『真説・佐山サトル』

真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男


一条真也です。
台風12号の接近で北九州も大雨。わがエリアにも避難勧告が出ました。
それでも、30日は朝一番で東京に出張します。飛行機、飛ぶかな?
『真説・佐山サトル』田崎健太著(集英社インターナショナル)を読みました。「タイガーマスクと呼ばれた男」というサブタイトルがついています。ものすごく面白い本ですので、プロレス・ファンの方はぜひ、お買い求めの上、ご一読下さい! 
著者は1968年、京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館週刊ポスト」編集部などを経てノンフィクション作家になりました。 著書に、ブログ『真説・長州力 1951−2015』で紹介した本をはじめ、『偶然完全 勝新太郎伝』、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』、『ザ・キングファーザー』、『球童 伊良部秀輝伝』(ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』、『ドライチ ドラフト1位の肖像』など。


本書の帯



500ページ以上もある本書のカバー表紙には、宿敵ブラック・タイガーを倒し、右手を高く突き上げて勝利をアピールするタイガーマスクの写真が使われ、帯には「プロレス界最大の謎」「タイガーマスク“電撃引退”、『UWF』脱退、自ら創始した総合格闘技修斗』との訣別――」「“孤高の虎”の真実が今、明らかに!」と書かれています。


本書の帯の裏



また、カバー裏表紙には虎のマスクを右手に持った素顔の佐山サトルの写真が使われ、帯の裏には以下のように書かれています。
「彼の本質は、みなが知るタイガーマスク以外にあるはずだった。ルールある競技として世界に先駆けて総合格闘技を始めたのは彼だ。(中略)総合格闘技の祖としての功績はタイガーマスク時代と比較すると霞んでいる。タイガーマスクは確かに傑出したプロレスラーだった。しかし、そこばかり取り上げられることを彼は望んでいるのだろうか――。(本文より)」「親族から大物格闘家まで、膨大な取材で迫る『人間・佐山サトル』!」



さらにアマゾンの「内容紹介」には、「プロレス界最大のアンタッチャブル―― 総合格闘技を創ったタイガーマスクの真実!」として、こう書かれています。
「1980年代前半、全国のちびっ子を魅了し、アントニオ猪木を凌ぐ新日本プロレスのドル箱レスラーとなったタイガーマスクは、なぜ人気絶頂のまま2年4ヵ月で引退したのか? UWFにおける前田日明との“不穏試合”では何が起きていたのか? 自身が創設した総合格闘技修斗』と訣別した理由は? 現在も『21世紀の精神武道』へのあくなき追求を続ける佐山サトルは、その先進性ゆえに周囲との軋轢を生み、誤解されることも多かった。謎多きその素顔に『真説・長州力』の田崎健太が迫る。佐山サトル本人への長期取材に加え、前田日明長州力藤原喜明中井祐樹朝日昇ら多数のプロレスラー、格闘家、関係者の証言で綴る超重厚ノンフィクション。 “孤高の虎"の真実が今、明かされる!」


本書の「目次」は、以下のようになっています。
プロローグ 佐山サトルへの挑戦状
第一章 父親のシベリア抑留
第二章 プロレス狂いの少年
第三章 ガチンコの練習
第四章 『格闘技大戦争
第五章 サミー・リー、イギリスを席巻
第六章 タイガーマスク誕生
第七章 結婚とクーデター
第八章 電撃引退
第九章 “格闘プロレス"UWF
第十章 真説・スーパータイガー前田日明
第十一章 佐山サトルの“影”
第十二章 初代シューターたちの苦闘
第十三章 バーリ・トゥードの衝撃
第十四章 ヒクソン・グレイシー中井祐樹
第十五章 修斗との訣別
エピローグ “孤高”の虎



