『勉強が死ぬほど面白くなる独学の教科書』  

一条真也です。
6日、125万部の発行部数を誇る「サンデー新聞」の最新号が出ます。同紙に連載中の「ハートフル・ブックス」の第154回分が掲載されています。取り上げた本は、『勉強が死ぬほど面白くなる独学の教科書』中田敦彦著(SBクリエイティブ)です。

f:id:shins2m:20210302145954j:plainサンデー新聞」2021年3月6日号

 

吉本興業を退社し、シンガポール移住を決めたお笑いコンビ「オリエンタルラジオ」の中田敦彦氏の著書です。YouTuberとしても大活躍の著者ですが、『鬼滅の刃』と「新選組」の解説動画が非常にわかりやすかったので、感銘を受けました。2019年、YouTubeチャンネル「YouTube大学」を開設し、歴史や文学、政治経済などの授業動画の配信をスタート。開設からわずか4か月でチャンネル登録者数が120万人を突破するほどの爆発的な人気を得ました。現在の登録者は、更に増えてなんと330万人以上です。

 

第1章「中田敦彦式 独学勉強法6つのルール」では、「これから、『独学』は必須スキルになる!」として、著者は「僕にとって教養は、『大人の必須アイテム』です。なぜ、必須かというと、教養は自分を『アップグレード』させるために欠かせないものだからです」と述べ、さらには「今、世界がこれまで人類が経験したことがないほどの大きな変化を迎えようとしています。そんな時代に、自分が持っている経験と知識だけで立ち向かおうとするのは、冷静に考えて、かなり無理があります。だから、『新時代を生き抜くための教養』が、大人が生きていく上での必須アイテムなのです」と述べています。

 

著者は、ネット記事を読んだだけで満足してはダメだとして、「ネットで入手できるのは、あくまでも『単発の情報』だからです。ネット記事は散文的で、テーマを立体的に理解するには不十分なのです。ネットの有料ニュースサイトなどで主要な記事をチェックした上で、情報を補完することが大切です。そこで有効なのが、読書。情報収集において、本は最も効率のよいツールです」と述べます。

 

著者の場合、読みやすそうな本を2~3冊まとめて購入し、その足で喫茶店に入り、読み比べるそうです。そのうち1冊を軸にして、残りは補完的に参考にするのだとか。読書法について、著者は「僕は同じ本を2回読みます。1回目はザっと読み、2回目で気になった箇所に線を引くのです。(中略)本を読んでいて気になったキーワードはネットで調べる。この流れが、情報収集法としては、現時点でベストです」と述べています。

 

わたしが感銘を受けたように、著者の「YouTube大学」は、本当にわかりやすくて面白いです。このような動画で学べる現代の子どもたち、いや大人たちも本当に恵まれています。わたしも大学の教壇に立って講義をする身なので、動画での著者のレクチャーぶりは勉強になりました。なお、同動画は、拙著『「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林)を書くときにも参考にさせていただきました。

 

勉強が死ぬほど面白くなる独学の教科書

勉強が死ぬほど面白くなる独学の教科書

 

 

2021年3月6日 一条真也

月旅行に応募しました!

一条真也です。
みなさんもご存知のように、わたしは大の月狂いです。
スタートトゥデイの前澤友作社長が、自身が企画する月周回旅行「dearMoonミッション」について、同乗者となる8人を世界中から募集すると、同氏のYouTubeチャンネルで配信した動画で発表しました。



旅行には、公募する8人を含む計10~12人が参加する予定。月へ行くのに3日間、月の裏側を通り戻ってくるのに3日間のスケジュールを見込むそうです。費用は全額を前澤社長が負担されるとのこと。募集する人材は、幅広い意味での「アーティスト」とし、応募者に求める条件として「宇宙に行くことで自身の活動を成長させ、人や社会の役に立つ可能性を持っている人」、「同乗者をサポートできる人」を掲げています。

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前澤氏(Photographer: Tomohiro Ohsumi/Bloomberg

 

わたしは、経営とはアートであると思っており、また自分は歌人であるとも思っていますので、広い意味での「アーティスト」だと自負しています。さらに、儀式こそは、「人間の魂を天に飛ばす」という意味においてアートそのものであるとも考えています。しかしながら、経営者たるもの、費用を全額、他人に負担してもらうのも気が引けます。本当は、わたしが社長を務める株式会社サンレーが以前から「月面聖塔」や「月への送魂」などの月に関するプロジェクトを推進しており、創立55周年を記念して月へ行きたかったのですが、現在はコロナ禍が冠婚葬祭業界を直撃している「業難」の最中にあり、それどころではありません。前澤社長のクルー募集のニュースは知っていながら、スルーしていました。

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鎌田先生の応募完了画面

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わたしの応募完了画面

すると、本日、「バク転神道ソングライター」こと宗教哲学者の鎌田東二先生からメールが届き、「今しがた、ZOZOTOWNの前澤友作さんが募集している『月周回旅行』同乗者8名に1人として応募しました」と書かれているではありませんか! もうすぐ70歳の大台を迎える鎌田先生を1人で月へやるわけにはいきません。わたしは、もう経営者としての恥も外聞も投げ捨てて、鎌田先生のお供をすることにいたしました。本日、正式に月クルーへの応募が受理されました。わたしは、満月の夜ごとに鎌田先生とWEB上の往復書簡「シンとトニーのムーンサルトレター」を交わしていますが、現在は第191信がUP中です。レター交換は月1回で、1年に12回ですので、191回ということは16年!

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満月交感』と『満月交遊

 

これまでの「シンとトニーのムーンサルトレター」は、第1信から第30信までが『満月交感 ムーンサルトレター(上)』、第31信から第60信までが『満月交感 ムーンサルトレター(下)』、第61信から第90信までが『満月交遊 ムーンサルトレター(上)』、第91信から第120信までが『満月交遊 ムーンサルトレター(下)』(いずれも水曜社)、そして第121信から第180信までが『満月交心 ムーンサルトレター』(現代書林)に収められています。

f:id:shins2m:20201007131729j:plain最新刊『満月交心 ムーンサルトレター

 

往復書簡の継続期間および文章量は他に例を見ないということで、現在、ギネスブックへの申請も真剣に検討されています。なお、前澤社長には知人の編集者を通じて、わが月への熱い想いを綴った拙著『ロマンティック・デス〜月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)をお送りしております。さてさて、どうなりますやら?


ロマンティック・デス』(幻冬舎文庫

 

2021年3月5日 一条真也

 

『禍いの科学』

禍いの科学 正義が愚行に変わるとき

 

一条真也です。
日本でも新型コロナウイルスのワクチン接種が始まりましたが、副作用を心配する声も多いようです。そこで、世界的なワクチン学の権威が書いた本を読みました。『禍いの科学』ポール・A・オフィット著、関谷冬華訳、大沢基保日本語版監修(日経ナショナルジオグラフィック社)です。「正義が愚行に変わるとき」というサブタイトルがついています。著者は1951年生まれ。米国の医学研究者かつ臨床医で、ペンシルベニア大学医学部の教授(ワクチン学および小児科学)。フィラデルフィア小児病院のワクチン教育センターの所長。ロタウイルスワクチンの共同開発者であり、ワクチン研究分野では著名な研究者・臨床医。米国の疾病対策センターCDC)の予防接種諮問委員会委員であり、自閉症科学財団の設立メンバーの一員でもあります。『恐ろしい感染症からたくさんの命を救った現代ワクチンの父の物語』(南山堂)、『反ワクチン運動の真実:死に至る選択』(地人書館)、『代替医療の光と闇 ― 魔法を信じるかい?』(地人書館)など著書多数。

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本書の帯

 

本書の帯には「救世主だったはずなのに いったいどこで間違えたのか?」と大書され、「アヘン」「トランス脂肪酸」「窒素肥料」「優生学」「ロボトミー手術」「DDT禁止」「メガビタミン療法」という単語が並んでいます。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には「SEVEN STORIES OF SCIENCE GONE WRONG」として、「これから7つの発明を紹介するが、それぞれについてどのようにすれば悲惨な結果を回避できた可能性があるかを分析していく。発明が誕生する段階で科学の進歩と科学が引き起こす悲劇を見分けられるのかどうか、あるいは再びパンドラの箱を開くのかを見ていく。そこから導き出される結論は、間違いなく読者を驚かせることだろう。(『はじめに』より)」と書かれています。

 

また、カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「科学の革新は常に進歩を意味するわけではない。パンドラが伝説の箱を開けたときに放たれた凶悪な禍いのように、時に致命的な害悪をもたらすこともあるのだ。科学者であり医師でもある著者ポール・オフィットは、人類に破滅的な禍いをもたらした7つの発明について語る。私たちの社会が将来このような過ちを避けるためには、どうすればよいか。これらの物語から教訓を導き出し、今日注目を集めている健康問題(ワクチン接種、電子タバコ、がん検診プログラム、遺伝子組み換え作物)についての主張を検証し、科学が人間の健康と進歩に本当に貢献するための視点を提示する」

 

さらに、アマゾンの「出版社からのコメント」には、以下のように書かれています。「かつて優生学ロボトミーのようなものが、なぜ熱狂的に受け入れられたのか。後から考えれば不思議で仕方がないが、当時を振り返ればそうなる土壌があったのだ。先導していた科学者にも、普及させた人たちにも悪意があったわけではない。むしろ彼らは良いことをしているつもりだった。ただ、独善的な正義感やわずかな功名心が先走り、判断を狂わせ、結果的に人類史に残る悲劇を招くこととなった。本書は緻密な調査に基づき、科学者たちがどのように新たな発明を生み出し、途中で道を踏み外し、人類を惨禍に陥れていったのかを丹念にたどっていく。医学研究者かつ臨床医である著者は、優れた筆力でぐいぐいと物語の中に私たちを引き込んでいく。そして読み終わったとき、私たちはふと我が身を振り返る。いま私たちが当たり前のように受け入れている様々な新しいものも、もしかしたら禍いの種なのかもしれない。過ちは今まさに繰り返されているのではないか、と」

 

本書の「目次」は、以下の通りです。
「はじめに」
第1章 神の薬 アヘン
第2章 マーガリンの大誤算
第3章 化学肥料から始まった悲劇
第4章 人権を蹂躙した優生学
第5章 心を壊すロボトミー手術
第6章 『沈黙の春』の功罪
第7章 ノーベル賞受賞者の蹉跌
第8章 過去に学ぶ教訓
「エピローグ」
「参考文献」
「索引」



「はじめに」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
フィラデルフィアのフランクリン研究所には、ベンジャミン・フランクリン国立記念碑がある。1824年に設立されたこの研究所は、米国で最古の科学教育機関の1つに数えられる。2014年に、ここで『世界を変えた101の発明(101 Inventions That Changed the World)』という企画展が開かれた。サイエンス・ライターの息子と一緒にこの企画展を訪れ、私たちはどんな発明が紹介されているかを予想してみた。予想の多くは当たっていたが、なかには驚くような発明も入っていた」



「世界を変えた101の発明」のトップ3を占めたのは、低温殺菌、紙、そして人の手によって起こされた火でした。そして、発明のリストは帆船、エアコン、GPS(全地球測位システム)で締めくくられていました。他にリスト入りしたのは、電話、クローン技術、アルファベット、ペニシリン、糸車、予防接種、トランジスタラジオ、電子メール、アスピリンなどだったとして、著者は「私も息子もまったく予想していなかったのは、火薬(20位)と原子爆弾(30位)の2つだった。これらの発明はどちらも、利益よりはるかに大きな害悪をもたらしたことは間違いない。これをヒントに、私は『世界を悪い方向に変えた101の発明』というリストを作れるのではないかと思いついた」と述べています。



第1章「神の薬アヘン」の冒頭を、著者は「最初の薬は、最初の文明から生まれた」と書きだし、続けて「およそ6000年前、旧約聖書に登場するアブラハムの時代に、シュメール人がペルシア(現在のイラン)からチグリス川とユーフラテス川の間に移り住んできた。彼らは楔形文字を発明して40万枚以上の粘土板に書きつけ、農業を発明して大麦、小麦、ナツメヤシ、リンゴ、プラム、ブドウを栽培した。さらに、彼らはある植物を発見した。歴史上で、これほど多くの喜びと、多くの苦しみをもたらした植物は他にない。彼らはこの植物をフル・ギル、「喜びをもたらす植物」と呼んだ。18世紀のスウェーデンの植物学者、カール・リンネはこの植物にPapaver somniferumという学名をつけた。これはケシのことだが、アヘンが採れるものはアヘンケシ(opium poppy)と呼ばれている」と述べます。


ケシの実からとれるアヘンは非常に効力が強く、古代文明においては神から与えられたものだと考えられていたとして、著者は「シュメール人は、これを太陽神ラーの頭痛を癒すために女神イシスが与えた贈り物だと信じていた。17世紀のイギリスの医師・トーマス・シデナムは、『全能の神が苦しみを和らげるために人間に与えた治療薬のなかでも、アヘンほど万能で効き目のあるものはない』と言った。アヘンを神からの贈り物だとする考え方は、20世紀まで続いた。1900年代の初めに、当時最も高名な医師にしてジョンズ・ホプキンス病院の創設者でもあったウィリアム・オスラーは、アヘンを『神の薬』と呼んだ」と述べています。



ギリシャ人もローマ人も、アヘンで商売することはありませんでした。アヘンの取引は、アラブ商人たちの領分でした。彼らが中国に持ち込んだアヘンは、国中を虜にします。「中国での大流行」として、著者は「アヘンが中国に入ってきたのは紀元7世紀頃で、主に薬として使われていたが、菓子類に加えられることもあった。最初のうち、アヘンは気晴らしのような娯楽の一種だった。だが、ポルトガル人が中国に喫煙パイプを持ち込むと、様子は一変し、中国でアヘンは大流行した。このため、庶民が入手できるアヘンが不足した」と述べます。



19世紀にはモルヒネが発明されました。
モルヒネの登場」として、著者は「アヘンは個人に中毒を、社会に破滅をもたらすことが明らかになっているが、優れた鎮静効果があることも確かだ。これに匹敵する薬物は他にない。科学者たちは、アヘンの中毒性をなくし、鎮静効果だけを残す方法を懸命に模索した。最初にそれを試みたのは、1800年代初めのドイツの若き薬剤師だった。1803年、20才の薬剤師見習いだったフリードリヒ・ゼルチュルナーは、アヘンに最も多く含まれ、最も作用が強い成分の単離に成功した。ゼルチュルナーは、ギリシャ神話に登場する夢の神モルフェウスにちなんでこの成分にモルフィウムという名前をつけた。のちに、モルフィウムはモルヒネと名前を改めた」と述べるのでした。

 

第3章「化学肥料から始まった悲劇」では、ドイツ出身の物理化学者、電気化学者であるフリッツ・ハーバーが取り上げられます。1918年にノーベル化学賞を受賞した彼は、空気中の窒素からアンモニアを合成するハーバー・ボッシュ法で知られます。第1次世界大戦時に塩素を始めとする各種毒ガス使用の指導的立場にあったことから「化学兵器の父」と呼ばれることもあります。著者は、フリッツ・ハーバーは、戦争の恐怖をあおる方法を見つけた。その事実は、連合軍の司令官に伝わっていた。『このときの卑劣で忌まわしい害毒のせいで我々の間に広がった恐怖と戦慄を実感としてわかってもらうことは不可能だ』とあるカナダの将校は語った。この事件を『華々しい』と表現したハーバーは、自らが作り出した兵器のおかげでドイツ軍が技術面のみならず、心理面でも優位に立ったことを知っていた」と述べています。



ハーバーは「あらゆる新兵器は戦争に勝利する力となる」と振り返り、「すべての戦争は、兵隊の肉体ではなく、精神との戦いなのだ。新たな兵器は、経験したことがない未知のものであるがゆえに、兵隊はそれを恐れ、士気がくじかれる。大砲が大きく士気に影響することはないが、ガスの匂いには誰もが動揺する」と語りました。著者は、「すべてのドイツ人が手放しでこの事件を称賛したわけではなかった。あるドイツの司令官は次のように書いている。『文明が発展するほどに、人間は卑劣になる』。このときの攻撃は、のちのナチスドイツの人を人とも思わない姿勢に重ねて『消毒作戦』という名で呼ばれた」と書いています。



「戦争をチェスに変える」として、著者は述べます。
フリッツ・ハーバーは、妻がなぜ化学兵器に反対したのか、理解できなかった。それだけでなく、他のノーベル賞受賞者たち数人がそろって自分の受賞スピーチをボイコットした理由もわからなかった。ハーバーにとって、死んだ兵士は死んだ兵士だった。死に方は重要ではないはずだ。肝心なのは、彼らが死んだという事実だけだ。毒ガスは技術が高度に発展した社会の都合に役立つならば、ドイツがそれを利用することのどこに問題があるというのか? 『騎士(ナイト)は銃を持つ人間を否定するが、銃を撃つ兵隊が化学兵器を否定するのも同じことではないのか』とハーバーは言った」



ハーバーが目指したのは、戦争を科学者たちの勝負に変えることだったとして、著者は「より強力な毒ガスを作り、より効率的に毒ガスをまき、ガスマスクなど最高の性能を備えた防護具を作ったものが勝者となる。『毒ガスを兵器とする攻防は、戦争をチェスに変える』と彼は淡々と語った。第二次世界大戦で原爆の投下が正当化されたときと同じ理屈で、ハーバーは化学兵器が奪った人命より多くの人命を救ったと主張した。実際のところ、フリッツ・ハーバーは自分の行為をこの上なく誇りに思っていた。科学が、銃弾や大砲の打ち合いをはるかに超える壊滅的な打撃を与えられることに彼は満足していた。ハーバーにとって化学兵器とは、『隊長の指示に従う剣を持った兵隊を、動けない人間の山に変える』道具だった」と述べています。



イギリスとフランスも化学兵器を使用しましたが、最初に使い始めたのはドイツであり、目覚ましい戦果を挙げました。また、砲弾に毒ガスを入れて、敵に向かって打ち込む作戦を始めたのもドイツでした。1918年には、ドイツの砲弾のおよそ3分の1に毒ガスが仕込まれていました。戦争が終結するまでに、フリッツ・ハーバー化学兵器によって100万人以上が被害にあい、2万6000人が死亡しました。ハーバーはユダヤ人でしたが、洗礼を受けユダヤ教からプロテスタントに改宗しました。ハーバーとは違い、ドイツの多くのユダヤ人科学者たちはキリスト教に改宗しようとはしませんでした。「ユダヤ人を辞めさせろ」というヒトラーの主張には誰もがうんざりしていたのです。



ハーバーと同じく第1次世界大戦中に国のために尽くし、やはり後にノーベル賞を受賞した科学者にジェイムス・フランクがいます。物理学者のフランクは、ユダヤ人が憎まれ、ひどい扱いを受ける土地で生活していくことを拒否し、フランクはゲッティンゲン大学の教授職を辞しました。その前に、彼はフリッツ・ハーバーに「私は学生の前に立って、この件が自分にとってたいしたことではないかのようにふるまうことはできない」「そして、かつて戦争でドイツのために戦ったユダヤ人にドイツ政府が放ってよこした骨にかじりつくことも、私にはできない。皆が地位を手放したくない気持ちはわかるし、尊重するが、私のような人間もいる。だから、君を敬愛するこのジェイムス・フランクを、どうか責めないでほしい」と書いた手紙を送りました。後に、フランクは米国に移住し、ロバート・オッペンハイマーと一緒に原爆の開発に携わりました。



第4章「人権を蹂躙した優生学」では、2016年に米国大統領になったドナルド・トランプが、選挙戦を有利に進めるためにメキシコからの移民を攻撃したと指摘され、著者は「政治家たちは、米国の歴史で一貫して問題となってきたテーマを利用した。それが、移民に対する不安だ。1930年代と40年代に東欧からの移民(主にユダヤ人)を拒否したことや、現在でもカナダをはじめとする諸外国と比較してシリア難民の受け入れ率が著しく低いことを見てもわかるように、米国は門戸の開放に慎重な姿勢を見せることが多かった。しかし、ほとんどの米国人は、このような最悪の偏見への訴えかけが成功した理由の根源が、1世紀前に発表された1冊の科学専門書にあったことを知らない。本の著者は、ニューヨーク市環境保護活動家、マディソン・グラントだ」と述べます。同書の書名は『偉大な人種の消滅(The passing of the great race)』。優生学が注目されるきっかけになりました。



米国で主に発展した優生学は、やがて世界的な現象になりました。1912年、最初の国際優生学会議がロンドンで開催され、アレクサンダー・グラハム・ベルが名誉会長を務めました。会議には、米国、ベルギー、イギリス、フランス、イタリア、日本、スペイン、ノルウェー、ドイツの研究者たちが参加。9年後に、第2回の国際優生学会議がニューヨーク市で開かれました。米国の有名な優生学者、ヘンリー・フェアフィールド・オズボーンが基調講演を行い、「病気の予防と拡大においては科学が政府に道を示してきた」「同様に、社会にとって無用な人々の拡大と増加を防ぐことにおいても政府に道を示す必要がある」と述べました。会議で発表された53報の研究発表のうち、42報が米国の研究者によるものでした。国際性をアピールしていたにもかかわらず、優生学は米国の学問だったのです。



