東日本大震災11年 

一条真也です。
東京に来ています。3月11日になりました。
東日本大震災の発生から11年目です。今朝のTV情報番組を見ると、このニュースは戦争やコロナやパラリンピックに押されて少ししか触れられていません。いまだに多くの方々が悲しみや苦しみを抱えておられるにもかかわらず、その報道は年々減ってきています。悲しいですね。

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2022年3月11日の各紙朝刊

 

ブログ「東日本大震災八周年追悼式」で紹介したように、2019年3月11日、わたしは東京の国立劇場で開催された内閣府主催の追悼式に参列しました。2020年は平成最後の追悼式でしたので、令和最初の追悼式にも参加したかったのですが、新型コロナウィルスの感染拡大防止のために政府が中止を発表しました。2021年は政府主催の追悼式が小規模に行われましたが、わたしは小倉の地で黙祷を捧げました。



2011年3月11日は、日本人にとって決して忘れることのできない日になりました。三陸沖の海底で起こった巨大な地震は、信じられないほどの高さの大津波を引き起こし、東北から関東にかけての太平洋岸の海沿いの街や村々に壊滅的な被害をもたらしました。福島の第一原子力発電所の事故も引き起こしました。亡くなった方々の数は1万5900人、いまだ2523人の行方が分かっていません。関連死は3784人、さらには3万8139人の方々が今も避難生活を送っておられます。未曾有の大災害は現在進行形で続いているのです。


陸上に漂着した船の前で(気仙沼

 

この国に残る記録の上では、これまでマグニチュード9を超す地震は存在していませんでした。地震津波にそなえて作られていたさまざまな設備施設のための想定をはるかに上回り、日本に未曾有の損害をもたらしました。じつに、日本列島そのものが歪んで2メートル半も東に押しやられました。


願はくば海に眠れる御霊らよ神の心で子孫をまもれ

 

震災の直後、わたしは足を骨折してしまいました。
ようやく快癒すると、被災地に向かいました。まず気仙沼を訪れたわたしは、海の底に眠る犠牲者の御霊(みたま)に対して心からの祈りを捧げるとともに、「ぜひ、祖霊という神となって、次に津波が来た時は子孫をお守り下さい」との願いを込め、数珠を持って次の歌を詠みました。

 

願はくば
 海に眠れる御霊らよ 

  神の心で
   子孫をまもれ(庸軒)



三陸の海をながめて

 

気仙沼から南三陸に向いました。途中、三陸線の鉄道線路がブツッと切れていました。わたしは、多くの人命を奪った三陸の海をしばらく眺めました。南三陸町は根こそぎ津波にやられており、一面が廃墟という有様でした。そんな中に、かの防災対策庁舎がありました。津波が来たとき、最後までマイクで避難を住人に呼びかけ続け、自らは犠牲となってしまった女性職員がいた庁舎です。ここは建物の廃墟の前に祭壇が設えられ、花や飲み物やお菓子などが置かれていました。多くの人々がこの場所を訪れました。


防災対策庁舎の前で祈る

 

それにしても、見渡す限り一面が廃墟でした。この場所のみならず、東北一帯で多くの方々が亡くなりました。大地震と大津波で、3・11以降の東北はまさに「黄泉の国」といった印象でした。黄泉の国とは『古事記』に出てくる死後の世界で、いわゆる「あの世」です。神話では、かつて「あの世」と「この世」は自由に行き来できたとされています。それが日本では、7世紀頃にできなくなりました。それまで「あの世」に通じる通路はいたる所にあったようですが、イザナギの愚かな行為によってその通路が断ち切られました。イザナギが亡くなった愛妻イザナミを追って黄泉の国に行きました。そこまでは構わないのですが、彼は黄泉の国で見た妻の醜い姿に恐れをなして、逃げ帰ってきたのです。イザナギの心ない裏切りによって、あの世とこの世をつなぐ通路だったヨモツヒラサカは1000人で押しても動かない巨石でふさがれました。


