ジャニー喜多川さんのグランド・フィナーレ

一条真也です。
8月1日、WEB「ソナエ」に連載している「一条真也の供養論」の第13回目がアップします。タイトルは、「ジャニー喜多川さんのグランド・フィナーレ」です。

f:id:shins2m:20190731091530j:plainジャニー喜多川さんのグランド・フィナーレ

 

7月9日、ジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川さんが、解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血のため、東京都内の病院で死去されました。87歳でした。ジャニーさんは6月18日に体調不良を訴え救急搬送されそのまま入院。連日、タレントが見舞いに駆け付けました。救命措置により容態が安定し、一般病棟に移ることができたため、ジャニーズ事務所のタレントたちとの面会がかなったそうです。新旧のジャニーズのヒット曲が流れる病室には、年齢の差を超えて多くのタレントたちが集まり、思い出を語り合いました。危険な状態に陥ったときも、タレントたちがジャニーさんに呼び掛け、体をこするたび危機を脱することができたといいます。

 

ジャニーさんは、僧侶だった父親が布教のために赴いた米国ロサンゼルスで生まれました。1952年、朝鮮戦争で米軍の一員として朝鮮半島に派遣され、除隊後、米大使館軍事顧問団に勤務。62年に最初に発掘したグループ「ジャニーズ」を結成し、ジャニーズ事務所を設立しました。当時は男性アイドルへの目が冷たかった時代でしたが、歌って踊れる男性アイドルにこだわり続け、フォーリーブス郷ひろみ田原俊彦近藤真彦、シブがき隊、少年隊、光GENJI、SMAPTOKIO、V6、嵐など、多くのトップスターを生み出しました。

手掛けたアイドルは主なデビュー組だけで45組、延べ166人。派生グループなどを含めるとこれ以上の数になります。ギネスブックにも掲載された「世界一のアイドルメーカー」として、年間売り上げ1000億円超と言われるアイドル帝国を築き上げました。しかし、お金や名声には全く興味を示さず、男性アイドルのプロデュースのことだけを考え続け、生涯そのスタイルを変えませんでした。

 

ジャニーさんの葬儀ですが、7月12日、渋谷区内にある事務所所有のビルでマスコミをシャットアウトした「家族葬」が行われ、自らがプロデュースした約150人のタレントたちに見送られました。会場は、ジャニーズJr.の少年たちの稽古場で、祭壇や照明、音響などはタレントたちやスタッフが出来る限り自らの手で準備しました。

 

司会はTOKIO国分太一とV6の井ノ原快彦が行うなど、まさに「手作りの会」で、ミラーボールやスクリーンも用意されたそうです。〝稀代の演出家″だったジャニーさんらしく、人生のグランド・フィナーレを飾られたのです。こんな「あの人らしかったね」と言われる葬儀は素敵ですね。ジャニー喜多川さんのご冥福をお祈りいたします。合掌。

 

2019年8月1日 一条真也

『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか』

なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか 日本と中韓「道徳格差」の核心 (PHP新書)

 

一条真也です。
7月も終わりですね。東京に来ています。
30日は全互協の正副会長会議、理事会、儀式継創委員会などに出席しましたが、猛暑でグロッキーです。
『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか』石平著(PHP新書)を読みました。「日本と中韓『道徳格差』の核心」というサブタイトルがついています。著者は1962年、中国四川省成都生まれ。北京大学哲学部卒業。四川大学哲学部講師を経て、1988年に来日。1995年、神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。民間研究機関に勤務ののち、評論活動へ。2007年、日本に帰化する。著書に『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』(PHP新書、第23回山本七平賞受賞)など。 

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本書の帯

本書の帯には、「中国人は儒教に『権力』を求め、日本人は『愛』を求めた」「著者が人生を通じて発見した真理――孔子の心は中国ではなく日本にあった!」と書かれています。また、カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
論語はすなわち儒教のことである――日本人の多くにとっての『常識』であろう。ところが、実はそうではない。子供のころ、祖父の摩訶不思議な『教え』から『論語』に接した著者は、のちに儒教の持つ残酷な側面を知り、強い葛藤を抱く。実際の孔子は「聖人」であったのか? なぜ『論語』は絶対に読むべきなのか? 御用教学・儒教の成立と悪用される孔子朱子学の誕生と儒教原理主義の悲劇など、中国思想史の分析を重ねた果てに著者がたどり着いた答えは、なんと『論語儒教ではない』というものだった。曇りのない目で孔子の言葉に触れ、『論語』を人生に生かすための画期的な書」

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本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

序章  私の『論語』体験と、私が見た「儒教の残酷さ」

第一章 定説や通念を覆す
    ──孔子とは何者か、『論語』とは何か

第二章 御用教学・儒教の成立と悪用される孔子

第三章 朱子学の誕生と儒教原理主義の悲劇

第四章 朱子学を捨て、『論語』に「愛」を求めた日本

最終章 『論語』はこう読もう

「あとがき」

 

序章「私の『論語』体験と、私が見た『儒教の残酷さ』」では、「まさに偽善と欺瞞以外の何物でもない『残酷さ』」として、夫を亡くした未亡人は自ら命を絶たなければならないというかつての「礼教殺人」の実例を示し、それがいかに非人間的なものであったかを糾弾して、こう述べます。
「明清時代に流行った礼教とは、要するに中国伝統の儒教の発展型であって、新儒教と呼ばれるものである。南宋時代に確立した朱子学が『天理』と『人欲』との対立軸を打ち出し、それを受けて、いわゆる『存天理、滅人欲(天理を存し、人欲を滅ぼす)』という過激なスローガンの下で誕生したのが、すなわち新儒教としての礼教であった。つまり礼教というのは、まさに『存天理、滅人欲』というスローガンの下、『礼』という強制力のある社会規範をもって、人間性と人間的欲望を抑制し圧殺することを基本理念とするものだったのである」

 

また、著者は「『論語』と礼教とのギャップに抱えた葛藤」として、こう述べます。
「『論語』は確かにさまざまな場面で『礼』を語り、『礼』を大事にしている。『貧而楽道、富而好礼』(貧しくして道を楽しみ、富みて礼を好む)や、『礼與其奢也寧倹、喪與其易也寧戚』(礼は贅沢であるよりは質素であったほうが良い、お葬式は形を整えるよりも心底から悲しむのが良い)などである。
しかし『論語』の語る『礼』は、どう考えても、礼教が人間性や人間的欲望の抑制に使うような厳しい社会規範としての『礼』とは全然違う。『論語』の語る『礼』は要するに、相手のことを心から大事にする意味での『礼』であって、人間関係を穏やかにするための『礼』である。そこには、人間的暖かみはあれ、礼教の唱える人間抑圧の匂いはいっさいない。とにかく後世の礼教の残酷さと冷たさとはまったく違い、『論語』から感じられるのはむしろ優しさと暖かさである。『論語』と礼教との間にはどう考えても、何の共通点もないはずである」

 

 

著者は、「デュルケームと『礼の用は和を貴しと為す』」として、こう述べています。
「私の大学院の修士課程での専攻は社会学である。私の指導教官は、フランスの近代社会学者である、エミール・デュルケームの思想を研究のテーマの1つにしていた。ある日のゼミで、デュルケームの『社会儀礼論』がテーマとなった。その学説を簡単に説明すると、デュルケームは社会統合における儀礼の役割をとりわけ重視し、人々が儀礼を通じて関係を結び、共に儀礼を行うことによって集団的所属意識を確認し、集団としての団結を固めていくものである、との説である」

 

 

 また、著者は以下のようにも述べています。
「確かに『礼之用和為貴』という『論語』の言葉は、あのデュルケームの『社会儀礼論』が言わんとする真髄の部分を、一言で鋭く言い尽くしている気がする。日本の中国思想史研究家の金谷治氏は、この言葉を『礼のはたらきとしては調和が貴いのである』(金谷治訳注『論語岩波文庫)と現代日本語に訳しているが、デュルケームの『社会儀礼論』の本質はまさに、この簡潔な一言に凝縮されているのではないか」

 

論語 (岩波文庫 青202-1)

論語 (岩波文庫 青202-1)

 

 

さらに、著者は以下のようにも述べるのでした。
「『礼の用』、すなわち礼の働きはまさに『和為貴』、つまり『和』を大事にして人間関係や社会を調和させることだ。そしてここでの『和』とはすなわち和むことであり、和やかな心であり、親和であり和睦であり、心の暖かさと温もりがその背後にあるはずである。このような『礼の用』の作り出す『和』は、まさに私が自分の保証人の奥様の振る舞いから感じたあの暖かい『和』と同質のものだ」
わたしはこれを読んで、新元号は「令和」ではなく「礼和」なら良かったのにと改めて思いました。

 

著者は「『論語』と儒教はまったく別々のものである」として、こう述べています。
孔子の『論語』と、儒教とを同一視する今までの学術上の定説と歴史上の通念は、まったく間違っている。『論語』と儒教は、その本質においてまったく異なっており、そもそも別々のものでしかない。『論語』はとにかく儒教とは違うのだ。『論語』の精神は『論語』にあって、儒教にあったのではない。『論語』は『論語』であって、儒教儒教なのである、と。そして、『論語』の精神と考えには、われわれにとって普遍的な価値のあるものが多く含まれているから、『論語』は大いに読まれるべきである。しかし、儒教とは単なる過去からの負の遺産であり、廃棄物として捨てておくべきものである、と」


世界をつくった八大聖人』(PHP新書)

 

第一章「定説や通念を覆す──孔子とは何者か、『論語』とは何か」では、「実際の孔子は『聖人』であったか?」として、著者はこう述べます。
孔子に対する共通の称号は『聖人』である。儒教の本場・中国では、孔子は宋の時代に『至聖文宣王』との称号を皇帝から与えられている。明王朝ではそれが『至聖先師』と改称され、清王朝の時代に『大成至聖先師』として定着した。そのいずれも『至聖』という肩書きがメインであって、要するに孔子は単なる聖人ではなく、聖人の道を極めた聖人の中の聖人、という意味合いである。
もちろん、歴代王朝からこのような称号や肩書きを贈られただけでなく、中国を中心とした儒教の世界においては今でも、孔子は普通、『聖人』と見做されている。『孔子=聖人』は常識の中の常識であり、疑うことのできない通念でもある。そして、この『聖人』としての孔子は、儒教における崇拝の対象ともなっているのである」
ちなみに、わたしは『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)で、聖人としての孔子について詳しく書きました。

 

著者は、「作られた『聖人像』を打破すべき」として、以下のように述べています。
「結局、孔子という人間は時々、意地悪くて人の気持ちをわざと弄ぶこともあれば、カンシャクを起こして弟子の自尊心を平気で傷つけることもあった。あるいは、われわれ普通の人間と同じように、怨念や妬みなどのマイナスの感情を持つこともあった。
もちろんそれは孔子の全てではないし、これだけをもって『孔子は駄目な人間だ』と、この歴史上の偉人を貶めるつもりも筆者にはない。ここで言いたいことはただ1つ、要するに孔子は決して『完璧にして理想的な人間』ではないということだ。彼にもさまざまな人間的弱みがあって人格的な欠陥もあり、良くない感情も悪い癖も持っているのだ。もちろん彼は優れた人物であるが、同時に、ときにはわれわれ普通の人間とそんなに変わらない側面を見せることもある。つまり彼は決して、後世の人々が理想化したような『聖人』ではないのである」

 

また、著者は「『論語』は聖典でもなければ経典でもなく、常識論の書だ」として、『論語』について述べています。
「まず確実にいえることの1つは、『論語』は哲学の書ではないということだ。ドイツの大哲学者であるヘーゲルは、『論語』の独訳を読んで『こんな書物のどこが哲学なのか』と失望して、『孔子の名誉のためにも、『論語』は翻訳されないほうがよかった』との名言を残しているが、実はドイツ人あるいは西洋人の基準からでなくても、中国人自身の思想史の基準からしても、たとえば後述の孟子朱子の哲学を基準にして見ても、『論語』はどう考えても『哲学の書』ではない。何しろ、本章において見てきたように、孔子はそもそも哲学者ではないからである。もちろん孔子は聖人でもないから、『論語』という書物は決して、恭しく拝読すべき『聖典』ではない。そして孔子は宗教家ではないから、『論語』はキリスト教の聖書やイスラム教のコーランのような教典でもない」
著者いわく、『論語』は孔子という「常識人」が語る「常識論の書」であるといいます。