1917年、ハリウッド映画「黒いコウノトリ」が公開され、大衆文化にも優生学が登場しました。「優生学のラブストーリー」と宣伝されたこの映画では、「欠陥」児が葬り去られるまでの過程を描いています。著者は、「この映画が伝えようとしているメッセージ、宣伝しようとしていた内容は、はっきりしている。欠陥のある者を抹殺し、国を救おうということだ。映画は熱狂的なファンを相手に10年以上にわたって上映された。『黒いコウノトリ』のヒットと法律を作る権限を持った議員たちの支援のおかげで、米国が次の段階に進む準備は整った」と述べています。



続けて、著者は「次にやるべきことは、強制不妊手術の合法化だ。これらの手術は医学界や科学界だけでなく、最終的には連邦最高裁判所の承認も得た。優生学者たちは、国家が人口の10%に不妊手術を施し、遺伝子プールから不純な血筋が除かれるまでその劣等10%の不妊手術を継続する必要があると主張した。当面の目標は、1400万人の米国人を対象に不妊手術を行うことだ。第一段階として、米国の32州に居住する6万5370人の貧困者、梅毒患者、知的障害者精神障害者アルコール中毒者、奇形の者、犯罪者、てんかん患者の不妊手術が行われた」と述べます。



『偉大な人種の消滅』を書く前のマディソン・グラントは、米国で唯一無二の影響力を持った自然保護活動家でした。彼はブロンクス動物園を作り、クイーンズ、プロスペクトパーク、セントラルパークなどの動物園とニューヨーク水族館を設計した野生生物保護学会を設立しました。さらに、「グラントは独力でアメリカバイソンを絶滅の危機から救い、アラスカのデナリ、フロリダのエバーグレーズ、ワシントンのオリンピック、モンタナのグレイシャーなどの国立公園の設立において重要な役割を果たした。また、クジラやハクトウワシ、プロングホーンの保護活動にも力を注いだ」と書かれています。



グラントの『偉大な人種の消滅』には多くの反対意見が生まれましたが、おそらく最も鋭く反対意見を書き連ねたのは、イギリスの作家で詩人のG・K・チェスタトンだろうとして、著者は「審議中の移民法に関して、チェスタトンはグレゴール・メンデルの科学と、マディソン・グラントの疑似科学の間にくさびを打ち込んだ。『多発していた魔女狩りに反論するために霊的世界を否定する必要がない以上に、そのような法案に反撃するために遺伝を否定する必要はない』。残念ながら、モーガンやボルチやメンケンやチャスタトンがあげた声は、マディソン・グラントと彼の理論を支持する声にかき消されてしまった」と述べています。



アドルフ・ヒトラー」として、著者は「1925年、マディソン・グラントの『偉大な人種の消滅』はドイツ語に翻訳された。その少し前にドイツ南部のバイエルン政府への反乱を起こそうとして逮捕され、刑務所に送られていた不満を抱えた伍長アドルフ・ヒトラーもこの本を手に取った。読み終わった後で、この36才の革命家はグラントにファンレターを送った。『この本は、私にとっての聖書だ』とヒトラーは書いた。刑務所にいた9ヵ月間、ヒトラーは米国の優生学者が書いた本を何冊も読み、刑務所で過ごした時間を『大学』と呼んだ」と書いています。

 

 

ヒトラーはランツベルク刑務所にいる間、自伝的要素を取り入れ、政治的世界観を披露した著作『我が闘争』の執筆に取り組みました。第1巻は1925年に出版され、続いて1926年に第2巻が出版されました。著者は、「マディソン・グラントの『偉大な人種の消滅』がアドルフ・ヒトラーの『我が闘争』に影響を与えたというのは、過小評価だ。いくつかの箇所で、ヒトラーはグラントの本をほとんどそっくりそのまま引用している」と述べています。

 

 

ヒトラーが政権を握ってから3年後の1936年、ナチ党はマディソン・グラントの『偉大な人種の消滅』を必読書のリストに入れたことを紹介し、著者は「フランシス・ゴルトン、チャールズ・ダベンポート、ハリー・ラフリン、マディソン・グラント、そしてアドルフ・ヒトラーには、いくつかの共通点がある。彼らの定義するところによれば、全員が北方人種であり、全員が北方人種は自由に子孫を残すべきだが、それ以外の人種が子孫を残すことは阻止すべきだと信じており、そして誰にも子供がいなかった」



「ドイツの安楽死計画」として、政権を手にした1933年、アドルフ・ヒトラーは遺伝性疾患子孫防止法を成立させたことを紹介し、著者は「やがて、ヒトラーは強制不妊手術だけでなく、殺人にも手を染めるようになった。障害を持って生まれた子供たちは食事を与えられず餓死したり、致死性薬物を注射されたり、あるいは――古代スパルタのやり方にならって――寒空の下に放り出されたりした。最初のうち、殺されるのはひどい奇形を持った新生児だけだった。やがて、殺される対象となる不適格者の年齢が3才まで引き上げられ、そのうちに8才、12才、16才と段階的に引き上げらえていった。「障害児」の定義も広がり、不治の病にかかっている子供や学習障害の子供も含まれるようになった。慢性の夜尿症までがやり玉に挙がった。ヒトラーの主治医だったカール・ブラントの指揮下で、ドイツの安楽死計画はすぐに高齢者、虚弱者、精神障害者、不治の病の患者に広げられた。7万人以上の成人のドイツ人が殺された」と述べています。



1935年、アドルフ・ヒトラーユダヤ人の市民権をはく奪し、ユダヤ人とアーリア人の性的関係や結婚を禁止したニュルンベルク法を成立させました。米国の優生記録所は、ニュルンベルク法を健全な科学的手段として称賛しました。最終的に、ユダヤ人はゲットー(ユダヤ人隔離地区)に隔離され、ヒトラーがいうところの「最終的解決」のために強制収容所に送られました。「我々が健全な状態を取り戻すにはユダヤ人を完全に排除するしかない」というヒトラーの発言を紹介し、著者は「少なくとも600万人のユダヤ人、スラブ人、ロマ人、同性愛者、『精神障害者』が殺された。北方人種が劣等人種によって劣化させられていくのではないかとマディソン・グラントが恐れた『人種の自滅』は、民族大虐殺(ジェノサイド)に発展した。ヒトラー政権下で副総統を務めたルドルフ・ヘスは、『国家社会主義は生物学の応用に過ぎない』と言った」と述べるのでした。

 

第5章「心を壊すロボトミー手術」では、かつて、精神外科の名のもとに爆発性精神病質などの診断を受けた患者に対し、情動緊張や興奮などの精神障害を除去する目的で前頭葉白質を切除する手術(ロボトミー)が実施されていたことが紹介されます。発案者であるエガス・モニスが考案した術両側頭部に穴をあけ、ロボトームという長いメスで前頭葉を切る「モニス術式」が有名ですが、著者は「モニスが考えていたのは、2ヵ所の前頭葉を完全に除去する前頭葉切除術ではなかった。彼が思い描いていたのは、脳から前頭葉の白質だけを切り離す(切断)手術だった。白質は神経線維が多く白く見えることからこのような名前で呼ばれるが、のちにモニスは、ギリシャ語で白を意味する『leuko』と、ナイフを意味する『tome』にちなんで、この手術をロイコトミー(leucotomy)と命名した。モニスの手術は大西洋を渡って米国に伝わり、ロボトミーという名前で呼ばれるようになった」と説明します。



手術の考案者としての権利を主張するため、モニスは20人の患者についての248ページの主題論文を発表しました。7人が治癒し、7人は症状が大幅に改善され、6人には変化が見られませんでした。著者は、「こうして、精神外科という新たな医療分野が誕生した。これは『大きな前進』だとモニスは述べたもはや患者は、情緒不安や不安発作、幻覚や妄想、躁やうつの状態に悩まされることがなくなるのだ。1930年代後半に入ると、ロボトミーキューバ、ブラジル、イタリア、ルーマニア、米国で行われるようになった。しかし、ポルトガルではロボトミー手術は禁止された。最初にモニスとリマに患者を紹介していた精神科医は、それ以上の患者の紹介を断った。まもなく、ポルトガルの他の精神科医も患者をよこさなくなった。手術が招く結果を誰もが恐れていた」と述べています。



「人間の脳の勇敢なる探索者」として、「手術による悪影響はない」と豪語したモニスが最初にロボトミー手術を行った患者たちの予後は彼の主張とはかけ離れていたことを紹介し、著者は「彼らは、嘔吐や下痢、失禁、眼振(眼球が規則的に勝手に揺れ動く状態)、眼瞼下垂(上まぶたが垂れ下がって来る症状)、盗癖、異常な食欲、今がいつで自分がどこにいるのかわからなくなる見当識障害などに悩まされることが多かった。最初の頃にモニスとリマに患者を送っていたポルトガル精神科医たちは、のちに手術を『純然たる大脳神話』と呼んだ。しかし、スウェーデンノーベル賞委員会の選考委員たちは、これらの問題を気にしなかったか、問題に気づいていなかったようだ。1949年、委員会は『精神疾患の外科的治療法を発明した』としてエガス・モニスに賞を贈ることを決定した」と述べています。



こうして、ロボトミー手術は主流になりました。皮肉なことに、ホロコーストに続いて明るみに出た、残虐かつ非倫理的な実験を医師たちが行うことを防ぐため作成されたニュルンベルク綱領に違反するとして、ドイツはロボトミー手術を一切受け入れなかったとして、著者は「ノーベル賞委員会の発表からの40年間で、世界中で4万件のロボトミー手術が行われ、その半分以上は米国で実施された。米国でこれほどロボトミー手術の人気が高まった裏には、1人の男の固執と狂信的なまでの熱意があった。精神病治療のパンドラの箱を開けたのは、この男だ」と述べます。1942年には、少なくとも7万5000人の精神病患者(ほとんとが精神分裂病だった)が何らかのショック療法を受けていたといいます。


ローズマリーケネディ」として、著者は「アイスピック・ロボトミー手術を発明したとき、ウォルター・フリーマンが目指していたのは、州立病院に重くのしかかっていた貧困者の治療費という財政的な負担を軽くすることだった。だが、フリーマンは富裕層や有名人にもロボトミー手術を施した。劇作家のテネシー・ウィリアムズが書いた戯曲『ガラスの動物園』や『去年の夏突然に』は彼の姉ローズをモデルにしているが、彼女もロボトミー手術を受けている。ビートニク詩人アレン・ギンズバーグの母親もそうだ。だが、フリーマンの手術を受けた患者のなかでも一番の有名人は、ローズマリーケネディだろう。ジョセフ・ケネディとローズ・ケネディの間に生まれ、兄はジョン・F・ケネディ米大統領、弟はロバート・F・ケネディ司法長官とテッド・ケネディ上院議員という家柄の女性だ」と述べます。そんな彼女が父親の命令で前頭葉白質を切除する手術を受けたところ後遺症を負うなど、のちに前頭葉切截術(ロボトミー)の問題点が明らかとなりました。



20世紀半ばまでに、ロボトミー手術は米国の文化においても非常に重要な位置を占めるようになりました。例えば、ロバート・ペン・ウォーレンの小説『すべての王の臣』(1946年)、テネシー・ウィリアムズの戯曲『去年の夏突然に』(1958年)、映画では「素晴らしき男」(1966年)、「猿の惑星」(1968年)、「時計じかけのオレンジ」(1971年)、「電子頭脳人間」(1974年)、「カッコーの巣の上で」(1975年)、「女優フランシス」(1982年)、「レポマン」(1984年)、「ホールインワン(日本未公開)」(2004年)、「アサイラム 狂気の密室病棟」(2008年)、音楽ではラモーンズの「ティーンエイジ・ロボトミー」(1977年)などにロボトミー手術が登場します。



2000年代の初めには、ロボトミー手術はもはや病院が患者をコントロールするための道具として描かれることはなくなり、ホラー映画に登場するようになりました。2008年の「アサイラム 狂気の密室病棟」では、改装されたばかりの学生寮にやってきた6人の大学の新入生が、この建物が以前は精神病院だったことを知ります。回想シーンには、ベッドに縛りつけられた少年、有刺鉄線でできた拘束服を着せられた少女、眼窩からアイスピックが突き出した少年、小型のハンマーを手にした高圧的な背の高い男などが登場します。著者は、「この最後の人物が登場する場面が、おそらくは一番恐ろしい。なぜなら、この身の毛のよだつような恐ろしい場面は、現実に起こったことだからだ。そのような経験をした少年、ハワード・ダリーは、のちに自らの経験を本に書いた。ダリーのロボトミー手術を行ったのは、ウォルター・フリーマンだった。『アサイラム 狂気の密室病棟』のような映画は、ある評論家に言わせれば、『外科医をホラー映画の登場人物にするには、私たちが彼らに抱く信頼をちょっと変化させるだけでいい』ことを示している」と述べています。

 

沈黙の春(新潮文庫)

沈黙の春(新潮文庫)

 

 

第6章「『沈黙の春』の功罪」では、「環境運動の女神」的な存在であるレイチェル・カーソンが取り上げられます。1962年、カーソンは『沈黙の春』を発表しました。彼女は、激しい怒りを抱え、殺虫剤――特にDDT(訳注 代表的な有機塩素系殺虫剤)と呼ばれていた農薬――を徹底的に阻止しようと立ち向かう論客となっていたとして、著者は「E・B・ホワイト(訳注 児童文学で人気の米国作家)を引用した最初のページから、『沈黙の春』が曖昧な表現を使おうとしていないことがはっきりと伝わってくる。『私は人間について悲観している』とホワイトは書いている。『なぜなら、人間は自分たちのために知恵を働かせすぎるからだ。私たちのやり方は、自然を力づくで従わせようとしている。私たちの方がこの惑星に合わせて生活し、懐疑的になったり、横暴にふるまう代わりに、自然の良さを認めていけば、私たちが生き延びられるチャンスは広がるはずだ』」と述べています。



「絶対的な女神」として、著者は「ハリエット・ビーチャー・ストウの『アンクル・トムの小屋』は奴隷制廃止の法制化を、アプトン・シンクレアの『ジャングル』は食品医薬品法の成立を、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』は環境法の整備を実現させた」としながらも、カーソンがDDTの禁止を謳ったことについて、「蚊が媒介する病気はマラリアばかりではない。DDTにより、黄熱やデング熱の発生も大幅に減少した。さらにDDTは、ネズミに寄生して発疹熱を媒介したり、プレーリードッグやジリスに寄生してペストを媒介したりするノミにも効果があった。これらすべての病気が多くの国で事実上根絶できたことを踏まえて、米国科学アカデミーが1970年に行った試算によれば、DDTは5億人の命を救ったと推定された。DDTは、歴史上のどんな化学薬品よりもたくさんの命を救ったといっても過言ではないだろう」と述べます。



また、「最も恥ずべき出来事」として、環境保護活動家たちは「DDTの禁止は究極のジレンマだ」と主張することを紹介し、著者は「DDTが禁止されれば、マラリアで死ぬ人が増える。しかし、DDTが禁止されなければ、白血病や各種のがんをはじめとする様々な病気にかかり、死ぬ人が出るだろう。この論法には、1つの誤りがある。『沈黙の春』でカーソンが警告したにもかかわらず、ヨーロッパ、カナダ、米国の研究により、DDTは肝臓病や早産、先天性異常、白血病、あるいは彼女の主張にあった他の病気の原因にはならないことが示された。DDTの使用期間中に増加した唯一のがんは肺がんだったが、これは喫煙が原因だった。何といっても、DDTはそれまでに発明されたなかでは最も安全な害虫対策だった。他の多くの殺虫剤に比べれば、はるかに安全性が高かった」と述べています。



さらに「政治的判断」として、いろいろな意味でレイチェル・カーソンは重要な警鐘を鳴らしたことを指摘し、著者は「人間はもっと自分たちが環境に与える影響を注視する必要があると言ったのは、彼女が初めてだった。(実際に、気候変動は人為的な活動が直接的に招いた結果だ。)DDTが環境に蓄積される可能性を最初に警告したのも彼女だった。(DDTの散布が中止された後でも、DDTとその副産物は生態系全般に残り続けた。)そして、生物学的なやり方で虫を駆除することはトータルで考えれば益になるのではないかという彼女の予想は正しかった」と述べます。



沈黙の春』の出版から何十年も経ってから、バチルス・チューリンゲンシス(Bacillus thuringiensis israelensis)という蚊の幼虫を殺す細菌がマラリア根絶計画で使用されるようになったことを紹介し、著者は「残念ながら、レイチェル・カーソンは少々やり過ぎた。DDTは小児白血病などの病気を引き起こす、少し前まで元気だった子供が数時間後には死ぬこともあると主張したことで、彼女は人々をひどくおびえさせてしまった。レイチェル・カーソンは科学者だと自称していたが、結局のところ、そうではなかった。彼女は自分の偏った意見に合うように真実を捻じ曲げる論客だった」と断罪するのでした。



第7章「ノーベル賞受賞者の蹉跌」では、20世紀における最も重要な化学者の1人であるライナス・ポーリングが取り上げられます。彼は量子力学を化学に応用した先駆者であり、化学結合の本性を記述した業績により1954年にノーベル化学賞を受賞しました。また、結晶構造決定やタンパク質構造決定に重要な業績を残し、分子生物学の草分けの1人とも考えられています。ワトソンとクリックが1953年にDNAの生体内構造である「二重らせん構造」を発表する前に、ポーリングはほぼそれに近い「三重らせん構造」を提唱していました。多方面に渡る研究者としても非常に有名であり、無機化学有機化学、金属学、免疫学、麻酔学、心理学、弁論術、放射性崩壊、核戦争のもたらす影響などの分野でも多大な貢献がありました。



著者は、「1954年、化学結合たんぱく質の構造に関する研究が認められ、ライナス・ポーリングノーベル化学賞を受賞した。ポーリングは研究以外の活動にも精力的に取り組んでいた。1950年代から1960年代にかけて、ライナス・ポーリングは世界で最もよく知られた平和活動家の1人に数えられるまでになった。彼は原子爆弾の製造に反対し、政府の高官に原子核から放出される放射線が人間のDNAを傷つけることを認めさせた。彼の努力は、初めての核実験禁止条約という形で報われた。さらに、彼は2つ目のノーベル賞となる、ノーベル平和賞を受賞した。ライナス・ポーリングは、異なる分野で2つのノーベル賞を受賞した最初の(そして現時点では唯一の)人物となった。1961年、ポーリングは史上最も偉大な科学者の1人として『タイム』誌の表紙を飾った。しかし、1960年代半ばに、ライナス・ポーリングの転落が始まった」と説明します。ポーリングはメガビタミン療法を誤解したことによって、がんと心臓病のリスクを高めたのでした。



第8章「過去に学ぶ教訓」では、6「用心することにも用心が必要。」として、ダートマス大学医学部のギルバート・ウェルチは、私たちが直面するジレンマを的確に表すたとえを持ち出していることを紹介します。納屋と動物のたとえです。鳥、カメ、ウサギの3匹の動物が納屋にいて、逃げ出す機会をうかがっている。納屋の扉を開けると、3匹は三者三様の速度で逃げ出そうとします。扉を閉める間もなく飛び去ってしまう鳥は、どれほど手を尽くしても患者の命を奪っていくがんに例えられます。そのようながんに早期発見は役に立たず、いずれはその病で命を失うことになります。とにかく進行が早く、悪性度が高い、動きが遅く、どうやっても実際に逃げ出すことはできないカメは、進行がゆっくりで悪性度が低く、命にかかわることのないがんに例えられるとして、著者は「ほぼ間違いなく、患者はがんで死ぬよりも先に、他の理由で人生を終えることになる。これは、死ぬようながんではなく、死ぬまで共存しながら生きていけるようながんだ」と述べます。



扉をすばやく閉めれば捕まえることができるウサギは、発見する意味があるがんに例えられるとして、著者は「このようながんの発見が遅れれば、命にかかわる。しかし、早期に発見できれば、検診があなたの命を救うことになる。がん検診はウサギを見つけ出す場合に限って意味がある。見つかるのがカメや鳥ばかりでは、命を救う効果は期待できない。子宮頸がんを見つけるためのパップテスト(細胞診)や大腸がんを見つけるための大腸内視鏡検査のような一部の検診は、命を救うことにつながる。どちらの検査でも、見つかる病気の多くはウサギだからだ。一方、甲状腺がん前立腺がん、乳がんについては、早期に検診を受ける重要性がはっきりしていない」と述べ、ブログ『死すべき定め』で紹介した本の著者であるジョンズ・ホプキンス大学医学部の外科医アトゥール・ガワンデの「私たちは今、医療業界という金のかかる巨大産業をカメの発見と対応にせっせと取り組ませている」という発言は、この状況を見事に言い得ているといいます。