プロローグ〜第二章までは、1957年に山口県下関市に生まれた佐山サトルのルーツが綴られています。そして第三章「ガチンコの練習」では、彼が新日本プロレスに入門し、1976年5月28日に後楽園ホールでデビューします。佐山は当時18歳、身長172センチ、体重92キロ。対戦相手は北沢幹之でしたが、“善戦空しく”9分44秒で敗れています。このデビュー戦から約1ヵ月後の6月26日、日本武道館アントニオ猪木モハメド・アリと「格闘技世界一決定戦」を行っています。佐山は、まさに師である猪木の全盛期にデビューを果たしたのでした。
ところで、本書にはやたらと北九州市小倉が登場します。下関出身の佐山の友人が多く住んでいるからでしょうが、76年11月30日、新日本プロレスは小倉の三萩野体育館で大会を行い、佐山は栗栖正伸を相手に初勝利を収めています。1引き分けを挟んで55連敗中だった佐山にとって、57試合目の初勝利でした。なお、佐山のプロレス入りを実現させた当時の新日本プロレス営業本部長の新間寿氏も小倉で化粧品会社のセールスマンをしていたことが紹介されています。



第四章『格闘技大戦争』では、新日本プロレスの若手レスラーだった佐山が1977年11月14日に行われた『格闘技大戦争』というキックボクシングとマーシャルアーツ(全米プロ空手)の対抗戦に出場した様子が描かれます。『格闘技大戦争』での日本のキックボクシング対アメリカのマーシャルアーツの対抗戦は日本側の5勝2敗で、人気急上昇中だったベニー・ユキーデは目白ジムの岡尾国光を4回93秒、KO勝利しました。佐山自身はミドル級の強豪選手マーク・コステロに判定で敗れましたが、KO負けではありませんでした。試合後、佐山は猪木に「すいません」と敗戦を詫びましたが、猪木は「何言ってるんだ」と言ってくれたそうです。山本小鉄藤原喜明も褒めてくれましたが、新日本の先輩レスラーの中には「だらしない」と佐山に直接言う者もいたそうです。キックボクシングの選手で佐山のことを笑った者もいたそうですが、目白ジムの代表だった黒崎健時が怒り始め、「あんなに蹴られても倒れない奴はいないぞ」と言ったとか。


第五章「サミー・リー、イギリスを席巻」では、『格闘技大戦争』の後、佐山がメキシコ修行を経て、イギリスで武者修行をした様子が描かれています。カンフーの達人である「サミー・リー」として活躍し、大変な人気を得ました。佐山がイギリスに来た80年頃、プロレス人気は下り坂でした。民放テレビ局がプロレス中継を放送していましたが、視聴率は低迷していました。イギリス・マット界の重鎮であるウェイン・ブリッジは、「プロレスがブームだった頃、1200万人の視聴者がいると言われていた。サトルが来た頃は、多少落ちて800万程度だった。サトルによって新しい観客が集まった。彼の最初の試合がテレビで流れてから、どこのホールも満員となった。彼の3試合目ぐらいのときに、全盛期と同じ1200万人の視聴者数に戻ったはずだ」と語っています。


第六章「タイガーマスク誕生」では、佐山がイギリスから帰国後、1981年4月23日の蔵前国技館大会でタイガーマスクとしてデビューする様子が描かれています。相手はダイナマイト・キッドでした。デビュー戦をはじめ、以降の試合も佐山はサミー・リー時代のように抜群のパフォーマンスを見せましたが、新聞やテレビでの扱いはそれほど大きくありませんでした。著者は以下のように述べています。
新日本プロレスは、猪木や坂口、藤波の他、アンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセンといったスターレスラーが揃っていた。日本のプロレスは力道山以降、ヘビー級中心であり、タイガーマスクジュニアヘビー級は格落ちとされていた。また、旧来のプロレスファンたちは、タイガーマスクの派手な技を、腕組みをして見ていたということもあったろう。ただ、先入観のない子どもたちは正直だった。漫画の中から飛び出たような動きを見せる、タイガーマスクに声援を送った。タイガーマスクの出現はプロレスのファン層を変えたのだ」