 

孟子 (講談社学術文庫)

孟子 (講談社学術文庫)

 

 

第二章「御用教学・儒教の成立と悪用される孔子」では、「『王道』と『礼治』――儒学を打ち立てた孟子荀子」として、著者は以下のように述べています。
「要するに中国思想史上、儒学がその始祖とすべきは戦国時代の孟子であり、決して春秋時代孔子ではない、ということである。孟子よりも半世紀後の戦国時代末期に生まれた荀子もまた、儒学の学問的体系化に貢献した一人である。荀子は趙国の出身であるが、生涯において政治権力に疎まれた孟子とは違って、荀子は各国を遊説する中で、斉の国の襄王や楚の国の春申君などの権力奢に仕えることができ、政治に携わりながら学究の生活を送った」

 

荀子 (講談社学術文庫)

荀子 (講談社学術文庫)

 

 

前漢の第7代皇帝であった武帝の時代に、董仲舒という儒学者が登場し、「天人相関説」や「性三品説」というものを唱えました。中でも「性三品説」は、孟子荀子儒学思想をつまみ食い的に借用しているとして、著者は述べます。
「『上品の性が生まれつきの善』という説は当然、孟子の『性善説』の借用であるが、『下品の性が生まれつきの悪』というのは当然、荀子性悪説を受け継いでいる。そして、『王は民を教化して善へと導く』という説はやはり、孟子の『王道思想』と荀子の『礼治主義』から大きな影響を受けているのであろう」

 

春秋繁露 (中国古典新書)

春秋繁露 (中国古典新書)

 

 

続けて、著者は以下のように述べます。
「そういう意味では、董仲舒の『性三品説』は孟子荀子儒学思想の焼き直しにすぎない。彼の独創性あるいはオリジナル性は、孟子荀子儒学思想のいくつかの要素を借りてきて、皇帝に奉仕するような権力正当化の御用理論、すなわち政治的イデオロギーを再構築した点にある。つまり董仲舒の手によって、学問としての儒学は政治権力を正当化するためのイデオロギーとなり、まさに後世にいう『儒教』になったわけである」

 

「『論語』とは無関係の儒教の成立、そして孔子の神格化」として、著者は述べます。
董仲舒が中核となる前漢儒学者たちは『天人相関説』や『性三品説』を打ち立てて王朝の政治権力と皇帝の権威の正当化に躍起になる一方、『五経』というものを生み出して新しい数学体系の根幹にした。そこで成立したのがすなわち後世にいう『儒教』というものである。そして、この時点から南宋時代における朱子学の登場までの約1300年間、この『五経』が儒教の基本経典として儒教思想の中核的な地位を占めていたのである」
著者いわく、前漢以後の儒教には、本物の「孔子」はもはやいません。前漢以後の儒教には『論語』も生きていません。前漢以後の儒教はただの儒教であって、孔子の『論語』とは何の関係もないというのです。

 

第三章「朱子学の誕生と儒教原理主義の悲劇」では、「心の救済への渇望と仏教の勢力拡大」として、著者は魏晋南北朝時代に外来宗教の仏教が中国に入ってきて、急速に勢力を拡大したことを指摘し、以下のように述べます。
「仏教が中国に伝来したのは、およそ後漢時代であるが、それが本格的に広がり始めたのは五胡十六国時代南北朝時代である。紀元4世紀頃、西域僧の鳩摩羅什などの尽力により仏典が大量に漢訳されたことは、仏教の中国普及を可能にした要因の1つであるが、仏教勢力の拡大を促す、いくつかの歴史的、社会的要因があった。その1つは、後漢末期から長く続いた殺戮と破壊の大乱世の中で、あまりにも多くの苦難を体験した人々が、心の救済を強く求めていたことである。中国伝統の儒教は、権力への奉仕こそを本領とする数字であって、大衆の救済には何の興味もないし、その役割を果たすことができない。そこで、苦しみからの解脱や死後の極楽の世界を説く仏教が現れると、それが人々の心を摑んで離さなかったのは、むしろ当然の成り行きであった」

 

また、「『論語』の憂鬱――『四書』の選定と祭り上げ」として、著者は述べます。
前漢儒教は『五経』を制作するときに孔子の名を悪用しながら、孔子孟子の両方を儒教の最高経典から排除して、いわば『孔孟冷遇』の儒教を打ち立てた。それに対し、前漢以来の儒教を頭から否定したは、逆に孔子孟子を引っ張り出してきて、その空白を埋めようとしたのである。朱熹の立てた道統においては、周の文王・武王・周公から北宋の周敦頤に直結するのはいくらなんでも無理があり、その思想的・歴史的繋ぎ役が必要となってくるのである。朱熹がそのための繋ぎ役として選んだのがすなわち、孔子孟子である。前漢儒学者たちが孔子を散々悪用したのと同様、朱熹はまた、孔子孟子を利用しただけである」
著者は、「結局、孔子と『論語』は誕生してから1500年以上、必要とされるときだけ都合よく利用されてきたわけである。前漢から朱熹までの儒教の歴史は、孔子と『論語』にとっては、散々利用され、悪用された不本意にして憂鬱な歳月だったのであろう」とも述べています。

  

「朱子語類」抄 (講談社学術文庫)

「朱子語類」抄 (講談社学術文庫)

 

 

さらに、「漢民族明王朝において支配的地位を確立」として、著者は以下のように述べています。
朱熹の名声が高まったのはその没後である。彼の学問は徐々に読書人の間で広がっていって、朱熹は『朱子』と呼ばれるようになった。そして1241年、朱熹の死後41年目にして、彼は文宣王廟(孔子廟)に従祀され、朱子学が国家の正統教学であることが示された。しかし、その38年後の1279年には、南宋が元の侵攻によって滅び、中国大陸が蒙古族の建てた元朝によって支配されることとなる。だが、この異民族王朝の下で科挙試験制度が復活されたとき、科挙試験の準拠する儒教経典の解釈に朱子学が採用されることとなった。朱子学はこれで初めて国家的教学としての地位を得たのである。朱子学がさらに支配的地位を固めて一世を風靡したのは、1368年に創建された漢民族中心の明王朝においてである」

 

そして、「『殉節』と『守節』に追い込まれる中国女性の悲哀」として、著者は以下のように述べるのでした。
「要するに朱子学と礼教の世界では、夫の性欲を満足させその後継を生み、そして子供を育てることが『道具』としての女性の役割であるが、夫が亡くなって子供もいないなら、この女性にはもはや生きる価値はない、死ぬ以外にないのである。そして、このような考えに従って『殉節』を遂げた女性は、官府と社会から、場合によっては朝廷から『烈婦(烈女)』だと認められて大いに表彰されるのである。
このように、朱子学と礼教が盛んであった明清時代の中国社会では、夫に先立たれた女性ほど不幸なものはなかった。『守節』して夫の残した子供と家族に奉仕していくか、『殉節』して自らの命を絶つか、この2つの道しか許されない。人間としての権利、女性としての幸せなどはもってのほかであった」

 

第四章「朱子学を捨て、『論語』に『愛』を求めた日本」では、「朱子学を取り入れつつ、完全離脱した日本」として、著者は以下のように述べています。
「戦国時代の乱世に終止符を打って天下統一を果たした徳川家康は、安定した政治的仕組みを作っていくために、儒教を幕府の政治理念として取り入れた。そのとき朱子学が中国・朝鮮を含めた東アジアの世界では支配的地位を占めていたから、幕府の導入した儒教はもはや飛鳥時代に日本に伝来したような伝統的儒学ではなく、時代のトレンドとなった新儒学、すなわち朱子学であった。かくして、朱子学は一時、日本の思想界を支配することになったが、幸いなことに、日本人は朱子学を受け入れながらも、それとペアになっている「礼教」にはまったくの興味を示さなかった」

 

 

また、「『論語』との矛盾に気がついた伊藤仁斎」として、著者は江戸前期の思想家で朱子学に対して最も根本的な批判を展開した伊藤仁斎を取り上げ、こう述べています。
朱子学による儒学古典の曲解や歪曲を一度洗い落として、儒教思想の本来の姿を取り戻すべきだと、仁斎は考えた。そのために彼が開発した独自の学問の方法とは、朱子学による古典の注釈や解釈を無視して、『論語』や『孟子』に書かれている古の言葉をその本来の意味において理解し会得することだった。それがすなわち仁斎の『古義学』というものである」
「仁斎が取り戻そうとした『愛』の原理」として、著者は「仁斎が取り戻そうとした儒学の原点とは何であったか。それは仁斎自身が『最上至極宇宙第一の書』と絶賛する『論語』と、仁斎自身が『論語』から読み取った『愛』の原理である」と述べます。

 

伊藤仁斎「童子問」に学ぶ

伊藤仁斎「童子問」に学ぶ

 

 

「『朱子学の理は残忍酷薄』という痛烈な一撃」として、著者はこう述べます。
「考えてみれば、日本の良き伝統が綿々と受け継がれる京都の町人社会の、その自由闊達な気風と文化的豊かさの中で育った仁斎が、中国流の峻烈な原理主義朱子学から離反したのは、むしろ自然の成り行きであっただろう。『仁斎の造反』によって日本人は、江戸思想史における『脱朱子学』の決定的な一歩を踏み出したのである。その中でも、朱子学の『理』に対する仁斎の批判はまさに正論であって痛快でさえある。朱子学原理主義に対して仁斎が投げつけた『残忍刻薄の心』の一言によって、中国の朱子学と礼教の本質が端的に表現されたのである。仁斎が同時代の中国で流行している『殉節』や『守節』の実態を知っていたかどうかは定かではない。だが、彼のこの一言はある意味では、礼教によって殺されていった何千何万の中国人女性の心を代弁していると思う。伊藤仁斎は偉大である」

 

「あとがき」では、著者はこう述べています。
「『論語』が語るのは「愛」であり、思いやりの『恕』であり、温もりのある『礼節』であった。だが、後世の儒教や礼教はもっぱら、『大義名分』たるイデオロギーによって、人間の真情としての『愛』や『恕』を殺そうとし、実際にそれらを見事に殺した。前漢から南宋期までの千数百年は董仲舒流の儒教が中国社会を支配し、元朝から清末までの六百数十年間は朱子学と礼教が支配したわけだが、その間の中国は、まさに『悪の教学』の毒によって冒されているかのごとき異様な社会となっていた。また、本場の中国よりも『朱子学中毒』となった朝鮮半島李朝500年もやはり、窒息しそうな病的時代であったといってよいだろう」

 

非人間的な儒教が発展した中韓とまったく違ったのが日本であるとして、著者は以下のように述べています。
「日本人は古代から『論語』を読んできたが、江戸時代になって朱子学を『官学』として受け入れて以降も、『論語』は重んじつつ、しかし礼教には最初からほぼ一顧だにしなかった。そして、江戸時代の代表的な儒学者たちは、最初は朱子学から出発しておきながらも、やがて朱子学を打ち捨て『真の儒学』を求めていったのである。とりわけ、京都の『町の儒学者』である伊藤仁斎がたどり着いたものこそ、『論語』であった。彼は『論語』のなかに人間の『愛』を再発見し、『論語』を『宇宙第一の書』として推奨したのである」

 

 

そして最後に、著者は「おそらく仁斎の推奨の功もあったのだろう。江戸時代から現在に至るまで、儒教のいわゆる『四書五経』のうち、日本で一番広く読まれて、日本人に一番親しまれてきたのは『論語』であった」と述べるのでした。この『論語』に最も親しんだのが日本人であるのは同感ですが、日本が儒教の神髄を理解しているかというと疑問です。というのも、儒教は何よりも葬礼を重んじますが、日本では「葬式は、要らない」などという妄言が流布し、家族葬直葬など、葬儀の簡略化が進む一方だからです。この点、中国や韓国のほうがまだ葬礼を重んじていると言えるでしょう。本書の内容は、ブログ『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』で紹介したケント・ギルバート氏のベストセラー著書の内容にも通じていますが、わたしは同書の書評でも同じことを書きました。