また、7「カーテンの後ろにいる小男に注意しろ。」として、映画「オズの魔法使」で最後に登場するカーテンの後ろに隠れていた小男オズのエピソードを紹介した後、著者は「1998年イギリスのアンドリュー・ウェイクフィールドという医師が、麻しん・おたふくかぜ・風しんの混合ワクチン(MMRワクチン)が自閉症の原因になると言い出した。イギリスや米国ではMMRワクチンの接種を控える親が続出し、結果として数百人の子供に入院が必要になり、少なくとも4人が麻疹により死亡した。公衆衛生関連団体や学術界も反応し、12件以上の研究が行われて、はっきりとした結果が出た。結果には一貫性と再現性があった。MMRワクチンが自閉症の原因になることはない。アンドリュー・ウェイクフィールドは間違っていたのだ」と述べています。



そして、最後に著者は、数学者で疑似科学の誤りを論破するノーマン・レビットの「ガリレオが権威に逆らったからといって、権威に逆らうものが必ずしもガリレオではない」という言葉を紹介し、「彼らがどれほど一生懸命に自分たちがガリレオだと信じ込ませようとしたとしても」と付け加えるのでした。いずれ新型コロナウイルスのワクチンを接種するであろうわたしは、本書を読んで少々複雑な気分になりましたが、「用心することにも用心が必要。」という著者の教えを噛みしめたいと思います。蛇足ながら、本書は読み物としても非常に面白かったです。夢中になって、一晩で読破しました。

 

 

2021年3月5日 一条真也

『スマホ脳』

スマホ脳(新潮新書)

 

一条真也です。
スマホ脳』アンデシュ・ハンセン著、久山葉子訳(新潮新書)を紹介します。脳科学の最新研究から明らかになった恐るべき真実が書かれた世界的ベストセラーです。著者は、スウェーデン精神科医ノーベル賞選定で知られる名門カロリンスカ医科大学を卒業後、ストックホルム商科大学にて経営学修士(MBA)を取得。現在は王家が名誉院長を務めるストックホルムのソフィアヘメット病院に勤務しながら執筆活動を行う傍ら、有名テレビ番組でナビゲーターを務めるなど精力的にメディア活動を続けています。前作『一流の頭脳』は人口1000万人のスウェーデンで60万部が売れ、その後世界的ベストセラーになりました。

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本書の帯

 

本書の帯には、脳の中にスマホが突き刺さっているイラストが描かれ、「世界的ベストセラー上陸!」「スティーブ・ジョブズはわが子になぜiPadを触らせなかったのか?」「最新研究が示す恐るべき真実」と書かれています。 

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、以下のように書かれています。
●SNSには脳の報酬中枢を煽る仕組みがある
●IT企業トップは子供にスマホを与えない
●“心の病”が増えたその理由
●人生の数年がフェイスブックに吸い取られる
スマホとの接触時間が利益になる企業
●SNSが女子に自信を失わせている
ツイッターに隠された「依存」の仕掛け
●幼児にタブレット学習は向かない
マルチタスクができる人間はごく僅か
●私たちのIQは下がってきている
●集中力を取り戻す具体的な手段

 

カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「平均で一日4時間、若者の2割は七時間も使うスマホ。だがスティーブ・ジョブズを筆頭に、IT業界のトップはわが子にデジタル・デバイスを与えないという。なぜか? 睡眠障害、うつ、記憶力や集中力、学力の低下、依存――最新研究が明らかにするのはスマホの便利さに溺れているうちにあなたの脳が確実に蝕まれていく現実だ。教育大国スウェーデンを震撼させ、社会現象となった世界的ベストセラーがついに日本上陸」

 

さらにアマゾンには、「出版社からのコメント」として以下のように書かれています。
・わたしたちは1日平均2600回スマホに触り、10分に1回手に取っている
・現代人のスマホのスクリーンタイムは1日平均4時間に達する
スマホのアプリは、最新の脳科学研究に基づき、脳に快楽物質を放出する〈報酬系〉の仕組みを利用して開発されている
・10代の若者の2割は、スマホに1日7時間を費やしている
・1日2時間を超えるスクリーンタイムはうつのリスクを高める
スマホを傍らに置くだけで学習効果、記憶力、集中力は低下する
・世界のIT企業のCEOやベンチャー投資家たちの多くは、わが子のデジタル・デバイスへのアクセスを認めていないか極めて厳しく制限している
フェイスブックの「いいね!」の開発者は、「SNSの依存性の高さはヘロインに匹敵する」と発言しているetc,etc・・・。本書を手に取り、ぜひお確かめください。

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「まえがき」
「コロナに寄せて――新しいまえがき」
第1章 人類はスマホなしで歴史を作ってきた
第2章 ストレス、恐怖、うつには役目がある
第3章 スマホは私たちの最新のドラッグである
第4章 集中力こそ現代社会の貴重品
第5章 スクリーンがメンタルヘルスや睡眠に与える影響
第6章 SNS――現代最強の「インフルエンサー
第7章 バカになっていく子供たち
第8章 運動というスマートな対抗策
第9章 脳はスマホに適応するのか?
第10章 おわりに
「デジタル時代のアドバイス
「謝辞」
「人生のバイブルに――訳者あとがき」



「まえがき」で、著者は、人類史上、ここ数十年ほど急速にライフスタイルが変化したことはないと指摘します。しかも変わったのはデジタル関連の習慣だけではないとして、「これまで人類が体験したことのない種類のストレスが存在するようになった。睡眠時間が減り、座っている時間が増えた。そういうことは全部、脳にしてみれば未知の世界なのだ。これがどういう結果を引き起こすのか――この本は、それに答えようとした結果だ」と述べています。



「コロナに寄せて――新しいまえがき」の冒頭を、著者は「今あなたが手にしている本は人間の脳はデジタル社会に適応していないという内容だ」と書きだします。そして、「現在、大人は1日に4時間をスマホに費やしている。10代の若者なら4~5時間。この10年に起きた行動様式の変化は、人類史上最速のものだ。それにはどんな影響があるのだろうか。本書『スマホ脳』では、その点を突き詰めたかった。そして私は科学の力に頼ろうと決めた」と述べます。



著者は、「なぜこれほど多くの人が、物質的には恵まれているのに、不安を感じているのだろうか」「今までになく他人と接続しているのに、なぜ孤独を感じるのか」という問いの答えが次第にわかってきたとして、「答えの一部は、今、私たちが暮らす世界が人間にとって非常に異質なものだという事実だ。このミスマッチ、つまり、私たちを取り巻く環境と、人間の進化の結果が合っていないことが、私たちの心に影響を及ぼしているのだ」と述べています。



また、自動車や電気やスマホは誰にとってもごく自然な存在であり、それらがない世界なんて、今では考えられないとしながらも、「しかし今のこの社会は、人間の歴史のほんの一瞬にすぎない。地球上に現れてから99.9%の時間を、人間は狩猟と採集をして暮らしてきた。私たちの脳は、今でも当時の生活様式に最適化されている。脳はこの1万年変化していない――それが現実なのだ。生物学的に見ると、あなたの脳はまだサバンナで暮らしている」とも述べます。



著者によれば、わたしたち人間は、生物学的にはサバンナの時代から変わっていないという事実が重要な鍵になるといいます。なぜ人間に睡眠や運動の必要性、それにお互いへの強い欲求が備わっているのかを理解する必要があります。こうした欲求を無視し続けると精神状態が悪くなるとして、著者は「睡眠、運動、そして他者との関わりが、精神的な不調から身を守る3つの重要な要素だ。それは研究でもはっきり示されている。それらが減ると、調子が悪くなる。守ってくれる要素がなくなるからだ。だから生活は快適になったのに、なぜ精神状態が悪くなるのか理解できるようになる」と述べています。



現在、世界中の人々が新型コロナウイルスに感染することを怖れています。しかし、著者は「もしあなたがウイルスが心配で眠れなくなるタイプなら、先進諸国でもっとも多い死因である癌や心臓発作についても心配でたまらないはずだ。だが歴史的な視野で見ると、人間の命を奪ってきたのは癌や心臓発作ではない。地球上に現れてから99.9%の時間、飢餓や殺人、干ばつや感染症で死んできたのだ。つまり、人間の身体や脳は、癌や心臓発作から身を守るようにはできていない。そうではなく、飢餓や干ばつ、感染症から身を守れるよう進化してきた。私やあなたの脳の得意分野はそこなのだ。その類の苦難を生き延びてきた人間の子孫なのだから」と述べます。



新しいテクノロジーに適応すればいいと考える人もいますが、著者は違うと思うとして、「人間がテクノロジーに順応するのではなく、テクノロジーが私たちに順応すべきなのだ。フェイスブック他のSNSを、現実に会うためのツールとして開発することもできたはずだ。睡眠を妨げないようにも、身体を動かすためのツールにも、偽情報を拡散しないようにもできたはずなのだ。そうしなかった理由――それはお金だ。あなたがフェイスブックやインスタグラム、ツイッター、スナップチャット〔訳注:日本でのメッセージアプリの主流はLINEだが、欧米で最大のユーザ数を誇るのはフェイスブックメッセンジャーで、10代に人気なのがスナップチャット〕に費やす1分1分が、企業にとっては黄金の価値を持つ。広告が売れるからだ」と述べています。

 

テクノロジーは様々な形で人間を助けてくれますし、もちろんこれからも存在し続けるべきですが、一長一短だということを覚えておかなくてはいけないとして、著者は「そこで初めて、心身ともに健康でいられるような製品を求めることができるのだ。金儲けのために人間の特質を利用するのではなく、もっと人間に寄り添ってくれるような製品を。つまり私たちは人間の基本設定を理解し、デジタル社会から受ける影響を認識しなくてはいけない」と述べるのでした。

 

第1章「人類はスマホなしで歴史を作ってきた」では、「感情があるのは生存のための戦略」として、著者は「生まれて初めて息を吸ってから、人生最後の吐息の瞬間まで、あなたの脳はたったひとつの問いに応えようとしている」と言います。それは「今、どうすればいい?」という問いであるとして、著者は「脳は昨日起きたことなんて少しも気にしていない。すべては現在と未来のためたった今置かれている状況を判断するために記憶を活用し、感情を元にして正しい方向に自分を動かそうとする。だが、ここでいう正しい方向とは、精神状態が良くなったり、キャリアアップしたり、健康を維持したりすることではない。祖先がやったように、生き延び、遺伝子を残すという方向だ」と述べています。



また、他の種と同様に、人間の身体と脳を形成してきた唯一の基本ルールは「生き延びて、遺伝子を残す」ことだとして、著者は「進化は、異なる戦略をいくつも試してきた」と指摘します。例えば、「できるだけ俊敏になって敵から逃げる」もしくは「景色に溶け込み見つからないようにする」。「他の種には取れないような餌を取れるようにする」というのもあります。長い首のおかげで、キリンは他の動物には届かない葉を食べることができます。また別の戦略に、これは人類の場合だが、「生き延びられるよう行動させる」があります。著者は、「つまり感情というのはもともと、キリンの長い首やシロクマの白い毛皮と同じように、生き延びるための戦略だった。身体的な特質を獲得するだけではなく、素早く柔軟に、全力で行動に出られるように進化したのだ」と述べます。



さらに、「決断を下すとき、私たちを支配するのは感情」として、人間のあらゆる活動は――顎を掻くことから、原子爆弾を爆発させることまで――たったひとつの欲求の結果であると指摘し、著者は「その欲求とは、胸の内の精神状態を変えたい、というもの。そこを出発点にして、私たちは感情に支配される。脅かされると、怯えるか怒るか、逃げるか攻撃に出るかだ。身体にエネルギーが足りなくなると、お腹が空き、食べ物を探そうとする」と述べています。

 

ケアの時代「負の感情」とのつき合い方

ケアの時代「負の感情」とのつき合い方

  • 作者:鎌田東二
  • 発売日: 2021/01/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

そして、「ネガティブな感情が最優先」として、著者は「ネガティブな感情はポジティブな感情に勝る。人類の歴史の中で、負の感情は脅威に結びつくことが多かった。そして脅威には即座に対処しなければいけない。食べたり飲んだり、眠ったり交尾したりは先延ばしにできるが、脅威への対処は先延ばしにできない。強いストレスや心配事があると、それ以外のことを考えられなくなるのはこれが原因だ。私たちの祖先は、明るい希望よりも脅威の方がはるかに多い環境に生きていた。負の感情を頻繁に感じるのは、ほとんどの言語で負の感情を表す言葉の方が多数あることからも見て取れる。そもそも、普通の人は負の感情のほうがずっと気になる。争いや修羅場のない映画や小説を読みたい人なんているだろうか」と述べるのでした。



第2章「ストレス、恐怖、うつには役目がある」のコラム「人前で喋る恐怖」では、著者は「あなたがいちばんストレスを感じる瞬間――それは人前で喋るときかもしれない。多くの人が強いストレスを感じる局面なので、スピーチ恐怖症という名前があるほどだ」と述べます。他人の目が自分に向くとなぜ居心地が悪いのでしょうか。著者は、「人間の進化の過程で『共同体から追い出されないこと』が何よりも重要だったからだ。評価を下され、社会的に見下され、集団から追い出されたらどうなるのか――そんな想像が脳のストレスのシステムを作動させ、心臓がどくんどくんと打ち始める」と説明しています。

 

「うつ症状――感染への防御?」として、著者は「うつになるかどうかは、あなたの遺伝子が影響する部分もある」と言います、といっても、うつの遺伝子が存在するわけではなく、何百もの異なった遺伝子が少しずつ貢献しているといいます。その遺伝子によってうつになるかどうかが決まるわけではありませんが、うつになりやすくなります。それに関わる遺伝子を調べていくと、驚くべきことがわかったとして、著者は「うつのリスクを高める遺伝子には免疫を活性化させるものもある。うつと免疫には予想外の遺伝子的繋がりがあったわけだ。ということは、脳にとって、うつは感染症から身を守るための手段なのかもしれない。研究者たちはそう考え始めた」と述べます。



また、感染に対する様々な防御のメカニズムが進化の過程で組み込まれたのは、ごく自然なことであるとして、著者は「そのうちのひとつが、私たちの大事な免疫機能だ。他にも、腐った食べ物は口に入れないよう、激しい嫌悪を感じるといった行動ベースの免疫もある。さらに、こんなメカニズムもある。感染症や怪我のリスクがある状況から逃げ出そうとするのだ。これがまさに、うつと感染症を繋ぐ点だ。実際、うつを引き起こすリスクに影響する遺伝子には、役割が2つあるようだ。ひとつは、免疫機能をきちんと作動させること。もうひとつは、危険や怪我、感染症から距離を置くことだ。後者は、その人間をうつにすることで達成される」と述べるのでした。



第3章「スマホは私たちの最新のドラッグである」の冒頭を、著者は「目につくところになくても、スマホがどこにあるのかは把握しているだろう。そうでなければ、この一文にも集中できていないはずだ。朝起きてまずやるのは、スマホに手を伸ばすこと。1日の最後にやるのはスマホをベッド脇のテーブルに置くこと。私たちは1日に2600回以上スマホを触り、平均して10分に一度スマホを手に取っている。起きている間ずっと。いや、起きている時だけでは足りないようで、3人に1人が(18~24歳では半数が)夜中にも少なくとも1回はスマホをチェックするという」と書きだしています。



「脳は常に新しいもの好き」として、脳は基本的に昔と同じままで、新しいものへの欲求も残っていますが、それが単に新しい場所を見たいという以上の意味を持つようになったことを指摘し、著者は「それはパソコンやスマホが運んでくる、新しい知識や情報への欲求だ。パソコンやスマホのページをめくるごとに、脳がドーパミンを放出し、その結果、私たちはクリックが大好きになる。しかも実は、今読んでいるページよりも次のページに夢中になっているのだ。インターネット上のページの5分の1に、私たちは時間にして4秒以下しか留まっていない。10分以上時間をかけるページは、わずか4%だ」と述べます。



また、ここは本書の最重要点ですが、「IT企業トップは子供にスマホを与えない」として、著者は「IT企業のトップは、自分たちが開発した製品に複雑な感情を抱いている。その最たるものが、アップル社の創業者スティーブ・ジョブズのエピソードだ。ジョブズは、2010年初頭にサンフランシスコで開かれた製品発表会でiPadを初めて紹介し、聴衆を魅了した。『インターネットへのアクセスという特別な可能性をもたらす、驚くべき、比類なき存在』と、iPadに最大級の賛辞を浴びせた。ただし、自分の子供の使用には慎重になっている――ことまでは言わなかった。あまりに依存性が高いことには気づいていたのに」と述べています。



ニューヨーク・タイムズ紙の記者が、あるインタビューでジョブズに「自宅の壁は、スクリーンやiPadで埋め尽くされてるんでしょう? ディナーに訪れたゲストには、お菓子の代わりに、iPadを配るんですか?」と質問しました。すると、それに対するジョブズの答えは「iPadをそばに置くことすらしない」でした。さらに、「スクリーンタイムを厳しく制限している」と話しました。仰天した記者は、ジョブズをローテクな親だと決めつけたそうです。



スティーブ・ジョブズの10代の子供は、iPadを使ってよい時間を厳しく制限されていました。この事実について、著者は「ジョブズは皆の先を行っていたのだ。テクノロジーの開発だけでなく、それが私たちに与える影響においても。絶対的な影響力を持つIT企業のトップたち。その中でスティーブ・ジョブズが極端な例だったわけではない。ビル・ゲイツは子供が14歳になるまでスマホは持たせなかったと話す。現在、スウェーデンの11歳児の98%が自分のスマホを持っている。ビル・ゲイツの子供たちは、スマホを持たない2%に属していたわけだ。それは確実に、ゲイツ家に金銭的余裕がなかったせいではない」と述べるのでした。



第4章「集中力こそ現代社会の貴重品」では、「手書きメモはPCに勝る」として、SNSを見てしまう以外にもパソコンが人間の学習メカニズムに与える影響がある可能性を指摘し、著者は「米国の研究では、学生にTEDトークを視聴させ、一部の学生には紙とペン、残りの学生にはパソコンでノートを取らせた。すると、紙に書いた学生の方が講義の内容をよく理解していた。必ずしも詳細を多数覚えていたわけではないが、トークの趣旨をよりよく理解できていた。この研究結果には、『ペンはキーボードよりも強し――パソコンより手書きでノートを取る利点』という雄弁なタイトルがついた」と述べています。また、著者は「これがどういう理由によるものなのかは正確にはわからないが、パソコンでノートを取ると、聴いた言葉をそのまま入力するだけになるからかもしれない、と研究者は推測する。ペンだとキーボードほど速く書けないため、何をメモするか優先順位をつけることになる。つまり、手書きの場合はいったん情報を処理する必要があり、内容を吸収しやすくなるのだ」とも述べます。



「グーグル効果――情報が記憶に入らない」では、グーグル効果とかデジタル性健忘と呼ばれるのは、別の場所に保存されているからと、脳が自分では覚えようとしない現象であるとして、著者は「脳は情報そのものよりも、その情報がどこにあるのかを優先して記憶する。だが、情報を思い出せなくなるだけではない。ある実験では、被験者のグループに美術館を訪問させ、何点かだけ作品を写真撮影し、それ以外は観るだけにするよう指示した。翌日、何枚も絵画の写真を見せたが、その中には美術館にはなかった絵画も混ざっていた。課題は、写真が美術館で観た絵画と同じかどうかを思い出すことだ。判明したのは、写真を撮っていない作品はよく覚えていましたが、写真を撮った作品はそれほど記憶に残っていなかったことでした。著者は、「パソコンに保存される文章を覚えようとしないのと同じで、写真に撮ったものは記憶に残そうとしないのだ。脳は近道を選ぶ。『写真で見られるんだから、記憶には残さなくていいじゃないか』」と述べています。



著者は、「人間には知識が必要なのだ」と喝破し、「社会と繋がり、批判的な問いかけをし、情報の正確さを精査するために。情報を作業記憶から長期記憶へと移動するための固定化は、『元データ』を脳のRAMからハードディスクに移すだけの作業ではない。情報をその人の個人的体験と融合させ、私たちが『知識』と呼ぶものを構築するのだ」と訴えます。そして、「スティーブ・ジョブズはコンピューターを『脳の自転車』みたいなものだと称した。思考を早くするための道具だ。私たちの代わりに考えてくれる『脳のタクシー運転手』と呼ぶほうが正確かもしれない」と述べるのでした。



第5章「スクリーンがメンタルヘルスや睡眠に与える影響」のコラム「スマホでうつになる?」では、長期のストレスはうつになる危険性を高めますが、現代のデジタルライフとスマホはストレスを引き起こすことが指摘されます。著者自身は、「過剰なスマホの使用は、うつの危険因子のひとつだと。睡眠不足、座りっぱなしのライフスタイル、社会的な孤立、そしてアルコールや薬物の乱用も、やはりうつになる危険性を高める。スマホが及ぼす最大の影響はむしろ「時間を奪うこと」で、うつから身を守るための運動や人づき合い、睡眠を充分に取る時間がなくなることかもしれない」と考えているそうです。



「私たちはなぜ眠るのか」では、「睡眠の何がそんなに重要なのだろう」「自然が、人間やほぼすべての動物に睡眠欲求を備えつけたのはなぜだろうか」という疑問が取り上げられます。著者は、「とりあえず、エネルギーを蓄えるためではない。眠っているときも、起きているときと同じくらい脳はエネルギーを消費している。睡眠時には、昼間壊れたタンパク質が老廃物として脳から除去される。この老廃物は1日に何グラムにもなり、1年間で脳と同じ重さの『ゴミ』が捨てられることになる。夜ごとの巡回清掃は、そもそも脳が機能するために不可欠だ。長期にわたる睡眠不足は、脳卒中認知症をはじめ様々な病気のリスクを高める。それは『清掃システム』がちゃんと機能していないせいだと考えられている」と述べています。



