咸宜園

一条真也です。
ブログ「日田紫雲閣田島館竣工式」で紹介したように、14日の11時から「日田紫雲閣 田島館」の竣工式が行われましたが、直会の終了後、久々に国史跡である「咸宜園(かんぎえん)」を訪れました。


史跡咸宜園跡にて

咸宜園跡の説明板



咸宜園は、江戸時代後期に生まれた偉大な儒学者であった廣瀬淡窓が「天領」の豊後国日田郡堀田村(現大分県日田市)に開いた日本最大規模の私塾です。「咸宜」とは『詩経』から取られた言葉で、「咸く宜し(ことごとくよろし)」の意味です。この言葉には、塾生の意志や個性を尊重する理念が込められています。現在では、塾の講堂として使われた「秋風庵」、書斎および書庫として使われた「遠思楼」の2つの建物が残っています。


「秋風庵」の前で

「秋風庵」の玄関

「秋風庵」の中で



Wikipedia「咸宜園」の「沿革」には以下のように書かれています。
咸宜園の前身である桂林荘は、文化2年(1805年)に豊後国日田に創立された。当時は照雲山長福寺(豆田町)の学寮を借りて開いていたが、文化4年(1807年)に桂林荘塾舎(桂林園・現在の桂林荘公園)を設置した。この後、淡窓は、文化14年(1817年)には堀田村(現大分県日田市淡窓町)に塾を移し、咸宜園とした。咸宜園は、淡窓の死後も、慶応2年(1866年)12月から4ヶ月ほど一時閉鎖されたものの、明治30年(1897年)まで存続した」


「秋風庵」の内部

「秋風庵」の内部



また、Wikipedia「咸宜園」の「概要」には以下のように書かれています。
咸宜園では、入学金を納入し名簿に必要事項を記入すれば、身分を問わず誰でもいつでも入塾できた。また、『三奪の法』によって、身分・出身・年齢などのバックグラウンドにとらわれず、全ての塾生が平等に学ぶことができるようにされた。淡窓は、儒学者漢詩人であったが、咸宜園では四書五経のほかにも、数学や天文学・医学のような様々な学問分野にわたる講義が行われた。毎月試験があり、月旦評(げったんひょう)という成績評価の発表があり、それで入学時には無級だったものが、一級から九級まで成績により上がり下がりした」


ここで何を学んでいたのか?

往時に想いを馳せました

「秋風庵」の2階は立ち入り禁止

書斎の「遠思楼」の前で



続けて、以下のように書かれています。
「塾生は遠方からの者も多かったため、寮も併設された。全国68ヶ国の内、66ヶ国から学生が集まった。東国からやってきた女の子もあった。桂林荘のときに、この寮生活の厳しさとその楽しさを詠った『桂林荘雑詠 諸生ニ示ス』の4首の内、主に2首目冬の情景を詠ったもの、いわゆる『休道の詩』は教科書に取り上げられたことがあり、他にも四季それぞれの様子を詠んだ詩がある。休道の詩は、3代目塾主広瀬青邨が賓師を務めた私塾立命館を創始とする立命館大学の寮歌のルーツとも言われている」


咸宜園で学んだ人びと



咸宜園は、江戸時代の中でも日本最大級の私塾となり、80年間で、ここに学んだ入門者は約4800人に及びました。歴代塾主は広瀬淡窓を始め、弟の広瀬旭荘や、林外、青邨、貞文等が務めました。塾出身者には、高野長英大村益次郎、清浦奎吾、上野彦馬、長三州、横田国臣、松田道之などがいます。なお、咸宜園跡の隣接地には、現在、「咸宜園教育研究センター」が建っています。


咸宜園教育研究センター

廣瀬淡窓の銅像

咸宜園の年表

全国の私塾一覧

視聴覚コーナーにて



2017年10月14日 一条真也