世界水の日

一条真也です。
3月22日は、「世界水の日(World Water Day)」です。淡水の保全と持続可能な淡水資源管理の促進への人々の意識を啓発し、各国の行動につなげるため、1992年12月の国連総会で制定されました。

ユニセフ公式HPより

 

「世界水の日」の制定以降、世界中で毎年3月22日やその前後に、さまざまな催しやキャンペーンなどが行われています。制定の背景には、地球上のすべての経済活動や社会活動は、質の良い淡水とその供給に大きく依存しているにもかかわらず、人口と経済活動の増加により、多くの国が急速に水不足に陥ったり、経済成長に行き詰まったりしている現状への危機感がありました。



今日の「世界水の日」は、2015年9月に採択された「持続可能な開発目標(SDGs)」の目標6―2030年までに誰もが安全に管理された「水と衛生」を手に入れる―の達成に向けてアクションを取るための日でもあります。しかし、最新のデータによると、世界人口の半数の家には安全に管理された衛生設備がなく、4分の1が安全な飲料水を利用できず、3分の1近くは水とせっけんを備えた手洗い場が自宅にありません。これらは、SDGS目標達成にはほど遠い現状を示しています。



2024年1月1日に震度7地震が発生した能登半島珠洲市をはじめ水道が復旧しておらず、断水状態が続いています。能登半島地震では、珠洲市の下水管被害(1月末時点)が総延長の約94%となり、被災自治体の中で突出していることが分かりました。104.3キロのうち97.9キロが被害を受けたとみられ、下水管とつながるマンホールが道路から突き出た光景があちこちで見られました。市は飲料水確保へ上水道の復旧を急ぎますが、生活排水を流す下水の復旧にはさらに時間がかかる見通しです。


世界をつくった八大聖人』(PHP新書)

拙著世界をつくった八大聖人(PHP新書)では、ブッダソクラテス孔子老子聖徳太子モーセ、イエスムハンマドの8人の「人類の教師」たちのメッセージを集約して、「人類十七条」としてまとめてみました。その第一条は「水を大切にする」です。同書の執筆を通じて、わたしが心から痛感したことでした。人類の理想が「平和」と「平等」なら、人類の存続に関わる最重要問題はつまるところ「戦争」と「環境破壊」に集約されます。そして、その2つは「水を大切にする」という1つの考え方によって、基本的には避けられると考えます。


この世界も生命も、すべて水から生まれました。
戦争を引き起こす心も、環境を破壊する心も、結局は水を大切にしない心に通じます。「世界平和」と「地球環境」の問題は別々の問題ではなく、実は完全につながっているのです。いま、地球上には広島に落とされた原子爆弾の40万個に相当する核兵器が存在するという。また、地球温暖化をはじめとした環境問題は深刻化する一方です。しかし、2つの問題の解決への糸口とは「水を大切にする」という1つ答えではないでしょうか。

コンパッション!』(オリーブの木

 

「人類十七条」の第二条は「思いやりを大切にすること」です。「思いやり」というのは、他者に心をかけること、つまり、キリスト教の「愛」であり、仏教の「慈悲」であり、儒教の「仁」です。わたしは、まとめて「コンパッション」と呼んでいます。かつて「花には水を、妻には愛を」というコピーがありましたが、水と愛の本質は同じではないでしょうか。ブログ『星の王子さま』で紹介した世界的名作で、サン=テグジュペリは「水は心にもよい」と書いています。それも、コンパッションのことを指しているように思います。

 

 

興味深いことに、思いやりの心とは、実際に水と関係が深いのです。『大漢和辞典』で有名な漢学者の諸橋徹次は、ブログ『孔子・老子・釈迦三聖会談』で紹介した本で、孔子老子ブッダの思想を比較しました。そこで、孔子の「仁」、老子の「慈」、そしてブッダの「慈悲」という三人の最主要道徳は、いずれも草木に関する文字であるという興味深い指摘がなされています。すなわち、ブッダ老子の「慈」とは草木の滋(し)げることですし、一方、孔子の「仁」には草木の種子の意味があるというのです。そして、三人の着目した根源がいずれも草木を通じて天地化育の姿にあったのではないかと推測しています。儒教の書でありながら道教の香りもする易経には、「天地の大徳を生と謂う」の一句があります。物を育む、それが天地の心だというわけです。

 

 

考えてみると、日本語には、やたらと「め」と発音する言葉が多いことに気づきます。愛することを「めずる」といい、物をほどこして人を喜ばせることを「めぐむ」といい、そうして、そういうことがうまくいったときは「めでたい」といい、そのようなことが生じるたびに「めずらしい」と言って喜ぶ。これらはすべて、芽を育てる、育てるようにすることからの言葉ではないかと諸橋徹次は推測しています。そして、「つめていえば、東洋では、育っていく草木の観察から道を体得したのではありますまいか」と述べています。東洋思想は、「仁」「慈」「慈悲」を重んじました。すなわち、「思いやり」の心を重視したのです。そして、芽を育てることを心がけました。当然ながら、植物の芽を育てるものは水です。思いやりと水の両者は、芽を育てるという共通の役割があるのです。


人が生きていく上で、一番大切なものは「水」です。そして、水の次に大切なものが「葬儀」だと思います。孔子の母親は雨乞いと葬儀を司るシャーマンだったそうです。雨を降らすことも、葬儀をあげることも同じことだったのです。雨乞いとは天の「雲」を地に下ろすこと、葬儀とは地の「霊」を天に上げること。その上下のベクトルが違うだけで、天と地に路をつくる点では同じです。水がなければ、人は生きられません。そして、葬式がなければ、人は旅立てないのです。水を運ぶものは水桶であり、遺体を運ぶものは棺桶です。この人間にとって最も大切なものを示した映画があります。日本映画史上に燦然と輝く名作である新藤兼人監督の「裸の島」(1960年)です。


「裸の島」(1960年)のタイトルバック


耕して天に至る(「裸の島」より)


水桶を運ぶ夫婦(「裸の島」より)


乾いた土に水を与える(「裸の島」より)

 

「裸の島」は、瀬戸内海に浮かぶ小さな孤島に住む4人家族の物語です。島の住人は夫婦と2人の息子たちのみです。島には水がないので、畑を耕すためにも、毎日船で大きな島へ水を汲みに行かなければなりません。子どもたちは隣島の学校に通っているので、彼らを船で送り迎えするのも夫婦の仕事です。会話もなく、変化のない日常が続いていましたが、ある日、長男が高熱を出し、島には病院がないので亡くなってしまいます。夫婦は亡き息子の亡骸を棺に入れて墓地まで運びます。

わが子の棺を運ぶ夫婦(「裸の島」より)


粗末な葬式(「裸の島」より)

 

そう、「裸の島」夫婦が一緒に運んだものは水と息子の亡骸の入った棺でした。二人は、ともに水桶と棺桶を運んだのです。その2つの「桶」こそ、人間にとって最も必要なものを容れる器だったのです。水がなければ、人は生きられません。そして、葬儀がなければ、人は旅立てないのではないでしょうか。悲嘆にくれる母は、息子を失った後、大切な水を畑にぶちまけて号泣します。葬儀をあげなかったら、母親の精神は非常に危険な状態になったでしょう。喉が渇けば、人は水を必要とし、愛する人を亡くして心が渇けば、人は葬儀を必要とするのです。

葬式は必要!』(双葉新書

 

2024年3月22日 一条真也