睡眠は記憶の保存に重要な役割を果たしており、それを別の何かで埋め合わせることはできません。著者は、「ある調査では、学生に迷路の解き方を覚えさせた。その後、一部の学生は1時間昼寝をし、残りの学生は起きていた。5時間後、その迷路の解き方をどれくらい覚えているかを調べると、起きていて迷路のことをずっと考えていられた学生たちよりも、しばらく眠った学生たちの方がよく覚えていたのだ。これらの結果を総合すると、訓練だけではなく、訓練とよい睡眠が組み合わさってこそ、何かができるようになるということがわかる。これは特に学校という観点で一考の価値がある。若者に不眠が増えているのだから」と述べるのでした。



第6章「SNS――現代最強の『インフルエンサー』」の章扉の裏には、「比較は喜びを奪う」というセオドア・ルーズベルト(米国元大統領)の金言が掲げられています。「ゆりかごから墓場までの社交性」として、著者は「噂話を通じて互いに目を配るのは敵から身を守るためだけではない。他の動物と違い、人間は本質的に社交性がある。お互いに協力して生き延びてこられたのはそのおかげだ」と述べます。また、社交への欲求は生まれたときから見られるとして、例えば、新生児はただの線よりも顔を思わせる形に焦点を合わせることが紹介されます。著者は、「子供も大人も脳の側頭葉に特定の顔の部分に焦点を合わせる細胞が存在するのだ。このような細胞が複雑なネットワークの中で協業し、会った人の顔を瞬時に解析する。ただし今の時代、噂話をし、コミュニケーションを取り、互いの情報を得るという社交への強い欲求は、スマホやパソコンの中に移動している。この欲求が史上最高の成功を収めた企業の基礎になっているのだ。つまり、フェイスブックと呼ばれる企業の」と述べます。

 

 

「一生のうち何人と知り合えるのか」では、オックスフォード大学の進化心理学者ロビン・ダンバーは、人間はおよそ150人と関係を築けると考えているそうです。それよりもかなり多くの顔を認識し、名前を覚えることもできますが、他の人のことをどう思っているかまで把握できるほど近い関係ともなれば、そのくらいの数字に限定されます。この数はダンバー数と呼ばれていますが、著者は「おもしろいことに、狩猟採集民だった祖先たちは最大150人までの集団で暮らしていたようだ。原始的な農業社会でも、平均的な村の人口は150人だったと考えられている。ダンバー自身はこう述べている。脳の外の『皮』の部分である高次な大脳皮質が人間と動物を分けている。大脳皮質が大きければ大きいほど、その種が暮らす集団は大きくなるのだ、と」と述べています。



「私たちは自分のことを話したい」として、自分のことを話しているときのほうが、他人の話をしているときに比べて、被験者の脳の複数箇所で活動が活発になっていました。特に前頭葉の一部、目の奥に位置する内側前頭前皮質(medial prefrontal cortex)で。著者は、「ここは主観的な経験にとって大事な領域なので、驚くことではない。しかし、もうひとつ別の箇所でも活動が活発になっていた。俗に報酬中枢と呼ばれる側坐核(nucleus accumbens)だ。セックス、食事、人との交流に反応する領域が、私たちが大好きな話題――つまり自分自身のことを話しているときにも活性化するのだ」と述べます。



「SNSを使うほど孤独に」として、2000人近くのアメリカ人を調査したところ、SNSを熱心に利用している人たちのほうが孤独を感じていることがわかった事実が紹介されます。著者は、「この人たちが実際に孤独かどうかは別問題だ。おわかりだろうが、孤独というのは、友達やチャット、着信の数で数値化できるものではない。体感するものだ。そしてまさに、彼らは孤独を体感しているようなのだ」と述べます。



コラム「手薄になる自己検閲」では、複数の研究によって明らかになったのは、対面で話すにはプライベート過ぎると思うようなことまでネット上ではいとも簡単にシェアしてしまうことだったとして、著者は「おそらくこういうことだろう。誰かが目の前にいると、私たちは自分の行動を制限できる。相手の表情や身振りが目に入るからだ。『あれ、なんだか信用していないような表情だな。これ以上言うのはやめておこう』というように。ところがフィードバックをもらえないと自己検閲は機能しない。そのため、実生活では3人にも言えないようなプライベートなことをフェイスブック上ではやすやすと300人に語れてしまうのだ」と述べています。



著者は、これまでの経験から、うつには主に2種類あると気づいたそうです。職場や人間関係など、長期のストレスに起因するもの。それから、社会的な地位を失ったことに起因するもの。クビになったりパートナーに捨てられたりした場合です。「デジタルな嫉妬」として、SNSを通じて常に周りと比較することが自信を無くさせていることを指摘し、著者は「フェイスブックツイッターのユーザーの3分の2が『自分なんかダメだ』と感じている。何をやってもダメだ――だって、自分より賢い人や成功している人がいるという情報を常に差し出されるのだから。特に、見かけは」と述べます。



また、10代を含む若者1500人を対象にした調査では、7割が「インスタグラムのせいで自分の容姿に対するイメージが悪くなった」と感じていました。20代が対象の別の調査では、半数近くが「SNSのせいで自分は魅力的ではないと感じるようになった」と答えていまう。同じことが10代にも当てはまります。あるアンケートでは、12~16歳の回答者の半数近くが「SNSを利用したあと、自分の容姿に不満を感じる」というのです。これらの結果から、著者は「男子に比べ、女子の方がさらに自信が揺らぐようだ」と分析しています。



フェイスブックが人生の満足度を下げる」として、著者は「フェイスブックを使った人ほど、人生に満足できていなかった。珍しいバカンスや高級グルメの写真に集中砲撃されると、短時間でも人生への満足度が下がる可能性があるのだ。この結果は、立証とまでは言えなくても示唆にはなる。論文の著者たちはこのように結論づけている。『フェイスブックは表面的には、人間のソーシャルコンタクトへの本質的な欲求を満たしてくれる貴重な場である。しかし、心の健康を増進するどころか悪化させることを調査結果が示唆している』」と述べています。



「他人は自分を映す鏡」として、他人を理解したいという生来の衝動は心の理論(theory of mind)と呼ばれることが紹介されます。他人の頭の中を理解しようとするとき、ミラーニューロンが重要な役割を果たしますが、脳がどう動くのかははっきりとはわかっていません。ただ、判断を下すときに脳が大量の情報を集めることはわかっています。著者は、「相手の発言だけではなく、目の動きや表情、仕草、態度、声の調子、さらにはその人に対する他の人たちの反応などが判断基準になる」と述べています。



脳はたいていの場合、こららの情報を無意識に処理し、相手の考えや感じていること、意図していることを体験理解という形で納品します。著者は、「心の理論は、誰かに会ったり、その人を見ただけでも作動する。あなたの脳は絶え間なく他人の気持ちをシミュレーションしようとしているのだ。それはなぜだろうか。おそらく、相手の行動を予測し、対応策を考えるためだ。すでに書いた通り、脳は終始『今、どうすべきか』という問いに答えようとしているのだから」と述べます。



著者によれば、脳のミラーニューロンを最大限に機能させるためには、他人と実際に会う必要があります。演劇や映画を観ているときのミラーニューロンの活動を計測すると、「IRL(現実の世界)」で人と会うときほどミラーニューロンが活性化されることはありませんでした。著者は、「人と会うのの次に活性化するのは演劇鑑賞だった。映画鑑賞に同じ効果はなく、ミラーニューロンは活性化されるものの、目の前で何かが起きているときほどの強さではない。映画のスクリーンやパソコンのモニターで何かを見ても、他人の考えや気持ちを本能的に理解する生物学的メカニズムに同じだけの影響はないというわけだ」と述べています。



「あなたの注目を支配しているのは誰?」として、著者はドーパミンに言及し、「脳に日々何百というドーパミン増加を与えてくれる小さな機械。あなたの注目がそれに引き付けられるのを、マーケティング担当者は知っている。喉から手が出るほど周りの人の情報を欲しがっていて、脳が新しい情報を取り込む準備は万端だというのも知っている。それに、これから送ろうとするメッセージを、あなたの脳が知ってか知らずかポジティブに捉える――それもわかっての上だ。あなたのSNSに流れる情報の洪水の只中に巧妙に広告を出すことで、目的が達成されるのだ」と述べています。



また、「デジタル軍拡競争」として、自動車メーカーは、常に車の性能を向上させ、安全で環境に優しく、そして値段も抑える努力をしなければならないことが指摘されます。その流れについていけないメーカーは、遅かれ早かれ経営危機に陥るわけです。一方、フェイスブック他のSNSにとっての最大の財産は、あなたの注目であり、だからそれをうまく引きつけるような製品を作らなくてはならないことが指摘されます。でないとそのうち潰れてしまうのは目に見えています。著者は、「つまりあなたの注目は手堅い通貨のようなもので、デジタル軍拡競争は日々激しさを増している。アプリやスマホ、ゲームやSNSの作り手はメカニズムにさらに磨きをかけ、数々の雑音を潜り抜けてあなたの頭の中に入ってこようとする。私たちの注目を勝ち取るべく、脳のドーパミンのシステムをハッキングするのがますます上手になっている」と述べます。



「どんな商品が欲しいのか、決めるのは私たち」として、著者は「スマホに夢中になるあまり、周りで何が起きているのかさえ気づかないような人を街で見かけることがある。『スマホを支配しているのはあの人なのか、それともスマホがあの人を支配しているのか?』そう考えるのは私だけでなく、シリコンバレーの巨人たちも、自社の製品への後悔の念を露わにしている。特にSNS関係でそれが顕著だ。フェイスブックの元副社長のチャマス・パリハピティヤはあるインタビューで、『SNSが人々に与えた影響を悔いている』と発言した。『私たちが作り出したのは、短絡的なドーパミンを原動力にした、永遠に続くフィードバックのループだ。それが既存の社会機能を壊してしまった』フェイスブックで初代CEOを務めたショーン・パーカーも、同社が人間の心の脆弱性を利用したと明言している。彼もまた、こう言わずにはいられなかった。『子供の脳への影響は神のみぞ知る』」と述べるのでした。



第7章「バカになっていく子供たち」のコラム「なぜ前頭葉は最後に成熟するのか」では、複雑な社会的協調を理解し参加するために、前頭葉は訓練を必要とするとして、著者は「研究者によっては、その訓練がデジタルライフに脅かされると考えている。実際に会わずにスクリーン上での社交が大半になると、前頭葉が必要としている社会的技能の訓練ができなくなるのではないか、と。多くの人にはさほど問題にはならないかもしれないが、もともと他人の考えや感情、意図を分析するのが苦手な人の場合、訓練不足の影響が出るかもしれない。例えば、自閉症と診断されている人たちなどは」と述べています。



また、「若者の精神不調が急増している」として、スマホやパソコンの前で過ごす時間が長いほど、気分が落ち込むことが指摘され、著者は「パソコン、スマホタブレット端末を週に10時間以上使うティーンエイジャーがもっとも『幸せではない』と感じている。その次が6~9時間使用する若者だ。つまり、4~5時間以下の若者よりも『幸せではない』と思う率が高い。そんな調子で続く。スクリーンタイムと聞いて思い浮かぶすべて――SNS、ネットサーフィン、ユーチューブの動画にゲーム――が精神的な不調に繋がっていた。一方、それ以外のことをする場合、つまり誰かと会ったりスポーツしたり、楽器を演奏したりすると精神的に元気になる傾向があった」と述べています。



「長期調査の結果も同じ」として、2011年に、米国の若者は以前より孤独を感じるようになり、眠りも悪くなったことが指摘されます。以前のようには友達と会わなくなり、デートもせず、アルコールの量も減り、運転免許を取ることにも関心がなくなったそうです。同じ年にiPhoneが高級なガジェットから、年間売り上げ1億2000万台を超える存在になりました。この年だけで2007~2010年と同じ台数が売れたのです。また、スマホからつながるインターネットが本格的に普及し、突如として若者のほとんどがスマホを手にするようになったといいます。


さらに、「インターネットを携帯できるようになった時代」として、著者は「精神科を受診する若者が急増した2010年から2016年。その時期に若者の生活に起きた最大の変化、それはスマホからインターネットにアクセスできるようになったことだ。それまでほぼ存在しなかったものに、1日平均4時間を費やすまでになった。若者、いや大人にとっても、これほど急速で大規模な行動の変化は近代になかった。おそらく人類史上一度もなかった」と述べるのでした。



第8章「運動というスマートな対抗策」では、「子供でも、大人でも、運動がストレスを予防する」として、著者は「世界保健機関(WHO)によれば、現在10人に1人が不安障害を抱えている。興味深いのは、よく運動をしている人たちにはそれほど不安障害が見られないことだ。これでも、運動が不安を予防するというのをまだ信じられないだろうか。大丈夫。合計700人近くの患者を対象にした15件の研究をまとめると、こんな結果が得られる。運動やトレーニングをすることで、不安から身を守ることができる。不安障害の診断を受けていても、正常の範囲内の不安であってもだ。これまでの調査と同様、心拍数が上がる運動によって最大の効果を得られる」と述べています。



第9章「脳はスマホに適応するのか」では、「私たちは何を失いかけているか」として、文化や科学技術の躍進の多くは、徹底的に集中する能力を持った人たちによってなされてきたものだということが指摘され、著者は「相対性理論やDNA分子の発見、それにiPhone――皮肉なことに、集中力を乱すのにうってつけの道具――の開発には、尋常ではない集中力が求められた。自分自身のことを考えてみても、スポーツや楽器、プログラミング、記事の執筆、料理――あなたに特技があるならそれがなんであれ、集中して努力してきた覚えがあるだろう」と述べています。

 

 

また、著者はブログ『ネット・バカ』で紹介した本を書いた作家ニコラス・カーを取り上げます。カーは、同書で印刷技術が大衆に著しい集中力を与えた様子を描写しました。1冊の本を開けば、突如として他の人間の思考に身を置くことができ、その人が書き記した文章に集中することができるというのです。著者は、「カーは、インターネットは本とは真逆の存在だと考えている。インターネットは深い思索を拡散してはくれない。表面をかすめて次から次へと進んでいくだけだ。目新しい情報とドーパミン放出を永遠に求め続けて」と述べます。



「テクノロジーで退化しないために」として、カロリーを得ることが私たちの健康のメリットにもデメリットにもなるように、デジタル化も私たちの脳に諸刃の剣となり得ることが指摘されます。著者は、「ボタンひとつで世界中の情報を手に入れられるのは、私たちの先祖には想像もつかないような贅沢だ。デジタル化のおかげで知能を効率的に使えるようになり、想像を絶するような創造性も与えられたかもしれない。しかし毎日何千回もスマホをスワイプして脳を攻撃していたら、影響が出てしまう。注意をそがれるのが慢性化すると、その刺激に欲求を感じるようになる。刺激自体が存在しないときにまで」と述べます。

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わたしの「 iPhone12ProMax」

 

本書を読んで、ツイートやフェイスブックの小さな情報に「いいね」を取り込むことに慣れれば慣れるほど、複雑化する社会でいちばん必要な大きな情報の塊をうまく取り込めなくなることがわかりました。そして、スマホの持つ危険性が痛いほどよくわかりました。といっても、移動するにの必要な機械である自動車が人も殺傷することができる危険性を持っていることを考えれば、悪いのは機械そのものではなく、それを使う人間のあり方であることがわかります。ブログ「iPhone12ProMax」で紹介したように、わたしは最新鋭のスマホを入手しましたが、スマホ依存症になって本を読まなくなるということはないでしょう。まあ、せっかくの情報最新兵器を適度に使っていきたいと思います。

 

スマホ脳(新潮新書)

スマホ脳(新潮新書)

 

 

2021年3月4日 一条真也

営業推進部総合朝礼 

一条真也です。
3月3日は、ひな祭り。その日の11時から、サンレー北九州本部の営業推進部の総合朝礼に参加しました。営業推進部の総合朝礼は、わが社にとって非常に大切な行事です。今回は、創立55周年を記念した「GOGOスプリングキャンペーン」の開始に合わせた開催ですが、わたしは、桃の節句にちなんでピンクの不織布マスクとピンクのネクタイ姿で入場しました。
f:id:shins2m:20210303131136j:plain春マスクにピンクのネクタイで入場!

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営業推進部総合朝礼のようす

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勇壮なふれ太鼓

f:id:shins2m:20210303131348j:plain最初は、もちろん一同礼!

 

会場は、わが社が誇る儀式の殿堂である小倉紫雲閣の大ホールです。参加者全員がマスク姿で、ソーシャルディスタンスをしっかり取りました。司会は、営業推進部の辻社員です。わたしが入場すると、営業推進部の武田課長による勇壮なふれ太鼓が鳴り響きました。それから「開会の辞」があり、社歌が流れました。今日は、マスクの下から小声で斉唱しました。それから、飯塚営業所の辻所長による経営理念およびS2M宣言がありました。コロナ前は全員で大声で唱和しましたが、今日は辻所長に合わせて、マスク越しに小声で唱和しました。

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経営理念&S2M宣言の唱和

f:id:shins2m:20210303131627j:plain春を呼ぶマスクで登壇

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春を呼ぶマスクを外しました

 

そして、わたしが登壇して社長訓話を行いました。わたしは、まず、「昨日で福岡県の緊急事態宣言が解除されました。今日は、桃の節句です。女の子のお祭りですが、ここには女の子が多いので(笑)、桃の花と同じ色のピンクの不織布マスクを着けてきました。本格的な春の訪れを願っています。そして、いよいよ、GOGOスプリングキャンペーンですね」と言いました。

f:id:shins2m:20210303131722j:plain社長訓示のようす

 

それから、わたしは以下のような内容の社長訓示を行いました。昨年、世間では新型コロナウィルスと『鬼滅の刃』の話題で持ちきりでした。『鬼滅の刃』とは、吾峠呼世晴氏の漫画で、アニメ化・映画化され大ヒットし、もはや社会現象にまでなっています」と言いました。この物語のテーマは、わが社が追求している「グリーフケア」です。鬼というのは人を殺す存在であり、悲嘆(グリーフ)の源です。そもそも冒頭から、主人公の竈門炭治郎が家族を鬼に惨殺されるという巨大なグリーフから物語が始まります。また、大切な人を鬼によって亡き者にされる「愛する人を亡くした人」が次から次に登場します。それを鬼殺隊に入って鬼狩りをする人々は、復讐という(負の)グリーフケアを行います。しかし、鬼狩りなどできない人々がほとんどであり、彼らに対して炭治郎は「失っても、失っても、生きていくしかない」と言うのでした。これこそ、グリーフケアの言葉ではないでしょうか。

f:id:shins2m:20210303131927j:plain鬼滅の刃』は「供養」と「ケア」の物語!

f:id:shins2m:20210303131808j:plain熱心に聴く人びと

 

炭治郎は、心根の優しい青年です。鬼狩りになったのも、鬼にされた妹の禰豆子を人間に戻す方法を鬼から聞き出すためであり、もともと「利他」の精神に溢れています。その優しさゆえに、炭治郎は鬼の犠牲者たちを埋葬し続けます。無教育ゆえに字も知らず、埋葬も知らない伊之助が「生き物の死骸なんか埋めて、なにが楽しいんだ?」と質問しますが、炭治郎は「供養」という行為の大切さを説くのでした。さらに、炭治郎は人間だけでなく、自らが倒した鬼に対しても「成仏してください」と祈ります。まるで、「敵も味方も、死ねば等しく供養すべき」という怨親平等の思想のようです。『鬼滅の刃』には、「日本一慈しい鬼退治」とのキャッチコピーがついており、さまざまなケアの姿も見られます。

f:id:shins2m:20210303131746j:plainハートフルなホワイト企業を目指そう!

f:id:shins2m:20210303131953j:plain熱心に聴く人びと

 

鬼滅の刃」という物語は基本的には戦の話です。一方に、鬼舞辻無惨をリーダーとして、「上弦」たちがトップを占める「鬼」のグループ。他方に、「お館様」こと産屋敷耀哉をリーダーとして、「柱」たちがトップを占める「鬼殺隊」のグループ。この両グループが死闘を繰り広げる組織vs組織の戦争物語です。なので、マネジメントやリーダーシップの観点からも興味深い点が多々あります。恐怖心で鬼たちを支配する鬼舞辻無惨はハートレス・リーダーであり、鬼殺隊の剣士たちを心から信頼し、リスペクトする産屋敷耀哉はハートフル・リーダーです。両陣営の闘いは「ブラック企業vsホワイト企業」と言ってもいいでしょう。ホワイト企業には志や使命感があることも確認できました。そして、わが社の行き方が間違っていないことも確認できました。

f:id:shins2m:20210303110928j:plain渋沢栄一について語りました

 

ハートフル・リーダーといえば、まさに孔子が『論語』の中で唱えた「君子」です。新しいNHK大河ドラマ「青天を衝け」がスタートしましたが、主人公は新1万円札の顔になる渋沢栄一です。渋沢栄一は、約500の企業を育て、約600の社会公共事業に関わった「日本資本主義の父」として知られています。晩年は民間外交にも力を注ぎ、ノーベル平和賞の候補に二度も選ばれています。その彼が生涯、座右の書として愛読したのが『論語』でした。渋沢栄一の思想は、有名な「論語と算盤」という一言に集約されます。それは「道徳と経済の合一」であり、「義と利の両全」です。

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めざすところは人間尊重!

