両親を想って「愛の讃歌」を歌う♪

一条真也です。
6日の16時半から、ブログ「冠婚責任者会議」で紹介した会社行事が松柏園ホテルの「グランフローラ」で行われました。わたしの社長訓話の後、懇親会となりました。


サプライズで花束を贈られました

営業責任者会議メンバーと記念の集合写真

 

懇親会も終わり近くになって、サプライズがありました。司会の武田課長が「このたび、一般財団法人  冠婚葬祭文化振興財団の理事長に就任された佐久間社長に、営業責任者会議の参加者全員からお祝いをさせていただきたいと思います」と言って、“宮崎のゴルゴ30”こと本田課長から素晴らしい花束をいただきました。虚を突かれたわたしは動揺しましたが、盛大な拍手を聴きながら次第に嬉しさが込み上げてきました。わたしも、みなさんに何かお礼をしたいと思いました。

リクエストされた「愛の讃歌」を歌いました♪


みんな真剣に聴いてくれました


フロントに預けてあったボルサリーノが宴会場に届けられ、それを装着したわたしは、愛の讃歌を歌うことにしました。というのも、ブログ「花束を手に『愛の讃歌』を歌う♪」を読んだ複数の営業責任者たちから「わたしたちにも、ぜひ『愛の讃歌』を聴かせて下さいよ!」とリクエストされていたのです。用意したカラオケセットで、わたしは花束を持ったまま「愛の讃歌」を熱唱しました。歌いながら、病を闘う父と心配する母のことを想いました。


両親を想って歌いました♪


心を込めて歌いました♪

 

このたび完成したムック『佐久間進のすべて』の裏表紙には、両親の結婚式のときの写真が掲載されています。思えば、七五三も成人式も結婚式も葬儀も、そこには家族の「愛」があります。歌い終わると、「結婚は最高の平和です。死は最大の平等です。冠婚葬祭は人の道です。冠婚葬祭業ほど素晴らしい仕事はありません。わたしは何度生まれ変わっても、この仕事がしたい。みなさん、これからも、よろしくお願いします。ありがとう!!」と言いました。いつまでも拍手が鳴り止みませんでした。


両親の結婚写真

 

1961年(昭和36年)5月20日に東京・赤坂のホテル・ニュージャパンで両親は結婚しました。仲人は東京三菱自動車販売社長の永原夫妻。主賓は柔道の恩師・三船久蔵名人。松尾三郎(國學院大学理事長)、砂田恵一(相模女子大学学長)、品田聖平(日本宗教連盟会長)といった方々も参列されました。ちなみに、わたしたち夫婦は1989年5月20日に結婚しましたので、両親の結婚からちょうど28年後。結婚記念日は同じです。じつは、わたしはそのことをまったく知りませんでした。『佐久間進のすべて』を作って初めて気づいたのです。不思議な縁を感じました。


入院中の父を見舞った母

 

結婚してから63年の時間が経過しても、両親はとても仲が良いです。今年の3月20日、父が小倉記念病院に入院したときには母が車椅子に乗ってお見舞いに行きました。そのとき、父はとても喜んでいました。あれから半年近くが過ぎ、父はすっかり弱ってしまいましたが、毎日のように母と握手をしています。父は、そのたびに「あんたは、いい顔をしてる」とか「あんたのおかげで、ここまで来れた。本当に、ありがとう」と言います。すると母は、「長生きしてね。ひとりになったら寂しいよ」と言うのです。この両親が出会い、愛し合わなかったら私自身が存在していないわけですから、感謝の気持ちでいっぱいです。


愛の讃歌」を熱唱するセリーヌ・ディオン

 

