沖縄「慰霊の日」

一条真也です。
6月23日は、沖縄の「慰霊の日」です。
全互連の仲間たちが沖縄を訪れていますが、ぜひ、沖縄戦の犠牲者の方々に想いを馳せていただきたいと思います。

 

「慰霊の日」は、太平洋戦争末期の地上戦の犠牲者を追悼する日です。沖縄県では、糸満市摩文仁平和祈念公園にて「令和4年沖縄全戦没者追悼式」を規模を縮小して開催しました。式典では、玉城デニー知事が「平和宣言」を読み上げ、参列者は犠牲者に黙とうを捧げました。わたしも、数珠を持って金沢で黙とうしました。


今から77年前の1945年4月1日、アメリカ軍は、ついに沖縄本島への上陸作戦を開始。日本で唯一、住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられ、住民の死者は9万4000人に上りました。沖縄県民の4人に1人の命が失われたのです。けっして忘れてはならない悲劇です。


那覇から北西へ約60kmには粟国島があります。1945年6月、この小さな島にアメリカ兵が上陸し、防空壕に身をひそめる島民に投降を促しました。市民を巻き込んだ戦いは2カ月以上にも及びましたが、ついにアメリカ軍は地下壕に隠れる市民へ投降を呼びかけました。


日本軍の目的は、大本営(主に日本海軍軍令部)が特別攻撃隊を主力とする航空攻撃により連合国軍に大打撃を与えて、有利な条件で講和を結ぶ「一撃講和」を目指していたのに対し、現地の第32軍司令部は当時想定されていた本土決戦に向けた時間稼ぎの「捨石作戦」(持久戦)を意図するという不統一な状況でした。第32軍はサイパンの戦いなどで失敗した水際防御を避け、ペリリューの戦い硫黄島の戦いで行われた内陸部に誘い込んでの持久戦(縦深防御)を基本方針として戦い、特に首里北方で激戦となりました。海上では、大本営の決戦構想に基づき特別攻撃隊を中心とした日本軍航空部隊が攻撃を繰り返し、戦艦「大和」などの日本海軍残存艦隊による「沖縄特攻」も行われました。日本中が巨大なグリーフに覆われました。


1945年(昭和20年)5月末に第32軍の首里司令部は陥落し、日本軍は南部に撤退しましたが、6月下旬までに組織的戦力を失いました。そして、6月23日には牛島満司令官らが自決。その後も掃討戦は続き、連合国軍は7月2日に沖縄戦終了を宣言し、最終的な沖縄守備軍の降伏調印式が行われたのは9月7日でした。



22日夜には、犠牲者の名を刻んだ平和祈念公園内の「平和の礎」上空に向け、5本のサーチライト「平和の光の柱」が照射されました。光の柱には、日米英、朝鮮半島、台湾の戦没者を区別なく慰霊する思いを込めたとか。まさに仏教の「怨親平等」であり、平和の理想であると思います。拙著『「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林)にも書いたように、日本人の心の中には「怨親平等」の精神が流れているように思います。



 平成の天皇こと明仁上皇は、「日本人として絶対に忘れてはならない日」を4つ挙げておられます。6月23日の「沖縄慰霊の日」、8月6日の「広島原爆の日」、9日の「長崎原爆の日」、そして15日の「終戦の日」です。わたしは、これまで「広島原爆の日」「長崎原爆の日」「終戦の日」などの記事を毎年ブログに書いてきましたが、これからは「沖縄慰霊の日」のことも書いていくつもりです。驚くことに、全国的に「慰霊の日」の存在は知られておらず、日本人の7割以上の方が知らないそうです。小生のささやかな記事によって1人でも多くの方に沖縄戦の史実に関心を持っていただき、犠牲者を追悼する機会になればと願っています。最後に、沖縄戦の犠牲となられたすべての方々の御冥福をお祈りいたします。合掌。


ヤフーニュースより

 

2021年6月23日 一条真也