 

結局、めざすところは「人間尊重」そのものであり、人間のための経済、人間のための社会を求め続けた人生でした。第一国立銀行(現在の東京みずほ銀行)を起こしたのをはじめ、日本興業銀行東京銀行(現在の東京三菱)、東京電力東京ガス王子製紙、石川島造船所、東京海上火災東洋紡清水建設麒麟ビール、アサヒビールサッポロビール、帝国ホテル、帝国劇場、東京商工会議所東京証券取引所聖路加国際病院日本赤十字病院、一橋大学日本女子大学東京女学館など、おびただしい数の事業の創立に関わりました。

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最後に道歌を披露しました

 

渋沢は、「自分さえ儲かればよい」とする欧米の資本主義の欠陥を見抜いていました。ですから、彼は「社会と調和する健全な資本主義社会をつくる」ことをめざしますが、その拠り所を『論語』に求めました。それは、彼が会社を経営する上で最も必要なのは、倫理上の規範であると知っていたからです。結局、めざすところは「人間尊重」そのものであり、人間のための経済、人間のための社会を求め続けた人生でした。 『論語』はわたしの座右の書でもありますが、わたしの「庸和」という名も、松柏園ホテルの「松柏」も、すべて『論語』に由来します。「論語と算盤」はサンレーの経営哲学そのものです。わたしは、「どうか、この精神で、GOGOスプリングキャンペーンを頑張って下さい!」と述べてから、次の道歌を披露しました。 

 

利の元は義にあることを知りたれば

      天下布礼の道は開けり

 

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わが社の志を歌に詠み込みました

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挨拶をする松田常務

社長訓話の後は、今年から北九州本部長に就任した松田常務から挨拶がありました。松田常務は持ち前の大きな声で、「このコロナ禍の中で、みなさんの大活躍には頭が下がります。今年は、創立55周年の記念すべき年です。これからも、よろしくお願いします!」と述べました。マスク越しであっても、松田常務の大きな声を聴くと気合が入ります。福岡での快進撃も含めて、大いに期待しています!

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柔道着姿で選手宣誓!

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必ず、一本を狙います!

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ハートフル・スタンプで頑張ります!

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桃の節句の女の子パワー炸裂!

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いきなり筋肉体操?

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コロナ太りを解消します!(笑)

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お館さまに口上を述べる柱たち

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鬼殺隊の剣士が登場!

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フレディ・マーキュリーが大量発生!

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初お目見えの福岡営業所

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前川清さんとともに・・・・・・

 

各営業所長およびブロック長による決意表明が行われました。北九州だけで3ブロック・12営業所および研修センターがあるのですが、それぞれに趣向を凝らした決意表明でした。いつもは営業所長の音頭に合わせて、営業員さんたちが声を揃えたり、拳を突き出したり、「達成」などと書かれた団扇を振ったり、歌を歌ったりするのですが、感染防止のために今回は控えめに行いました。それでも、熱気はビンビン伝わってきました。みなさん、まことにユニークで楽しい決意表明を見せてくれました。

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社長への手紙を読む森さん

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思わずハンカチを目に当てました

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田川の極道が本物みたいでした(笑)

f:id:shins2m:20210303120206j:plain田川営業所の内輪揉め!

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飯塚営業所は3分間クッキング!

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マスクの下は笑顔です!

 

また、ホロリと来た場面もありました。行橋営業所の決意表明の際に、前回と同じく、わが社が誇るスーパースターの森シゲ子さんから「社長へ」と題する手紙が朗読されました。森さんは冒頭で、「いつも働かせていただいて、ありがとうございます。また、ゆくはし三礼庵をオープンしていただき、本当にありがとうございます」と感謝の言葉を述べ、最後に「社長にお願いがあります。わたしは、この仕事が大好きです。わたしを100歳まで働かせてくれれば、もっと社長のお役に立ってみせます!」と言いました。それを聞いたわたしは、思わずハンカチで目頭を押さえました。

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講評を述べました

f:id:shins2m:20210303140643j:plainみなさんなら、必ず、やれます!

 

すべての決意表明が終わった後、わたしは「コロナの時代の素晴らしい決意表明でした。なによりも明るいのがいい。コロナ禍の中で、こんなに明るい会社が他にあるでしょうか? ぜひ、全員が全集中、互助の呼吸・営業の型で、目標達成を果たしていただきたい。マスクから覗いた目はランランと燃えています。みなさんなら、必ず、やれます!」と講評しました。

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これが「和のこえwithコロナ」だ!

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がんばろー×3

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最後は、もちろん一同礼!

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退場のようす

 ラストは小谷部長代理による「和のこえ」でした。コロナで手が繋げないので、各自が拳を突き上げて「がんばろー!」と3回唱える「和のこえwithコロナ」です。わたしは「これなら行ける!」と思い、猛烈なファイトが湧いてきました。念願の福岡市への進出も果たしましたし、これからが勝負です!

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「かたち」で「こころ」を1つに!

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何事も陽にとらえて、前進を!

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コロナなんかに負けないぞ!

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2021年3月3日 一条真也

『みんなの民俗学』

みんなの民俗学: ヴァナキュラーってなんだ? (960) (平凡社新書)

 

一条真也です。
3月3日は「ひな祭り」です。「ひな祭り」のような年中行事は民俗学の研究テーマですね。ということで、『みんなの民俗学島村恭則著(平凡社新書)を読みました。「ヴァナキュラーってなんだ?」というサブタイトルがついています。著者は、1967年東京生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得退学。博士(文学)。現在、関西学院大学社会学部・大学院社会学研究科教授、世界民俗学研究センター長。専門は、現代民俗学民俗学理論。著書に『民俗学を生きる』(晃洋書房)、『〈生きる方法〉の民俗誌』(関西学院大学出版会)、『日本より怖い韓国の怪談』(河出書房新社)、『文化人類学と現代民俗学』(共著、風響社)、編著に『引揚者の戦後』(新曜社)、『民俗学読本』(共編著、晃洋書房)などがあります。 

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本書の帯

 

帯には、ラーメンとアマビエのイラストとともに、「どうしてこれが民俗学!?」と大書され、「大学の七不思議」「B級グルメ」「わが家のルール」「パワーストーン」「喫茶店モーニング」「アマビエ」の文字が並びます。カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
民俗学が田舎の風習を調べるだけの学問というのは誤解だ。キャンパスの七不思議やわが家のルール、喫茶店モーニングやB級グルメといった現代の日常も、民俗学の視点で探ることができる。本書ではこれらの身近なものをヴァナキュラーと呼んで〈現代民俗学〉の研究対象とした。発祥の経緯やその後の広がりを、数々のユニークなフィールドワークで明らかにする」 

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本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
 序章 ヴァナキュラーとは〈俗〉である
    1 私と民俗学
    2 民俗学とはどのような学問か?
    3 ヴァナキュラー
第1部 身近なヴァナキュラー
第1章 知られざる「家庭の中のヴァナキュラー」
第2章 キャンパスのヴァナキュラー
第3章 働く人たちのヴァナキュラー
    1 消防士のヴァナキュラー
    2 トラックドライバーのヴァナキュラー
    3 鉄道民俗学
    4 水道マンのヴァナキュラー
    5 裁判官にもあるヴァナキュラー
    6 OLの抵抗行為
【コラム①】ヴァナキュラーな時間
第2部 ローカルとグローバル
第4章 喫茶店モーニング習慣の謎
    1 日本各地のモーニング
    2 アジアの「モーニング」
    3 モーニングをめぐる考察
第5章 B級グルメはどこから来たか?
【コラム②】なぜ大晦日の夜に
      「おせち料理」を食べるのか?
第6章 水の上で暮らす人びと
第7章 宗教的ヴァナキュラー
    1 パワーストーンとパワースポット
    2 フォークロレスクとオステンション
    3 グローバル・ヴァナキュラー
      としてのイナリ信仰
【コラム③】現代の「座敷わらし」
【コラム④】初詣で並ぶ必要はあるのか?
「おわりに」

 

序章「ヴァナキュラーとは〈俗〉である」の1「私と民俗学」では、「死が怖い」として、子どもの頃の思い出では、「死が怖い」というのがあったと告白し、著者は「現在では、お葬式はセレモニーホールなどで行われるが、かつては自宅が多かったので、町内の電柱に、葬式のある家の方向を案内する指差しマークがよく貼ってあった。私は、通学路でときどき見かけるこの指差しマークがとても怖く、角を曲がったら、喪家の門前に飾られた花輪が突然視界に入ってくることもあり、これも怖い。前を通れなくて、息を止めて歩いていた。それから、新聞をめくると、死亡広告が載っているが、あれも怖い。死亡広告の部分に触れないよう、新聞は上の方を持ってめくっていた。これは、小学校高学年のときから高校生まで続いた。自分でも頭がおかしいのではないかと思っていた。霊柩車に出会ったら親指を隠すことは、多くの人がやったことがあると思うが、それのもっと激しいものというと、この感覚を理解してもらえるかもしれない」と述べています。

 

日本の葬式 (筑摩叢書)

日本の葬式 (筑摩叢書)

 

 

また、「民俗学と出会う」として、著者が高校2年生のとき、たまたま渋谷の紀伊國屋書店民俗学コーナーの前で『日本の葬式』(筑摩書房、1977年)を見つけたことに言及しています。民俗学者の井之口章次が書いた本ですが、これを目にしたとき、理由はわからないけれども、著者は無意識のうちにこの本を手に取り、ページをめくっていたとして、「この本には、それまで漠然と怖いとしか思っていなかった葬式について、その事細かい要素の記述と分析が載っていた。私は、葬式には日本中でさまざまなバリエーションがあり、学問的に研究することができるのだと知った。葬式というものを冷静に見つめて、研究することが行われている事実は、衝撃的だった」と述べています。

 

 

『日本の葬式』はわたしも何度も読んだ名著で、著者の井口先生とは『魂をデザインする』(国書刊行会)の中で、葬式をテーマに対談させていただきました。著者が書店で発見した『日本の葬式』の周囲には、神や仏や年中行事の本がたくさん並べられており、それらにも興味を抱いたようです。著者は、「角川文庫から柳田國男の本がいくつか出ていたので、それらも買って読んだし、宮田登谷川健一といった有名な民俗学者たちの著作も読みはじめた。そうした中に、ちょうど当時の民俗学ではハレ・ケ・ケガレの議論がさかんだったため、『共同討議 ハレ・ケ・ケガレ』(桜井徳太郎ほか、青土社、1984年)などもあり、それを見たら、私が恐れていたのは、『死のケガレ』だったのだとわかってきた」と述べています。



2「民俗学とはどのような学問か?」では、民俗学とは、人間(人びと=〈民〉)について、〈俗〉の観点から研究する学問であることが示されます。ここで〈俗〉とは、(1)支配的権力になじまないもの、(2)啓蒙主義的な合理性では必ずしも割り切れないもの、(3)「普遍」「主流」「中心」とされる立場にはなじまないもの、(4)公式的な制度からは距離があるもの、のいずれか、もしくはその組み合わせのことをさします。本書のサブタイトルにある「ヴァナキュラー(vernacular)」は、この〈俗〉を意味する英語であるとして、著者は「日本では、民俗学というと、農山漁村に古くから伝わる民間伝承(妖怪、昔話、伝説、祭りなど)を研究する学問だと思われている場合も少なくないようだが、現在の民俗学はそのようなものではない。本書では、ヴァナキュラーというキーワードを用いながら、既存の『民俗学』のイメージを超えた、もっと広くて現実的な民俗学の世界を紹介していく」と述べます。



民俗学はドイツで生まれた」として、民俗学が18世紀のドイツで生まれたことが紹介されますが、その土台をつくったのはヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(Johann Gottfried von Herder,1744-1803)という哲学者・思想家でした。当時ヨーロッパ中で流行していた啓蒙主義へのアンチテーゼを打ち出した人です。啓蒙主義は、発生地のイギリス・フランスのみならず、ヨーロッパ各地に伝わり、たとえばドイツでもその影響は強く見られましたが、ヘルダーはこの思想に真っ向から抵抗したのです。

 

 

著者は、「啓蒙主義の考え方では、合理性と普遍性(世界のどこでどのように暮らす人びとにとっても、合理的な思考とその結果は遍く通用するはずで、またそうでなければならないとする考え)が理念とされる。そのため、啓蒙主義を信奉する人びとは、自分たちがもともと生きている社会に固有の暮らしぶり、考え方、あるいは日常的に用いている土着の言葉について、それらこそが啓蒙の対象であるとして、否定していった」と説明。

 

 

これに対してヘルダーは、フランスでつくられた借り物の思想に身を任せるのではなく、自分たち自身の生活に根差した生き方をこそ探求すべきだと考え、ドイツに固有の暮らし、言葉、思考を掘り起こし、大切にすることを主張しました。ヘルダーによるこの考え方を、「対啓蒙主義」と呼ぶ著者は「ヘルダーは、この考え方にもとづいて、具体的には民謡の採集をはじめた。なぜ民謡かというと、日常の暮らしの中で歌われる民謡には、『人びとの魂』が宿っていると考えたからだ。彼は、自ら民謡集を編集するとともに、民謡の採集を広く人びとに呼びかけた」と述べています。

 

グリム童話集 5冊セット (岩波文庫)

グリム童話集 5冊セット (岩波文庫)

  • 発売日: 2003/07/10
  • メディア: 文庫
 

 

ヘルダーの影響を受けつつ、次に登場したのは、グリム兄弟でした。彼らが行ったのは、「物語」(昔話・伝説・神話)の収集・研究でした。その成果は、いわゆる『グリム童話集』や『ドイツ伝説集』などとして刊行されました。ヘルダーとグリム兄弟の行った研究、つまり民俗学は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパはもとより世界各地に影響を与えていきました。そして、民俗学の広がりと並行して、その研究対象も、歌、物語に加え、人びとの生活のさまざまな領域が扱われるようになっていきました。特に好んで扱われたのは、民間信仰儀礼、祝祭、年中行事、芸能、民具、家屋、市、行商などです。



「対覇権主義の学問」として、著者は民俗学がさかんな国や地域は、どちらかというと、大国よりは小国であることに注目します。また大きな国であって、西欧との関係性の中で、自らの文化的アイデンティティを確立する必要性を強く認識した国、あるいは大国の中でも非主流的な位置にある地域だという点に注目し、「こうした国や地域の人びとは、民俗学の研究と普及を通して、自分たちの暮らしのあり方を内省し、その上で自分たちの生き方を構築することで、自分たちを取り巻く大きな存在、覇権(強大な支配的権力)、『普遍』や『主流』、『中心』とされるのに飲み込まれてしまうのを回避しようとしてきたといえる」と述べています。

 

民俗学への招待 (ちくま新書 (064))

民俗学への招待 (ちくま新書 (064))

  • 作者:宮田 登
  • 発売日: 1996/03/01
  • メディア: 新書
 

 

民俗学は、覇権、普遍、主流、中心といったものへの人びとの違和感とともに成長してきたとして、著者は「民俗学が持つこうした特徴は、ヘルダーの場合に典型的に見られた『対啓蒙主義』に加え、『対覇権主義』という言葉で表せる。民俗学は、覇権主義を相対化し、批判する姿勢を強く持った学問である。強い立場にあるものや、自らが『主流』『中心』の立場にあると信じ、自分たちの論理を普遍的だとして押しっけてくるものに対し、それとは異なる位相から、それらを相対化したり、超克したりする知見を生み出そうとするところに、民俗学の最大の特徴があるのだ」と述べています。

 

遠野物語・山の人生 (岩波文庫)

遠野物語・山の人生 (岩波文庫)

  • 作者:柳田 国男
  • 発売日: 1976/04/16
  • メディア: 文庫
 

 

また、「日本の民俗学」として、民俗学が、対啓蒙主義的、対覇権主義的、対普遍主義的、対主流的、対中心的な学問であることは、日本の民俗学でも同様であることを指摘し、著者は「日本の民俗学者たちは、啓蒙主義的世界観では切り捨てられ、覇権主義的世界観では支配の対象とされる、非主流、非中心の世界こそが民俗学の対象であると考え、これに正面から向き合ってきた。柳田國男の初期の作品に、1910(明治43)年に刊行された『遠野物語』がある。この本は、岩手県遠野地方で伝承されてきたさまざまな話、多くは不思議な話を収録したもの」と述べます。

 

 

遠野物語』の冒頭には、「願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と書かれていますが、ここでいう「之」とは、岩手県遠野地方の人びとが語り伝えてきた物語の世界であり、「平地人」とは、啓蒙主義的思考のもとで近代化に邁進する都市住民のことだと、著者は解釈します。また、現代語訳すれば「この物語を語って平地の人を戦慄させることを願っている」となるこの一文からわかることは、柳田が、啓蒙主義的世界観では非合理的なものとして切り捨てられてしまう世界の存在を、本書によって、「平地人」に突きつけようとしたことだといいます。

 

折口 信夫 作品全集

折口 信夫 作品全集

 

 

啓蒙主義的世界観に対する、対啓蒙主義からの挑戦だと言えます。啓蒙主義をめぐっては、福沢諭吉柳田國男が対照的であるとして、著者は両者の少年時代の祠に関するエピソードを紹介し、「この二人の少年の対照的な関係は、将来の啓蒙主義者と将来の対啓蒙主義者の関係として理解できるだろう」と述べます。さらに、柳田國男と並ぶ民俗学者折口信夫(1887-1953)がいるとして、折口の歌を紹介し、「折口の民俗学調査は、かそけきもの、すなわち『かすか(微か・幽か)なもの』=啓蒙主義的世界観の中では位置を与えられないような、対主流的なもの、対中心的なものに耳を傾ける営みであったということができるだろう」と述べます。

 

忘れられた日本人 (岩波文庫)

忘れられた日本人 (岩波文庫)

 

 

また、著者は、民俗学調査で地球約4周分を歩いたといわれる宮本常一(1907-81)の名も挙げます。ブログ『忘れられた日本人』で紹介した宮本の著書は、日本各地にひっそりと暮らす「無名にひとしい人たち」の生き方を描いた民俗学の名著ですが、タイトルに「忘れられた」という表現が用いられていることを指摘します。宮本はまた、著書『民俗学の旅』において、民俗学を学ぶ者の心得として「人の見残したものを見る」ことの重要性を説いています。著者によれば、「忘れられた」「人の見残したもの」とは、対主流的、対中心的なものにほかなりません。

 

 

著者は、民俗学者谷川健一(1921-2013)の著書『神は細部に宿り給う』も取り上げ、同書の中に書かれている「歴史学やその他の学問には取るに足りないと思われているもの」、「枝道」「小路」とは、対主流、対中心の世界であり、それはまた啓蒙主義的世界観では排除の対象とされる領域と多分に重なっていると述べます。さらに、社会学者で、民俗学にも造詣の深かった鶴見和子(1918-2006)が民俗学を「かくれ里」の学だと述べたことを紹介します。ここでいう「かくれ里」とは、外来の大きなもの、覇権、普遍、主流、中心といったものによって征服され、殺されかかった者たちが、身をかくす場所のことであるといいます。



民俗学は、18世紀のフランスを中心とする啓蒙主義や、19世紀初頭にヨーロッパ支配をめざしたナポレオンの覇権主義に対抗するかたちで、ドイツのヘルダー、グリム兄弟によって土台がつくられました。そしてその後、世界各地に拡散し、それぞれの地域において独自に発展した学問であるとして、著者は「〈啓蒙主義的合理性や覇権・普遍・主流・中心とされる社会的位相〉とは異なる次元で展開する人間の生を、〈啓蒙主義的合理性や覇権・普遍・主流・中心とされる社会的位相〉と〈それらとは異なる次元〉との間の関係性も含めて内在的に理解する。これにより、〈啓蒙主義的合理性や覇権・普遍・主流・中心とされる社会的位相〉の側の基準によって形成された知識体系を相対化し、超克する知見を生み出そうとする学問である」と述べています。非常に興味深い指摘です。

 

3「ヴァナキュラー」では、民俗学の持つ、対覇権主義的、対啓蒙主義的、対普遍主義的、対主流的、対中心的な観点を集約的に表現したものが、〈俗〉なのであることが指摘されます。この〈俗〉は、観点であると同時に、この観点によって切り取られた研究対象のことも表しているとして、著者は「第2次世界大戦後、それまで『俗語』のことをさすのに用いられてきたヴァナキュラーという言葉は、建築の世界でも用いられるようになった。『正統的な建築家』による設計ではない建築、建築家以外の一般人による建築が『ヴァナキュラー建築』と表現されるようになったのである」と述べます。

 

