『LIFESPAN』

LIFESPAN(ライフスパン)―老いなき世界

 

一条真也です。
2月23日は「天皇誕生日」ですね。
今上陛下の61歳のお誕生日を心よりお祝いするとともに、いつまでもお元気であられることを願っています。
『LIFESPAN: 老いなき世界』デビッド・A・シンクレア&マシュー・D・ラプラント著、梶山あゆみ訳(東洋経済)を読みました。「年齢の壁は消えてなくなる」ことを謳った話題の書で、興味深い内容でした。


著者のデビッド・A・シンクレアは、世界的に有名な科学者、起業家。老化の原因と若返りの方法に関する研究で知られます。とくに、サーチュイン遺伝子レスベラトロール、NADの前駆体など、老化を遅らせる遺伝子や低分子の研究で注目を浴びています。ハーバード大学医学大学院で、遺伝学の教授として終身在職権を得ており、同大学院のブラヴァトニク研究所に所属。他にも、ハーバード大学ポール・F・グレン老化生物学研究センターの共同所長、ニューサウスウェールズ大学(オーストラリア・シドニー)の兼任教授および老化研究室責任者、ならびにシドニー大学名誉教授を務めています。また、マシュー・D・ラプラントは、ユタ州立大学で報道記事ライティングを専門とする準教授。ジャーナリスト、ラジオ番組司会者、作家、共著者としても活躍しています。

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本書の帯

 

本書の帯には「人類は、老いない身体を手に入れる」と大書され、「ついに、最先端科学とテクノロジーが老化のメカニズムを解明」「ハーバード大学の世界的権威が描く衝撃の未来」「世界20か国で刊行!」「ニューヨーク・タイムズ・ベストセラー!」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、「誰もが人生120年時代を若く生きられる!」と大書され、「人類の若さを左右する長寿遺伝子とは?」「いつまでも若く健康でいるために今すぐできることとは?」「山中伸弥教授の発見が、なぜ若返りを可能にするのか?」「『病なき老い、老いなき世界』における人生戦略とは?」と書かれています。

 

カバー前そでには、「生命は老いるようにはできていない」「老化は治療できる病である」「もはや老いを恐れることはない」「『老化の情報理論』が導く長寿革命が、私たちの世界観や人生観を一変させる!」と書かれています。

LIFESPANが明かす、「5つの衝撃ポイント」

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さらに、アマゾンの「内容紹介」では、【人類が迎える衝撃の未来!】として、「人生100年時代とも言われるように、人類はかつてないほど長生きするようになった。だが、より良く生きるようになったかといえば、そうとはいえない。私たちは不自由な体を抱え、さまざまな病気に苦しめられながら晩年を過ごし、死んでいく。だが、もし若く健康でいられる時期を長くできたらどうだろうか? いくつになっても、若い体や心のままで生きることができて、刻々と過ぎる時間を気に病まずに、何度でも再挑戦できるとしたら、あなたの人生はどう変わるだろうか?」と書かれています。

 

続けて「内容紹介」には、こう書かれています。
ハーバード大学医学大学院で遺伝学の教授を務め、長寿研究の第一人者である著者は、そのような世界がすぐそこまで迫っていることを示す。本書で著者は、なぜ老化という現象が生物に備わったのかを、『老化の情報理論』で説明し、なぜ、どのようにして老化を治療すべきなのかを、最先端の科学的知見をもとに鮮やかに提示してみせる。私たちは寿命を延ばすとともに、元気でいられる期間を長くすることもできる。老化遺伝子が存在しないように、老化は避けて通れないと定めた生物学の法則など存在しないのだ。生活習慣を変えることで長寿遺伝子を働かせたり、長寿効果をもたらす薬を摂取することで老化を遅らせ、さらには山中伸弥教授が突き止めた老化のリセット・スイッチを利用して、若返ることさえも可能となるだろう」

 

さらに続けて、「では、健康寿命が延びた世界を、私たちはどう生きるべきなのだろうか。著者によれば、寿命が延びても、人口は急激に増加しない。また、人口が増加しても、科学技術の発達によって、人類は地球環境を破壊せずに、さらなる発展を目指すことができるという。いつまでも若く健康で生きられれば、年齢という壁は消えてなくなる。孫の孫にも会える時代となれば、私たちは次の世代により責任を感じることになる。変えられない未来などない。私たちは今、革命(レボリューション)の幕開けだけでなく、人類の新たな進化(エボリューション)の始まりを目撃しようとしているのだ」と書かれているのでした。

 

アマゾンには、「世界を代表する、知識人が大絶賛!」として、「鋭い洞察に満ちた刺激的な書。 広く深く読まれるべき傑作だ」・・・シッダールタ・ムカジー(科学者・ピュリッツァー賞受賞作家)、「知的好奇心を掻き立ててやまない一冊。 じつに興味深い洞察を提供してくれる」・・・アンドリュー・スコット(ロンドンビジネススクール教授『ライフシフト』著者)、「衝撃を受ける覚悟をせよ。デビッド・シンクレア博士は、 老化・長寿研究界のロックスターだ」・・・デイヴ・アスプリー(『シリコンバレー式 自分を変える最強の食事』著者)といった讃辞が紹介されています。