世界一わかりやすい「論語」の授業』(PHP文庫)

 

わたしは大学の客員教授として「孔子研究」の授業を担当してきました。これまで多くの日本人学生をはじめ、中国人留学生や韓国人留学生たちにも『論語』を教えるという得難い機会を与えられましたが、その授業内容をまとめた本が『世界一わかりやすい「論語」の授業』(PHP文庫)です。また、現代日本の子どもたちのために江戸時代の寺小屋の『論語』教本のアップデートを目指して作ったのが『はじめての論語』(三冬社)です。ともに多くの方々から読まれています。

はじめての論語』(三冬社)

 

最後に、本書のテーマとも通じるのですが、わたしには『徹底比較!日中韓 しきたりとマナー〜冠婚葬祭からビジネスまで』(祥伝社黄金文庫)という監修書があります。この本には、東アジアの平和への強い願いが込められています。もともと、日本も中国も韓国も儒教文化圏です。孔子の説いた「礼」の精神は中国で生まれ、朝鮮半島を経て、日本へと伝わってきたのです。しかしながら、ケント・ギルバート氏や石平氏も言うように、現在の中国および韓国には「礼」の精神が感じられません。

徹底比較!日中韓しきたりとマナー』(祥伝社黄金文庫

 

中国や韓国は、日本にとっての隣国です。隣国というのは、好き嫌いに関わらず、無関係ではいられません。まさに人間も同じで、いくら嫌いな隣人でも会えば挨拶をするものです。それは、人間としての基本でもあります。この人間としての基本が広い意味での「礼」です。「礼」からは、さまざまな「しきたり」が派生しました。それぞれの国の「しきたり」を知ることは、その国の文化を知ることです。そして、互いの文化の違いと共通点を知ることは、その国の国民の「こころ」を知ることにほかなりません。わたしは、冠婚葬祭や年中行事に代表される「しきたり」を知ることによって、日中韓の相互理解、国際親善、そして世界平和につながることを心から願っています。なにしろ、孔子が説いた「礼」とは究極の平和思想なのですから・・・。

 

 

2019年7月31日 一条真也

『大人のための儒教塾』

大人のための儒教塾 (中公新書ラクレ)

 

一条真也です。
29日、全互連の理事会に出席するために東京に来ました。ものすごく暑くて、グロッキーです。東京のビジネスマンはネクタイはおろか上着も着ていない人が多いですが、さすがに冠婚葬祭互助会の保守本流である全互連の理事会では、スーツにネクタイ着用の社長さんが何人もいました。
『大人のための儒教塾』加地伸行著(中公新書ラクレ)を読みました。著者の加地先生から送っていただいた本です。加地先生は儒教研究の第一人者で、わたしが日頃から敬愛している方です。よく、長電話でいろいろと教えていただいています。1936年大阪生まれ。京都大学文学部卒。大阪大学名誉教授。文学博士。専攻は中国哲学史。第24回正論大賞受賞。主な著書に、『沈黙の宗教――儒教』(ちくま学芸文庫)、『論語 全訳注』(講談社学術文庫)、『論語 ビギナーズクラシックス』(角川ソフィア文庫)、『儒教とは何か』(中公新書)、『加地伸行著作集』(全三巻、研文出版)などがあります。

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本書の帯

 

本書の帯には著者の近影とともに、「儒教は、日本人にとってじつは身近だった!」「碩学によるやさしくてためになる儒教入門書」「人生百年時代、よりよく生きるために、あなたを支える知恵とヒントの再発見」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、「儒教に学び、儒教を生かす――」として、以下のように書かれています。
儒教といえば、四角四面、堅苦しいイメージ。それは江戸時代以来、倫理道徳を強調した朱子学の影響にほかならない。しかし、儒教には、私たちに身近なもう一つの側面がある。たとえば、お墓、位牌、仏壇、そしてお盆やお彼岸といった先祖供養・・・・・・。これらは本来の仏教ではなく、儒教に由来するものだ。儒教の歴史と展開を辿り、家族のあり方、冠婚葬祭、老後や死の迎え方など、日本人に深く根ざす、儒教のほんとうの姿をやさしく説く」

 

さらにアマゾンの「内容紹介」に、こう書かれています。
「古来、農耕民族として生きてきた日本人には、祖先を敬い、互いを尊重し、助け合うという文化が根付いていた。じつは、そのあり方は、儒教の思想と深く親和してきた。江戸時代の朱子学が倫理道徳を強く押し出したため、とかく、四角四面、堅苦しく受けとめられ、誤解も多い。本書は、儒教を歴史的に繙きながら、家族のあり方や冠婚葬祭、死の迎え方、祖先との向き合い方、老後の備えなど、儒教に学び、儒教を生かす、知恵とヒントをやさしく解説する」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「はじめに――まず入塾テスト」

第一章 儒教はこうして生まれた

1 農耕の発達と家族主義の誕生

2 家族主義と個人主義

3 近代国家における重要語

第二章 儒教はすぐそばに

1 儒教のイメージ

2 儒教家族主義の柱

3 血縁共同体

4 冠婚葬祭

第三章 儒教の深さ――宗教性

 1 儒教と仏教と

2 死をめぐって

3 死後どうなるのか

4 生命の連続

5 儒教の成り立ち

第四章 儒教の強さ――道徳性

1 道徳と法と

2 儒教道徳の規準

3 徳目

4 朱子学陽明学

5 科挙制度

第五章 現代人と儒教と――人生百年時代の生きる知恵

 1 近代日本における儒教

2 お悩みへの処方箋

「あとがき」

「親族関係表」

 

儒教とは何か 増補版 (中公新書)

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第一章「儒教はこうして生まれた」の2「家族主義と個人主義と」で、農耕に由来する日本人の家族主義と狩猟に由来する西洋人の個人主義とを比較した後、著者は「日本人には狩猟的感覚はない」として、以下のように述べます。
「私の言いたいのは、こういうことです。人間の考えかたは、古い家族主義から新しい個人主義に変革されつつある、それが、現代である、という考えかたに同意できないのです。そうではなくて、人類にとって、狩猟における個人能力重視感覚と、農耕における集団行動重視感覚とは、並行して存続し続けてきており、前者から個人主義、後者から祖先祭祀を通じての家族主義がそれぞれ生まれてきたのであって、〈古い家族主義から新しい個人主義へ〉という順序で発展するという意見には賛同しないというのが、私の見解です」

 

沈黙の宗教――儒教 (ちくま学芸文庫)

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第二章「儒教はすぐそばに」の1「儒教のイメージ」では、儒教倫理学・道徳論として見る一般論に対して、著者は「儒教すなわち倫理道徳なのか?」として述べています。
儒教倫理学・道徳論としてしか見ない見かたでいいのでしょうか。私は、儒教をそのような狭い見かたで捉えていません。もし倫理・道徳だけとしましたら、それは時代によっては、無力になってしまうのではないでしょうか。例えば、今日の個人主義全盛の時代に在って、いわゆる儒教道徳をそのまま持ってきても、果たして説得力があるのでしょうか。個人主義の時代に、例えば儒教倫理の中心中の中心、孝倫理をどのように位置づけることができるのでしょうか。十年一日のごとく、昔ながらに儒教を倫理としてだけで解釈する人は、きちんと位置づけできるのですか。
できません。その大きな理由は、儒教を倫理一本で考えるからできないのです。そうではなくて、儒教には宗教性があるとし、その宗教性と倫理性との二本柱が儒教を支えているという考えかたに転換すれば、個人主義全盛の時代に在っても、儒教家族主義を再建することは可能です」

 

2「儒教家族主義の柱」では、「御本尊を拝まない人々」として、著者は以下のように述べています。
「日本人は宗教を前にすると、なにがなんだか分からない、という姿となります。正直ですね、日本人は。それでは、さらに意地悪な質問をします。あなたは仏教徒ということですが、朝のお仏壇での御挨拶は、どなたに対してなさっているのですか。この質問に対して、驚くべきことに、たいていの人は、亡き父母とか、御先祖様とかと答えます。とりわけ、家族の中で最近亡くなった方がありますと、その方の冥福を祈ると言います。
それはおかしいですよ。仏壇を前にして礼拝し御挨拶をすべきお相手は、本尊様ですよ。その御挨拶が終わってからはじめて、亡き親族の方々に御挨拶するのが本当です。あえて申しますと、仏教徒であるならば、お葬式のとき、御遺体に対して拝礼するのではなくて、式場に安置されている御本尊(略式では、真言宗なら南無大師遍照金剛、真宗系なら南無阿弥陀仏とある法軸が本尊代理)に対してまず拝礼するのが筋です。そのあと、御遺体への挨拶です。しかし、葬儀参列者は本尊(代理としての法軸)には眼もくれず、御遺体を納めた棺ばかりに拝礼しています。それは、本尊第一の仏教方式ではありません。因みに、ベッド上の遺体を『屍』、棺に納められた死者を『柩』と言います」

 

また、著者は「仏壇は仏教と儒教のミックス」として以下のように述べています。
「もし住居にお仏壇があるとしましたら、仏教徒なら、朝の御挨拶は、もちろん御本尊に対して行ないますが、その後で、本尊の下段に並んでいる親族の位牌に対して御挨拶をするのがふつうです。これは、実は、仏教と儒教とのミックスなのです。本尊に対して礼拝するのは仏教です。本尊の下段の位牌に対して礼拝するのは儒教なのです。そのように仏教と儒教とがミックスされたものが日本の仏壇なのです。それを逆に言いますと、家にお仏壇があり、本尊と位牌とを安置しますと、仏教と儒教との両方の礼拝が果たせるのです。この、位牌への礼拝、すなわち自分の祖先を祭ること、これが儒教の根本なのです」

 

「唯心論か唯物論か」として、著者はこうも述べています。
儒教では、祖先をお祭りいたします。これは、儒教の柱です。大きな太い柱です。一族が団結する家族主義(一族主義)におきまして、人間の集団でありますから、なにか精神的な支えが必要です。ここが、人間が他の動物と違うところです。動物の世界では、集団のボスは、力の強いものがなります。集団を結んでいるものは、共有食物とか、血縁(それも母子中心の)とかといったもので、目には見えない精神的なものは、ありません。しかし、人間は異なります。精神的なものを求めます」

 

また、著者は以下のようにも述べています。
存在論の中に、この世の存在物の究極は、精神か物質か、という問題がありました。精神第一とするのが唯心論、物質第一とするのが唯物論です。人間の歴史において、なんと唯心論がずっと優勢でした。それは、宗教が大きな力を持っていたことと深い関係がありました。しかし、現代となり、宗教が後退し、商工業が前進してきますと、人々の考えが、唯物論に傾いてきていました。とりわけ、第二次世界大戦後がそうでした。しかも、この唯物論は、共産主義の哲学的根拠となっていたものですから、60年も前のころ、共産主義思想が共産党社会党(現在の社民党)などの政治運動の中で、すくなくとも知識人層の中で、相当の力を持っていました。その唯物論の証明的根拠となったのが、近代科学でした。近代科学の発展が唯物論の後押しとなったこともあり、共産主義は、大学において相当に広がっていました。ところが、分らぬものです。その共産主義が蹌踉めく2つの大きなできごとがありました。1つは、共産主義に基づき革命を成しとげ政権を握ったソ連が、共産主義的行政に失敗し崩壊したことです」

 

さらに、著者は以下のように述べます。
「いま1つは、共産主義の根拠であった近代科学です。その発展である現代自然科学は、究極のところ、物理学では〈不可思議〉とか、生物学では〈生命の神秘〉といったことばでしか説明できなくなってきました。宇宙論も将来の地球はブラックボックスに吸収されておしまいという虚無論になってきています。つまり、自然科学が唯物論の根拠となるどころか、〈物質〉ひいては〈物〉に対して、逆に否定の根拠となりかねなくなってきたのです。物質・物体こそ元始などという古典的唯物論では、説得力がなくなってきているのです。すると、結局は、人間は古来の唯心論的なものに近づいてゆくのではありますまいか。いや、唯心論などという哲学用語を使わずとも、われわれ一般人が使うことば、すなわち〈精神的なもの〉を人間は求めているという素直な気持になるのが、自然です」