そして、この語は、一般人による建築を研究対象の1つとしてきた民俗学アメリ民俗学)でも用いられるようになります。さらにその後は、言語、建築のみならず、芸能、工芸、食、音楽などさまざまな対象を表す語としても用いられるようになっていきました。また並行して、この語の持つ学問的意義の理論的な洞察も深められていったとして、著者は「2000年代に入ると、ヴァナキュラーは、アメリ民俗学における最重要のキーワードにまで成長した」と述べるのでした。



第1部「身近なヴァナキュラー」の第1章「知られざる『家庭の中のヴァナキュラー』」では、「靴のおなじない」として、日本各地に伝わる新しくおろした靴についてのおまじないが紹介されます。いわく、午後(そして夜)に新しい靴をおろしてはならず、やむをえずそれをするときには、何らかのおまじないをしなければならないと考えられていること、おまじないの内容は、「文字などを書く」「火であぶる」「唾を吐く」「塩をまく」「固形墨をこすりつける」「古い靴と新しい靴の靴底同士をこすりつける」などとなっています。



なぜ、このようなおまじないが行われているのでしょうか? 著者は、「理由は、葬式を連想するからだ。かつての村落社会(だいたい第2次世界大戦前まで)では、死体を焼かずに埋める土葬が多かった。埋めるための墓穴は、村の男たちが協力して掘る。その作業は午前中いっぱいかかった。すると、家から棺を出し、親族や村の人たちが行列をなして墓地まで死者を送る野辺送り(野辺は、『野のあたり』の意味で、そこには墓地があった)は、午後になる。送られる死者には、『死に装束』(死出の旅路に着る衣服)といって白色の新しい着物を着せた。そのとき新しい草履も履かせた(現在では履かせずに棺の中に入れる場合もある)」と述べています。



また、土葬ではなく比較的早くから火葬が導入されている地域もありましたが、現在のような火力の強い火葬場はなかったので、死体が焼けるのに長時間かかりました。そのため夕方から焼きはじめ、遺族たちはいったん家に帰り、翌朝になって収骨をするというパターンが多かったのです。この場合の出棺は、夕方(夜)になってからでした。これらの事実は「午後・夜+新しい履物=死」を連想させ、この組み合わせが死や不幸を引き起こすのではないかという恐怖を感じさせたとして、著者は「だから、午後・夜に新しい履物をおろすのは避けなければならないとされ、万一、おろさざるをえない場合は、何らかの加工行為をすることで、靴が新しいものではないことにしなければならなかったのである」と述べます。説得力がありますね。

f:id:shins2m:20210222190210j:plain宗教的ヴァナキュラーを知るための2冊

 

ページは飛んで、第7章「宗教的ヴァナキュラー」の冒頭で、民俗学では、祖先祭祀、村落祭祀、都市祭礼、巡礼、民間宗教者、修験道、仏教民俗、葬送儀礼、人生儀礼、年中行事、小祠、俗信、幽霊、妖怪、神話、伝説など、伝統的な宗教的ヴァナキュラーの研究が多く蓄積されていることを指摘し、著者は「こうした伝統的な宗教的ヴァナキュラーは、現代の人びとにも信じられ、実践されているが、同時に現在では、従来のものとは異なる『現代的』な事象もたくさん生まれている」と述べています。1「パワーストーンとパワースポット」では、「現代の宗教的ヴァナキュラーの特徴として、『パワーストーン』や『パワースポット』に見られるような「パワー」への関心や信仰を指摘できる」と述べます。



著者は、「パワーストーンを信じるか?」として、「パワーストーンは、もともとアメリカのニューエイジ(新しい神秘主義的運動)を起源とする宗教グッズとして、1980年代に日本へ輸入されたものである。パワーストーンが日本に入って間もない1990年代のはじめ頃、ちょうど私は大学院生で新宗教の研究をしており、宗教現象にアンテナを張っていたので、パワーストーンが日本のニューエイジ関係者を中心に受容されていくのを直接目にしていた。パワーストーン信奉者にインタビューしたこともある」と述べています。「パワーストーン」という物質と、それについての信念自体は海外から輸入されたものですが、石に超自然的な力を認める信仰は日本にも古くから存在していました。

 

箋註:石神問答・上巻 (歴史 民俗学 考古学)
 

 

山梨県などに行くと、いまでも道端に丸い石の神様(民俗学では「丸石神」と呼んでいる)が祀られているのを目にすることができるとして、著者は「道祖神の一種であるが、石に神が宿ると考えられたところから、神として祀るようになったものである。こうした例は数多く、すでに明治時代の終わりに柳田國男は『石神問答』(1910年)という本の中でこれを考察している」と述べています。また、パワーを帯びたものを身につけるのは、伝統的なお守りと同様であることを指摘し、「お守りは、ただの物質ではない。神仏の前でお祓いや祈禱といった儀礼をすませた上で授与されている。お守りのパワーは、儀礼によって付与されると信じられている」と述べています。

 

ポップ・スピリチュアリティ: メディア化された宗教性
 

 

次に「パワースポット」ですが、この考え方の普及過程は、パワーストーンの場合とよく似ているそうです。ブログ『ポップ・スピリチュアリティ』で紹介した東京大学大学院人文社会系研究科附属死生学・応用倫理センター准教授で死生学およびスピリチュアリティ研究者である堀江宗正氏の著書によれば、パワースポットをめぐる観念や実践は、1980年代から見られたが、当時は、ニューエイジ関係者の間での浸透でした。それに対して、2000年代に入ってからは、スピリチュアル・ブームの展開の中で、世の中に広がっていったといいます。もっとも、パワースポットについても、伝統的な宗教的ヴァナキュラーとの類似性を指摘できるとか。

 

神と自然の景観論 信仰環境を読む (講談社学術文庫)
 

 

野本寛一氏という民俗学者がいます。著者いわく、文字どおり全国津々浦々を歩き回った「現代の宮本常一」といってよい研究者だそうですが、彼の著作の1つに『神と自然の景観論―信仰環境を読む』(講談社、2006年)という本があります。同書で、野本氏は、長年の民俗調査で蓄積した事例の中から、現地の人びとが神を感じ、神聖感を抱いてきた場所を取り上げて分析を行い、その結果、岬、浜、洞窟、渕、滝、池、山、峠、森、川中島、島、温泉、磐座など、一定の特徴ある地形の場所が、いくつかの諸条件と連動した場合、そこが「聖地」とされていくことを論証しているそうです。



2「フォークロレスクとオステンション」では、石川県金沢市の郊外にある湯涌温泉という温泉街が取り上げられ、「ここでは、アニメの中の架空の祭りにもとづく興味深い祭りが行われている。リアルな祭りがアニメに取り入れられたのではない。アニメの中の祭りが、現実のものとなった事例である」と紹介されます。2011年の4月から9月まで、テレビアニメ『花咲くいろは』(ピーエーワークス原作、安藤真裕監督、岡田麿里ほか脚本・構成)が放映されました。ストーリーは、東京の女子高生が、祖母が経営する「湯乃鷺温泉」の旅館に住み込んでさまざまな経験をするというものです。



この「湯乃鷺温泉」のモデルが湯涌温泉でした。そして、アニメでは神社で「ぼんぼり祭り」が行われる様子が描かれていました。アニメ中の「ぼんぼり祭り」は、「稲荷神社」の祭りです。祭神である小さな女の子が、毎年10月に2匹の狐をともなって出雲へ向かおうとするのですが、幼いために道に迷ってしまいます。そこで、迷子にならないように地元の人たちがぼんぼりに明かりを灯して道案内をするのですが、その際、人びとはぼんぼりに願い事を書いた「のぞみ札」をかける、という設定の祭りです。



花咲くいろは』と「ぼんぼり祭り」には、民俗学的に興味深い論点を見出すことができるといいます。1つは、作品中に「稲荷神社」「狐」「祭り」「神の出雲への旅立ち」など、いわゆる「民間伝承」の世界によく見られるような要素が挿入されている点であるとして、「民俗学では、この「いかにも民間伝承らしい要素」が、アニメや映画やゲームなどのポピュラー・カルチャー(メディアによって広範に流通する大衆文化)の中に取り入れられていることを『フォークロレスク』と呼んでいる。フォークロレスクは、『花咲くいろは』に限らず、アニメ作品の中に多く含まれている」と述べます。



もう1つは、作品中で描かれる虚構の祭りが、現実世界で再現されている点です。民俗学では、こうした現象をオステンションと呼んでいます。ウェルズ恵子/リサ・ギャバート『多文化理解のためのアメリカ文化入門――社会・地域・伝承』(丸善出版)によれば、オステンションとは、「流布したナラティヴ(噂話/物語)に対して人々が実際に行動して参与すること(行動によってナラティヴを支持しさらに内容を付け加えること)」をさすそうですが、著者は、「『ぼんぼり祭り』は、このオステンションの一例といえる」と分析します。



また、「アマビエ・ブーム」として、2020年、新型コロナウイルス感染拡大下、「アマビエ」という怪物のキャラクターが大流行したことが取り上げられます。アマビエとは、弘化3(1846)年4月の日付が入った摺物(市中で販売された木版印刷物。ニュースやゴシップなどが取り上げられていた)に描かれた怪物です。「肥後の国の海中に毎夜光るものが出現するので役人が見に行ったところ、図のようなものが現れ、『私は海中に住むアマビエと申す者である。今年から6年間は豊作だが、あわせて病も流行するので、早く私の姿を写して人びとに見せなさい』と言って海中に入っていった。これは役人が江戸に伝えてきたものの写しだ」(現代語訳)という文言とともにその姿が描かれています。



アマビエの図像は、これまでにも妖怪関係の図書に取り上げられたり、水木しげるが漫画に描き直したりしており、一部、妖怪に関心を持つ人びとの間では知られた存在でした。しかし、2020年のアマビエの広がり方は、そうした範囲を大きく超え、世の中に広く浸透するものとなりました。その勢いは国内のみならず海外にまで及んだとして、著者は「アマビエの摺物が出された江戸時代から現代のアマビエ・ブームまで、一連のアマビエ現象についても、フォークロレスクの観点で捉えることができる。江戸時代、アマビエに類似した怪物の話は多く伝えられていたらしい。アマビコ(海彦、尼彦、天日子)、神社姫など、疫病の流行を予言したり、自分(=怪物)の姿を写して持っていれば疫病から守られると語ったりした怪物についての摺物がいくつも残されている」と述べています。



また、著者によれば、一連のアマビエ作品群は、民俗学の用語でいう「サイクル」に相当するそうです。サイクルとは、民俗学が長年用いてきた概念で、「伝承的主人公を中心とした一連の説話、歌謡の集成」(スティス・トンプソン『民間説話――世界の昔話とその分類』荒木博之・石原綏代訳、八坂書房、2013年)のことだとか。著者は、「たとえば、シンデレラ・サイクルといえば、古今東西で語られてきたシンデレラ(に相当する少女)を主人公にした一連の物語をさす。サイクルは、現代のネット上にも存在する。民俗学でいう『ミーム・サイクル』がそれである」と述べます。

 

民間説話―世界の昔話とその分類

民間説話―世界の昔話とその分類

 

 

ミームとは、「形を少しずつ変えながら伝達されていく人物などの電子画像」のことで、戯画的、諷刺的な内容となっていることが多いとして、著者は「日本でいうコラージュ画像(写真やイラストを加工した戯画的電子画像)は、ミームの一種である。そして、この画像が『形を少しずつ変えながら伝達されていく』プロセスが、ミーム・サイクルである。SNS上のアマビエの画像は、『形を少しずつ変えながら伝達されていく人物などの電子画像』であることから、ミームに相当するといってよい。ネット上でアマビエが次から次へと創作されていく過程は、ミーム・サイクルなのである」と述べます。

 

 

「おわりに」で、民俗学には、野の学問」を実践した多くの先人がいるとして、著者は「アメリカ、イギリスでの長期滞在から帰国後、和歌山県の田辺に拠点を構え、そこから世界に向けて研究成果を発信し続けた南方熊楠、生涯の大半を民間にあって旅と執筆、農村や離島の振興に送った宮本常一平凡社の編集者を経て在野の民俗学者となった谷川健一など、いずれも世界に通用する実力を持った民俗学者であり、『民間学者』である(宮本、谷川ともに、晩年は請われて大学教授となり、若者に民俗学を教えたが、民間学者としての在野精神にいささかのゆらぎもなかった)」と述べます。「野の学問」としての民俗学を実践したのは、この3人のような「巨人」だけではないとして、著者は「暮らしの中に民俗学の思想と実践を取り入れながら日々の生活を送り、かつ自らも調査・研究成果を世に送り出してきたたくさんの人びとがいる」と述べるのでした。本書を読み終えたわたしは、「民俗学ほど面白いものはないな」と思いました。本書は、令和に生まれた最高の民俗学入門です。

 

 

2021年3月3日 一条真也

『もののけの日本史』

もののけの日本史-死霊、幽霊、妖怪の1000年 (中公新書)

 

一条真也です。
もののけの日本史』小山聡子著(中公新書)を読了。「死霊、幽霊、妖怪の1000年」というサブタイトルがついていますが、素晴らしい通史でした。著者は1976年茨城県生まれ。98年筑波大学第二学群日本語・日本文化学類卒業。2003年同大学大学院博士課程歴史・人類学研究科修了。博士(学術)。現在、二松学舎大学文学部教授。専門は日本宗教史。共編著に、ブログ『幽霊の歴史文化学』で紹介した本があります。 

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本書の帯

 

本書の帯には『稲生物怪録絵巻』(堀田家本)の一部が使われ、「なぜ目に見えぬものに惹かれるのか」と大書され、「藤原道長がおそれた数々の死霊、葵の上に憑いた六畳御息所、霊界にこだわった平田篤胤十返舎一九が得手とした化け物ばなし、妖怪博士・井上円了、『お化け好き』泉鏡花水木しげる、『もののけ姫』・・・・・・」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、「貴族に恐れられる死霊、庶民に愛された妖怪」として、「モノノケは、古代・中世において、正体不明の死霊を指した。病気や死をもたらす恐ろしい存在で、貴族たちを悩ませた。近世に入ると幽霊や妖怪と混同され、怪談や図案入りの玩具などで親しまれるようになる。近代以降、根拠がないものとして否定されつつも、怪異は根強い人気を博し人びとの興味をひきつけてやまない。本書は、モノノケの系譜をたどりながら、日本人の死生観、霊魂観に迫る」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の通りです。
「まえがき」
 序章 畏怖の始まり
第一章 震撼する貴族たち――古代
    一、モノノケと戦う藤原道長
    二、対処の選択――調伏か、供養か
    三、モノノケの姿――鬼との近似
第二章 いかに退治するか――中世
    一、高僧が説く方法
    二、手順の確立――専門化と簡略化
    三、囲碁・双六・将棋の利用
第三章 祟らない幽霊――中世
    一、霊魂ではない幽霊
    二、幽霊と呼ばれた法然
    三、能での表現
第四章 娯楽の対象へ――近世
    一、物気から物の怪へ
    二、実在か非実在か――大流行する怪談
第五章 西洋との出会い――近代
    一、迷信の否定と根強い人気を誇る怪談
    二、古代・中世の遺物――曖昧なものへ
    三、西洋文化受容の影響
 終章 モノノケ像の転換――現代
「あとがき」
「主要参考文献」
「古文書・古記録の幽霊一覧」

 

「まえがき」で、著者は「古代におけるモノノケは、漢字では物気と表記し、多くの場合、正体が定かではない死霊の気配、もしくは死霊を指した。モノノケは、生前に怨念をいだいた人間に近寄り病気にさせ、時には死をもたらすと考えられていたのである」と述べています。現在、モノノケというと、映画、アニメ、漫画などの影響で、神の類や妖怪を思い浮かべることが多いですが、現代のいわゆる「もののけ」は、古代の貴族が恐れていたモノノケとは、全くの別物です。

 

そもそもモノノケは、どのような経過をたどって、現代に伝わったのでしょうか。著者は、「これまで、古代、中でも『源氏物語』のモノノケばかりが論じられてきており、その他の時代については見過ごされてきた。また、モノノケの歴史を扱っているかのように見える書籍も、言葉を厳密に区別せず、『物気』あるいは『物の怪』とは書かれていない霊、妖怪、幽霊、怨霊、化物の類まで含めてモノノケとして捉えて論じてきた傾向がある。しかし、それでは、モノノケの本質を明らかにすることなどできないだろう」と述べます。

 

本書では、史料に基づき、モノノケと幽霊、怨霊、妖怪を区別して述べています。著者は、「まず、古代の霊魂観がいかなるものであり、モノノケがどのように畏怖されはじめ、さらには中世を通じていかに対処されてきたのかを具体的に明らかにしていく。近世になって、モノノケは、幽霊などと混淆して捉えられるようになる。現在イメージするモノノケのはじまりと見ていいだろう。そこで、中世の幽霊についても説明し、近世におけるモノノケ観の展開について考察する。そして、近世を経てどのように近代、さらには現代に至っているのか、明らかにしていきたい」と本書の構成を説明します。

 

そして、著者は「生きとし生ける者には、必ずいつの日か死が訪れる。限られた命である以上、どれほどに科学が発達したとしても、死や死者に対する恐れは、決して消えはしない。そもそもモノノケへの畏怖は、死へのそれと不可分の関係にある。本書では、モノノケの系譜を明らかにすることを通して、とりわけモノノケを死霊と見なしていた古代・中世の日本人がどのように死や死者に対する恐怖を超克しようとしてきたのかという点や、いかにして死者と良好な関係を保とうとしたのかという点、各時代における日本人の心性についても迫りたい」と述べるのでした。

 

礼記 (中国古典新書)

礼記 (中国古典新書)

  • 作者:下見 隆雄
  • 発売日: 2011/07/10
  • メディア: 単行本
 

 

序章「畏怖の始まり」では、「死者の居場所」として、そもそも古代中国では、霊に関して魂と魄という二元的な把握がなされていたことが紹介されます。たとえば、中国の現存最古の字書『説文解字』では魂は「陽気」であり、魄は「陰神」であるとされました。儒教の経典『礼記』「郊特性」では、魂は天に帰り魂は地に帰るものだとされていました。さらに、孔子編纂とされる『春秋』の注釈書『春秋左氏伝』「昭公七年」では、人が生まれる時に「魄」ができ、「陽」の「魂」がその中に入るとされており、「魄」は体を指します。つまり、魂は精神を、魄は肉体をそれぞれつかさどる霊なのです。



古代中国の魂魄の思想は、日本の霊魂観にも影響を及ぼしています。たとえば、菅原道真による漢詩文集『管家文草』(昌泰3年〔900〕)三には、穀断ちをしている僧について、「今にも骨が肌を突き出るかと思われ、魂は魄から離れ昇天せんばかりである」とあります。さらに、『菅家文草』八では、官吏登用試験で道真が出題した「魂魄について論ぜよ」とする課題があり、魂は精神的なものであり天に帰する一方、魄は肉体に宿る性質を持ち地に帰するものだ、とされています。著者は、「ただし、官吏登用試験という国家最高試験で『魂魄について論ぜよ』とする問題が出されていたことから、この問いは実に難題だったと言えるだろう。けれども、すでに古代には、中国思想の影響のもと、魂と魄について二元的な理解があったことは間違いない」と述べます。


「霊魂と遺骨の関係」として、著者は「現代には墓参りをする習慣がある。墓前に手を合わせ、先祖に対し、最近の出来事の報告をしたり、なかなか墓参りできないことを詫びたり、時には自分に都合の良い願い事をしたりもする。それに対して古代には、霊魂は死とともに天上や山、海、黄泉国といった他所に行くのであり、遺体(もしくは遺骨)とは分けて捉えられる傾向にあった。それだからこそ、身分階層を問わず、骨への関心は稀薄であり、墓参りの習慣はなかったのである。庶民の遺体は、土葬も火葬されず、そのまま地上に置いて風葬とされるのが一般的であった。一方、上級貴族は、一族の墓所に葬られることもあった。そうではあるものの、基本的には墓の整備や墓参りの習慣はなく、死後ある程度の時間が経過すると埋葬の地も明確には把握されなくなる傾向にあった。古代は、現代と比較すると、驚くほどに、遺体や遺骨に無関心な時代だったのである」と述べています。

 

死者のゆくえ

死者のゆくえ

  • 作者:佐藤 弘夫
  • 発売日: 2008/03/31
  • メディア: 単行本
 

 

ブログ『死者のゆくえ』で紹介した宗教学者佐藤弘夫氏の著書によれば、古代でも、骨と霊魂の密接な関係を示す史料はたしかにありますが、現代と比べると、遺体や骨への執着は少なく、霊魂と遺骨の関係は稀薄であったと言えます。「モノノケの『モノ』」として、霊への畏怖は、死に対する恐れと密接に結びついており、実に多くの史料に確認できると指摘し、著者は「とりわけ、非業の死を遂げたり、現世になんらかの怨念を残したりして死んでいった者たちの霊魂は、祟りをなすと恐れられ、鎮魂の対象とされた。現存する史料上における『怨霊』という語の初出は、『日本後紀延暦24年(805)4月5日条の、藤原種継暗殺事件に連座して廃太子され絶食死した早良親王(?~785)の『怨霊』に謝するため、諸国に小倉の建築を命じたなど、とする記事である。社会的に大きな災いをもたらすと考えられた霊魂は、怨霊として畏怖され、鎮魂の対象とされたのである」と述べています。