本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに
 ――いつまでも若々しくありたいという願い」
第1部 私たちは何を知っているのか(過去)
第1章 老化の唯一の原因――原初のサバイバル回路
第2章 弾き方を忘れたピアニスト
第3章 万人を蝕む見えざる病気
第2部 私たちは何かを学びつつあるのか(現在)
第4章 あなたの長寿遺伝子を今すぐ働かせる方法
第5章 老化を治療する薬
第6章 若く健康な未来への躍進
第7章 医療におけるイノベーション
第3部 私たちはどこへ行くのか(未来)
第8章 未来の世界はこうなる
第9章 私たちが築くべき未来
「おわりに――世界を変える勇気をもとう」
「謝辞」
「原註」
「シンクレアの利害関係情報開示」
「大きさの比較」
「登場人物紹介」
「用語集」
「索引」



「はじめに――いつまでも若々しくありたいという願い」では、「死を迎えるということ」として、「高齢になるなど、読者にはまだ先の話のような気がするかもしれない。だが、私たちの誰もがいつかは人生の終わりを迎える。最後の息を吸ったあと、全身の細胞は酸素を求めて泣き叫び、毒素が蓄積し、化学エネルギーが使い尽くされて、細胞の構造が崩れていく。ものの数分で、私たちの大切にしてきた教育のすべて、知恵のすべて、記憶のすべてが、そして未来の可能性のすべてが消え去り、それは二度と元に戻らない」と書かれています。



また、「死をつぶさに眺め続けたという意味で、フランスの映画監督クロード・ランズマンの右に出る者はまずないだろう」として、彼の代表作であるホロコーストを題材にした長編ドキュメンタリー映画『ショア』が紹介されています。ランズマンの見る(「警告する」といってもいい)死は、背筋を寒くするものですが、彼は2010年に「死とはことごとく暴力的なものである。自然な死などというものはない。眠っているあいだに愛する者たちに囲まれながら父親が静かに息を引き取る――そういう光景を思い描きたいかもしれないが、そんな死に方があるとは思わない」と語っています。

 

「私たちはすでに長く生きすぎているのか」として、1000年また1000年と歴史を刻む過程で、人間の平均寿命は確かに少しずつ延びてきたことが指摘され、「それは懐疑派も認める。かつては私たちの大半が40歳まで生きられなかったのに、それができるようになった。50歳にも達しなかったのが、届くようになった。ほとんどが60歳を見ずに人生を終えていたのに、60の声を聞けるようになった。この理由としては、安定した食料ときれいな水を利用できる人の数が増えたことが大きい」と書かれています。

 

また、平均値は上から引っ張られたというより、主に下から押し上げられたことが指摘されます。つまり、乳幼児のうちに命を落とす者が減ったために全体の寿命が長くなったのであり、単純な算数です。しかし、平均寿命が上昇を続ける一方で、最大寿命のほうはそうなっていません。記録をひもとけば、100歳に達した人はいますし、それより何年か長く生きた人もいました。でも、110歳に届く人はごくわずかしかおらず、115歳を迎える人となると限りなくゼロに近いのです。

 

第1部「私たちは何を知っているのか(過去)」の第1章「老化の唯一の原因――原初のサバイバル回路」の「老化の原因に注目すべき理由」では、「今現在の老化研究は、1960年代のがん研究と似たような段階にある。老化がどのようなもので、私たちにどんな影響を及ぼすものなのかについては、すでに十分な理解がある。しかも、老化の原因は何か、どうすればそれを食い止められるのかについても、研究者のあいだで意見の一致を見つつある。この様子で行くと、老化を治療するのはそれほど難しくなさそうだ。少なくとも、がんを治癒させるよりはるかに簡単なはずである」と書かれています。

 

 

また、「なぜ生物には寿命があるのか」では、「20世紀の前半までは、生物は老いて死ぬのが『種のため』だとする見方が一般的だった。この考え方はアリストテレスにまで遡る(それより古くはないにせよ)。一見すると正しいように思えるし、人が集まってこの話題になればそういう説明をよく聞く。だがこれは完全な間違いだ。私たちが命を終えるのは、次の世代に道を譲るためなどではない」と書かれています。

 

ヒトは、進化から不運なカードを配られました。手足はか細く、寒さに弱く、嗅覚は劣り、眼は明るい昼間に可視光線しか捉えられません。にもかかわらず、比較的大きな脳を活用して文明を発達させ、その不利な条件をはねのけてきたのです。本書には、「じつに風変わりな生物であり、今も次々と新しい工夫を編み出している。すでに豊富な食料と栄養と水を確保し、捕食者や厳しい気候や、感染症や戦争による死を減らしてきた。こうした要因はどれも、かつては長い寿命を獲得するうえでの足かせとなっていたものである」と書かれています。

 

そのマイナス要因が取り除かれたのですから、あと数百万年もすればヒトの寿命は2倍になり、長寿番付の上位を占める生物の寿命に近づいてもおかしくはありません。だが、この生物はそんな悠長なことをしなくていい。各段に短い時間で済むとして、「なぜなら、新しい医薬品やテクノロジーを生むことに精を出し、それで補うことによって、はるかに長命な生物がもつ頑丈さを手に入れつつあるからだ。進化から与えられた短所を文字通り克服しようとしているのである」と述べます。



「老化を説明する統合理論の確立に向けた努力」では、ウィルバーとオーヴィルのライト兄弟が空飛ぶ機械を組み立てられたのは、気流や気圧や風洞についての知識をもっていたからだったとして、「アメリカが人類を月に送り込んだ快挙も、冶金や液体燃焼やコンピュータについて理解していたからだし、月がチーズでできているわけではないという確信がそれなりにあったからでもある。そうでなければ、とうてい実現は不可能だったろう。同じように、老化に伴う苦しみを軽減しようとするなら、そして実のある成果をあげたいなら、そもそもどうして年をとるのかを説明できる統合理論が必要だ。たんに進化の見地からだけではなく、根本的なレベルで理由を語れるような理論が」と書かれています。



