非道を知らず存ぜず(上杉謙信)

 

一条真也です。
今日から宮古島に飛びます。サンレー沖縄創立45周年記念イベントに参加するのです。8日には宮古島から那覇経由で羽田に飛びます。そのまま横浜に入って、9日から開催の「世界仏教徒会議日本大会」に参加します。連日のハード・スケジュールですが、わが「天下布礼」に休みはありません。
さて、今回の名言は戦国武将の上杉謙信の言葉で、「非道を知らず存ぜず」です。これは、謙信がが越後国一宮・彌彦神社に奉納した願文の中に出てくる言葉です。原文は、「不知非道不存」と漢文で表記されています。これは、昭和44年(1969年)に国の重要文化財に指定されています。


非道を知らず存ぜず(謙信)

 

慶長3年(1598年)、豊臣政権の中で、上杉景勝は越後から会津へ加増された上で転封されます。石高は実に120万石。上杉家家老・直江兼続には、この120万石のうち、米沢30万石が下賜されます。天下人からすれば陪臣の身であったわけで、破格の待遇と言えるでしょう。しかし、その直後に豊臣秀吉薨去。天下分け目の「関が原」となります。謙信の後継者たちは「正しければ滅んでもいい」と、謙信の遺徳である「筋目」を後継者たちは貫き通します。しかし、覇権は徳川家康の手中に・・・・・戦後、上杉家は兼続公の所領を除いて没収されました。「利を見て義を聞かざる世の中に、利を捨て義を見る人」と京都・妙心寺の高僧から評された兼続は、その主君である上杉景勝、および離藩しないすべての家臣を米沢の地に迎え入れました。

 

その後、三代・綱勝が急逝し、末期養子(子のない当主が死に臨んで、急いで相続人を願い出ること)ができず、『無嗣死去』により、改易処分の窮地に陥ります。しかし、保科正之公の周旋により、15万石の半知となるも、お家断絶を免れます。謙信の遺風を偲び、幕閣は上杉家を『武門の誉』として残すという英断を下したわけです。当然ながら、その後、上杉家は窮乏を極めますが、かの上杉鷹山を養子に迎え、殖産興業に勤め、藩政を立て直していきます。幕末、大政奉還に際し、米沢藩佐幕派と尊皇派が対立して藩論は分かれますが、時の藩主・上杉斉憲保科正之への旧恩があるとして幕府側につくのでした。「非道を知らず存ぜず」という美徳は、廃藩置県まで継承されたのです。


米沢市・上杉博物館にて

 

毘沙門天を崇拝するがゆえに「毘」の旗を掲げて戦国の世を生きた謙信は、不正や不義を許すことが出来ない人でした。彼は武将として天賦の才に恵まれた上に、一流の教養人でもありました。そして、礼節に基づいた「心ゆたかな社会」の実現をめざしていたのです。
謙信の最大のライバルであった武田信玄は「敵の悪口はいうな」という言葉を残していますが、もちろん謙信も敵の悪口は言わない人でした。それどころか、2人は互いの存在を心から認め合っていました。謙信と信玄は14年にわたって戦いましたが、合戦さなかに信玄の死が伝えられると、謙信は食べていた箸を取り落として「敵中の最もすぐれた人物」を失ったとさめざめと泣いたといいます。そして、家臣たちが「今、武田を撃てば勝てる」と浮き足立つのを、「人の落ち目を見て攻め取るのは本意ではない」と戒めました。


謙信を祭神とする春日山神社で

 

謙信は、川中島で何度も激闘を繰り広げた信玄に対して終始気高い見本を示したとされています。信玄の領地は海から隔たった山間の甲州であり、彼は塩の供給を東海道の北条氏の所領に仰いでいました。北条氏康はそのころ、あからさまに信玄と戦っていたわけではありませんでしたが、信玄の勢力を弱めたいと願っており、この重要な物資の供給を断ってしまいます。謙信はその敵である信玄の窮状を聞き、自領の海岸から塩を得ることができるので、これを商人に命じて価格を公平にした上で分けてあげました。
これが、あまりにも有名な「敵に塩を送る」の故事です。
謙信はもともと熱心な仏教信者でしたが、それだけに大将としての権謀術数ぶりもさることながら、戦い方は情け深く公平で、相手の非に付け込まなかったといいます。それはまさに、江戸時代に確立する武士道の源と言えるでしょう。


春日山城跡の上杉謙信銅像

 

2018年11月1日 一条真也