 

そして、「精神的根拠としての祖先祭祀」として、著者は以下のように述べるのでした。
「現代の国民国家となる以前における、その集団とは、家族・一族です。この家族・一族に共通するもので、かつ敬意を払うもの、と言えば、祖先です。すなわち、家族・一族においては、その祖先が精神的根拠となるのです。もちろん、それは世界各地の人間集団において共通の感情でした(ただし後で説明しますがインドは除きます)。ヨーロッパもそうだったのです。クーランジュ著『古代都市』に詳しく書かれています。しかし、後に一神教キリスト教がヨーロッパの精神世界の頂上となってから、崇むべきは、ヤーベ(エホバ)というお名前のキリスト教の神お一人方だけとなり、祖先祭祀は否定され、なくなってゆきました」

 

続けて、祖先祭祀について以下のように述べています。
「祖先を祭るとは、祖先の霊魂を呼び降し子孫と出会うことです。この霊魂を呼ぶ〈降神〉は、シャマニズムと呼ばれる宗教形態の1つですが、それを行なう特殊霊能者(シャマン)は世界各地にいました。今も韓国や日本の沖縄にはたくさんいます。日本の東北にも、わずかですが、恐山近くにイタコと呼ばれるシャマンがいます。しかし、ヨーロッパキリスト教社会では、シャマンは捕えられ、宗教裁判の上、魔女として焼き殺されてゆきました。そのため、ヨーロッパでは、表だっての祖先祭祀も消えていってしまいました。インドには祖先祭祀はもともとありません。しかし、東北アジア地域すなわち中国・韓国・台湾・ベトナム北部、そして日本においては、今も祖先祭祀は続いています。これからも続くでしょう。この祖先祭祀という感覚、実行、集会、これが家族をつないでいるのです」

 

著者いわく、儒教は家族主義ということの表現でもあります。家族が互いに助け合って生きるという生き方が「家族主義」です。「〈無償の愛〉で結ばれる共同体」として、著者は以下のように述べています。
「共同体としての家族・一族は、祖先を祭ることによって、精神的に結ばれています。祖先は、言わば、その家族・一族にとっての神と言っていいでしょう。守り神でもあるわけです。ですから、家族・一族にとっての重要な出来事があるときは、祖先の前で、それを儀式として祈りつつ行なうのです。それは、祖先に対する報告であり、今後の御加護への請願であり、祖先への誓約であり、さまざまな家族・一族における重要事を祖先と一体化しつつ行なうわけです。そのさまざまな行事の中心となるものが、冠昏喪祭なのです」

 

 

4「冠婚葬祭」の1「冠昏(婚)」では、「儀式の行なわれる場」として、著者は以下のように述べています。
「家族・一族は、祖先を精神的中心として団結します。その団結は口先だけではありません。人生における重要な重大なできごとがあるときに、呼びかけを通じて家族・一族が集まり、そのできごとに関わる儀式に参列し、喜んだり悲しんだり、気持を同じくするわけです。人の一生、その人生のできごとは、もちろんいろいろあるのですが、個別的なことは別として、共通するものがあります。それが、冠昏(婚)喪(葬)祭なのです」

 

また、「名と字と」として、著者は述べます。
「一族の儀式に関わる最初はなんでしょうか。もちろん、それは出生です。生命の誕生は、一族の大きなよろこびです。しかし、なにしろ生まれたばかりの赤ちゃんには、一族のことなんか分りません。まして、一族の団結とか、祖先のことなんて分りません。そこで、幼少年期を経て、心身ともに一人前になったところから、一族入りということになっていったのです。言わば、誕生という自然的出生を経て、幼少期にさまざまなことを学び、身体も成長して一人の人間として生きてゆくという社会的出生を一族が祝うという儀式だったのです。儒教では、その儀式を冠礼と言います。その立場は、いま述べましたように、社会人としてのスタートです。『人の人たるゆえんは、礼儀なり』(人間が人間と言える根本は、礼儀を身につけることである)ということばがそれを表わしています(『礼記』冠義)」
冠礼のとき、親が本名を与えますが、親につけていただいた名は冠礼後はタブーとして隠し、一族の親しい人や大変お世話になった人などが「字(あざな)」という新しい名前を与えます。この字とともに、人は人生を歩んでいくことになります。

 

さらに、「夕方に行なわれるから『昏礼』」として、著者は以下のように述べています。
「結婚に至るまでのこと、すなわち婚約、結納といったことは省略しまして、結婚当日、すなわち婚礼は、新婦が新郎の家へ行き、すなわち輿入れし、婚礼が行なわれます。この輿入れは、夕方で、その夜に婚礼という順序です。陽(新郎の家)のところへ、いきなり陰(新婦)が行くのではなくて、さきほどの割合理論に従い、真っ昼間の新郎の陽の家に行くのではなくて、夕方という陰がしだいに多くなってきている時間帯に乗って、すなわち、しだいに夜となり陰が増える新郎の家に行くのが自然であるというわけです。ですから夕方を表わす『昏』字を使って、そのことを表現して昏礼と言うのです」

 

そして、著者は以下のように述べるのでした。
「婚儀はもちろん、その前に行なわれる礼式行事、例えば納采という礼。今風に言えば、ほぼ結納に当たりますが、それらの諸儀式のとき、その家の主人は、すべて廟(祖先を祭るみたまや)で待ち、花嫁側の使者を門外に迎え、廟に導きそのことばを拝聴しました。それほど、昏(婚)礼は重要なものであったのです。それは、一族として花嫁を迎えるということでした。新郎新婦二人の幸せのみならず、一族の幸せとしてです。それは、家族共同体・一族共同体全体の慶事であったということです」
ちなみに、「婚姻」の「婚」は男性、「姻」は女性を意味します。

 

2「喪(葬)祭」では、「『喪』の中心は土葬」として、著者は以下のように述べています。
儒教では、死者が出た場合、時間を追ってさまざまな儀式を行ないます。その儀式が終わるまでのすべての儀式をひっくるめて、「喪儀」と言います。その間、喪に服すわけです。その諸儀式の中で、最も中心となるのは、故人の遺体を埋葬するときです。別れです。蓋棺ということばがあります。遺体を納めた棺に蓋をしましたら、もうそれで故人と再び会うことはありません。なぜなら、蓋棺したあと、土中に埋葬するからです。儒教では、土葬が正式です。ただし、発生的には風葬(野ざらししてからの土葬)です」

 

また、著者は以下のようにも述べています。
「葬儀において、この〈土葬〉が最中心でありましたので、日本では、いつのころからか、『喪儀』を『葬儀』と表現するようになり、今日では書き取りの正解も『葬儀』です。『冠昏喪祭』も『冠婚葬祭』と書くようになりました」
「太古では、野原に遺体を野ざらしにして、白骨化したころ、残骨を集めて土に納めていたところから生まれたのが「葬」字です。すなわち、遺体をすぐに土葬するのは、ずっと後になってからの方式だったのですが、それと本来の野ざらし後の葬りとがごちゃまぜになっていったのです」

 

さらに、「祖先へのお供え」として、著者は述べます。
「『祭』字の『又』は手を表わしています。『月』は肉ですよ、筋が入っています。『示』の『丁』は机です。その机の上に、お供え物がありますと『亍』です。そのお供えを両手で供えている姿が『示』です。要するに、神や祖先の霊など神聖な対象にお供えをしている形です。ですから、『祭』というのは、人間と神聖なものとの出会いということです。その神聖なものには、いろいろあります。山や森、太陽・月・星といった物体的なもののほかに、目には見えない精霊、神霊などたくさんありました。そういう霊的なものを祭ったわけです」

 

そして、「席次のルール」として、著者は述べるのでした。
「子よりも親が先に亡くなるのが順当です。ところが逆さまとなりましたので、逆縁と称し、親は子の葬儀には参列しません。当然、喪服も着ず、平服です。もちろん、出棺後も家に残ります。死は年齢順ですのに、親よりも先に亡くなるというのは、大いなる〈不孝〉となります。しかし、そういう逆縁のときの慣習も近ごろは伝わらず、親が事故死した子の葬儀を行なっているテレビ映像を見て、私は違和感を覚えました。そういうときは、当事者である親ではなく、近親のしかるべき人が喪主を務めるべきでしょう」

 

決定版 年中行事入門

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3「盂蘭盆など年中行事」では、「農民暦が年中行事のルーツ」として、著者は以下のように述べています。
「盂秋の月すなわち8月(今日の陽暦の9、10月あたり)になると、収穫した新しい穀物が天子に献上されます。すると『天子、新しき(新穀)を嘗む(味わう)』ことになりますが、『先ず寝廟(祖先を祭る廟)に薦む(お供えする)』とあります。『新しきを嘗む』すなわち『嘗新』ということばから、日本では新嘗祭という行事となり、明治以後、11月23日をその日に充てました。それを現代では『勤労感謝の日』として国家の祝日としています。もちろん、皇室におかれては、皇居での儀式をしておられます。これは重要な祭日で、天皇は、即位後の最初の新嘗祭を特に大嘗祭と名づけるほどです。この大嘗祭は、人々の上、最高位に在ることを示すものであり、天皇一代において一回限りの最重要な大祭です。こうした儀式や祭祀に続いて、さまざまな儀式や祭祀が加わってゆき、いわゆる年中行事が生まれてゆきました」

 

知ってビックリ!日本三大宗教のご利益―神道&仏教&儒教 (だいわ文庫)

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第三章「儒教の深さ――宗教性」の1「儒教と仏教と」では、かつての儒教と仏教の対立の歴史を紹介しながら、著者は「鬼神をめぐる論争」として以下のように述べています。
「現代では、儒教と仏教とが、日本ではそこに神道も入れて、三者が論難し合う時代ではありません。かつて中国では、道教(中国で生まれた宗教)と儒教・仏教の合わせて三教がおたがい自分の勝れていることを主張する〈三教論争〉というものがあり、思想史上のテーマでありました。それは、三教それぞれが、自己の現実的優勢(経済的利益も含め)を得たいという大きな欲望があったからです。
けれども、『星移ること、幾度の秋ぞ』――現代に至っては、三教(日本では神道儒教・仏教、中国では儒教・仏教・道教)ともに、いわゆる社会的政治的勢力からは遠いところにいますので、これからは、欲得抜きで冷静に話し合える環境にあると言えましょう。自分が上だ、お前は下だ、などという愚劣な三教論争ではなく、人々の幸せをどのようにすれば実現できるのか、という〈幸福論〉を人々に提供する大目的を志すべきです」

 

2「死をめぐって」では、儒教書である『孝経』を紹介しながら、著者は以下のように述べています。
「死者との永遠の別離に慟哭する、惨めな、暗く、そして脆弱な人間存在は、親しき愛する人の死する瞬間には、無限に底知れぬ無力感に埋没する。しかし、悲痛に“哀しむ”ことによって、“哀しみ”の根源が、死者と死者を送る者とのいのちの連続であることを知る。血と血の極限的な現在時におけるいのちの連続の確認を、死者によって生きている現実的自己の確認を、生きている現実的自己によって死のリアリティの確認を行なうのである。
人はすべて血の鎖に繋がれている宿命を背負いながら、否、背負うことによって、死と対決しなければならぬ。しかし、その対決を血の鎖を信じることによって宥和させる可能性を『孝』、本来的『孝』が有しているのではないか。〈喪親章〉全篇はこのような意味であるかと思われる。そこには、一種の孔子的伝統を継承する解脱、支那的解脱の一面を見ることができよう」

 

また、「宗教とは何か」として、著者はこう述べます。
儒教は宗教ではないと断言する人、そういう人は、私から見れば〈骨董的人物〉ですが、こう質問すればすぐ化けの皮が剥がれます。すなわち『あなたの言うその宗教の概念とは、どういうものですか』と尋ねてみることです。ほとんどの人は、自分の頭で考えていませんから、転ばすのは簡単です。例えば、こう言う人がいます。『崇める対象、その教典、集会場所』の3者がそろっていること、と。なるほど。キリスト教ですと『ヤーベ(崇める最高神)・イエス(神の子)、聖書、教会』の3点、仏教ですと『本尊(各種あります)、仏典、寺院』の3点です。
しかし、そういうことなら、儒教もそろっていますよ。『祖先(祖霊)、儒教文献(特に13種)、廟のある本家(祠壇のある家屋)』です。3点セットなんていうチャチな概念規定では子どもだまし程度。大人相手の議論になりませんよ」