「私の考える『老化の情報理論』――老化とはエピゲノム情報の喪失である」の冒頭には「ごく単純にいえば、老化とは情報の喪失にほかならない」と明言され、DNAはデジタル方式なので、情報の保存やコピーを確実に行なうことができるとして、「途方もない正確さで情報を繰り返し複製できる点においては、コンピュータメモリやDVD上のデジタル情報と基本的に変わらない。DNAはじつに頑丈な物質でもある。私が初めて研究室で働き始めたとき、沸騰した湯の中に数時間入れられてもこの『生命の分子』が壊れないことに衝撃を受け、少なくとも4万年前のネアンデルタール人の死骸からもこの分子を取り出せると知って興奮したものだ。情報を格納するための生体分子として、鎖状につながった核酸が過去40億年ものあいだ選ばれてきたのは、デジタル情報の保存に適した長所をもっていたからである」と書かれています。



しかし、体内にはもう1種類の情報が存在します。こちらはアナログ情報だとして、「生体のアナログ情報について私たちが耳にすることは少ない。これが比較的新しい研究分野だからという理由もあるし、情報の観点から説明されることが滅多にないからでもある。しかし、当初は紛れもなく情報として捉えられていた。このアナログ情報が注目されるようになったのは、遺伝学者が植物を繁殖させていたときに、DNAの遺伝情報によらない奇妙な変化に気づいたからである。今日、このアナログ情報は『エピゲノム』と総称されるのが一般的である。これは、親から子へと受け継がれる特徴のうち、DNAの文字配列そのものが関わっていないものを指す。DNAによらないこうした遺伝の仕組みを『エピジェネティクス』と呼ぶ」と書かれています。

 

また、ゲノムがコンピュータだとするなら、エピゲノムはソフトウェアだといえるとして、「分裂したばかりの細胞に対して、どんな種類の細胞になればいいのかを教えるのだ。しかもその細胞に対し、場合によっては(脳細胞やある種の免疫細胞などのように)何10年も同じ種類であり続けるよう指示をしている。この指示があるおかげで、脳細胞がある日いきなり皮膚細胞のようにふるまうこともなければ、1個の腎細胞が分裂して2個の肝細胞を生み出すこともない。エピゲノムの情報がなかったら、細胞はすぐに自らのアイデンティティを失い、新しく生まれる細胞もアイデンティティを喪失する。そうなれば、組織や臓器はしだいにうまく機能しなくなって、ついには働きを停止する」と書かれています。

 

第3章「万人を蝕む見えざる病気」の「老化を死因と認めない社会」では、「死と老化の結びつきがあまりに強いため、前者が不可避であることが後者に対する考え方を縛るようになった。17世紀、ヨーロッパの諸地域で死亡証明書が初めて公的に管理されるようになった頃、『老化』は立派な死因の1つだった。『老衰』や『高齢による衰弱』が、死因としてごく普通に受け入れられていたのである。17世紀に『死亡表に関する自然的および政治的諸観察』(栗田出版会)を書いたイギリスの人口統計学者ジョン・グラントによれば、『恐怖』『悲嘆』『嘔』も死因の仲間に入っていたという」と書かれています。

 

時代が下るにつれて、わたしたちは高齢であることを死の原因とはしなくなっていきました。今や「年をとった」せいで亡くなる者などいないとして、本書には「過去100年のあいだに西洋の医学界では、『老化』より直接的な死因がかならずあると考えるようになった。それだけではない。死因を特定することが至上命令だと信じるに至ったのだ。それが証拠に、ここ数10年の私たちは、まるで憑かれたかのような細かさで死因を分類している」と書かれています。

 

「加齢と『人間の死亡率の法則』」では、1825年、イギリスの保険数理士で王立協会のフェロー(メンバーのこと)でもあった博学のベンジャミン・ゴンパーツは、自ら編み出した「人間の死亡率の法則」に基づいて命の上限を説明しようとしたことが紹介され、「この法則は、老化を数学の切り口から表現したものといえる」と書かれています。ゴンパーツは、「死というものは、おおむね並び立つ2つの原因によってもたらされていると考えられる。1つは偶然であり、死や衰えへと向かう傾向が前もって見られなかった場合にあたる。もう1つは衰えであり、言葉を換えれば、破壊に耐える能力がしだいに失われることといえる」と記しました。

 

「高齢になればなるほど怪我や病気からの回復が遅れる」では、高齢になればなるほど、怪我や病気によって死へと追いやられる時間は短くなっていくことが嘆かれます。わたしたちはしだいに崖の縁へ縁へと押されていき、ついにはそよ風が吹いただけでも向こう側へ送られるとして、「体が衰えるとはまさしくそういうことだ。それと同じことをする病気があれば、肝炎であれ腎臓病であれ、あるいはメラノーマであれ、世界で最も致死性の高い疾患のリストに載るだろう。なのに科学者は、私たちの身に起きることを『回復力の低下』で片づける。私たちのほうもおおむねそれを、人間である以上仕方のないこととして受け入れている。人間にとって、老化する以上に危険なことなどない。にもかかわらず、私たちはそれが猛威を振るうに任せ、もっと健康になろうと別の方向を見て闘っているのだ」と書かれています。