みちのくのよもつひらさか開きたる
あの日忘るな命尽くまで

 

マグニチュード9の巨大地震は時間と空間を歪めてヨモツヒラサカの巨石を動かし、黄泉の国を再び現出させてしまったのではないか。そのような妄想さえ抱かせる大災害でした。わたしは、「東北でヨモツヒラサカが再び通じた3・11を絶対に忘れず、生存者は命が続く限りおぼえておこう」と願い、数珠を持って次の短歌を詠みました。


みちのくの
 よもつひらさか開きたる 
  あの日忘るな
    命尽くまで(庸軒)



巨大なクジラ缶の前で(石巻

 

津波の発生後、しばらくは大量の遺体は発見されず、多くの行方不明者がいました。火葬場も壊れて通常の葬儀をあげることができず、現地では土葬が行われました。海の近くにあった墓も津波の濁流に流されました。
葬儀ができない、遺体がない、墓がない、遺品がない、そして、気持のやり場がない・・・・・まさに「ない、ない」尽くしの状況は、今回の災害のダメージがいかに甚大であり、辛うじて助かった被災者の方々の心にも大きなダメージが残されたことを示していました。現地では毎日、「人間の尊厳」が問われました。亡くなられた犠牲者の尊厳と、生き残った被災者の尊厳がともに問われ続けたのです。「葬式は、要らない」という妄言は、大津波とともに流れ去ってしまいました。


京大で「東日本大震災グリーフケアについて」を報告


わたしは、東日本大震災愛する人を亡くした人たちのことを考えました。わが社が取り組んできたグリーフケア活動をさらに推進させました。上級心理カウンセラーの資格を多くの社員が取得しました。わたし自身も、さらにグリーフケアについての研究を重ねました。
そして、ブログ「『こころの再生』シンポジウム」に書いたように、2012年7月には京都大学で「東日本大震災グリーフケアについて」を報告する機会も与えていただきました。わたしにとって、まことに貴重な経験となりました。


のこされた あなたへ』(佼成出版社

愛する人を亡くし、生き残った方々は、これからどう生きるべきなのか・・・・・・そんなことを考えながら、わたしは『のこされた あなたへ』(佼成出版社)を書きました。もちろん、どのような言葉をおかけしたとしても、亡くなった方が生き返ることはありませんし、残された方の悲しみが完全に癒えることもありません。しかし、少しでも悲しみが軽くなるお手伝いができないかと、わたしは心を込めて、ときには涙を流しながら同書を書きました。


サンデー毎日」2017年3月19日号

 

のこされた あなたへ』で、わたしが一番言いたかったことは何か。それは、残された人は、亡くなった愛する人に必ず再会できるということ。死別はたしかに辛く悲しい体験ですが、その別れは永遠のものではありません。残された人は、また亡くなった人に会えるのです。
風や光や雨や雪や星として会える。
夢で会える。
あの世で会える。
生まれ変わって会える。
そして、月で会える。
世の中には、いろんな信仰があり、いろんな物語がある。しかし、いずれにしても、必ず再会できるのです。
ですから、死別というのは時間差で旅行に出かけるようなものなのです。先に行く人は「では、お先に」と言い、後から行く人は「後から行くから、待っててね」と声をかけるのです。ただ、それだけのことなのです。


石巻の教会の上空に上る月

 

考えてみれば、本当に不思議なことなのですが、世界中の言語における別れの挨拶に「また会いましょう」という再会の約束が込められています。日本語の「じゃあね」、中国語の「再見」もそうです。英語の「See you again」もそうです。フランス語やドイツ語やその他の国の言葉でも同様です。
これは、一体どういうことでしょうか?
世界中に住む昔の人間たちは、辛く、さびしい別れに直面するにあたって、再会の希望をもつことでそれに耐えてきたのかもしれません。
でも、こういう見方もできないでしょうか?
二度と会えないという本当の別れなど存在せず、必ずまた再会できるという真理を人類は無意識のうちに知っていたのだと。その無意識が、世界中の別れの挨拶に再会の約束を重ねさせたのだと。そう、別れても、わたしたちは必ず再会できるのです。
「また会えるから」という言葉を合言葉に、愛する人との再会の日を楽しみに、残された方々には生きていただきたいと心から願っています。