 

また、宗教について、著者はこうも述べます。
「宗教と言われているものができる仕事において、他の分野ででもできるものを引き算していったのです。例えば、病気を治療する。これは医学が担当できますから、宗教から除きます。天文現象について述べる。これは天文学が担当できますので、宗教から除きます。というふうにして他の分野からでもできるものを除いてゆきますと、それしか担当できないものが、ただ1つだけ残りました。それは〈死〉です。医学や生理学は、死以前までは語れますが、死および死後については無力です。しかし、〈宗教は死および死後の説明ができる〉のです。この役割は宗教以外、できません。そこで私は、こう定義しました。「宗教とは、死および死後の説明者である」と」

 

3「死後どうなるのか」では、「遺体処理の方法から死を説明」として、著者は以下のように述べています。
「人間は、他の生物と異なり、〈死〉について、感じ、考え、その恐怖・不安から必死になって死後の説明を求め、自分が納得できる説明を信じ、そこに依って安心して生きてきました。全世界の人々がそうでした。もちろん、大半の人々は、その人が属している血縁共同体の立場に従い、その説明を受け入れてきました」
「〈遺体の処理〉すなわち葬についての行為がまず存在していて、そこから生まれた〈死および死後の説明〉すなわち宗教が、後には逆に葬についての儀式を指導するようになったというのが私の考えです」

 

4「生命の連続」では、「〈孝〉の三要素」として、著者は以下のように述べています。
儒教では、(1)祖先祭祀、(2)親への敬愛、(3)子孫の存在の3者をもって孝とするのです。つまり、孝は3つの要素で成り立っているのです。自分の親に対するものだけではありません。これは、儒教における考えかたの基本の中の基本です」
儒教の孝は、祖先(過去)・父母(現在)・子孫(未来)の3者を貫く在りかたという個別具体的な、難しく言えば実存的な把握なのです。それを分りやすく言えば、祖先の生命が、自分において存在しており、その連続してきた生命を次の世代に託してゆく、ということです。それは〈生命の連続〉ということです」
「結婚していない、あるいは結婚して子がいなくとも、甥や姪を愛することです。甥や姪は、子族すなわち自分の子なのです。それが儒教の論理なのです」

 

5「儒教の成り立ち」では、「神と人とをつなぐ者」として、著者は以下のように述べています。
「雨乞いもそうです。条件が2つあります。1つは、連日の日照りが極限いっぱいになっていること。この極限に意味があります。すなわち、次は雨となる日が近づいているというわけです。もう1つは、雨乞い場所が決っていることです。雨乞いは、どこででも行なうものではありません。特定場所です。どんなところかと言いますと、里山近くではあるものの、周囲の山は切り立ったようなところです。言わば、コップ状のところです。そのコップ状の底に当たるところが、雨乞い儀式の場です。その場所で、火を焚きます。すさまじい火勢の中、シャマンが雨乞いの儀式をします。
すると、火の熱によって、上昇気流が生じ、コップ状の地勢ですので、すぐさま上昇し、急に高いところにまで届き、その辺りを攪拌(かきまわす)、つまり、人為的に高空の気流に急な変化を与えるのです。すなわち、暖かい空気が上昇しますと水蒸気が生まれて雲となり、雲の中の水滴が雨となって降るという、ごく当たり前の、今では小学生も知っている気候理論に従っての雨乞いなのです。しかも日照りが続き、次は雨しかない状況です。こうした雨乞いも、巫覡の大きな仕事でした。何と言っても、農業(食糧生産)第一の時代だったのですから」

 

また、「文字を操る『儒』」として、著者は述べます。
「一言で言えば、当時の巫覡は知識人でした。文字を知っているというのは、とても重要なことでした。同時に、祭文の読上、読誦とともに行なう儀式は、礼法へと発展してゆきます。彼ら彼女らはその礼法も学びよく知っていました。そういった宗教的、儀礼的、知識的技術集団を指して、儒と称しました。だいたいこの『儒』字自体が古代的なものを残しています。すなわち『儒』の上部は『雨』です。下部『而』は、頭髪を切って髻のない人の形で、それに人偏を付けています。『雨を需め、需つ』の意で、雨乞いする姿を表わしています(白川静『常用字解』)」

 

第四章「儒教の強さ――道徳性」の2「儒教道徳の規準」では、著者は以下のように述べています。
「沖縄では、今も儒教儀式が生きています。ただし、七七忌(いわゆる四十九日)について記しており、そのあたりは明治以後の日本仏教の影響も。沖縄は、江戸時代は尚氏一族が支配した琉球王朝であり儒教体制でありました。もちろん、江戸幕府の寺請制度の及ぶ地域ではなかったので、日本仏教による寺院主導の葬儀はなく、儒教方式に依る葬儀が今も行なわれています。
ここで注意していただきたいことがあります。江戸時代から現代に至る葬儀の方式は、仏式です。しかし、これは、儒教式に基づく葬儀よりもずっと新しいものなのです。逆に、沖縄の儒教的葬儀のほうが東北アジアの主流なのです。そこを誤って、沖縄の葬儀を地方の一習俗のように捉えている人がいます。儒教を知らないのでそんなことを言うのでしょう」

 

孔子 (角川ソフィア文庫)

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また、「孔子による儒思想の創造」として、著者は以下のように述べています。
「儒集団は、この下流の礼の中から生まれてきたものですから、上流の礼はよく分りませんでした。という辺りから、儒集団の社会的地位が下落し、あえて言えば、むしろ差別された集団となっていったようです。もしそのままでしたら、その後、生き延びることは生き延びたでしょうが、おそらくシャマンとして、つまりは、俗に言う〈拝み屋さん〉として生き延びるぐらいのことだったでしょう。
ところが、1人の天才が登場したのです。孔子です。前述しましたように、孔子は母の属する儒集団で生まれ育ちました。後に、農民の父のもとで育ちます。孔子の武器は、儒集団が使っていた文字を習得していたこと、儒集団の下級礼ができたことです。この孔子は、20代後半、事情はよく分りませんが、ともあれ都へ留学し、上級礼を学びました。すなわち、上級礼も下級礼も孔子はできるようになったのです。これを生かし、つまりは〈武器〉とし、自力で儒の考え、立場、方法等を再編成し、文字に対して新しい解釈を加えて、儒思想を創造していったのです」

 

第五章「現代人と儒教と――人生百年時代の生きる知恵」1「近代日本における儒教」では、著者は「家族主義のやさしさ」として以下のように述べます。
儒教では、天国も地獄もありません。常に、あなたの命はあなたの御祖先とつながって生きています。そこに、一族主義が入ってきます。日本では、父の兄弟姉妹、母の兄弟姉妹には、『父』(伯父・叔父)『母』(伯母・叔母)という字が使われます。つまり、自分にとっての父母の代は、すべて父族、母族なのです。逆に、父族、母族から見れば、下の世代(甥・姪)は、全部子族。自分のいとこは従兄・従姉・・・・・・ではないですか。これはすごいことです」

 

2「お悩みへの処方箋」では、「お墓と仏壇をどうする?」として、著者は以下のように述べます。
「ご先祖さまや自分の墓はどうなっていくのか、これは現代人の大きな悩みです。
しかし、お墓の問題は簡単に解決できます。あなたが土地付きの家をもっていたら、その敷地内に、自分の亡き親族のお墓を建ててしまえばいいのです。しかし法律が禁じている、と思われるかもしれません。その理由は、地目が墓地でなければ埋葬してはいけないことになっているからです。では、敷地の一角を墓地に地目変更しようと思っても、時間が掛かります。しかしその必要はないんです。石碑に例えば、『加地家之墓』と書いた瞬間に、墓地関係の法律に全部引っかかります。ところが、『加地家記念(あるいは祈念)碑』としたら、全然関係ありません。誰も文句は言えません。黙っておれば、そこに遺骨を納めてまったく構いません。お骨が家の中にあるか、外の碑の下にあるかの違いだけです。地目は宅地のままです。自宅がマンションだったら、マンション入居者で話しあって一角に記念碑を建てればすむことです。いかがでしょうか」

 

また、「形式より気持が大事」として、著者は述べます。
「容れ物の問題ではなくて、自分たちが儀式を行なうかどうかの気持、心のほうが大事なのです。日本人はお墓がなきゃいかん、お仏壇がなきゃいかんと言いますが、普段はお祭りしないでほったらかしにしているのに、そういうことを言うのはおかしいです。形式に堕しているのです。はやりの散骨や樹木葬にするくらいなら、亡くなった後、自分の家のゴミ箱に捨ててもいいのではないですか。インドでは、ガンジス川に遺体を流しますが、事実はゴミ箱に捨てるようなものです。散骨と言って業者にお金をとられるのもばかばかしいです。もし散骨したければ、自分たちでお骨を海に撒いたらいいではないですか」

 

さらに、著者は以下のように述べるのでした。
「先人たちがどれだけ苦労して、死の恐怖と戦ってきたか。その表われが、木主(位牌)でありお墓であり招魂復魄(魂を招き魄を復どす)の儀式です。死は恐くないという人なら、お墓もお葬式も、年忌法要もなくていいと思います。その人の人生観です。でも、そんな人は滅多にいません。生命の連続という観念から言えば、過去のものであっても遺体・遺骨を鄭重に扱うというのは、礼儀です。これが儒教の本質です。あとは技術的な問題です。庭に記念(祈念)碑を建てて、遺骨を納める、あるいは上下2箱に分れた仏壇を手作りしてその下の箱にお骨を入れてお墓としての意味合いを持たせる、というのも1つの方法なのです。こうして魂魄を安置するのは、オーソドックスな儒教の方式です」

 

「あとがき」では、本書を書いた目的が説明されています。
「(1)儒教に対する真の理解をしてほしいこと。(2)そして儒教的行為(祖先を祭ることに始まり、肉親の葬儀に参列することなど)をきちんと実践してほしいこと。(3)そのためには儒教と日本仏教との関係をよく理解してほしいこと。等々です。
本書によって、ぜひ十分な理解をしていただきたいことは、死は怖くないという死生観――それは儒教の死生観ですが、それを十分に理解くださり、明日からの社会生活、また家庭生活において活かしてくださり、明るく生きていっていただけることを心から願っております。儒教こそ日本人に適した明るく生きがいを与える思想であることを、ぜひ御理解くださいますように」

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加地伸行先生と

 

本書を読んで、儒教は「死を説明する」という宗教の最大の目的を果たしているということを再認識しました。儒教が発明したさまざまな儀式を行なっていくうちに家族の絆は強くなり、人は死の恐怖さえ乗り越えることができるのではないでしょうか。儒教研究の第一人者によって書かれた本書には、「人生百年時代」を迎えた日本の高齢者にとって有意義なメッセージが満載でした。

 

大人のための儒教塾 (中公新書ラクレ)

大人のための儒教塾 (中公新書ラクレ)

 

 

 2019年7月30日 一条真也

「アルキメデスの大戦」

一条真也です。
日本映画「アルキメデスの大戦」を観ました。戦艦大和の建造をめぐるさまざまな謀略を描いた三田紀房による同名マンガを映画化した話題作です。マンガ原作の映画は苦手なので、あまり期待せずに鑑賞したのですが、ものすごく面白いエンターテインメント大作でした。観て、良かったです!