 

高齢者医療 メルクマニュアル
 

 

「老化を病気と認めれば老化との闘いには勝利できる」では、「老化は身体の衰えをもたらす。老化は生活の質を制限する。老化は特定の病的異常を伴う。これだけの特徴をすべて備えているのだから、1個の病気と呼ぶための基準に残らず合致しているかに思える。ところが、1つだけ満たしていない条件がある。影響を受ける人の数が多すぎるのだ」と書かれています。『高齢者医療メルクマニュアル』(メディカルブックサービス)によると、病気とは、人口の半数未満がこうむる不調のことをいうそうですが、当然ながら老化は誰にでも訪れます。

 

では、このマニュアルは老化をどう表現しているのでしょうか。いわく、「外傷、疾病、環境リスク、あるいは不健康な生活習慣の選択といった要因が存在しなくても、時とともに臓器の機能が不可避的かつ不可逆的に低下すること」です。それが老化なのだとして、「老化は1個の病気である。私はそう確信している。その病気は治療可能であり、私たちが生きているあいだに治せるようになると信じている。そうなれば、人間の健康に対する私たちの見方は根底からくつがえるだろう」と書かれています。

 

そして、「『老化の情報理論』から始まる老化との闘い」では、老化を病気と呼ぶのは、健康や幸福に関する一般的な見方から大きく逸脱することを意味するとしながらも、「これまでは旧来の見方を根本に据えて、致死性の疾患に対する様々な治療法が確立されてきた。しかし、そもそもそんな枠組みになったのは、老化の原因が突き止められていなかったからという理由が大きい。だからつい最近になるまで、私たちの武器は『老化の典型的特徴』を並べたリストがせいぜいだった。『老化の情報理論』ならこの状況を変えることができる」と書かれています。

 

第2部「私たちは何かを学びつつあるのか(現在)」の第4章「あなたの長寿遺伝子を今すぐ働かせる方法」の「間違いなく確実な方法――食べる量を減らせ」では、「私は約25年にわたって老化を研究し、何千本という科学論文を読んできた。そんな私にできるアドバイスが1つあるとすれば、『食事の量や回数を減らせ』である。長く健康を保ち、寿命を最大限に延ばしたいなら、それが今すぐ実行できて、しかも確実な方法だ。もちろん、こうしたことが唱えられるのは今に始まったことではない。古代ギリシャの医師だったヒポクラテス以来、医師たちは食べる量を制限することがいかに有益かを説いてきた。それも、キリスト教の『七つの大罪』にある『貪食』を慎むだけでなく、『意図的な禁欲』によって量を抑えるのである」と書かれています。



第5章「老化を治療する薬」の冒頭は、「人間が空を飛ぶという夢は、20世紀の初めになって急に現われたものではない。それと同じで、人間の寿命を長くしたいという夢も、21世紀の初めになって急に湧いて出てきたわけではない。何事も『初めに科学ありき』ではないのだ。『初めに物語ありき』である。ウルクの都を126年間統治したとされるシュメール王のギルガメシュから、ノアの大洪水以前に969年生きたと伝えられる族長メトシェラまで、人間の聖なる物語からは、私たちが心の底から長寿に魅せられてきたことがわかる。とはいえ、それらはあくまで神話や寓話の世界だ。それを除けば、100歳をゆうに超えるまで寿命を延ばす人がいたという科学的証拠は無きに等しかった。そもそも生命の仕組みに関する深い知識がないわけだから、寿命を延長できる見込みなどまずなかったわけである。しかし今では、研究仲間や私自身によって、まだ不完全ながらもその知識がついに手に入ったと確信している」と書かれています。



また、「死は必然であるとする法則はない」では、生命を研究することで、かなり重要な点も明らかになっているとして、ノーベル賞も受賞した著名な物理学者リチャード・ファインマンが「生体のふるまいを調べても、死が避けがたいことを示すものはまだ何1つ見つかっていない。だとすれば死とは少しも必然ではなく、この厄介事の原因を生物学者が発見するのも時間の問題と思われる」と述べたことが紹介されます。これは正しいとして、「生命に終わりが訪れなければならないような法則は、生物学的、化学的、あるいは物理学的に調べても見当たらないのである。確かに、エピゲノムの情報が失われて無秩序へと至るわけだから、老化はエントロピーの増大といえなくもない。しかし、エントロピーが増大するのは、外部の環境と切り離された『閉じた系』の場合だ。生物は閉じた系ではない。必要不可欠な生体情報を保存でき、宇宙のどこかからエネルギーを取り込める限り、生命は永遠に存続する可能性を秘めている」と書かれています。

 

第6章「若く健康な未来への躍進」の「問題が何かを理解すれば、老化と闘うのはがんと闘うよりやさしい」では、「老化は変えられないものであり、仮に変えられるとしても一筋縄ではいかないに違いない」がわたしたちのこれまでの考えだった(そもそも老化について考えることがあればの話だが)として、「確かに、人類の歴史が始まって以来、老化は季節の移り変わりと同じものとして捉えられてきた。春から夏へ、次いで秋へ、そして冬へと向かう季節の移ろいは、幼年期から青年期へ、次いで中年期へ、そして『老後』へという、人生の段階を表わすたとえとして広く用いられていた。すると、20世紀の後半になって新しい発想が生まれる。老化は避けて通れないにしても、老後を不快にする病気の一部に対してなら手を打てるかもしれないとみなされるようになったのだ」と書かれています。