石巻の海に上る月

 

言うまでもなく、これからも人間は死に続けます。
多くの地震津波や台風で、そしてテロや戦争で、世界中の多くの人命が失われることでしょう。また、天災や人災でなくとも、病気や事故などで多くの方々がこの世を続々と卒業されていくでしょう。
愛する人と死に別れることは人間の最大の試練です。しかし、試練の先には再会というご褒美が待っています。
けっして、絶望することはありません。
けっして、あせる必要もありません。
なぜなら、最後には、また会えるのですから。

 

どうしても悲しくて、辛いときは、どうか夜空の月を見上げて下さい。そこには、あなたの愛する人の面影が浮かんでいるはずです。愛する人は、あなたとの再会を楽しみに、気長に待ってくれることでしょう。東日本大震災から10年、多くの死者たちに支えられて、わたしたちは生きていきます。そう、わたしたちは、これからも生きていくのです。ブッダは、満月の夜にあらゆる生きとし生けるものの幸せを願って「慈経」を説きました。幸せであれ 平穏であれ 安らかであれ。

f:id:shins2m:20190311092317j:plainサンレー本社朝礼での黙祷のようす(2019年)

f:id:shins2m:20210311153257j:plainサンレー本社朝礼での黙祷のようす(2020年)

 

毎年3月11日、サンレー本社の朝礼では、東日本大震災の犠牲者の方々の御冥福を祈念して、黙祷が行われます。総務部の國行部長の進行で、全社員が鎮魂の祈りを捧げるのですが、昨年は新型コロナウィルスの感染拡大防止のために控えることにしました。大震災の発生時間である午後2時46分に、それぞれの社員が各自で黙祷を行います。

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封印されていた名曲「TSUNAMI」

 

あれから、もう11年も経ったとは驚くばかりです。今日、3月11日に日付が変わった瞬間、わたしは、サザンオールスターズの「TSUNAMI」を聴きました。一時は津波の被害を連想させるタイトルからタブー視された曲です。20世紀の日本音楽界の最大のヒット作品でありながら、3・11以降はテレビでもラジオでも一切流されませんでした。しかし、わたしは逆に「TSUNAMI」こそは津波で亡くなられた方々のための鎮魂の歌であり、遺された方々のためのグリーフケア・ソングと思えてなりません。この歌が封印されていた間も、わたしはずっとカラオケで歌い続けていました。

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中日新聞」より

 

昨年2月26日の「中日新聞」の配信記事に、フリーアナウンサーの大和田新さんの「TSUNAMI」に関するエピソードが紹介されていました。大和田新さんは2017年12月、担当するラジオ福島の番組で東日本大震災後初めて、「TSUNAMI」をオンエアしたそうです。「被災者につらい過去を思い起こさせてしまうのではないか」と悩む大和田さんの背中を押したのは、放送を望む遺族でした。この名曲は「津波」そのものを歌った曲ではありませんが、未曾有の大災害から10年が経ち記憶が風化されつつある状況で、あの津波を忘れないこと、震災を忘れないこと、今もなお苦しみ続けておられる被災者の方々が一歩前へ進むための曲として理解されるといいですね。深いグリーフを抱えた方々に、あの歌の歌詞のように「深い闇に夜明けが来る」ことを心から願っています。

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深い闇に夜明けが来る・・・・・・

 

鎮魂のTSUNAMI
 歌へば光射す 
  深い闇にも
   夜明け来れり(庸軒)

 

2022年3月11日 一条真也