 

ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『週刊ヤングマガジン』連載の三田紀房のコミックを原作にした歴史ドラマ。1930年代の日本を舞台に、戦艦大和の建造計画を食い止めようとする数学者を描く。監督・脚本・VFXを担当するのは、『ALWAYS』シリーズや『永遠の0』などの山崎貴。主演は『共喰い』や『あゝ、荒野』シリーズなどの菅田将暉。軍部の陰謀に数学で挑む主人公の戦いが展開する」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「昭和8年(1933年)、第2次世界大戦開戦前の日本。日本帝国海軍の上層部は世界に威厳を示すための超大型戦艦大和の建造に意欲を見せるが、海軍少将の山本五十六は今後の海戦には航空母艦の方が必要だと主張する。進言を無視する軍上層部の動きに危険を感じた山本は、天才数学者・櫂直(菅田将暉)を軍に招き入れる。その狙いは、彼の卓越した数学的能力をもって大和建造にかかる高額の費用を試算し、計画の裏でうごめく軍部の陰謀を暴くことだった」

 

 

原作の『アルキメデスの大戦』第1巻のアマゾン「内容紹介」は、以下の通り。
「時は1933年。前年に満州国樹立を宣言した日本と中国大陸を狙う欧米列強の対立は激化の一途を辿っていた。世界が不穏な空気に包まれていく中、日本の運命を左右することになる重大な会議──新型戦艦建造計画会議──がいま海軍省の会議室で始まろうとしていた。それは次世代の海の戦いを見据える“航空主兵主義”派と日本海軍の伝統を尊重する“大艦巨砲主義”派の権力闘争の始まりでもあった・・・・・・」
わたしは基本的にコミックが原作の映画を好まないのですが、これは別です。映画を観て興味を引かれ、原作を読んでみたくなりました。

 

この物語の主人公は、ある意味で「戦艦大和」と言えるでしょう。大和は、大和型戦艦の1番艦(ネームシップ)です。2番艦の武蔵とともに、史上最大にして唯一46センチ砲を搭載した戦艦でもありました。呉海軍工廠で建造され、昭和20(1945)年4月7日、特攻作戦に参加して沈没しました。映画「アルキメデスの大戦」は、いきなり戦艦大和が轟沈するシーンから始まります。もちろん悲惨な光景なのですが、VFXの名手である山崎貴監督が手掛けただけあって、非常にリアルでドラマティックです。ハリウッド映画の「タイタニック」の巨大客船の沈没シーンを連想しました。

 

沖縄特攻作戦に向かう途上、米艦載機の攻撃を受け沈没した「大和」には乗員3332名が乗船していましたが、そのうち3056名が大和と運命を共にしました。しかし、大和建造の技術は生き続け、世界一の大型タンカー建造にとどまらず、自動車や家電品の生産など幅広い分野で応用され、戦後の日本の復興を支えてきました。「アルキメデスの大戦」は、その大和の誕生秘話とも言えるのですが、なぜ「大和」と名付けられたのかがラスト近くで設計者より明かされます。それは衝撃的なもので、わたしは慄然としました。そして、沖縄特攻作戦の考案者であった大西瀧治郎海軍中将の想いにも通じる祖国への深い愛情を感じました。国力で圧倒的に劣るアメリカとの戦争で、日本の敗戦が確実視される中、零戦戦艦大和が誕生した背景には共通した未来への「想い」があったのです。

 

修羅の翼  零戦特攻隊員の真情 (光人社NF文庫)

修羅の翼 零戦特攻隊員の真情 (光人社NF文庫)

 

 

大西中将があえて特攻に固執した真意は何だったのか。大西中将についての書『修羅の翼』を書いた角田和男氏は、直属の参謀長であった小田原俊彦少将から直接に聞いた話として、以下の大西談話を紹介しています。
「これは、九分九厘成功の見込みはない。これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。ではなぜ見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが2つある。1つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。2つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦さを止めさせられたという歴史の残る限り、5百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう、ということである」

 

大西中将の真意について詳しく知りたい方は、「航空特攻司令長官・大西瀧治郎海軍中将の残した遺書」クリックして、お読み下さい。彼が命を懸けて考案した特攻作戦をテーマにした小説がブログ『永遠の0』で紹介した百田尚樹氏の大ベストセラーであり、それを映画化したのがブログ「永遠の0」で紹介した山崎貴監督の作品です。主演は岡田准一で、第38回日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞しました。2013年12月21日から全国430スクリーンで公開され、初日2日間の観客動員数は約42万9000人、興行収入約5億4200万円。その後興行成績で8週連続第1位となりました。幅広い客層を集めてロングランが続き、観客動員数は700万人、累計興行収入86億円を突破、歴代の邦画実写映画で6位にランクインする大ヒットを記録し、文化通信社調べによる2014年邦画興行収入第1位を記録しました。サザンオールスターズが主題歌「蛍」を歌いました。

 

平成に作られた戦争映画の超大作といえば、「男たちの大和/YAMATO」を忘れることができません。角川春樹氏の実姉である辺見じゅん著『決定版 男たちの大和』を原作に、終戦60周年を記念して制作、東映が配給しました。この映画では、菊水作戦における戦艦大和の乗組員の生き様を描かれました。2005年12月17日に東映邦画系で全国劇場公開され、同年の邦画興行収入1位となりました。戦後60年企画として、広島県尾道市にはオープンセットとして190メートルにも及ぶ原寸大戦艦大和のセットを建造した総製作費25億円をつぎ込んだ超大作です。長渕剛が主題歌「CLOSE YOUR EYES」を歌いました。


これが「10分の1戦艦『大和』」だ!!

 

戦艦大和といえば、 ブログ「大和ミュージアム」で紹介したように、わたしは2012年9月に「大和ミュージアム」こと「呉市軍事歴史科学館」を訪れました。ここには、明治時代以降の造船の街あるいは軍港・鎮守府としての呉の歴史や、基幹となった製鋼や造船などの科学技術を展示しています。日露戦争日本海海戦から100年目、太平洋戦争終戦60年目にあたる2005年(平成17年)4月23日に開館しました。メインとなる展示物は「10分の1戦艦『大和』」ですが、やはりものすごい迫力でした。


大和の造形に「美」を感じました

 

わたしは、大和の造形に「美」を感じました。
そして、「威厳」を感じました。「崇高」でさえあると思いました。しかし、映画「アルキメデスの大戦」に登場する舘ひろし演じる山本五十六らは「美」など戦争に不要なものであるとし、効果の期待できる空母の建設を求めます。物語は、ここから意外な方向に動きます。映画評論家の尾崎一男氏は、「映画.com」で以下のように述べています。
「大型戦艦建造の提案を見積もりの不正から反証していくという、恐ろしく斬新な視点で反戦行為を描いた戦争映画になっているし、物語も主人公の櫂(菅田将暉)が機密保持によって一切の情報を与えられず、戦艦の実測からデータを割り出していく展開や、発注業者に聞き込みし、人件費や材料費を逆算していくスリリングな推移に迫るなど、戦争を産業という視座から捉えて新鮮かつ刺激的だ」

 

『永遠の0』と日本人

『永遠の0』と日本人

 

 

山本五十六らの訴えるように、戦争に「美」は不必要なのか。ブログ『「永遠の0」と日本人』で紹介した本で、著者の小川榮太郎氏は「日本人にとって戦争とは何であったか」と問い、次のように述べています。
「日本人にとっての戦は美を生きるということであった。死と一番接している戦争に、日本人は、敵の皆殺しを考えなかった。大量殺戮と無縁な、しかし世界一美しく強靭な刀を日本人は生み出した。戦は皆殺しをし、征服し、敵の所有物を奪うものではなく、日本男児にとって、最も美しく死に旅立つ儀式だったのである。だからこそ、武具は、合理的であると同時に、死装束であり、死に旅立つ男性の美学の粋でなければならない。刀はその象徴なのである。そして、大東亜戦争における零戦こそは、その美学が20世紀まで持続していることの象徴だった」
零戦はよく日本刀と比較されますが、小川氏は「要するに、零戦とは、戦う勇士の、鍛え抜かれた心身の延長として構想され、実現されたものなのだ。刀剣がそうであるように、それは人を殺す道具であるには、あまりにも美しい繊細さに息づく」と述べています。ならば、「大和」と名づけられた世界最大の戦艦に「美」を求めることは当然でした。零戦が日本刀なら、戦艦大和は名城の美を感じさせます。

 

「美」といえば、映画「アルキメデスの大戦」のヒロインの尾崎鏡子を演じた浜辺美波が美しかったです。彼女は現在18歳ですが、2011年、第7回「東宝シンデレラオーディション」に応募、ニュージェネレーション賞を受賞し芸能界入り、東宝芸能のシンデレラルーム所属となります。同年公開の映画「アリと恋文」主演で女優デビューしています。しかし、なんといっても、映画「君の膵臓をたべたい」で主人公(山内桜良役)を演じたことが大きな話題になりました(公開は2017年7月。最終的に興行収入が35億円を超えるヒット作品になりました)。同作で第42回報知映画賞新人賞、第30回日刊スポーツ映画大賞新人賞、第41回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞しています。

 

何を隠そう、わたしは浜辺美波の大ファンであります。ブログ「君の膵臓をたべたい」には、「この映画、とにかく、山内桜良を演じた浜辺美波がかわいい! これまで若手女優では、広瀬すずが一番かわいいと思っていましたが、これからは浜辺美波を推します。まるでアニメの声優のように透明感のある声もいいし、顔もキュートで、表情も豊かです。特に、笑顔が素晴らしい。その笑顔の愛苦しさは、古手川祐子以来ではないでしょうか。実際、2人は母娘のように似ていると思います」などと書いています。映画「アルキメデスの大戦」の予告編に出てくる浜辺美波の顔はくしゃくしゃの泣き顔になっていて残念です。しかし最近では、京都きもの友禅のCMで途方もなくまばゆい輝きを放っています。このCMで、彼女は明治・大正・昭和・平成・令和と、5つの時代の振袖姿を披露しており、もう溜息の出るような美しさです。


法則の法則』(三五館)

 

さて、映画「アルキメデスの大戦」では、菅田将暉演じる天才数学者の櫂直が尾崎鏡子の「美」の正体を計るために、彼女を床に寝そべらせて、その顔に巻き尺を当てるシーンが登場します。そこで、櫂は「やはり白銀比だ!」と叫ぶのですが、わたしは思わずニヤリとしました。拙著『法則の法則』(三五館)は、さまざまな「法則」を紹介し、それらに一貫するメタ法則を求めるという前代未聞の本でした。「法則」というと自然科学の法則を最初に連想する人が多いと思います。物理学に代表される自然科学は一般に客観的な世界だとされているので、「法則」のイメージにぴったりです。逆に、主観的な世界を扱う芸術などはもっとも「法則」から縁遠い印象がありますね。ところが、驚くべきことに、芸術の世界にさえも「法則」は存在するのです。「白銀比」もその1つです。

 

白銀比は、「日本の黄金比」という別名があるくらい、伝統的に日本人の美意識に合うとされ、日本で好まれてきました。白銀比が取り入れられていることで有名なのは、何といっても法隆寺です。五重塔の庇(ひさし)、金堂正面の幅、西院伽藍の回廊など、至るところに「1対√2」の比率を見ることができます。法隆寺を建立したのは聖徳太子とされていますが、その太子と二人の皇子を描いたと伝えられる肖像画にも白銀比が用いられているという説があります。皇子たちの身長を「1」とすると、聖徳太子は「√2」だというのです。また、日本の風景画や美人画などにも白銀比はよく見られます。雪舟の「秋冬山水図」や菱川師宣の「見返り美人」などが代表とされています。

 

さらに驚くべきことに、いまや日本を代表する文化になった観のあるマンガやアニメのキャラクターにも白銀比が使われているという人もいます。多摩大学教授でイラストレーターでもある秋山孝氏によれば、のらくろ鉄腕アトム天才バカボンなどの顔を重ねてみると、「目の位置がほとんど同じ」「耳や角、帽子などの突起物がある」などの共通の特徴をあげ、キャラクターたちの全身は白銀長方形にぴったり収まるというのです。デザイナーである木全賢氏は、ハローキティマイメロディといったサンリオのキャラクターが白銀比にほぼ収まると述べています。われらが浜辺美波チャンも、ほとんどサンリオ・キャラクターの世界に生きているのですね!