 

第7章「医療におけるイノベーション」の「新しいオーダーメードのがん治療法」では、「希望は私たちすべてにある。人間は男女を問わず、115歳より長く生きられるのを私たちは知っている。過去にはいたし、これからだって現われる。たとえ100歳の誕生日までにしか届かないにしても、80代と90代を素晴らしい時代だったと振り返れる人生を送るのは夢ではない。そこまで行く人の数を増やすには、新しい治療法やテクノロジーのコストを下げることが重要だ。また、けっして患者本人を置き去りにしないようなやり方で、それらを利用することも大切である。ただし、新しいテクノロジーは、何か問題が起きたときに診断を下すためだけにあるのではない。そもそも不調が生じる前の段階で、各人が自分のために何ができるかを知る手段ともなるのだ」と書かれています。

 

「パーソナル・バイオセンサーの時代へ」では、「この文章を書いている今、私は平均的な大きさのリングを指に嵌めていて、これで心拍数や体温、それから体の動きをモニターしている。毎朝目覚めると、よく眠れたかどうか、どれくらい夢を見たか、日中はどれくらい冴えた頭でいられるかをこのリングが教えてくれるのだ。こうしたテクノロジーはけっして目新しいものではなく、バットマンブルース・ウェインや007のジェームズ・ボンドなども使っていた。それが今や数百ドルで手に入り、誰でもネット経由で注文できる」と述べます。

 

小さいアクセサリーであっても、皮膚を刺すものなら何1000種類ものバイオマーカーを追跡できますし、そうしていけない理由など見当たりません。それを身につけて家族全員の数値を測定するとして、「祖父母も両親も、子どもたちもだ。赤ん坊や4本足の家族にもモニターを装着してやる。なぜなら、自分の気持ちを最も伝えられないのが彼らだからだ。いずれは、こうしたモニタリング装置なしに暮らしたいと思う人がほとんどいなくなるんじゃないだろうか。スマートフォンが手放せないように、センサーなしでは家を出たくなくなる。次世代のセンサーは無害な皮膚パッチ型になり、やがては皮膚下に埋め込むインプラント型が主流になるだろう。未来のセンサーはただたんに血糖値を測定するだけではない。基本的なバイタルサインや血中酸素量、ビタミンのバランス、さらには何1000種類もの化学物質やホルモンも監視・追跡するようになる」と述べます。



「『バイオクラウド』データとDNA解析を使って感染症の世界的大流行(パンデミック)を阻止する」では、1918年、「スペイン風邪」と呼ばれたインフルエンザが世界規模で大流行したことに言及し、「当時はまだ、現代のように超高速の複雑な交通網がいっさい発達していない時代である。にもかかわらず、アメリカに端を発したともいわれるこのインフルエンザの流行は、伝染病による死者の絶対数で史上最悪の記録を打ち立てた」と書かれています。



航空機時代は幕をあけたばかりであり、ほとんどの人は自動車にすら乗ったことがありませんでした。それなのに、H1N1ウイルスは最辺境の地にまで入り込み、離島や北極圏の村々をも襲ったのです。人種も国境も関係がなく、まさに新たなペストのように人々の命を奪っていったとして、「アメリカの平均寿命は55歳から40歳に落ち込んだ。最終的には元に戻ったものの、それまでには全世界のあらゆる年代で合計1億人以上の命が絶たれた。こうした世界的大流行は再び起きてもおかしくない。100年前と比べると人との接触も動物との接触も増え、地球の各地が密につながっている。それを思うと、感染症が簡単に広がるお膳立ては整っているといっていい」と書かれています。


次なるパンデミックを絶対に起こさないようにすることが、バイオトラッキング革命最大の贈り物となるかもしれないとして、本書には「もちろん個人のレベルで見ても、バイタルサインや体内の化学物質をリアルタイムでモニターすれば途方もないメリットが手に入る。健康状態を最大限に高めて、緊急事態を防ぐ助けになるだろう。だが、集団のレベルで効果を発揮させれば、パンデミックの先手を打つことができるのだ。ウェアラブル機器のおかげで、1億人以上の体温や脈拍などの生態指標をリアルタイムで把握することが、すでに技術的に可能になっている。必要性が認識されさえすれば、そして文化に根差した抵抗感が払拭されさえすれば、実際にその段階まで行くのは不可能ではない」と書かれています。本書が書かれた当時は、まだ新型コロナウイルス(COVID-19)の感染は見られなかったことを思うと、著者の先見性には驚きます。



2017年の「ミュンヘン安全保障会議」の場で、マイクロソフト社のビル・ゲイツは、「自然の気まぐれで発生するのであれ、テロリストの手でばらまかれるのであれ、空気中を高速で移動する病原体は1年足らずで3000万人もの命を奪える。それが疫学者たちの見解です。そして、世界が今後10年から15年のうちにそうした大流行を経験する確率は、けっして低くはないと研究者は指摘しています」」と、聴衆に語りかけました。その予見力には感嘆するばかりです。実際にパンデミックが起きたら、3000万人というのは相当に控えめな見積もりかもしれないとして、今や、私たちの輸送ネットワークは到達範囲とスピードを拡大し続けている。世界を旅する人の数も、その行き先も移動速度も、すでに先祖たちには想像もつかなかったレベルに達した」と書かれています。



