は、しかし、やがて自ら老害化し、次の世代に葬り去られる。私たちは『葬式のたびに進歩する』(ドイツの物理学者マックス・プランクの発言からくる英語の格言)というわけだ。しかし、今世紀に入ったあたりから何やら雲行きが怪しい。若者の怒りが絶望に、そして脱力に変わりつつあるように感じる。老害を葬り去ってくれるはずの葬式がどんどんと先に延び延びになり、政治がゾンビ化した高齢者に占拠される。シルバー民主主義への絶望と脱力である」と述べます。マックス・プランクが「葬式のたびに進歩する」と言っていたなんて、初めて知りました!



「選挙をいじる」の「未来の声を聴く選挙」では、自民党支持率を見ると20代でも60代でも大差なく、むしろ20代の方が高いことが多いくらいだということを指摘。日本の世代間政治対立は鈍く、アメリカでは若い世代ほどリベラルで民主党支持率が高い傾向がはっきりあるのと対照的だといいます。さらに、もう1つ根深い問題があるとして、著者は「それは若者が貧乏になっていることだ。今の日本でお金と時間を持つのは高齢者だ。なので、彼らは『文化が』とか『国家が』とかフワフワしたことを考える時間も余裕もある。それに比べ、今の日本の20代は本当に崖っぷちな状況だ。過半数の人が資産ゼロで貯金10万円以下、わずかな給料で自転車操業している状態だと考えられている。体を壊してちょっと働けなくなったら一瞬で破綻する人が今の日本の若者の多数派になっている。この状態で遠い未来に向けた国家としての投資を考えろと言っても、無理がある」


「政治家・政党から争点・イシューへ」では、著者は選挙のアップデート案について、「こんな仕組みが考えられる。政治家や政党ごとに投票するのではなく、不妊治療の保険適用化や年金支給年齢の変更、LGBT法制といった個別の論点ごとに投票する。さらに、有権者それぞれにたとえば100票を割り当てる。一人一票ではなく、『自分にとって大事な政策への投票には多くの票を投じられる』ようにする。信頼できる第三者に票を委任することを許すこともできる」と提案しています。ここは、本書のキモであると言えるでしょう。


「UI/UXをいじる」の「ネット投票の希望と絶望」では、教育の「過剰」について言及。著者は、「米英の有権者を調べた研究によれば、有権者は高学歴になるほど党派的で独善的になり、議論と反省によって意見を修正していく能力を失っていく傾向があるという。学歴や知識が増すごとに自分は正しいと思い込む傾向があることがその理由だ。この頑固さは民主主義の基礎を脅かす」と述べます。また、「前提条件が崩れる中で選挙の微調整を議論しても対処療法にしかならないだろう。選挙という概念一般が病にかかっていることが問題なのに、『相対的にまだマシな選挙はこれ』という処方箋になっていない処方箋を出しているようなものだからだ。真に必要なのは、選挙の再発明ではない。むしろ『選挙で何かを決めなければならない』という固定観念を忘れることだ」と述べるのでした。


第3章「逃走」の冒頭で、著者は「いっそ闘争は諦めて、民主主義から逃走してしまうのはどうだろう? 民主主義を内側から変えようとするのではなく、民主主義を見捨てて外部へと逃げ出してしまうのだ。『反民主主義』や『迂回民主主義』と言ってもいいかもしれない」と述べています。国家からの逃走は、一部ではすでに日常であるとして、著者は「たとえば富裕層の個人資産。ルクセンブルクからケイマン諸島ヴァージン諸島シンガポールまで、低い税率そして緩い資産捕捉を求めるタックス・ヘイブンを浮遊する見えない個人資産は、世界の全資産の8%を超えるとも言われる」と述べます。「タックス・ヘイブンがあるように政治的『デモクラシー・ヘイブン』もありえるのではないか?」というわけです。


「デモクラシー・ヘイブンに向けて?」では、「地球最後のフロンティアは、世界の海の半分を占める公海だとよく言われる。どの国も支配していない公海の特性を逆手に取って、公海を漂う新国家群を作ろうという企てがある。『海上自治都市協会(The Seasteading Institute)』と呼ばれる新国家設立運動だ。他に似た試みを行う団体に『青いフロンティア(Blue Frontiers)』などもある(現在は活動停止中の模様)。こうした構想が行動に移されつつある背景には、クルーズ船のような大型船舶を建造する費用が下がり、技術面・費用面での現実性が増していることがあるという」と書かれています。