 

白銀長方形を生み出す日本のノウハウは、折り紙や風呂敷などにも見られます。それぞれ、どんどん折ったり畳んだりすると、自然に白銀比長方形が現れるのです。また、日本の伝統的建築は、城から神社仏閣、民家にいたるまで木造ですが、建築に際しては木材の寸法を正確に測定することが大前提となります。そのための道具が「曲尺(かねじゃく)」です。「サシガネ」とか「カネザシ」などとも呼びますが、普通の直線定規を途中から直角に曲げたような形をしています。この曲尺を使って丸太から角材を取ると、なんと自動的に「√2」が出てくるのです。その秘密は二種類ある曲尺の目盛りにあるのですが、とにかく日本人は古来から、ありとあらゆる方法で自分たちが「美しい」と感じる白銀比を無意識に、あるいは意識的に創造してきたようです。このように、西欧人にしろ日本人にしろ、「美」にさえも法則を求めてきたわけです。人間って面白いですね!

 

天才数学者である櫂直は「数はウソをつかない」と言い、美しい数式を黒板に書き連ねていきます。彼のそんな姿を見て、第74回アカデミー賞の作品賞に輝いた映画「ビューティフル・マインド」を連想しました。ノーベル経済学賞を受賞したジョン・ナッシュという天才数学者の生涯を描いた2001年のアメリカ映画です。わたしは、この映画を観てから数学の魔力にとりつかれ、ハンス・マグヌスエンツェンスベルガーの『数の悪魔』をはじめとした多くの数学関連書を読みました。数学と聞いただけで嫌な顔をする人もいるかもしれませんが、数学ほど面白いものはありません。

 

数の悪魔―算数・数学が楽しくなる12夜

数の悪魔―算数・数学が楽しくなる12夜

 

 

関ヶ原の合戦」の翌年に生まれたフェルマーの最終定理が証明されたのは約360年後の1995年。有史以来の最高の数学者と評されるガウスが天才ぶりを発揮していたのは、謎の浮世絵師・写楽と同じ江戸時代ですし、ピタゴラスユークリッドは紀元前の人です。受験とは無縁の世界で遊んでみると、数学は俄然面白くなります。

 

「万物は数である」とはピタゴラスの言葉ですが、考えてみれば、あらゆるものは数に置き換えられます。1人の人間は、年齢・身長・体重・血圧・体脂肪・血糖値などで、国家だって人口、GDP、失業率などで表されます。そして、もちろん企業も、売上・原価・利益・株価といった諸々の数値がついてまわります。しょせん万物は数ならば、数を嫌わず、数と仲良くしたいものです。

 

さて、「アルキメデスの大戦」で違和感をおぼえたのは、山本五十六の描写です。舘ひろし演じる山本五十六は、誰よりも戦争に反対し続けた軍人でありながら、真珠湾攻撃によって自ら開戦の火ぶたを切って落としたことで知られます。 ブログ「聯合艦隊司令長官 山本五十六」で紹介した2011年の映画は、役所広司が主演し、「悲劇の連合艦隊司令長官」の実像を描いたヒューマン大作でした。しかし、「アルキメデスの大戦」では、山本五十六反戦家などではなく、大胆な作戦を立てる好戦家として描かれているのです。これは、ちょっと物議を醸すかもしれません。

 

いずれにしても、先の戦争について思うことは、あれは「巨大な物語の集合体」であったということです。真珠湾攻撃戦艦大和、回天、ゼロ戦、神風特別攻撃隊ひめゆり部隊沖縄戦満州硫黄島の戦い、ビルマ戦線、ミッドウェー海戦東京大空襲、広島原爆、長崎原爆、ポツダム宣言受諾、玉音放送・・・挙げていけばキリがないほど濃い物語の集積体でした。それぞれ単独でも大きな物語を形成しているのに、それらが無数に集まった巨大な物語の集合体。それが先の戦争でした。実際、あの戦争からどれだけ多くの小説、詩歌、演劇、映画、ドラマ、アニメ、コミックなどが派生していったことか・・・その数たるや、想像もつきません。

 

「物語」といっても、戦争はフィクションではありません。紛れもない歴史的事実です。わたしの言う「物語」とは、人間の「こころ」に影響を与えうる意味の体系のことです。人間ひとりの人生も「物語」です。そして、その集まりこそが「歴史」となります。そう、無数のヒズ・ストーリー(個人の物語)がヒストリー(歴史)を作るのです。

 

2019年7月29日 一条真也

人間その気になると、できないことはない(中村天風)

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言葉は、人生をも変えうる力を持っています。
今回の名言は、異色の哲学者・中村天風の言葉です。天風は、生涯数え切れないほどの多くの講演で「信念」の持つ力の偉大さを説き続け、以下の言葉を残しています。
「人間その気になると、できないことはない」
「何でもできる。できないのは自分を信じないからだ」
“Believe in yourself”
「自信を持て。それが信念だ」


CD「信念は人生の羅針盤」

CD「信念は人生の羅針盤」


天風と並んで現代日本のリーダーたちが師と仰ぐ人物に、陽明学者の安岡正篤がいます。その安岡も「自分は何か信念・信仰・哲学というようなものを持っておるかどうか。これは一番人間としての根本問題であります」と語っています。
しかし、とにかく信念について語りに語ったのが天風でした。天風はもともと銀行の頭取をはじめ多くの会社を経営する事業家でしたが、突如、世の人々を幸福にするために信念の大事さを訴えたいと思い立ち、朝から晩まで路上で演説するという生活をはじめました。銀行の頭取をしていた人間が急に草履ばきになって、脚絆をつけて、焼きおむすびを持って、大道講演すれば、周囲の人々は仰天します。当然ながら反対します。天風の尊敬する日蓮宗の田中智学なども「駄目だから、お止しなさい」と言いました。

 

しかし天風は、「本当の気持ちで人のためを思ってする仕事が、駄目とはいかなる理由か。人によいことを奨め、人を幸福にすることがなぜ駄目なのか。否、駄目とか、駄目でないとかは考えない。ただ人を幸福にすれば良いのだ。それが自分に出来ないはずがないんだ!」という気持ちでこれを始めたのでした。
その結果、彼の幸福哲学は松下幸之助稲盛和夫、さらにはロックフェラー3世など内外の実業家をはじめとして幾多の人々に影響を与え、今も彼の決して安いとはいえない多くの講演録はロングセラーとして読まれ続けています。   


成功の実現

成功の実現


天風は、現代人には「信念」という肝心要のものが抜けていると喝破し続けました。つまり現代の人間は、良いことを聞いても、良いなあと思って感激はしても、それが、本当に自分のものにならないのは、心の中に信念というものが、知らず知らずのうちに欠如しているからなのです。欠如しているというより、むしろ下積みになっていると言えます。ともあれ、信念の力というものは、実に諸事万事を完全にする根本的な要素なのです。

 

古今東西、人生を説く者はみな、信念の重要性を力説しています。すでに紀元前10世紀にはヘブライのソロモンが「人の本当の値打ちというものは、宝石でもなければ、黄金でもない。いわんや地位でもなければ名誉でもない。ただ、信念の二文字である」と言っています。人類史における精神の巨人たちも、同じことを言っています。孔子は「信は万事のもと」と、釈迦は「信ぜざれば救う能わず、縁なき衆生は度し難し」と、キリストは「まず、信ぜよ」と言っている。マホメットは「疑って、迷って、真理から遠ざかる者よりも、信じて欺かるる者、汝は幸いなり」と言いました。しかしこれは逆説的な言葉です。信じる者は欺かれないから、本当に信じる気持ちを持っている者は、ものの本当か嘘かはパッとわかるものです。本当のもの以外は信じないからです。

 

それを現代人は疑いだらけだから、信じなくてはならないことを信じられないで、何でも頭から疑ってしまうというやり方なのです。まず疑いから考えようとします。
そうすることが、正しい考え方のように思っている人が多いのです。なぜ、疑いがいけないのか。それは疑い出したら、何事も安心ができないからです。
よく考えてみましょう。わたしたちが、こうやって生きているのも、多少なりとも信念があるから生きていられるのです。例えば、夜眠るのだって、疑ったら眠れません。「今夜眠っている間に、死んでしまいはしないか」と思ったら、うかうか眠ることはできません。不眠症にかかる人間はみな「ちょっと眠っている間に、死んだらどうしよう」という心持ちを持っているそうです。

 

天風は、「疑いが高じたら、産んだ親まで疑いはしないか」とも述べています。
生まれるときに誰も、産んだ親の顔を見ていません。ただ自分の観念の中で「この人は自分の親だ」と思うから、親と考えているだけです。それが信念だというのです。
ゲーテも「凡人というものは、何事も信念なく諸事に応接するために、自然に不可解な苦しみに悩んで、不安な生涯を送ることになる」と言っていました。確固たる信念を持てば自分を運命を開く積極的な精神につながる。     

 

天風はよく講演会で、「豊臣秀吉やナポレオンを見ろ」と聴衆に呼びかけました。2人とも階級制度に縛られていた時代に、一番低い身分の出身で、あれだけの大事業をやってのけました。あの時代において誰でも不可能なことをやってのけたのは、2人とも信念を持ち、どんなことにもくじけない積極的な精神を持っていたからです。ナポレオンのあまりにも有名な「余の辞書に不可能という文字はない」という言葉は信念の勝利宣言なのです。なお、今回の天風の名言は『孔子とドラッカー新装版』(三五館)にも登場します。

 

 

2019年7月28日 一条真也拝 

心は平等  

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もしも、自分の心こそが仏の心であることに気づいたならば、すべての人の心が仏であることがわかるだろう。それゆえ、仏の心、自分の心、人々の心の三つは平等なのだ。(『性霊集』)

 

一条真也です。
空海は、日本宗教史上最大の超天才です。
「お大師さま」あるいは「お大師さん」として親しまれ、多くの人々の信仰の対象ともなっています。「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」の異名が示すように、空海は宗教家や能書家にとどまらず、教育・医学・薬学・鉱業・土木・建築・天文学・地質学の知識から書や詩などの文芸に至るまで、実に多才な人物でした。このことも、数多くの伝説を残した一因でしょう。

 
超訳空海の言葉

超訳空海の言葉

 

 

「一言で言いえないくらい非常に豊かな才能を持っており、才能の現れ方が非常に多面的。10人分の一生をまとめて生きた人のような天才である」
これは、ノーベル物理学賞を日本人として初めて受賞した湯川秀樹博士の言葉ですが、空海のマルチ人間ぶりを実に見事に表現しています。わたしは『超訳 空海の言葉』(KKベストセラーズ)を監訳しました。現代人の心にも響く珠玉の言葉を超訳で紹介します。

 

2019年7月27日 一条真也

『安岡正篤教学一日一言』

安岡正篤教学一日一言 (致知一日一言シリーズ)


一条真也です。
26日、互助会保証の監査役会と取締役会に出席した後、羽田空港からスターフライヤーで北九州に戻りました。今回の出張は、精神的にいろいろ疲れました。
「人の道」について考えるところがあり、『安岡正篤教学一日一言』安岡正泰監修(致知出版社)を再読しました。ブログ『安岡正篤一日一言』ブログ『安岡正篤活学一日一言』で紹介した本の続編であり、三部作の終編といえます。数多い著書から実子によって選び抜かれた言葉が集められています。


本書の帯

 

帯には「遺訓なお光あり」「安岡一日一言・上級編」と書かれています。「まえがき」では、安岡正篤の子息である正泰氏が「本の読み方について、鎌倉時代の禅僧虎関禅師の言葉に『古教照心、心照古教』という至言があります。本に読まれるのではなく、自分が主体となって読む。そこではじめて知識になる、という意味です。是非この片言隻句から安岡教学の精神を汲みとっていただきたい」と述べています。特に、「産霊(むすび)」についての言葉の数々に考えさせられました。それでは、わたしの心に強い印象を残した「東洋哲学の巨人」の言葉を以下に紹介したいと思います。

 

◇誠は天の道
『中庸』に厳かに説かれているように誠は天の道である。これを誠にするは人の道である。天は人なくしてその功をなすことができない。造化を賛けて万物を化育し、万世のために太平を開くのは人間の本分である。そこで造化は独り人間を以てその「明」としている。人間は理性を以てその「明」としている。もはや人間は他の動物のように無明に生きることはできない。衝動に支配されて盲目的に動くことは許されない。天稟の明徳を明らかにし、人間の進むべき道について学ばねばやまぬ。