第十章「真説・スーパータイガー前田日明」は、本書の白眉です。新日本プロレスを退団後、佐山は「ザ・タイガー」、さらには「スーパータイガー」と名前を変えて、新興団体UWFのマットに上がります。当時の佐山について、著者は、「佐山は会う人会う人に『これからはプロレスのことは忘れてください』と話しかけていた。もうプロレスの話はしないという意思表示だった。これまで敢えて混合していたプロレスと新しい格闘技『シューティング』を区別する時期が来たと判断したのだ。そして自分の中にあったプロレスの匂いを消そうとしていた。リングの上で肌を合わせているレスラーたちは、そうした機微に敏感である。UWFの他のレスラーと佐山との心理的な距離が開いていったことだろう。ただし、彼らも佐山を突き放すことはできなかった。1つは佐山がUWFで最も客を呼べるレスラーだったこと。そして、彼の掲げた格闘技路線が、新日本と全日本という二大団体との差別化になるとレスラーたちも分かっていたからだ。暗闇の先を指し示す言葉を持っていたのは佐山だけだった」と書いています。


そんなプロレスと訣別した佐山に対する周囲の不満は、1985年9月2日に大阪府高石市の臨海スポーツセンターで行われた前田戦で爆発しました。試合前からリングには暗い不穏な空気が流れており、前田が佐山に対してセメントを仕掛けたなどと言われました。最後は前田が佐山の金的を攻撃したということでノーコンテストの裁定が出ました。著者は述べます。
「この奇妙な試合については多くの見解が出されてきた。
その1つは、空手の師匠である田中正悟が前田を焚きつけたというものだ。UWFの立ち上げの際、前田は看板レスラーとして扱われていた。しかし、彼はレスラーとして未熟で観客を惹きつける力がなかった。そこで後から加入した佐山を中心に動くようになった。田中はそれを快く思っていなかったというのだ。複数の関係者に確認したところ、試合の何日か前に、田中が前田に電話をしたことは間違いない。軽く酒の入っていた田中は前田に佐山から軽んじられないようにきちんと練習しろと発破を掛けたようだ。その言葉を前田がどう受け取ったのかは分からない」



続けて、著者は以下のように書いています。
「前田はUWFでマッチメーカーとして試合を差配していた佐山に対して不満を募らせていた。前田には“大器”“超新星”という修辞句がつけられていた。しかし、第1回Aリーグ戦で、前田は4位に沈んでいた。UWFはシューティング――真剣勝負を謳っている。負けが込むと、お前はエースではないのかという声を浴びせられ、彼が苛立っていたことは想像できる。
佐山は前田に負い目があったことを認める。『ぼくは前田を上げたかったんです』と親指を立てた。これはプロレスでは勝利を意味する仕草である。
『躯も大きいし、一番いい選手になる可能性があった。でも藤原(喜明)さんはこう言っていたんです。“前田はまだスターにするのは早いよ。俺たちが引っ張ろう”と。年上である藤原や木戸修は立てなければならない。また、若手の高田伸彦、山粼一夫に対しても配慮は必要だった。結果として、その皺寄せは前田へ行くことになる』」


第十一章「佐山サトルの“影”」では、UWF離脱直後の佐山の姿が描かれます。85年10月、『ケーフェイ』(ナユタ出版)という佐山サトルの著書が発売されました。モノクロームの佐山の顔写真があしらわれた表紙をめくると、黒い紙に「〈ケーフェイ〉とは――プロレス界で使われている隠語である。レスラーたちは、聞かれるとまずい会話に他人が入ってくると“ケーフェイ!”と合図して、話題を変えるのである。ケーフェイは、フェイク(fake)という言葉を裏かえしにしたものといわれる。ちなみに、fakeとは――『サギ師』『インチキ』『ねつ造すること』などの意味がある」と書かれていました。


ケーフェイ (NAYUTA BOOKS)

ケーフェイ (NAYUTA BOOKS)