パリ五輪の開会式のフィナーレで、セリーヌ・ディオンエッフェル塔の上から歌った「愛の讃歌」には非常に感動しました。カナダ人である彼女がフランス語で熱唱したのも素晴らしかったですが、筋肉がこわばるスティッフパーソン症候群の闘病中とは思えない圧巻のパフォーマンでした。NBCテレビで開会式のコメンテーターを務めていたケリー・クラークソンセリーヌ・ディオンを「声のアスリート」と呼びましたが、わたしはまさに「平和の女神」のようだと思いました。エッフェル塔の上から、白く光り輝く女神が「人類よ、戦争を止めなさい。そして、愛し合いなさい!」と訴えているようでした。そう、愛とは恋愛から夫婦愛へ、夫婦愛から家族愛へ、家族愛から隣人愛へ、そして人類愛へと進化するのです。ちなみに、父は「人類愛に奉仕する」ということを訴え続けてきました。冠婚葬祭業者としての究極の理想と言えるでしょう。

 

愛の讃歌」は、フランスを代表するシャンソン歌手であったエディット・ピアフの代表作であり、彼女自身が作詞しています。7月26日の夜、セリーヌ・ディオンが「愛の讃歌」を歌ったとき、近くにピアフがいたように思えてなりません。「愛の讃歌」の歌詞は1947年10月、ピアフがアメリカ初公演時に出会い、恋の相手であったプロボクサー、マルセル・セルダンが1949年10月28日に飛行機事故で亡くなったのを悼んで作られたと言われてきました。しかし、(わたしも今日知って驚いているのですが)、セルダンの生前に書かれたものであることが判明しているそうです。2人は相思相愛で誰もが知る仲ではありましたが、妻子を持つセルダンとの恋愛に終止符を打つために書いたものだと考えられているというのです。ちなみに、レコーディングは1950年5月2日ですので、亡きセルダンへの想いも当然あったと思います。

 

わたしは歌にはグリーフケア(悲嘆からの回復)の力があると思っています。歌うこと、そして歌を聴くこと。人間にとってこれはごく自然な行為ですが、それによって人は悲しみを乗り越えられるのではないでしょうか。セルダンの突然の死により深い悲嘆にくれた彼女はこの歌を歌うことで、少しづつ立ち直っていったのでしょう。そう、「愛の讃歌」こそは”THE・グリーフケアソング″だったのです。ピアフは48歳という若さでこの世を去ります。彼女の葬式には4万人もの人が集まりました。パリ中の商店が彼女に弔意を表して店を閉めたといわれています。葬儀の最中には、パリ市内の交通が全面ストップしたそうです。今回のパリ五輪開幕直前に発生したようなテロではなく、葬儀で交通がストップしたところが凄いですね!

 

愛の讃歌」は人気を集め、ピアフの後も幾度も別の歌手に歌われました。ピアフのトリビュート・アルバムでは、カナダのロック歌手コリー・ハートが歌唱しており、ケベックでは歌手ニコール・マルタンが1976年にアルバムの表題曲にしてヒットしました。米国の歌手ジョシュ・グローバンもフランス語歌詞で本作歌っています。日本では岩谷時子の訳詞(日本語詞)により越路吹雪が唄ったものが特に有名です。越路版の「愛の讃歌」が収録されているCDなどの売上はトータルで200万枚以上に達し、越路の代表曲の1つとなり、生涯の持ち歌にもなりました。わたしも以前、よくカラオケで歌いました♪


わがカラオケ愛唱歌です♪


いつも歌い上げてしまいます♪

 

この岩谷時子の訳詞は、後には本田美奈子がアルバムで取り上げた他、桑田佳祐日本生命のテレビの中でアカペラで歌唱するなど、数多くの歌手が歌っています。岩谷詞は原詞にある「愛のためなら宝物を盗んだり自分の国や友達を見捨てることも厭わない」という背徳的な内容とは異なったものとなっています。しかし、岩谷が甘い歌詞で日本人向けに大胆に訳したことで結婚披露宴などでも歌われ、日本でも本作が広く親しまれるようになりました。最後に五輪が「平和の祭典」なら、結婚式とは「最高の平和」を祝福するセレモニーだと訴えたいです!

 

2024年9月6日  一条真也