「すべてを資本主義にする、または〇□主義の規制緩和」では、21世紀後半、億万長者たちは宇宙か海上・海底・上空・メタバースなどに消え、民主主義という失敗装置から解き放たれた「成功者の成功者による成功者のための国家」を作り上げてしまうかもしれないと推測し、著者は「選挙や民主主義は、情弱な貧者の国のみに残る、懐かしく微笑ましい非効率と非合理のシンボルでしかなくなるかもしれない。私たちが憫笑する田舎町の寄り合いのように。そんな民主主義からの逃走こそ、フランス革命ロシア革命に次ぐ21世紀の政治経済革命の本命だろう。フランス・アメリカ革命が民主主義革命、ロシア革命が共産・社会主義革命だったとすると、次に来るべきは資本主義革命かもしれない」と述べています。


「資本家専制主義?」では、新国家は最終的には一般の人々にも開放される楽観的予感もあるとして、著者は「お金と権力を手に入れた人間は、最終的には偉人としてチヤホヤされたいという承認・達成欲求にたどり着く。承認・達成欲求は弱者への施しを生む。たとえば前澤友作さんは、Twitterでシングルマザーなどにお金を配るキャンペーンをしていることで良くも悪しくも有名だ。小金に群がる一千万人単位のイナゴユーザー情報を効率よく集められて情弱ビジネスし放題という側面もあるだろう。ただ、それと同じかそれ以上に強い動機は『日本人の父になりたい』といった野心のように感じられてならない。お金配りを続ければ、自らのお金で育った子どもたちやその家族が日本中に増殖していく。最終的には巨大な拡張家族や故郷もどきにたどり着く。そこに育まれるのはお金では買えない大きな絆のようなものだろう」と述べるのでした。


第4章「構想」の「民主主義とはデータの変換である」では、著者は「民主主義とはデータの変換である。そんなひどく乱暴な断言からはじめたい。民主主義とはつまるところ、みんなの民意を表す何らかのデータを入力し、何らかの社会的意思決定を出力する何らかのルール・装置であるという視点だ。民主主義のデザインとは、したがって、(1)入力される民意データ、(2)出力される社会的意思決定、(3)データから意思決定を計算するルール・アルゴリズム(計算手続き)をデザインすることに行き着く」と述べています。


「なぜ選挙という雑なデータ処理装置がこれほど偉そうに民主主義の中核に鎮座しているのだろうか?」との疑問に対し、著者は「選挙が使うデータの質や量がいいからではない。立候補した少数の政治家・政党の中から好みの1つを選んだだけの投票データは、投票者の意思のほんの一部しか反映していない貧しいデータなことは誰の目にも明らかだろうとして、著者は「データ処理の方法が洗練されているからでもない。多数決のようなよく使われる集計ルールは欠陥だらけなことがよく知られている」と述べます。


さらに著者は、「そんな貧しさや欠陥にもかかわらず選挙を私たちが受け入れているのは、数百年前の段階でギリギリ全国を対象に設計・実行できた処理装置が選挙だからだろう。そして、法律や歴史を通じて正統性や権威性をまとったからだろう。はじめとおわりがはっきりしていて、勝者と敗者がきっぱり決まるゲームのような透明性ゆえに、暴力や内戦による血みどろの意思決定を避けられたことも大きかったに違いない」と述べます。そして、「歪み・ハック・そして民意データ・アンサンブル」では、著者は「平均化・アンサンブル化されるアルゴリズム群は、無意識民主主義にデータ・アルゴリズムの多元性と競争性をもたらす点にも注目してほしい。多様な民意データ源たちが互いに競い合いながらより良い民意抽出を目指す。無意識データ民主主義が民主主義たる理由がここにある」と述べるのでした。

 

「選挙vs.民意データにズームイン」では、無意識データ民主主義について、著者は「現状と対比した無意識データ民主主義は、民意を読みながら政策パッケージをまとめ上げる前の段階をもっとはっきり可視化し、明示化し、ルール化する試みだとも言える。そして、ソフトウェアやアルゴリズムに体を委ねることで、パッケージ化しすぎずに無数の争点にそのまま対峙する試みとも言える。その副産物として、政党や政治家といった20世紀臭い中間団体を削減できる」と述べています。