同書はショービジネスとしてのプロレスの正体を暴露した本でした。佐山の著書となっていますが、「ターザン山本」こと山本隆司が語ったことをイラストレーターの更級四郎が原稿に起こしたといいます。更級の友人が版元のナユタ出版の経営者でしたが、経営が苦しくて「何か売れるものを出さなきゃいけない」と相談を受け、更級は「じゃあプロレスで出せばいいじゃん。プロレスだったら佐山が一番いいよ。それで本を作るのだったら山本だろう」と言ったそうです。いずれにせよ、本作りを人任せにしていた佐山は「プロレスの秘密を暴露した張本人」として大きな悪名を背負うことになります。


佐山は、人気プロレスラーだったかつての自分を嫌悪していました。それでシューターたちには匿名性求め、地味なシューティングタイツを穿かせ、頭部にはプロテクトマスクを被らせて、選手たちの個性を消しました。
佐山はサードクール以降、マスコミに約1年間の大会取材を禁止しています。静謐な空間で選手を厳しく育てようとしたわけですが、この頃、佐山の思想と逆行する新団体が結成されました。新生UWF、いわゆる第2次UWFです。当時、修斗の他、キックボクシング、フルコンタクト空手、サンボ、シュートボクシング、テコンドーなどの格闘技が勢いを得ていました。前田は「プロフェッショナル・レスリング」と名乗り、こうした格闘技との境を曖昧にしたのでした。


1988年、佐山はシューティングマスクなどの防具の改良を進めました。また、1年間でプリ・シューティング大会を4回開催し、修斗の競技規則を煮詰めていきました。著者は、「国技として認められる展覧試合が行われる、あるいはオリンピック競技として採用されることを佐山は目指していた。そのためには過度な暴力性があってはならない。規則でその線引きをする必要があった。相手の体躯を捕らえて投げる。その投げが柔道の『一本』に近ければ、第1回大会ではグラウンドポジションでの攻防が最大30秒間認められた。『有効』や『効果』であればその時間は短くなる。第2回大会では『一本』によるグラウンドポジションの攻防が25秒に短縮された。第3回大会では、3部門でのポイント制が導入された。『投げ』は最大8ポイントの加点制、『打撃』と『関節技』は各ラウンド10ポイントからの減点方式。ポイントの点数はレフェリーが判断し、試合終了後に集計する。非常に複雑である」と述べています。


第2次UWFの人気について、佐山はミニコミ誌のインタビューで、「UWFは、真剣勝負とか格闘技とか、そういう言葉を使っちゃ、いけないよね。UWFは格闘技のニオイの少しするプロレスですよ、とか、そういう言い方をしなくっちゃね。普通のファンには分からないようにやっても、ボクらが見れば、すぐに分かりますからね。どんなにうまくゴマカシたつもりでもね」などと語っています。著者は、「言葉の端々から佐山のUWFに対する苛立ちが立ち上ってくる。鍛え上げられた躯と関節技の技術を持ったレスラーによるものであれば、という前提はあるが、佐山はプロレスを否定していない。ただ、本物の格闘技とは区別しなければならない。彼の本意はなかなか伝わらなかった。華々しいスポットライトを浴びるUWFと、穴の空いたジムで練習する修斗は対照的でした。UWFはかつて佐山が作り上げた『新しいプロレス』だった。数が限られた上に華のないレスラーたちでいかに、新日本や全日本プロレスと対抗するか。そのために作り出した幻影が、血肉を得て巨大な怪物となっていった」と述べます。


佐山がスーパータイガージムを始めてから7年目の1993年から、格闘技の世界で大きな地殻変動がありました。著者は以下のように述べます。
「1993年はさまざまな格闘技、プロレス団体が競うようにして世の中にせり出した年だった。その中心となったのは4月に始まった『K−1グランプリ』である。K−1を主催したのは、フジテレビだった。フジテレビは部署横断の組織、各郎義委員会を立ち上げ、大会宣伝のため選手たちを自局の番組に出演させた。地上波テレビの力により、アンディ・フグアーネスト・ホースト、そして佐竹らの格闘技に興味のない人間にまで顔と名前を知られることになった。また第2次UWFは、前田日明のリングスと高田延彦のUWFインターナショナル、藤原喜明の藤原組に分裂、各団体とも異種格闘技戦を組み、格闘技とプロレスの狭間を狙っていた。93年9月には船木誠勝たちのパンクラスが旗揚げ戦を行っている。その他、キックボクシングには立嶋篤史という人気選手が生まれていた。そんな中、修斗は取り残されていた。修斗が孤立していた理由の1つは、他団体との交流を拒んでいたことだ。佐山は『そんな(他団体の選手と対戦できる)実力じゃなかったんですよ』と説明する」