それとともに、ありとあらゆる病原体もまた、かつてないほどの速さで移動しています。しかし、正しいデータが正しい人の手に渡れば、私たちもかつてないほど迅速な行動をとることが可能だといいます。特に、大量の「バイオクラウド」データと、超高速のDNA解析を組み合わせれば、病原体が主要輸送ルートを通って都市から都市へと広がっていくのを検知できるとして、「それがわかったら、殺人病原体の先回りをして緊急移動制限措置を発動したり、医療資源を配備したりすればいい。病原体との闘いでは1分1秒が物をいう。何の手も講じないままに1分が過ぎれば、そのツケは人の命となって跳ね返ってくる」と書かれています。



「革新の時代はかならずやってくる」では、わたしたちは自分で思っている以上に、物の見方を変えるのが得意だとして、「人生から何を期待するかや、年齢とはそもそもどういう意味なのかについてもそうである。たとえばトム・クルーズのことを考えてみてほしい。あの『トップガン』俳優は、50代後半に入った今も第一線で活躍している。筋肉は盛り上がり、額にはほとんどしわがなく、まっすぐな生え際から黒い髪がふさふさと生えている。ただ演技をするだけではない。長らく若い役者の領分とみなされてきたような役にも扮してみせるし、危険なスタントもたいていは自分でこなす。猛スピードのバイクで路地を駆け抜けたかと思えば、離陸する飛行機にしがみつき、世界一高いビルの屋上からぶら下がりもすれば、大気圏の上層部からスカイダイビングもする」と書かれています。



最近では「今の50歳は30歳と同じ」という言葉をよく口にする人々が多いとして、「50を過ぎた人生はどうあるべきかというかつての見方を、私たちは忘れているのだ。それも、何100年も前の話ではなく、ほんの数10年前のことだというのに」と一昔前の50過ぎは、飛行機から飛び降りるトム・クルーズのようではなかった。その姿はまさにウィルフォード・ブリムリーだった。ブリムリーは1993年の映画『ザ・ファーム 法律事務所』でクルーズと共演した俳優である。当時、クルーズが30歳だったのに対し、ブリムリーは58歳。すでに白髪の生えた老人であり、セイウチのようなひげを生やしていた」と書かれています。



その数年前、ブリムリーは『コクーン』という作品に出演しました。高齢者グループがエイリアンの「若返りの泉」を見つけ、そこから若々しいエネルギーを(若々しい外見を、ではなかったが)もらうという物語です。本書には、「年寄りが10代の若者のように走り回る姿は、大いに観客の笑いを誘ったものだ。あれほどの高齢者がそんな若々しいふるまいをするのは、恥ずかしいと当時は考えられていた。しかし、映画が公開されたとき、ブリムリーは今のトム・クルーズより7歳くらい若かったのである。『ニューヨーカー』誌のイアン・クラウチの言葉を借りるなら、クルーズはやすやすと「ブリムリーの壁」を打ち破ったのだ」と書かれています。

 

第3部「私たちはどこへ行くのか(未来)」の第8章「未来の世界はこうなる」の「科学技術は想像を超える速さで進歩する」では、実際に医療革命が起き、これまでと同様のペースで寿命が一直線に延びていくとしたら、日本で今日生まれた子どもの半数は107歳以上生きるとの推計があるとして、「アメリカの場合は104歳以上だ。その種の見積もりは甘すぎると、眉をひそめる研究者は多い。だが、私はそうは思わない。むしろ控えめすぎる数字ではないだろうか。とりわけ有望な療法や治療法がほんのいくつか実現するだけでも、今の時点で何の病気もなければ誰でも健康な状態で100歳を迎えられる。しかも、現在の50歳並みの活動レベルで。そう期待しても1つも無謀ではないと、私はかねてから発言してきた。今のところは120歳が寿命の上限とされているが、それが例外的な人のための年齢だと考える理由はどこにもない」と書かれています。



さらに、「来たるべき革新をいち早く知る立場にある者として、これだけははっきりといっておく。私たちが生きているあいだに、世界で初めて150歳の声を聞く人が現われても少しもおかしくはないのだと。細胞のリプログラミングが真価を発揮すれば、今世紀末までに150歳は手の届く年齢になっている可能性があるのだ。この文章を書いている時点で120歳を超えている人は(少なくともそう証明されている人は)、地球上に1人もいない〔訳注 2020年5月時点での世界最高齢は日本人女性の田中カ子さんで117歳〕。だから、私が正しいかどうかを確かめるには最低でも数10年かかる。ことによると、あと150年待たなければならないかもしれない」と書かれています。田中カ子さんは福岡県福岡市東区在住ですが、2021年1月2日、118歳の誕生日を迎えられました。



「かつてないほど広がる格差」では、1997年のSF映画『ガタカ』が予言した世界へと、すでに私たちは不確かな一歩を踏み出しているといいます。「つまり、もともとは人の生殖を助けるための技術が、『不利な条件』を排除するために使用される社会へ、だ。ただし、その道は金銭に余裕のある者だけに開かれている。安全上の問題が生じたり、未知のものに対する反発が世界中で起きたりしない限り、この先数10年で遺伝子編集の技術はさらに進歩し、おそらくは世界中で受け入れられていくだろう。そうなれば世の親には選択肢が与えられる。生まれてくる子のゲノムを編集するのだ。そうすれば、病気へのかかりやすさを減らすことも、特定の身体的特徴を選ぶことも、さらには知的能力や運動能力を高めることまでできるようになる」と書かれています。