 

続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)

続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)

  • 作者:宇治谷 孟
  • 発売日: 1992/06/05
  • メディア: 文庫
 

 

「鬼と『モノ』」として、長谷川雅雄・辻本裕成・ペトロ・クネヒト「「鬼」のもたらす病――中国および日本の古医学における病因観とその意義(上)」の内容が紹介されます。それによれば、古来、中国では、人間は死ぬと冥界に行って鬼となって暮らすと考えられていました。鬼は死者や死者の魂を指し、神とも重ねられ「鬼神」とも表現されました。また、子孫によって祀られた鬼は子孫を守るとして尊重された一方、祀られない鬼や非業の死を遂げた者は祟りをなすと恐れられていたのです。著者は、「日本でも、『続日本紀宝亀11年(780)12月4日条に、寺を造るために墳墓を壊して石を採ることは、『鬼神』を驚かせ子孫を傷つけることになるから今後においては禁断するという詔が記されている。ここでは、墳墓にいる霊魂を『鬼神』と呼んでおり、中国の思想の影響を見出せる」と述べます。

 

続日本紀(下) 全現代語訳 (講談社学術文庫)

続日本紀(下) 全現代語訳 (講談社学術文庫)

  • 発売日: 1995/11/06
  • メディア: 文庫
 

 

中国の鬼と日本のモノノケは、ともに死霊であり、人間に病をもたらす点で共通しています。日本のモノノケはしばしば鬼の姿でイメージされていたとして、著者は「中国の鬼と同様、日本の鬼には、人に病をもたらす性質があると考えられていた。たとえば、8世紀末成立の『続日本紀天平宝字2年(758)8月18日の詔には『疾疫癘鬼』とある。さらに、『日本霊異記』中―24に登場する閻魔王の使いの鬼が、楢磐嶋という男に、『汝、我が気に病むが故に、依り近づかずあれ』(お前、我の気によって病気になるから、近づくな)と言った、とする話がある。すなわち、もし楢磐嶋が鬼に近寄れば、気に触れ、病気になるということになる」と述べています。わたしは、『「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林)で、鬼とは疫病のメタファーであり、新型コロナウイルスの感染の不安に包まれた2020年の日本で「鬼滅の刃」が社会現象になったことの一因であると考えています。

 

 

「妖怪ではない妖怪」として、「妖怪」という語は、古くは『続日本紀宝亀8年(777)3月19日条に、宮中にしきりに「妖怪」があるために大祓を行ったとする記事があることが紹介されます。大祓とは、罪や穢れを祓い清める行事です。同月21日には僧600人、沙弥100人を招請して宮中で大般若経を転読させています。ここでいう「妖怪」とは、化け物の類ではなく、怪異です。藤原実資(957~1046)の日記『小右記』長元元年(1028)7月25日条にも、「妖怪」が多くおこり夭死する者が多数出たとする記事があり、「妖怪」の語を怪異の意味で用いています。

 

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

  • 作者:一条真也
  • 発売日: 2017/12/25
  • メディア: 文庫
 

 

拙著『唯葬論』(サンガ文庫)にも書きましたが、「妖怪」とは、そもそも中国で成立した漢語です。後漢の時代に編纂された歴史書漢書』の「循史伝龔遂」にも「長い間、宮中にしばしば妖怪があった」とあり、「妖怪」を怪異の意味で用いています。日本古代の「妖怪」は、中国由来の語であることになります。また、「幽霊」も「妖怪」と同様に、中国で成立した語です。歴史書後漢書』列伝「李陳龐陳橋列伝」41や、敦煌で発見された願文が収録されている『敦煌願文集』「追福発願文」などには、「幽霊」を死霊という意味で用いる事例があります。著者は、唐の僧であった善意のように中国から日本へ渡来してきた僧や、中国から帰国した日本人が、「幽霊」を日本に持ち込んだのだろうと推測しています。

 

源氏物語一 (新 日本古典文学大系19)

源氏物語一 (新 日本古典文学大系19)

  • 発売日: 2017/04/11
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
 

 

第一章「震撼する貴族たち――古代」の一、「モノノケと戦う藤原道長」では、モノノケにのり移られた者たちは、それぞれ屏風で囲まれ、一人一人に験者が付けられ対処されていたことになることが紹介され、著者は「モノノケは、浮遊して移動し、さらに他者に移る特性を持つ、と考えられていた」と述べます。たとえば、『源氏物語』「夕霧」には、落葉の宮の母一条御息所が、モノノケによる病を患ったとき、宮にモノノケがのり移ることを恐れて中仕切を置き、宮が中に入ることを許しませんでした。「若菜下」では、光源氏はモノノケに憑依されたヨリマシを閉じこめ、病人である妻紫の上を別の部屋に移しています。著者は、「光源氏によるこの行為も、モノノケが再び紫の上に近づくことのないようにとの配慮によるものである」と述べています。

 

栄花物語 上巻―三条西家本 (岩波文庫 黄 20-1)

栄花物語 上巻―三条西家本 (岩波文庫 黄 20-1)

 

 

道長の死とモノノケ」として、歴史物語である『栄華物語』において、モノノケの調伏に積極的な姿勢をとっていた道長に修法や加持が行われなかった理由は当の本人がそれを拒否したからだろうと推測し、著者は「万寿4年に道長が患う2年前には、娘の寛子と嬉子が、さらには万寿4年9月には妍子が、顕光らの霊によって殺されたと考えられていた。娘たちを死に追いやった原因を作ったのは、道長である。娘を次から次へと亡くした道長は、もはや自身を悩ます霊をあえて調伏しようとはしなかったのではないだろうか。調伏すれば病を快方に向かわせて生き長らえることができる可能性もあったものの、退治することができず死に至った場合には、極楽往生を遂げられなくなる危険もあった」と述べています。また、著書『往生際の日本史――人はいかに死を迎えてきたのか』において、著者は「道長は、モノノケを調伏して生き長らえるのではなく、極楽往生の方法が書かれている源信『往生要集』を参考にしつつ、念仏にすがり自身の極楽往生を目指したのであろう」と述べます。

 

 

二、「対処の選択――調伏か、供養か」では、「三条天皇の眼病」として、モノノケの正体によっては、調伏ではなく、供養された事例も多くあることを紹介。つまり、供養し成仏させることにより、悪さを防ごうとしたのです。病気治療の手段としては、悪さをなした霊の供養も有効だと考えられました。山田雄司『跋扈する怨霊――祟りと鎮魂の日本史』によれば、モノノケは、人間に病や死をもたらすとして非常に恐れられていたそうです。それと同時に、他者を傷つける横暴な言動を自重させる装置にもなり、社会の均衡を保つ役割も担わされていた。この点は、怨霊と同様です。著者は、「霊は、単に恐怖心を煽るのではなく、社会の中で必要とされていたからこそ意識されていたのだろう」と推測します。


 

 

三、「モノノケの姿――鬼との近似」では、モノノケは、本来「気」なので、姿かたちを持ちませんが、実際には、鬼の姿で表現されることが多かったことが紹介されます。著者は、「そもそも、中国では死者は鬼になると考えられていた。その思想が日本の鬼の観念に大きな影響を及ぼしたために、モノノケはしばしば鬼の姿だと考えられたのだろう」と推測し、「結局のところ、モノノケの姿は、鬼の図像をもとにして想像され、平安貴族が畏怖していたものも組み合わされた上で構築されていたと考えられる」と述べるのでした。



第二章「いかに退治するか――中世」の一、「高僧が説く方法」では、「阿尾奢法の経典」として、モノノケの調伏の方法は、経典にある阿尾奢法を根拠として編み出されたと考えられると書かれています。「阿尾奢」とはサンスクリット語「アーヴェーシャ」(āveśa)の音写であり、漢訳仏典では「遍入」と訳されることが多かったようです。著者は、「たとえば、空海(774~835)や円仁(794~864)らによって日本に招来された経典である不空訳『速疾立験魔醯首羅天説阿尾奢法』には、自ら魔醯首羅天になると観想した行者が真言を誦すると、所定の作法で加持した童男童女が震えだし『聖者』が遍入し、一切の善悪や吉凶などを問うと答える、とされている。阿尾奢法に関する経典としては、この他に『蘇婆呼童子請問経』や金剛智訳『金剛峯楼閣一切瑜伽祇経』などがある。阿尾奢法やそれに類するものは、漢訳仏典に多く見出すことができ、インド以来の密教にその淵源を遡ることができる」と述べています。



二、「手順の確立――専門化と簡略化」では、「神の調伏」として、神を調伏することは本来は禁忌であったことが紹介されます。谷口美樹「平安貴族の疾病認識と治療法―――万寿二年の赤斑瘡流行を手懸りに」によれば、病気の原因が疫病とモノノケの両方によると判断された場合、神気を畏れ、加持によるモノノケ調伏は避けられた傾向にあるそうです。著者は、「疫病は、疫神がもたらすものだからである。多くの場合、この双方を同時に患った場合には、陰陽師による禊や祓、祭によって対処された。神は人間に祟りをもたらすことにより、自身の要求を伝えると考えられていた。それによって、病気を治すために、神の要求を聞き入れることも行われていた」と述べます。

 

平安時代の信仰と宗教儀礼

平安時代の信仰と宗教儀礼

 

 

神事の日には、仏事は避けられるという神事優先の原則がありました。三橋正『平安時代の信仰と宗教儀礼』によれば、貴族社会では、仏事への依存が大きかったものの、神事を優先していたといいます。避けられた理由は、仏教が死のイメージと結び付けられ、穢れと同一の次元で捉えられていたからだと考えられるとして、著者は「それゆえ、たとえモノノケによる病を患っても、神事の日にはあえて加持をせず、神事終了後に行っていたのである。これほどまでに、神は畏怖されていた」と述べるのでした。

 

 

三、「囲碁・双六・将棋の利用」では、「中世の囲碁と双六」として、12世紀末頃の成立と考えられる河本家本『餓鬼草紙』二「伺嬰児便餓鬼」には、出産のための祈禱に携わった験者と巫女が描かれており、巫女の傍らには双六盤が置かれていることが紹介されます。著者は、「一体、何を示すために、わざわざ双六盤が描かれたのだろうか。実は、モノノケの調伏は、囲碁、双六、将棋と関わっていた。そこでその理由について探っていきたい。そもそも、囲碁や双六といった盤を用いるゲームは、占いに端を発していた。たとえば、古代エジプトの壁画にはゲームの盤を占具や祭具として用いる様が描かれているし、中国漢代のイコンには盤を使うゲームに興じる神々の姿が描かれている」と述べています。

 

中国の碁 (1977年)

中国の碁 (1977年)

 

 

安永一『中国の碁』によれば、中国古代の囲碁盤は祭祀の際の祭壇でした。後漢の斑固(32~92)の『弈旨』や北宋の張擬の『棊経十三篇』「棋局」によると、碁盤は大地を、碁石は天体を象徴し、盤の四隅は四季をあらわしており、白と黒の碁石は陰陽にのっとっているといいます。さらに、晋代の『抱朴子』や『捜神記』、唐代の『酉陽雑俎』、宋代の『太平寰宇記』などには、仙人が碁を打つ説話があります。大室幹雄囲碁の民話学』によれば、仙人は、碁盤上にミニチュア化した世界の想像や破壊をして楽しむ、と考えられていたのです。

 

囲碁の民話学

囲碁の民話学

 

 

隋の歴史書で7世紀成立の『隋書』「東夷伝倭国」によると、「倭人」は囲碁や双六、博打の戯れを好むとされており、日本で盛んに行われていたことが分かります。中国の思想は日本の囲碁観にも大きな影響を及ぼしていました。網野善彦「中世遍歴民と芸能」によれば、双六も、囲碁と同様に、占いのために行われていたそうです。少なくとも、12世紀前半には、国衙に双六別当という役職があり、神意を伝える役割を担っていたとか。また、増川宏一『日本遊戯思想史』によれば、双六博徒は、取り締まりの対象とされていたものの、芸能者でもありました。著者は、「囲碁や双六のみではなく、将棋も占いに関わっていた。源師時の日記『長秋記』大治4年(1129)5月20日条によると、鳥羽院は覆物の占いを行わせている。覆物の占いとは、射覆と言い、覆われた物の中身を当てることである。この時、占いには将棋の駒が使われた」と述べています。



「儀式に使われた囲碁盤」として、『長秋記』天永2年(1111)12月4日条では、髪の裾を切りそろえて成長を祝う儀式である髪曾木の儀で、幼少の鳥羽天皇(1103~56)が囲碁盤の上に立ったことが紹介されています。さらに、『同』長承3年(1134)12月5日条には、鳥羽天皇第二皇女統子内親王と第四皇子雅仁親王、第五皇子本仁親王の髪曽木の儀でも、三人とも囲碁盤に上っています。著者は、「中国では、囲碁盤は大地を、碁石は天体を象徴していた。親王内親王囲碁盤の上に立つことは、世の支配を象徴したのだろうか。あるいは、囲碁が仙人の遊ぶ遊戯であり、囲碁盤で占いもしており、神などの聖なるものと交流する具であったことからすると、健やかな成長を祈るためにその盤が用いられた可能性もあるだろう」と述べています。



幼少時に囲碁盤に上り髪を削ぐことは現代も継承されており、平成23年(2011)11月3日、悠仁親王が深曽木の儀(中世後期以降、深曽木という呼称が定着した)で囲碁盤に上り、毛先を切った後に飛び降りています。髪曽木の他には、釈迦が誕生したとされる4月8日の灌仏会で、布施を囲碁盤の上に置く作法がありました。また、「賽子の持つ力」として、産養(出産後、5、7、9日目の夜、赤子が丈夫に育つことを祈念し、邪霊祓いに粥を食べさせる真似などをする儀式)では、賽子や囲碁盤が使われていたことが紹介されます。さらに、「病気治療のための囲碁と双六」として、囲碁や双六、将棋は、占いや儀式の折ばかりではなく、なんと病気治療時にも必要とされていたことも紹介されます。



「庶民の治病」として、庶民の治療について描かれた14世紀の『春日権現験記絵』を取り上げ、著者は「疫病を患った男のもとには、民間陰陽師が描かれている。民間陰陽師とは、陰陽寮に所属していた官人陰陽師とは異なり、官職や位階を持たず民間で活動していた者たちである。彼らは、僧の姿をしていたことから法師陰陽師とも言われる。民間陰陽師も、庶民の病気治療に活躍していた。庶民は、大掛かりな修法や高僧による加持を受けることはできない。彼らの病気治療は、主に山伏や巫女、民間陰陽師らが担っていたのだろう。また、浄土真宗の開祖とされる親鸞の長男善鸞も、庶民の病気治療に携わっていたと考えられる」と述べています。

 

医家千字文註 (国立図書館コレクション)

医家千字文註 (国立図書館コレクション)

  • 発売日: 2016/09/17
  • メディア: Kindle
 

 

「薄れゆくモノノケへの意識」として、10世紀半ばから13世紀の史料に病気の原因として非常に多く記録されたモノノケは、依然として中世を通じて史料上に確認されるものの、次第にその数を減らしていくことが紹介されます。12世紀後期ごろより民間医が活躍しはじめ、13世紀末から14世紀には『医家千字文』や『頓医抄』、『万安方』、『産生類聚抄』など、数多くの医書が編纂されました。14世紀から15世紀には竹田昌慶や坂浄運、月湖、田代三喜らが明に渡り、先進的な医学を学んできました。著者は、「医学の発展とともに、病名や薬の種類も増えていき、医療の専門分化も進み、治病において医師の占める割合が拡大したこともあり、病気の原因をモノノケと見なすことが次第に減っていく」と述べています。



「モノノケを痛めつける赤童子」として、そもそもモノノケの調伏は、多くの場合、不動明王を本尊として行われていたことを指摘。治療をする僧は、護法を使役してモノノケを打ち責め、最終的には護法にモノノケを遠方へ追い払わせて病気を治す、と考えられたのでした。それに対して、中世後期の南都では、護法童子である赤童子を本尊とし、病気治療が願われたとして、著者は「僧の加持により赤童子を使役して治療するのではなく、赤童子像を病人の近くに懸けて祈り、赤童子に病気をもたらしたものを打たせ、平癒させることができると考えられていた。ここでは、物付も、囲碁盤も登場しない。複雑な祈繕は抜きにして、赤童子という名の護法童子に病気治療を依存するかたちとなっている」と述べます。



また、古代から中世にかけて、病気治療のあり方には変化が見られるとして、著者は「15世紀頃から盛んに信仰されるようになる赤童子には、実に簡略なかたちでの病気治療が期待されていた。モノノケ調伏のあり方が、複雑化しすぎた結果だろうか。中世後期、密教修法は、民間への浸透とともに、世俗化、平易化していく傾向にある。阿尾奢法をもとに、貴族社会を中心に行われはじめたモノノケ調伏も、その時代に有効だと考えられたものを取り入れながら変化していった。そして、中世後期になると、本来、モノノケ調伏の過程で僧に使役されていたはずの護法童子を本尊とする治療も普及するようになったのである」と述べるのでした。

 

 

第三章「祟らない幽霊――中世」の一、「霊魂ではない幽霊」では、「幽霊」という語が大いに誤解されてきたことが述べられます。古記録における「幽霊」の語の初出は、藤原道長の玄孫にあたる藤原宗忠の日記『中右記』寛治3年(1089)12月4日条です。宗忠は、道長の霊を「幽霊」と呼んでおり、「幽霊」の「成道」のために毎年12月4日には念誦しなくてはならないと述べています。なぜならば、12月4日は、道長の命日だからです。宗忠は、道長が成仏できるよう、その命日に供養をしていたのです。



三、「能での表現」では、これまで世阿弥が「幽霊」という新語を能に導入したとされてきたことが紹介されます。しかし、著者はこの説に異論を唱えます。「幽霊」という語は、すでに8世紀の史料に見え、その後の多くの史料に頻出する語であり、世阿弥が独創的に用いた新語ではないからです。著者は、「世阿弥の独創性は、『幽霊』という語を用いたことではなく、幽霊を能によって目に見えるかたちで表象したことにこそある」と述べていますが、まったく同感です。また、高橋悠介「能の亡霊と魂魄」によれば、能の曲中では、幽霊や亡霊は、墓やその者にとって重要な出来事があった場に登場し、「魄霊」と表現される傾向にあるそうです。



能における幽霊や魄霊の姿は、死後の時間の経過を示すため、老人や老女で表現されたほか、しばしば鬼の姿でも表現されました。たとえば、〈雲林院〉では藤原基経の「魄霊」は「悪鬼」の姿だとされており、〈昭君〉では「胡国」の大将韓邪将の「幽霊」は茨を頭にのせたように髪の毛の突っ立った「冥途の鬼」「鬼神」とされています。著者は、「魄霊や幽霊は、古代から中世にかけて恐れられたモノノケと似通った姿でイメージされていたと言えるだろう。能に幽霊が多く登場するようになった理由としては、14世紀からの霊魂観の転換を挙げることができる」と述べます。



佐藤弘夫『死者のゆくえ』によれば、14世紀後半からは、死後の世界のイメージが一変。この頃になると、浄土に対するリアリティが徐々に減退し、他界への往生をかつてほどには欣求しなくなっていきました。それによって、死後には墓地に安らかに眠り、子孫と交流することが願われるようになるのです。著者は、「このような状況の中、能の曲中で、墓などに出てくる幽霊が演じられるようになったのだろう」と推測するのでした。

 

 

第四章「娯楽の対象へ――近世」の一、「物気から物の怪へ」では、「怪談や霊への関心」として、近世になると、怪談が娯楽の一つとして大流行するようになることが指摘されます。著者は、「近世には、死者は墓に留まるという認識が社会的に浸透しており、生前に死者に悪事を働いたり、死後に死者の機嫌を損ねたりすれば、死者は報復行為に出ると考えられた。ただし、古代、中世の人間が死霊を心底恐れていたのに対し、近世の人間は死霊の実在に懐疑的となっていた。その上、近世は、比較的平和な時代であったこともあり、刺激が求められ怪談会が娯楽として盛んに行われたり、幽霊画が多く描かれ鑑賞されたりしたのである」と述べています。

 

新井白石 (人物叢書)

新井白石 (人物叢書)

 

 

このように死霊の実在が懐疑的に見られる中、怪談や霊について関心を抱いて言及する知識人もいました。本書には、「江戸幕府儒官林家の祖林羅山(1583~1657)は儒学者として『論語』述前篇の「子、怪力乱神を語らず」という立場にありながらも、やむを得ない場合に限って怪力乱神について語っても良く、その場合は必ず訓戒を含め人が惑うのを避けなくてはならないと言い訳めいたことを述べ、『本朝神社考』や『恠談』、『仙鬼狐談』などで怪異に関係することを書いている」「六代将軍徳川家宣のもとで幕臣となり補佐した朱子学新井白石(1657~1725)は、朱子学唯物論的な立場に立った上で『鬼神論』を著して鬼神(死霊、祖霊)や怪異について語り、それらを合理的に解釈しようと試みた」といった例が紹介されています。

 