 

◇孔孟と老荘
儒教は、人間が一生の間にいかに妄想や妄行から、当然・必然・自然に到達するかといふことの教である。この点は老荘も同じこと。丁度儒教に『孟子』の理想主義派と『荀子』の現実主義派とあるやうに、どちらかといへば、孔孟系統の方は現実主義派であって、これに対する老荘の方は理想主義派、したがって一方を人間主義人道主義といふと、一方は自然主義である。人間は自然から出て発達したものであるが、発達と同時に堕落する。いかに人間的堕落を防いで、人間的自然に達するかつまり天道に帰るかといふことが大事だとする。

 

◇むすび1
日本の民族精神・民族文化といへば、その根本にまづ以て神道を考へねばならぬ。その神道の根本思想の一つに「むすび」といふことがある。「むすび」といふことから、人生すべての事が始まる。仏教の言葉でいへば「縁起」である。ある事がこの「縁」によって「因」となり、「果」を生じる。すぐれた因が、すぐれた縁で、すぐれた果を生ずる。勝因・善因が勝縁・善縁によって、勝果・善果をむすぶ。このむすびほど不思議なものはない。

 

◇むすび2
国学の方では、むすびにいろいろの文字があてはめてある。「産霊」といふ文字がその一例で、そもそも尊い生命がはぐくまれていく姿を考へると、木の上に鳥が巣を作り、それを温かく日が照らしてゐる。そこから雛鳥が母鳥を待ってチーチー鳴いてゐる。あの姿は実に美しい。めでたい。そこで産といふ字に、巣といふ字と、太陽の日といふ字を合せて「産巣日」と書いて「むすび」とよむ。生命は神秘である。そこで又「産霊」と書いて「むすび」と読む。万物は原子のむすびである。

 

神道と日本人
日本の神道は、哲学や信仰を極めるに従ってその真義を甚解することのできる尊いものであるが、それならば、日本人は神道さへ修めれば十分で、他のことは一切要らぬかといふと、さう考へては神道ではない。自然と人間は多様の統一であって、単一ではない。単一は健やかな生の相ではなく、一切を通じて一切を活かすこそ天道であり、神道であり、その実践が人道である。生物が自然に生れて自然に還るのは端的な道の相で、死ぬといふことは、自然に帰ることで、必然、当然でもある。偶然に死ぬといふことはいけない。

 

◇参詣の意味
天地自然は人間の故郷である。
故に人は自然を愛し、深山幽壑・山紫水明のところに神を祀る。神社を建てるのである。自然であり、必然であって、当然である。決して偶然ではない。そこで聖地へお参りした時、我々は最も自然になり、神に近づく。勝因を結ぶことであり、そこに参詣の貴い意味がある。

 

◇人を識る
人を識るにも虚心坦懐その人に接せねばならぬ。
さすれば、その人物との渾然たる冥合の中に、その人物の真偽善悪美醜を識ることができる。その場合、我が人格の奥妙に触れる程度によって価値を覚知することができるが、同時にまた我が含徳のいかんをも反省しなければならぬ。我が人格の涵養が浅薄な時は、到底深い人格的生命に共鳴することはできない。そこで人を識るということは畢竟我が内に探知することであって、我れみずからの修養学問のないところに、人を知り人を用うることの行われるわけはない。

 

◇維新と革命
革命は指導者の劇的な行為を示すが、その反面多くの人間の卑劣、奸悪、邪妄をも暴露する。外面的な革命では、決して真に新しい世界とはならない。真の新人が出現して新政を興す為には、之に先行する内面的精神的な涵養と運動とが必須条件である。日本の明治維新はその好箇の一例である。明治維新の偉大なものは總て人間の内面性が発見された徳川時代の経験と陶冶に連なってをり、その封建社会道徳も、明治維新の人々がその精神力を掬みあげた活泉であったことは言ふまでもない。

 

◇縁から始める
道を歩むにも自家門前の通路より出かけねばならぬやうに、縁のあるところから始めるほかはない。さすればおのづから大道に通ずる。その場合何らかの宗派をもって称せられることはやむをえない。それは縁であり、命である。我々は縁に随ひ、命に自って、人となり、東洋人となり、日本人となり、誰某となってゐるのである。それをもって造化を凝滞し、天地を狭隘にすべきではない。専門的愚昧・党派的猜嫉を戒めて、円明通達せねばならぬ。

 

◇諸教帰一
自然はこれを象徴していふと天である。天は人といふものを造り、人を通じての心の世界を開いた。人間は外の動物と違って、この心といふものを恵まれてをるのであるが、これが又自然の妙用で、その心によって惑うて、いろいろ紆余曲折してゐるうちに、次第に心の真実・心の誠・心の真理を会得して、次第に天に帰して行く。自然から出発して自然に帰る。無から生じて無に帰る。死ぬといふことは、1つの天に帰ることである。

 

◇元気と志気
真の元気というものは、通用語で言いますと志気と言います。今日の言葉なら理想精神であります。一体元気、即ち吾々の活力、気魄というものは創造力でありますから、生みの力、大和詞で言うならば産霊の力である。そこで常に何物かを生む力、為すあるの力、有為の力である、これは必ず理想を生んで来る、元気が旺盛なる時には必ず理想がある。理想のことを古来志と言いますから、それを志気と謂う、元気は志気でなければならぬ。理想を持った元気でなければならぬ。

 

◇風韻のある人
元気というものから志気となり、胆識となり、気節となり、器量となり、人間の造詣、蘊蓄となり、それが独特の情操風格を帯びて来る、これ等が人物たるの看過することの出来ない、没却することの出来ない、根本問題中の根本問題であります。そういうものを備えて来なければ人物とは云えぬ。人物を練る、人物を養うということは、そういうことを練ることです。あの人は風韻がある、風格がある、というのはその人独特の一種の芸術的存在となって来ることであります。

 

◇むすび(産霊)を知る
「むすび」は霊を産む、産霊という文字を当て嵌めているように、これは相対するものを統一して、そうしてより一段高次な価値に進むことであります。こういう価値生活への無限の進歩向上がすなわち「むすび」であります。ところがこの「むすび」ということは、むすばれる方からいいますと、「まいる」の思想になるのです。「まいる」とは卑しきもの、小さきもの、低きものが、高きもの、尊きもの、偉大なるものにむすばれる。自ずからむすばれて行くことであります。

 

◇「むすび」と「まつり」
むすばれる方からいって「参る」という思想、この思想をむすぶ方からいいますと「ゆるす」ということになる。ここにおいて、「参る」から続いて生じきたるべきものは、すなわち「はべる」「つかえる」「そうろう」というような思想であります。そういう場合は没我になって行くのでありますから、悉くそれに捧げて行く。これが大和言葉で「まつる」「まつらう」というのであります。日本精神を論ずるものは必ずこの「むすび」に始まって「まつり」を体得せねばなりません。

 

◇「道」と「教」
我々の心の根柢にはたとえいかなることがあっても屈せず撓まず努力し精進せよという無声の命令が厳乎として存在してゐる。この自己内面の至上命令(天命)に率ふのがすなはち我々の「道」で、かかる道を明らかにして、我々はいかに行為すべきか、いかなる心情をもつべきかの自覚を与へてゆくのがすなはち「教」である。換言すれば我々の心に内在する至高絶対の天命はこれ実に疑はんと欲して疑ふことのできない明らかなる徳である。学問の要は畢竟この「明徳」を発揮する所以の道理を自覚体認することでなければならぬ。

 

◇武士の魂
わが民族は古来生命を愛する。それは、無我な天真な態度で自然の健やかな生命の流れに涵って活きようとする意味の生命愛である。
其の生命を愛し、自由を尊ぶ清く明るき神ながらの心地に対して、仏教の影響、殊に禅の感化などは、武士をして肉身の無常を深く感じさせ、道に生きる、意義に感ずる、義理に殉ずる等の覚悟を深くした。その魂を彼等は腰間に帯する三尺の秋水に吹きこみ、その所謂「武士の魂」を提げて、荘厳なる人間打成を試みたのである。

 

◇いかに死すべきか
いかに死すべきかを実生活上の原理として日本民族ほど鈍化したものはない。日本民族精神をある意味において最も霊活に現した武士道において、あらゆる文献を通じて間違いのないことは、常にそれがいかに死すべきかという覚悟の上に立っていることであります。それ故に文学を見ましても、芸術を見ましても、宗教を見ましても、政治を見ましても、いかに死すべきかということの上に立てられて始めて日本的です。

 

◇大人の見方、小人の見方
仁とは畢竟人と人、人と物とを、本来の天に全うして返す作用である。
大人は天地万物を以て一体となす者である。彼は天下を視ることなほ一家のごとく、中国を視ることなほ1人のごとく、その間に寸毫も差別を置かない。これに反して区々たる形骸によって爾と我とを隔てる者は小人である。すなはち大人の自己はよく天地万物を包容するに反して、小人の自己は僅に一形骸の外に出ることができない。

 

◇仁の作用
仁とはよく対象と一になる作用である。大人が天地万物を以て一体となすは、大人の仁がよく彼をして天地万物と一たらしむるがためで、この仁の作用については、ひとり大人に限らず、小人の心と雖も何等相違はない。実在の統一作用たる我等の精神は天地万物に対して独立の存在なるかのごとく考へられるが、実際は被統一を離れて統一なく、天地万物を離れて我はない。仁は実在の根柢より発して自然に霊昭不昧なる者である。故にこれを「明徳」といふ。徳とは天理の存養、人間の性にしたがふ活動の謂である。

 

◇日本の家福
己を忘れて人を思うこまやかな情愛、そこから閃く叡智の光、ゆきとどく注意、つつましく善言に耳傾ける謙虚、愛する者の為に厭わぬ労苦、洗練されたる教養、是の如き婦徳を持つ妻よ、母よ、姉妹よ。是れは日本民族が世界より羨まれる家福であろう。

 

◇気の帥
一口に志を立つといっても、それはなかなか容易なことではない。孔子は聖人である。しかもなほ我れ十有五にして学に志し、三十にして立つといってゐる。立つとは志立つの意味である。晩年に心の欲する所に従って矩を踰えざるにいたったが、それは要するに志が矩と一致するのである。志といふことを決して軽々に視ることはできない。志は精神活動の大統力である。すなはちこれを「気の帥」といふ。これ人の命であり、木の根であり、水の源である。志立たねば精神は活動しない。

 

◇ぼける
頭がぼけるのは、その実人間がぼけるのである。幸ひに我々の頭脳はいくらでも鍛へられ、老いることを知らず、無限の内容を持ってゐる。ぼけるには余りに惜しい。現代文明生活に駆り立てられてゐる人々ほど、人間相手の煩悩を力めて斥け、せめて時を偸んでは、心の糧になる良書を買って、書斎にならべておき、そしてその中に孤坐することである。これだけでも大いに意味がある、功徳がある。ぼけない手がかりになるのである。

 

◇老来、佳境に入る
老いるといふことは自然に近づくといふことであり、自然に近づくといふことは真理に近づくことである。それだから真理に反した、肉体でいふならば、生理に反した、そんなあくどいものをむやみに喰ったり、刺激の強いものを飲んだりして、愉快になるといふやうなことではなくなる。これは心の欲する所にしたがって矩をこえずである。無理はいやになる。面白いもので、50年、60年、70年とたつうちには、次第に真理に返ってくる。伊藤仁斎が老来・佳境に入ると云ってゐるが、それが本当である。

 

◇人間の自由
人間の自由は物質的満足の得られること――「通」にあるのではない。
窮して困まず、憂えて意衰えざるにある。禍福終始を知って惑わぬにある。昔から真の人傑にして独の生活を持たぬ者は1人もない。彼等は皆あくまでも人を愛し、世のために働きつつ、また人知れず自然と深契し、読書尚友した人々である。これをよくする時、現世はいかに我れに辛かろうと、四時佳興に富まぬはない。

 

安岡正篤教学一日一言 (致知一日一言シリーズ)

安岡正篤教学一日一言 (致知一日一言シリーズ)

 

 

 2019年7月27日 一条真也