ちなみに、91年9月に「佐山道場」として修斗の合宿にテレビ取材が入りました。そのとき、佐山は不甲斐ない選手の頬を平手打ちし、竹刀で叩きましたが、これは意図的なもので、「うちはこれだけ厳しい練習をやっているんだと外に見せるためでした。そうすれば他の団体から挑戦を仕掛けられることはないでしょう」と語り、他団体への威嚇だったことを認めています。
その縛りを解いたのが、93年9月に後楽園ホールで開催された「シューティング・オープントーナメント」でした。この大会が翌年、化学反応を起こし、佐山と修斗を巡る状況を一変させます。その触媒となったのが、93年11月にアメリカのコロラド州デンバーで開催された「ジ・アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ」という格闘技大会でした。そう、第1回UFCです。


UFCは「何でもあり」のバーリ・トゥード・ルールで行われました。目つぶし、噛みつき以外は何をしうてもいいのです。「オクタゴン」と名付けられた金網の試合場は、佐山が当初導入したリングと同じ八角形でした。第1回と第2回のUFCを制したグレイシー柔術ホイス・グレイシーは「グレイシー家には自分よりも10倍強い兄がいる」と語りました。ホイスよりも10倍強い兄――ヒクソン・グレイシーを佐山は日本に初めて招聘します。ヒクソンのために「バーリ・トゥード・ジャパン・オープン」を開催したのです。95年に開催された第2回大会では、決勝でヒクソン修斗中井祐樹が闘いました。1回戦でジェラルド・ゴルドーの反則によって目を負傷(後に失明)した中井は果敢にヒクソンに挑みますが、敗れました。


ヒクソンの日本初登場となる「バーリ・トゥード94ジャパン・オープン」が94年7月29日に開催される約3ヵ月前の5月1日、佐山は新日本プロレス福岡ドームで開催した「レスリングどんたく」に突如参戦しました。当時新日本プロレスの取締役だった永島勝司に要請され、10年ぶりの新日本登場となったのです。4年ぶりの試合となる獣神サンダー・ライガーとのエキシビションマッチを行いました。わたしも観戦していたのですが、試合中の佐山は笑顔を浮かべていました。これは試合がエキシビションのため「適当にやろう」と思ったからだといいます。その後、修斗の試合会場でライガー戦のことを「新日本で試合を、いや、芝居をしてきました」と発言し、プロレスファンを怒らせています。しかし、それほど佐山が大事にしていた修斗と訣別する日がやってきました。その理由は本書に詳しく書かれていますが、ここでは触れません。収入源を絶たれた佐山は、かつて自分が切り捨てたプロレスの世界に戻るしか生きる道はありませんでした。


2016年、佐山は日本武道の原点である「須麻比」の復興により、日本精神文化の原点回帰を目指して、一般社団法人日本須麻比協会会長に就任しました。修斗掣圏道掣圏新陰流、そして須麻比・・・・・・。それだけ新しいものを作れば気が済むのかという感じですが、著者の「佐山さんって、新しいものを作るときは夢中になる。しかし、完成すると壊したくなる。普通は出来上がったものを大切にして、それを維持することを考える。ところが佐山さんはそうしたところが一切ない。壊す、あるいは捨て去ることを畏れない」という発言に対して、佐山は「それはよく言われます。立ち止まったらどうかって。でも新しいもの、良いと思われるものを思いついたら、しょうがないでしょう。突き詰めたくなっちゃう」と微笑み、「ぼくは研究者と言うか職人なんでしょう。武道には、いかに人間を作るか、強さとは何かという問いが含まれているんです。それを考えているうちに、武士の精神性に興味を持ち、日本の歴史、さらに世界史を深く調べていくようになりました」と語ったそうです。