また、本書には「『ガタカ』のなかで医師がカップルに向かって話すように、子どもに『できる限りいいスタート』を切らせてやりたいなら、金さえあればその願いは叶う。長寿遺伝子を操作することで、『できる限りいいエンディング』を迎えさせてやるのも夢ではない。遺伝子強化を受ける人間はただでさえ数々のメリットを得ることになる。おまけに、長寿薬や臓器移植や、現時点では想像もつかないような療法を利用できる財力があるわけだから、そのメリットは何倍にも膨れ上がっていく」と書かれています。まさに、SF映画の先を行く時代をわたしたちは生きているのです。



「高齢者が活躍できる社会へ」では、「古の文化では、高齢者が知恵袋として尊ばれていた。それはそうだ。文字もない、ましてやデジタル情報などあろうはずもない時代には、古老たちだけが知識の源泉だったからである。それが短期間で大きく変わるきっかけをつくったのが、15世紀ドイツの金細工師ヨハネス・グーテンベルクだ。活版印刷を発明し、それが『印刷革命』をもたらしたのである。その後、19世紀から20世紀にかけて『教育革命』が起こり、情報が入手しやすくなったのに呼応して識字率が向上する。長く伝えられてきた情報を得るのに、もはや長老たちばかりに頼らなくてもよくなった。高齢者は、かつては社会が適切に機能するために欠かせない財産とみなされていたのに、しだいに厄介者扱いされるようになる」と書かれています。

 

第9章「私たちが築くべき未来」の「なぜ、老化研究に割かれる予算は少ないのか」では、「老化は病気だ。これほどわかりきったことを何度も繰り返さなければならないなんて、ほとんど常軌を逸している。だが、そうするよりほかに手がないので、もう一度声を大にしよう。老化は病気だ。しかも、ただの病気ではない。あらゆる病気の母であり、私たちの誰もがその魔手から逃れられない。あいにく、老化を病気と分類している公的助成機関は世界に1つもない。なぜか? それは、幸運にもある程度長く生きられれば、私たちの全員に降りかかってくるものだからだ。結果的に、健康寿命を延ばすための研究予算はかなり少なく、すでに認められた病気に今なお最も多額の公的資金がつぎ込まれている。この文章を書いているまさに今も、老化は病気とは認定されていない。どこの国でも」と書かれています。

 

「今すぐ国は老化研究に資金を投じるべきだ」では、「老化が病気だということを、慣行のうえでも書類のうえでも最初に規定する国が、未来の方向性を変える。急増しつつある民間からの資金援助に加えて、多額の公的資金をこの分野に振り向ける地域の第1号が、実のある繁栄を手にするだろう。まず恩恵を受けるのは市民だ。医師は、患者が取り返しのつかないほど弱ってしまう前に、ごく普通にメトホルミンのような薬を処方する。雇用が創出され、科学者や医薬品メーカーが大挙してその国に拠点を置く。産業が栄える。国が投じた資金は、大きな利益となって返ってくる。その国の指導者たちは歴史に名を残す。特許を保有する大学や企業は、使い道に困るほどの額を手にするだろう」と書かれています。

人生の修め方』(日本経済新聞出版社

 

「人生の終え方を考える」では、死に方の中で一番多いのが病気になることであるとして、「人生の盛りに病魔に襲われることもある。50歳で心臓疾患に。55歳でがんに。60歳で脳卒中に。65歳で若年性アルツハイマー病に。葬儀の場でよく聞かれるのは、『あまりに早すぎる』という言葉だ。その病気ですぐには命を落とさないにしても、病の度重なる攻撃を退けるために数十年のあいだ苦しみ続けなくてはならない。どうやって死ぬかという問いへの答えがこれでは、あまりにひどすぎる。私たちが必死に(健康寿命を延ばそうとするのと同じくらい必死に)目指すべき答えは、『準備のできたときに、苦痛なく速やかに』だ」と書かれています。ちなみに、わたしは「人生の終え方」とか「終活」という言葉が嫌いなので、「人生の修め方」とか「修活」という言葉を提唱しています。



「自ら尊厳のある死を迎えられるようにする」では、著者のデビッド・A・シンクレアは「私が思うに、健康な状態なしに生だけを引き延ばそうとするのは、断じて許しがたい罪である。この点は重要だ。寿命を延ばせても、同じくらい健康寿命を長くできないのなら意味がない。前者を目指すのなら、後者も実現するのが私たちの道義的な責務である。たいていの人と同じように、私も永遠に生きたいとは思わない。病に苦しむのを少なくして、たくさんの愛に満ちた人生を送れればそれでいいのだ。この分野で研究しているほとんどの人にしても、死をなくすために老化と闘っているわけではない。ただ、健康に生きられる時間をできるだけ長くして、今よりずっといい条件で死を迎えられるようにしたいと考えているだけである。それも、できれば自ら決める条件で。準備のできたときに、苦痛なく速やかに、だ」と述べるのでした。



