小倉織を着て、還暦を祝われる

一条真也です。
24日の夕方、 松柏園ホテルで、わたしは小倉織の着物を着ました。「月の織姫」こと築城則子先生が織って下さったものです。このたびの還暦を記念して、わたしが「自分へのご褒美」として求めました。


築城則子先生と


還暦祝いの花束を持って妻と

 

築城先生は、小倉高校・早稲田大学を通じてのわたしの大先輩です。大学在学中に能の世界にふれ、その舞台衣装の美しさに強く惹きつけられたそうです。それが染織を始められるきっかけとなり、その後、郷里である小倉にかつて小倉織という伝統文化が存在していたことを知りました。小倉織は徳川家康も愛用していたとされます。


小笠原氏の家紋三階菱の前で

三階菱の前で妻と

 

司馬遼太郎の小説によく「小倉袴」という語が出てきますが、幕末維新の志士たちにも愛用されていました。また、夏目漱石の『坊っちゃん』冒頭には、主人公である“坊っちゃん”が小倉袴をはいて松山入りしたと書かれています。いずれにせよ、小倉織は一時それほどまで普及していたにもかかわらず、久しくその伝統が途絶えていました。それを復元したのが築城則子先生です。現在では小倉織の第一人者として知られ、数多くの賞を受賞されています。


納品された小倉織の着物

 

築城先生には「紫色の着物をお願いいたします」と10年ぐらい前からお願いしていたのですが、ようやく完成し、22日に納品いただきました。納品された着物には、細織着物と細織羽織には「紫根染」と書かれていました。小倉縞帯は「朧紫」、小倉縞袴は「紫雲」と名付けられ、築城先生直筆で揮毫されていました。いずれも感激ですが、特に袴に「紫雲」と名付けていただいたことに感動しました。わが社が展開する「紫雲閣」の「紫雲」です。


「紫雲」と名付けられた小倉縞袴

 

「紫雲」とは人の臨終の際に迎えに来るという仏が乗る紫色の雲ですが、わたしはかつて、国民的作家だった司馬遼太郎の名作『坂の上の雲』にかけて、「坂のぼる上に仰ぐは白い雲 旅の終わりは紫の雲」という歌を詠んだことがあります。ブログ「紫雲が入った戒名」で紹介したように、昨年7月12日に凶弾に倒れてお亡くなりになられた安倍元首相の戒名が「紫雲院殿政誉清浄晋寿大居士」だったことは記憶に新しいところです。


羽織の裏地は、月と兎

 

しかも、羽織の裏地は「月と兎」。わたしが大の月狂いで、しかも卯年であることから作っていただきました。じつは、築城先生ご自身も月が大好きで、自ら「月ノリ子」と名乗っておられるほどなのです。定期的にお月見の会も主催しておられます。そんなわけで、「紫雲」と「月と兎」はわたしにとって最高の人生のシンボルなのです。


松柏園の茶室で


松柏園の庭園の滝の前で


庭園の滝の前で妻と


庭園の燈籠の前で妻と

 

この日は、日頃から大変お世話になっている地元の経営者の先輩方もご参集下さいました。妻も紫の着物で付き添ってくれました。築城先生をはじめ、皆様ともホテル内の写真スタジオで記念撮影しました。小倉織は本当に素晴らしいので、ぜひ、全世界の人々に広く知ってほしいです。また、わたしは築城先生は必ずや人間国宝になられる方であると信じています。


岡野長老による乾杯の挨拶のようす


カンパ~イ!


北九州財界のドン・岡野長老と


築城先生と妻

 

写真撮影の後は、松柏園の茶室で、ささやかな還暦祝いが開かれました。築城先生が開かれる「月見会」に参加する方々による通称「北九州のヤクザな文化人の会」の中心メンバーが集まって下さいました。人数は少ないですが、本当に親しくさせていただいている方々だけに祝っていただいて嬉しかったです。身内ながら料理も美味しく、コンパッション・ホテルである松柏園のみなさんの心も感じることができました。最初に、会の長老である岡野大先輩が乾杯の音頭を取って下さいました。


最後に謝辞を述べました


心より感謝を申し上げました


最後に一礼しました


みなさん、本当にありがとうございました!

 

最後は、わたしが謝辞を述べました。わたしは、「今日は、わたしごときの還暦祝いのためにご参集いただきまして、誠にありがとうございます。小倉の地で生まれて東京に出て、妻と出会って、一緒に小倉に戻って、早30年。ここにおられる皆様に本当にお世話になってまいりました。小倉っ子として小倉織を生まれて初めて着ましたが、身の引き締まる思いです。皆様から受けた御恩を少しでもお返しすべく、故郷のために尽力していく覚悟です。今日は、ありがとうございました」と述べました。この日は、一生忘れられない思い出の日となりました。


帰宅してから記念撮影しました

 

2023年5月24日 一条真也