佐山はまた、「今も毎日研究しているんです。永遠にそれを続けていくんでしょうね」とつぶやいたそうです。そして、「優れた武道をこれから作ることができる、そう考えているんですね?」という著者の問いに対して、「もちろん」と深く頷いたそうです。著者は、「その顔を見て、この男がこれまで自分の言動を弁明しなかった理由が分かった。60歳になった今も、過去はピンで留められた蝶が収められている標本箱のようなもので、未来にしか興味がないのだ」と書いています。


江副浩正

江副浩正


わたしは、本書を読んで、ブログ『江副浩正』で紹介した本を連想しました。同書はリクルートの創業者である江副浩正の評伝ですが、彼は破壊の衝動を秘めた起業家であったと思います。江副浩正が持っていた「創造と破壊」のエートス佐山サトルにも感じてしまいます。そうなると、リクルート修斗が重なり、本書が起業について書かれたビジネス書のように思えてきます。経営学者のピーター・ドラッカーにはブログ『イノベーションと起業家精神』で紹介した名著がありますが、講道館極真会館新日本プロレスやUWFについて書かれた書籍と同様に、本書にも「イノベーション」と「起業」についての本という側面があると思います。


イノベーションと企業家精神【エッセンシャル版】

イノベーションと企業家精神【エッセンシャル版】


本書の「あとがき」で、著者は以下のように述べるのでした。
「残念ながら、現在も修斗と佐山さんの関係は切れている。そのため、修斗の現役選手たちは、佐山さんとの関係を意識することはない。ただ、修斗に限らず、総合格闘技に携わっている人間は、何らかの形で佐山さんが作り上げたものの恩恵を受けているはずだ。修斗のジムに所属した、あるいはアマチュア時代に修斗の大会に参加した、中居祐樹さんが広めたブラジリアン柔術の技術を学んだ――これらは佐山さんがいなければ存在しなかった、あるいは全く違った形になったろう」


「TeLePAL」1986年5月24日号



わたしは、かつて「狂」のつくほどのプロレス&格闘技マニアで、今はなきSONYのベータマックスでガンガン録画しまくっていました。大学の4年生ぐらいのときに、テレビ情報誌「TeLePAL」(小学館)に稀代の格闘技ビデオ・コレクターとして紹介されたことがあります。そのとき、わたしは愛用の虎の仮面を被って写真撮影してもらいました。当時はチョビ髭を生やしていたので、まるでブラック・タイガーみたいになりましたが(笑)。このタイガーマスク写真には、わが家族や友人たちも衝撃を受けたようです(苦笑)。
その頃、小倉の松柏園ホテルで実際の佐山サトル氏にもお会いしました。すでに第1次UWFも崩壊し、自ら新しい格闘技である「修斗」の確立に奔走されていた頃で、ちょうど新日鉄の「起業祭」での講演のために北九州に来られており、松柏園に宿泊されていたのでした。



松柏園の貴賓室でお会いした佐山氏は、タイガーマスクそのままの人なつっこい笑顔でした。その場には父も居合わせたのですが、わたしは柔道家である父に「この方は、現代の嘉納治五郎のような方ですよ」と紹介しました。佐山さんは「いえいえ」と恐縮しつつも、嬉しそうだったのを記憶しています。チェックアウトしてホテルを出られるときに、佐山さんはニコニコ顔で「松柏園の朝ごはん、すごく美味しかったです!」と言われ、わたしと握手をして下さいました。
佐山さん、憶えておられますか? 今度、下関に帰省された際には小倉にもお立ち寄り下さい。松柏園で美味しいものを御馳走させていただきますので、ぜひ、「須麻比」のお話をお聞かせいただきたいと思います。



2018年7月30日 一条真也