 

「無意識民主主義の来るべき開花」では、民主主義はグダグダで後手後手なので有事に弱いと言われてきたし、一方で、独裁や専制は指導者が狂えばすぐに有事を作り出してしまうとして、著者は「民主と専制のいいとこ取りをした幸福な融合はありえないだろうか?」と問いかけます。そして、「無意識民主主義は1つの答えを与えてくれる。民意データを無意識に提供するマスの民意による意思決定(民主主義)、無意識民主主義アルゴリズムを設計する少数の専門家による意思決定(科学専制・貴族専制)、そして情報・データによる意思決定(客観的最適化)の融合が無意識民主主義であるからだ」と述べるのでした。


「政治家不要論」の「政治家はネコとゴキブリになる」では、わたしたちの社会はだんだん「人間を属性で区別するな」という社会になっていると指摘し、著者は「男女で区別するな、年齢で区別するな、人類皆同じと考えようという方向にだんだん向かっている。この流れが今後も続くと、人間とそれ以外の動物や生命も区別するなという方向にいくと予想できる。ある種のベジタリアンやビーガンの友人たちと話すと、解体される鶏や〆られるサバが感じる痛みへの共感を切々と語ってくれることがある。あの感じだ」と述べています。


ネコが政治家になる世界は思ったより早く到来しそうだとして、著者は「2022年春には元おニャン子クラブ生稲晃子氏が参院選への出馬を表明した。それどころではない。実は本物のネコがすでにアメリカ大統領選に出馬済みである。1988年の大統領選挙に出馬したオスネコ『モリス』だ。モリスは当時人気のキャットフードの広告塔だった。テレビや雑誌に出まくっていたモリスの露出度は抜群で、そこらの政治家より高い知名度を誇っていた」と述べます。「おニャン子クラブ」は人間界のアイドルであってネコではありません。また、1988年の大統領選挙に出馬したオスネコ「モリス」というのは、いくらネットで調べたら本当でした。ビックリ!



また、著者は「こうしたことを言うと『しかしネコやゴキブリは言葉をしゃべれない』と言ってくる人が多い。だが、数百年前のヨーロッパ人植民者たちは、自分たちの言語が通じない植民地の他民族のホモ・サピエンスをコミュニケーション相手や(被)選挙権の主体だなどと思っていただろうか? ほとんど動物と同じだと見なしていたからこそ、ごく自然に奴隷として酷使できたのではないだろうか? その精神性が時間をかけて変わってきた」とも述べます。うーん?


また、著者は「ネコやゴキブリでなくてもいい。より現実的で短期的には、VTuber(Virtual YouTuber)やバーチャル・インフルエンサーのようなデジタル仮想人がそういう存在になっていくだろう。VTuberが政治家の身代わりになって、生身の人間政治家への誹謗中傷を引き受ける。その仮想人を鬱や自殺にまで追い込むとスッキリする・・・・・・そんなサービスが出てくれば生身の人間も仮想人もWin-Winだ。そして、VTuberや仮想人の人権を大マジメに議論する時代がくる」とも述べます。


さらに、著者は「ネコやアルゴリズムに責任が取れるのか」という疑問だについて、「そもそも人間の政治家は責任を取れているのだろうか? 今の自民党の執行部には80代の後期高齢者がゴロゴロいる。彼らが社会保障や医療や年金や教育といった制度や政策を作っている。数十年先の社会にこそ影響を与える政策に、80代の政治家は一体どんな責任を取れるのだろうか? 結果が出る頃には確実に亡くなっているというのに。ということは、人間政治家が責任を負えていると盲信することは、死者に責任追及できると言っているのに限りなく近くなる。言葉が通じず言葉も発さない死者は、一体どんな反省の弁を聞かせてくれるだろうか? 墓場に眠る人間が生きたネコや不眠不休のアルゴリズムより責任感に満ちていると信じる理由はどこにあるのだろうか?もはや哲学的である」と述べるのでした。民主主義の再生に向けた民主主義の沈没、それが無意識データ民主主義であるという著者の主張には説得力があり、本書は民主主義のアップデートについて考える最高のテキストでした。最後に、著者の人気の秘密は、頭の良さとともに声の良さにあると思います。

 

 

2022年8月2日 一条真也