死生観は究極の教養である  

一条真也です。
3月19日、「サンデー毎日」4月1日号が発売されます。わたしは、同誌にコラム「一条真也の人生の四季」を連載しています。第122回のタイトルは、「死生観は究極の教養である」です。ブログ「毎日新聞出版訪問」に書いたように、この連載もあと1回を残すのみとなりました。名残惜しい気もしますが、心を込めて書きました。


サンデー毎日」2018年4月1日号



現在の日本は、未知の超高齢社会に突入しています。それは、そのまま多死社会でもあります。日本の歴史の中で、今ほど「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」が求められる時代はありません。
特に「死」は、人間にとって最大の問題です。
これまで数え切れないほど多くの宗教家や哲学者が「死」について考え、芸術家たちは死後の世界を表現してきました。医学や生理学を中心とする科学者たちも「死」の正体をつきとめようと努力してきました。それでも、今でも人間は死に続けています。死の正体もよくわかっていません。



実際に死を体験することは一度しかできないわけですから、人間にとって死が永遠の謎であることは当然だと言えます。
まさに死こそは、人類最大のミステリーなのです。
なぜ、自分の愛する者が突如としてこの世界から消えるのか、そしてこの自分さえ消えなければならないのか。これほど不条理で受け入れがたい話はありません。しかし、その不条理に対して、わたしたちは死生観というものを持つ必要があります。高齢者の中には「死ぬのが怖い」という人がいますが、死への不安を抱えて生きることこそ一番の不幸でしょう。まさに死生観は究極の教養であると考えます。



死の不安を解消するには、自分自身の葬儀について具体的に思い描くのが一番いいでしょう。親戚や友人のうち誰が参列してくれるのか。そのとき参列者は自分のことをどう語るのか。理想の葬儀を思い描けば、いま生きているときにすべきことが分かります。参列してほしい人とは日頃から連絡を取り合い、付き合いのある人には感謝する習慣を付けたいものです。



生まれれば死ぬのが人生です。死は人生の総決算。
自身の葬儀の想像とは、死を直視して覚悟すること。覚悟してしまえば、生きている実感が湧いてきて、心も豊かになるでしょう。
葬儀は故人の「人となり」を確認すると同時に、そのことに気づく場になりえます。葬儀は旅立つ側から考えれば、最高の自己実現の場であり、最大の自己表現の場であると思うのです。


サンデー毎日」2018年4月1日号の表紙



2018年3月19日 一条真也