本書は世界的な大ベストセラーであり、非常に興味深い内容でした。しかしながら、どうしても違和感が残るのは「老い」が悪だという視点が感じられることです。「老い」も「死」もあって、初めて「人生」であり、人間は老いることが避けなれないというより、必要なことであると思うのです。わたしは、社会現象になまでなった『鬼滅の刃』に登場する鬼の祖である鬼舞辻無惨を連想しました。『鬼滅の刃』には、超高齢社会を生きる日本人への大切なメッセージも込められています。ブログ「『鬼滅の刃』最終巻」で紹介したコミックでは、「不死身」を目指す無惨がついに太陽光に滅せられますが、その死に至るまでの悪あがきにはすさまじいものがありました。彼は老いることと死ことを異常に恐れ、「不老不死」を得て、「完全な生物」をめざします。最後は、炭治郎に自身の血を与えて鬼と化します。無惨は炭治郎を「完全な生物」の後継者にしようとするのでした。無惨の「不老不死」「完全な生物」への夢は、部下である鬼たちも共有しています。



ブログ「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」で紹介した映画では、「上弦の鬼」である猗窩座と「炎柱」である煉獄杏寿郎との死闘が描かれます。猗窩座は練り上げられた武と共に、強者に対しての敬意を持ちます。精神も肉体も強靭な煉獄にリスペクトの念を抱いた猗窩座は「お前も鬼にならないか?」「俺はつらい 耐えられない 死んでくれ杏寿郎 若く強いまま」などと言います。彼にとって、人間とは老いて死すべき不完全な存在であり、不老不死である鬼こそが完全な存在なのです。しかし、煉獄は「老いることも死ぬことも人間という儚い生き物の美しさだ。老いるからこそ、死ぬからこそ、堪らなく愛おしく尊いのだ」と言います。このセリフには100%共感し、感動しました。わたしも、人間の醍醐味は「老いる」ことと「死ぬ」ことにあると考えています。また、生物とは「死ぬ」から生物なのであり、死なない生物がいたとしたら、それが「完全な生物」ではなく、逆に「不完全な生物」であると思います。



わたしは、「完全な生物」という夢を見る鬼舞辻無惨から秦の始皇帝を連想しました。始皇帝は古代中国を統一した英雄です。現代中国の力の源泉は、14億という膨大な人口にあります。では、なぜこれほどの人が暮らす広大なエリアを、中国の歴代帝国は何度も統一し支配することができたのか? そのような場所は、人類史上、中国大陸以外に存在しません。答えは初の統一帝国・秦にあります。秦が採用した統治のノウハウが2000年にわたって引き継がれたために、中国は繰り返し統一されたのです。大ヒットした漫画『キングダム』では、秦の真実がエンターテインメントとして見事に描かれています。始皇帝は、度量衡を統一し、「同文」で文字を統一し、「同軌」で戦車の車輪の幅を統一し、郡県制を採用しました。そのうちのどれ1つをとっても、世界史に残る難事業です。始皇帝は、これらの巨大プロジェクトをすべて、しかもきわめて短い期間に1人で成し遂げたわけです。



それほど絶大な権力を手中にした始皇帝でしたが、その人生は決して幸福なものではありませんでした。それどころか、人類史上もっとも不幸な人物ではなかったかとさえ私は思います。なぜか。それは、彼が「老い」と「死」を極度に怖れ続け、その病的なまでの恐怖を心に抱いたまま死んでいったからです。始皇帝ほど、老いることを怖れ、死ぬことを怖れた人間はいません。そのことは世の常識を超越した死後の軍団である「兵馬俑」の存在や、徐福に不老不死の霊薬をさがせたという史実が雄弁に物語っています。いくら権力や金があろうとも、老いて死ぬといった人間にとって不可避の運命を極度に怖れたのでは、心ゆたかな人生とは無縁であります。 

老福論』(成甲書房)

 

逆に言えば、地位や名誉や金銭には恵まれなくとも、老いる覚悟と死ぬ覚悟を持っている人は心ゆたかな人であると言えます。どちらが幸福な人生かといえば、疑いなく後者でしょう。拙著『老福論』(現代書林)にも書きましたが、心ゆたかなに人生を修めるには、万人が「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」を持つことが必要なのです。そのことを兵馬俑をながめながら、考えました。ある意味では、異常なまでに「老い」と「死」を怖れたからこそ、現実的にはあれほどの大事業を遂行するエネルギーが生まれたのかもしれません。始皇帝は天下を統一し、皇帝となりましたが、それまで誰もが使っていた「朕」という言葉を、皇帝以外は使ってはいけないとするなど、皇帝の絶対化を図りました。皇帝の絶対化は国家を運営していく上で必要でしたが、始皇帝は次第に自分を絶対的な存在であると考えるようになったのです。

f:id:shins2m:20210223013929j:plain心ゆたかな社会』(現代書林)

 

天下統一の大事業を成し遂げた自分は、普通の人間ではない、絶対者であるという気になっていったのです。絶対者とは、具体的に言えば、不老不死の人間、つまり神や仙人のような存在です。『史記』に「死を言うを悪む」とありますが、始皇帝は「死ぬ」と言うのを非常に嫌いました。そして、「群臣あえて死の事を言うなし」、家来たちも「死ぬ」というようなことは口にしません。それは禁句になっていたのですが、いくら禁句にしても死は迫ってきます。死から逃げ回った生涯でしたが、とうとう河北省の沙丘というところで死の恐怖にうちまみれながら始皇帝は死んでいったのです。
拙著『心ゆたかな社会』(現代書林)にも書きましたが、わたしたちが心ゆたかに生きるには、「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」を持たなければならないのです。そして、心ゆたかな社会とは、人々が「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」、つまりは死生観を持っている社会であると言えるでしょう。世界的ベストセラーである本書を読んだ後も、超高齢社会を生きる日本人が死生観を持つべきであるという考えは変わりません。

 

 

2021年2月23日 一条真也