平田篤胤の神界フィールドワーク

平田篤胤の神界フィールドワーク

  • 作者:鎌田 東二
  • 発売日: 2002/07/01
  • メディア: 単行本
 

 

その後、平田篤胤(1776~1843)は、白石の『鬼神論』にならって『新鬼神論』(文化2年〔1805〕。文政3年〔1820〕改稿。のちに『鬼神新論』として一部内容を改め公刊)を著し、鬼神の実在を証明しようとしました。また、大坂の町人学者山片蟠桃(1748~1821)は、文政3年(1820)に実学的合理主義の啓蒙書『夢の代』を著して新井白石の『鬼神論』を痛烈に批判し、死後における霊魂の存続や天狗、鬼、狐狸の類の実在を否定しました。

 

雨月物語 (ちくま学芸文庫)

雨月物語 (ちくま学芸文庫)

  • 作者:上田 秋成
  • 発売日: 1997/10/01
  • メディア: 文庫
 

 

さらに、上田秋成(1734~1809)は、『万葉集』の注釈書『楢の杣』で、「鬼」の字は『万葉集』や「古書」では「もの」と読むとした上で、事例として「妖鬼」「鬼気」「鬼忌」を挙げています。また近世を代表する怪異短編集『雨月物語』(安永5年〔1776]刊行の初版本)では、「鬼化」のみではなく、「妖怪」や「妖災」にも「もののけ」とふりがなを振っています。上田秋成は怪談作家として知られていますが、国学者本居宣長天照大御神をめぐる論争である「日の神論争」を繰り広げたりしています。

 

鳥山石燕 画図百鬼夜行全画集 (角川文庫ソフィア)
 

 

「恐ろしくなくなる化物・妖怪」として、安永5年(1776)には、狩野派の流れを汲む鳥山石燕によって『画図百鬼夜行』が刊行され、次々と続編が刊行されるほど大変な好評を得たことが紹介されます。そもそも「百鬼」は、古代では、夜に大勢で現れ人間に災厄をもたらすものとして恐れられていました。それに対し、『画図百鬼夜行』では、「ぬうりひょん」や「ぬっぺっぽう」といった滑稽な容姿のものも含まれています。『画図百鬼夜行』のあとがきには、中国の『山海経』と狩野元信(1476~1559)の『百鬼夜行』を手本にして作ったと書かれています。

 

江戸の妖怪革命 (角川ソフィア文庫)

江戸の妖怪革命 (角川ソフィア文庫)

  • 作者:香川 雅信
  • 発売日: 2013/06/21
  • メディア: 文庫
 

 

人々が眺めて楽しんだのは、手品や絵ばかりではありませんでした。近藤瑞木「化物振舞――松平南海候の化物道楽」によれば、出雲国松江の松平出羽守宗衍(1729~82)は、饗応の席で化物の姿をした者に客をもてなさせるなど、化物振舞を楽しんでおり、そのことは様々に語り継がれました。同時期には、奇形の女性の見世物も楽しまれるようになりました。香川雅信『江戸の妖怪革命』によれば、安永7年(1778)には、善光寺阿弥陀如来の出開帳で、「鬼娘」の見世物が行われました。「鬼娘」は、頭に隆起があり、鬼のような風貌をした奇形の女性でした。近世にはこのような見世物が人気を博したのです。さらに、草双紙にも、妖怪、化物の類は非常に多く登場します。

 

 

また、和歌や俳句で死霊を成仏させるという考えが広まりました。著者は、「和歌には、霊的な力があると考えられていたのである。同様の性質は、俳句にも宿るとされた。とりわけ、多くの名句で知られる松尾芭蕉による俳句の詠吟の威力は、語るに足るものだったのだろう」と述べています。近藤瑞木神職者たちの憑霊譚――『事実証談』の世界」によれば、近世には神職者によって書かれた怪談で、「物気」に対し神道的な方法である清祓や遷宮によって対処することが語られたそうです。モノノケ観の変容とともに、それへの対処も変遷しているのです。

 

稲生物怪録 (角川ソフィア文庫)

稲生物怪録 (角川ソフィア文庫)

  • 発売日: 2019/07/24
  • メディア: 文庫
 

 

二、「実在か非実在か――大流行する怪談」では、有名な『稲生物怪録』が取り上げられます。『稲生物怪録』のモノノケは、平太郎に成仏のための供養を求めることも、調伏されることもありません。さらに、帰り際に礼を言うなど、古代や中世前期のモノノケとは大きく異なります。その上、供の者を引き連れている点も異なるとして、著者は「古代や中世前期では、モノノケは個人的な怨念により病や死をもたらす死霊であることが多かったため、供の者を引き連れて現れるとは考えられていなかった。モノノケへの恐怖が現実的ではなくなった近世には、対処方法が真剣に模索されることはもはやなくなった。モノノケは、主に文芸作品で語られる対象となり、妖怪や化物とも明確には区別されなくなり、滑稽さが求められるようになったのである」と述べています。



ところが、『稲生物怪録』に異様なほどに関心を示し、「物怪」の実在の証拠にしようとした者もいました。それは、国学者本居宣長の死後の門人、平田篤胤です。「平田篤胤と『稲生物怪録』」として、霊界への関心から、篤胤が『稲生物怪録』にも大いに興味を示し、異本を三部入手して校合していることが紹介されます。篤胤の著述目録『大壑平先生著撰書目』によれば、篤胤は、「子孫の稚子等」に、世の中にはこのような物があることを知らしめ、「鬼神」の実在を立証しようとしたのです。篤胤死後、門人の手によって最終的な校合および三次での調査がなされ、文化3年(1806)に平田本『稲生物怪録』が完成しました。

 

新書819平田篤胤 (平凡社新書)

新書819平田篤胤 (平凡社新書)

 

 

吉田麻子「『稲生物怪録』の諸本と平田篤胤稲生物怪録』の成立」によれば、篤胤が『稲生物怪録』に関心を抱いた理由は、『稲生物怪録』が実際に起きた事件を記録した著作とされていることによると推測されるそうです。というのも、『稲生物怪録』には、実在した人物や場所、建物が登場します。つまり、平田本『稲生物怪録』には、鬼神や幽冥界の実在を立証しようとする篤胤やその門下の強い意志が込められているのです。平田本の完成により、『稲生物怪録』は世に広く流布していくことになるのでした。

 

霊の真柱 (岩波文庫)

霊の真柱 (岩波文庫)

  • 作者:平田 篤胤
  • 発売日: 1998/11/16
  • メディア: 文庫
 

 

平田篤胤による仏教排撃とモノノケ否定」として、篤胤が大乗仏教を強く否定する立場をとっていたことが紹介されます。それによって篤胤の主著『霊能真柱』でも、死霊が現れる事例をほとんど用いていません。それのみではなく、仏教的な文脈における事例を積極的に退けてもいます。『霊能真柱』では、地獄と極楽を見たという女に篤胤が薬を与えると、女が「仏法」を信じていることを「妖鬼」がからかってつけ込んだものにすぎなかった、とばっさり切り捨てています。

 

 

吉田真樹『平田篤胤――霊魂のゆくえ』によれば、せっかく死後の世界を追究し得るかもしれない人物と対話しているにもかかわらず、そのことは語っていないのです。モノノケ調伏は、仏教の加持や修法によって行われていませんでした。すべては「法師ども」の謀略によるものであると、モノノケの実在自体を捨象したのです。著者は、「『稲生物怪録』によって『物怪』の実在を証明しようとする行為と、かつての貴族社会で恐れられたモノノケを否定し『法師ども』の謀略だと結論づける行為は、矛盾する。仏教を否定するあまりの、なんとも皮肉な結果である」と述べています。



「双六やカルタにされたおばけ」として、近世後期には、「百種怪談妖物双六」や「おばけかるた」「化物づくし」などの玩具が人気を博すようになることが紹介されます。たとえば、累やお菊、お岩は一枚の絵が折り方によって何種類もの絵になるように作られる変わり絵に描かれています。「新板化物尽」(天保年間〔1830〜44〕頃。国立歴史民俗博物館所蔵)には、一つ目小僧やムカデの化物、雪女とともにこれらが描かれているのでした。これについて、著者は「近世によく知られた累、お菊、お岩は、変わり絵に描かれ、楽しまれた。それにしても、累やお菊、お岩が、一つ目小僧やムカデの化物、雪女とともに「化物」として描かれているのは、興味深い」と述べます。



「吸収されたモノノケ」として、平安貴族を震撼させたモノノケは、近世になると妖怪、化物、幽霊、お化けの類と明確な区別がなされなくなり、娯楽化させられていくことを指摘。その上、「物怪」(物気)という語は、『源氏物語』や『栄華物語』といった古代の物語を論じる文脈以外では、古代や中世前期ほどには頻繁に使用される語ではなくなくなりました。著者いわく、モノノケは、妖怪や化物、幽霊に吸収されていったのです。



モノノケは、中世後期に入り、医療の発達に伴い病気の原因とされる割合が減少していきました。それによって、モノノケへの恐怖は、薄れていきました。一方、怪異を表す語であった「妖怪」は、中世後期に、化物と重ね合わせて捉えられるようになり、怪異を引き起こす存在そのものとしての意味も付与されていきます。さらに、死霊や死者を指す語であった「幽霊」は、怨念を持ち現れ出る恐ろしい死霊としての性質を新たに持たされるようになったとして、著者は「新しく出てきた『妖怪』『幽霊』に、消えかけた古い語『物気』は、『物怪』とされて飲み込まれていったのではないだろうか」と述べるのでした。

 

 

第五章「西洋との出会い――近代」の一、「迷信の否定と根強い人気を誇る怪談」では、「淫祠邪教と迷信の撲滅」として、江戸幕府滅亡の前後で、陰陽師や憑祈禱などに対する公の扱いが大きく変わったことが紹介されます。高木博志『近代天皇制の文化史的研究――天皇就任儀礼・年中行事・文化財』によれば、近世後期における宮中の正月行事や即位式では、在地の陰陽師が奉仕していました。それによって、朝廷と特別な関係を持っていた彼らには、国名や苗字、呼名、帯刀が許されていたのです。ところが、遷都後、陰陽師らは、東京の宮中正月行事から排除されることになったのでした。その上、明治3年(1870)には、「天社神道廃止」の太政官布告が発令されます。全国の陰陽師を管轄していた土御門家は諸国の陰陽師を支配することを禁止され、陰陽師は歴史の表舞台から姿を消していきます。明治政府の神道国教化政策による神仏分離令修験道廃止令などの先陣をきるものでした。

 

井上円了: その哲学・思想

井上円了: その哲学・思想

  • 作者:竹村 牧男
  • 発売日: 2017/10/25
  • メディア: 単行本
 

 

「『お化け博士』井上円了」として、近代に様々な不可思議な現象を収集し、多くの迷信を否定した代表的な人物の一人に、「お化け博士」や「妖怪博士」の異名を持つ井上円了(1858~1919)が紹介されます。円了は、迷信や怪奇現象を解明することにより、それに怯える人々の不安や恐怖を拭い去ることができると考えました。竹村牧男『井上円了その哲学・思想』によれば、円了は、西洋視察ののち、明治20年(1887)に哲学館(のちの東洋大学)を開設して妖怪学の講義を設けたり、全国で妖怪学に関する講義を行ったりし、明治26年(1893)には『妖怪学講義』を刊行して研究の成果を公にしました。

 

遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)

遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)

  • 作者:柳田 国男
  • 発売日: 2004/05/26
  • メディア: 文庫
 

 

井上円了とは目的を異にして妖怪を研究する学者もいました。民俗学者柳田國男(1875~1962)です。柳田は、民俗学の中での妖怪学の必要性を説き、『遠野物語』(明治43年〔1910〕)をはじめとする多数の著作を残したことで知られていますが、著者は「柳田は、もはや妖怪(お化け)の有無は問題ではないと主張し、妖怪や幽霊などを研究対象とすることにより、それを信じた人々の思考構造を知ろうとしたのであった」と述べます。

 

明治期怪異妖怪記事資料集成

明治期怪異妖怪記事資料集成

  • 発売日: 2009/01/01
  • メディア: 大型本
 

 

また、怪談や迷信は、明治政府や知識人から否定される中、大衆向けの読み物で語られ続けました。民俗学者で妖怪研究者の湯本豪一(1950~)は、明治年間に発行された新聞を調べ、『明治期怪異妖怪記事資料集成』(2009年、国書刊行会)にまとめました。本書に取録された怪異や妖怪に関する記事は、約4400件に上ります。怪異や妖怪は、明治政府の政策とは逆行するものの、相変わらず求められ続けたのでした。

 

夏目漱石 琴のそら音 (日本幻想文学集成)

夏目漱石 琴のそら音 (日本幻想文学集成)

  • 作者:夏目 漱石
  • 発売日: 1994/06/01
  • メディア: 単行本
 

 

「西洋の幽霊研究とその影響」として、日露戦争(明治37~38年〔1904~05)後、戦争による大量死を背景に、霊魂の実在や死の問題が人々の興味関心を集めるようになったことが紹介されます。夏目漱石(1867~1916)の『琴のそら音』(明治38年)には、主人公が、「幽霊と雲助」は明治維新以来「廃業」したと信じていたのに、知らない間に「再興」されたようであり、心理学者が幽霊を「再興」していると思うと馬鹿にはできなくなる、と困惑する場面があります。この頃は、欧米の幽霊研究の影響を大いに受けた時期で、英学者の平井金三(1859~1916)らは、欧米の科学的心霊研究の影響を受けて、幽霊研究会(心霊的現象研究会)を発足させました。

 

草迷宮 (岩波文庫)

草迷宮 (岩波文庫)

  • 作者:泉 鏡花
  • 発売日: 1985/08/16
  • メディア: 文庫
 

 

西洋の心霊写真なども、新聞に取り上げられて話題となりました。著者は、「文明開化により幽霊などの否定がなされた一方で、西洋における幽霊や霊魂の実在を肯定する研究が紹介され、その影響も大いに受けたのであった」と述べています。しかし、江戸以来のモノノケを好む作家もいました。「おばけずき」を自認し怪異に関わる小説も多く書いた泉鏡花(1873~1939)です。鏡花の作品にも、モノノケが出てきます。明治41年(1908)、泉鏡花は、『稲生物怪録』に深い関心を寄せ、『草迷宮』を刊行。『草迷宮』で語られる秋谷邸の怪異は、『稲生物怪録』をもとにしています。

 

神と巫女の古代伝承論

神と巫女の古代伝承論

 

 

三、「西洋文化受容の影響」では、日本古代の霊魂に関する研究も、西洋文化の影響を大いに受けたことが指摘されています。国文学者・民俗学者折口信夫(1887~1953)は、人間に災いをもたらす低級な神を「デモン」あるいは「スピリット」として捉えました。保坂達雄「折口名彙の生成」(『神と巫女の古代伝承論』所収)によれば、「たま」や「かみ」「もの」といった古代の霊魂信仰を整理した折口の所説に従うと、「デモン」や「スピリット」は「もの」に相当することになります。つまりは、モノノケの「もの」なのです。学問の世界でも、モノノケは西洋文化と無縁ではありませんでした。

 

水木しげると鬼太郎変遷史

水木しげると鬼太郎変遷史

  • 作者:平林 重雄
  • 発売日: 2007/05/25
  • メディア: 単行本
 

 

終章「モノノケ像の転換――現代」では、戦後のモノノケには、人里離れた自然に棲むとされるものが多いことが指摘されます。高度経済成長期になり、妖怪を楽しむ余裕が出たこともあり、妖怪が流行するようになります。その火付け役は、水木しげる(1922~2015)でした。平林重雄『水木しげると鬼太郎変遷史』によれば、水木しげるの代表作「鬼太郎」は、昭和29年(1954)に紙芝居作品『墓場鬼太郎』によって誕生し、漫画版『ゲゲゲの鬼太郎』のルーツとなる『幽霊一家 墓場鬼太郎』(昭和35年〔1960〕に貸本専門誌『好奇伝』に掲載)、さらには兎月書房から怪奇専門誌『墓場鬼太郎』が創刊され、水木の鬼太郎も『墓場鬼太郎』シリーズとして連載された。その後、兎月書房版『墓場鬼太郎』シリーズの続編にあたる『鬼太郎夜話』が三洋社から出されました。

 

鬼太郎夜話 (ちくま文庫 (み4-16))

鬼太郎夜話 (ちくま文庫 (み4-16))

 

 

「社会から取り残されたアウトサイダー」として、戦前に引き続き、戦後のモノノケのイメージは、実に曖昧であることを指摘し、著者は「興味深いことに、水木しげる『鬼太郎夜話』からは、モノノケは必ずしも人間を脅かすのではなく、人間社会とは隔絶した自然の中にひっそりとすむイメージでも捉えられるようになっていたことが分かる。妖怪や幽霊が多く語られる一方で、奇しくも水木の「物の怪」が嘆くように、モノノケは華々しい表舞台から裏方に追いやられ、絶滅が危惧される状況となっていた。そのような状況によって、モノノケは、孤島、森、といった自然の中に追いやられるようになったのだろう」と述べています。



「人間との対立と共生」として、現在、モノノケというと、平成9年(1997)に公開された宮崎駿監督のアニメ映画「もののけ姫」のイメージが強いことが指摘されます。「もののけ姫」は、公開から翌年夏までに1300万人もの観客を集め、配給収入113億円という記録的大ヒット映画となりました。日本の中世後期を舞台に、森に棲む荒ぶる神々もののけ)と森を侵略しようとする人間の壮絶な闘いと共生が描かれた物語ですが、著者は「『もののけ姫』の『もののけ』は、人間の侵略から森を死守しようとする太古からの神々である。『泥汽車』のモノノケとは、荒ぶる性質を持つ点で異なるものの、通じるものがある。モノノケは、怨念を持つ霊として認識される一方で、人間世界とは一線を画す森に生きる精霊、神としての定着したイメージを持たされるようになったのだと言えよう」と述べます。

 

「拍車がかかるキャラクター化」として、妖怪のキャラクター化は、妖怪ウォッチの登場によって拍車がかかったことが紹介されます。妖怪ウォッチは、レベルファイブ制作のロールプレイングゲームです。ゲームに先行して平成24年(2012)に『月刊コロコロコミック』で連載されました。著者は、「ゲームでは、猫や犬などの生き物が妖怪となったものが、妖怪の種族の一つである『モノノケ族』として分類されている。ちなみに、『モノノケ族』には、トラックに轢かれて死んだ猫の地縛霊、ジバニャンも分類されている」と説明します。



「モノノケの歴史的意義」として、古代から中世にかけては、モノノケは病や死をもたらす死霊であることが多かったことが指摘されます。著者は、「病気の原因を現在のようには明らかにし得なかった時代、モノノケを病気の原因として捉えることによって、治療法を編み出すことが可能になった。また、虐げられ怨念を抱いて死んでいく人間に、死後の復讐という希望を与えることにもなる。それによって、モノノケは、共同体の不調和を是正する役割も担っていたことだろう。他者を害する極端な言動は、被害者の親族の霊などを意識することによって、多少なりとも自重されることもあったと考えられる」と述べます。



近世になると、モノノケは幽霊や妖怪と混淆し、主に文学作品の中で語られ、娯楽化していく傾向にありました。その実在は否定されつつも、比較的平和な時代であったが故に刺激が求められ、語られたのです。近代から現代にかけては、西洋文化の影響を受けたこともあり、モノノケの意味するところは多様となったとして、著者は「モノノケは、人間に取り憑く霊としての性質も残しつつ、自然を守る神としての意味合いまで持たせられるようになったのである。また、モノノケは、妖怪と重ね合わせて捉えられる傾向が強まり、キャラクター化され、人間に寄り添い、時には人間には持ち得ないパワーで人間を助けるものとされるようになっていった」と述べるのでした。



「あとがき」では、本書を書いた動機について、「古代から現代まで途切れることなくモノノケに関する事柄が記録され、あるいは語られてきた以上、一度は通史で概観しておく必要があるのではないか。その作業は、日本人の心性を考察する上で不可欠なのではないか」と述べています。モノノケに関する史料の読解・分析は、各時代における人間の心奥の変遷をのぞき込む作業に他ならなかったとして、著者は「モノノケあるいは妖怪は、人間に寄り添い助ける役割まで担うようになってきている。核家族化が進み個を重んじる現代社会では、人間関係は稀薄になりがちである。このような時代だから、人間以外のモノによる癒やしが求められているのかもしれない」と述べます。


2020年、新型コロナウイルスが世界中を震撼させました。新型コロナウイルスが恐れられる中、日本では、半人半魚の姿をしたアマビエの絵を描けば(もしくは見れば)疫病に罹患しないとする伝説が話題となり、妖怪アマビエが人気を博しました。まさに、人間が人間以外のモノに癒やしを求めたのです。著者は、「その効果を心から信じる人は少ないだろうが、混沌とした状況の中、アマビエには、不安な心に平安や和らぎをもたらす効果がある。先が見えない現代には、不可思議なモノの持つ超人間的なパワーが、求められているのである」と述べるのでした。この著者の言葉に100%共感します。「死霊、幽霊、妖怪の1000年」を綴ったモノノケの通史を、これから何度も読み返したいと思います。

 

 

2021年3月2日 一条真也