沖縄の生年祝いに学ぶ

一条真也です。
27日から北陸へ。サンレー北陸の施設と営業所を回る予定です。
この日、「サンデー毎日」2017年7月9日号が発売されます。
わたしは、同誌にコラム「一条真也の人生の四季」を連載しています。
第86回目のタイトルは、「沖縄の生年祝いに学ぶ」です。


サンデー毎日」2017年7月9日号



沖縄に行ってきました。AKBの総選挙も中止になる梅雨の季節でしたが、「守礼之邦」を訪れると、いつも癒やされます。そして、人生を肯定したくなります。沖縄の人々は「生年祝い」として長寿を盛大に祝います。これは、老いるべき運命にある人が幸せに生きていく上でとても重要なことです。


年祝いというセレモニーは、高齢者が厳しい生物的競争を勝ち抜いてきた人生の勝利者であり、神に近い人間であるのだということを人々にくっきりとした形で見せてくれます。それは大いなる「老い」の祝宴です。
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは「哲学とは、死の学びである」と言いましたが、それならば、わたしは「死の学び」である哲学の実践として2つの方法があると思います。



1つは、他人のお葬式に参列することです。
もう1つは、自分の長寿祝いを行うことです。神に近づくことは死に近づくことであり、長寿祝いを重ねていくことによって、人は死を想い、死ぬ覚悟を固めていくことができます。もちろんそれは自死の問題などとはまったく無縁で、あくまでポジティブな「死」の覚悟である。



人は長寿祝いで自らの「老い」を祝われるとき、祝ってくれる人々への感謝の心とともに、いずれ1個の生物として自分は必ず死ぬという運命を受け入れる覚悟を持つ。また翁や媼となった自分は、死後に神となって愛する子孫たちを守っていくのだという覚悟を持つ。祝宴のなごやかな空気のなかで、高齢者にそういった覚悟を自然に与える力が、長寿祝いにはあります。



そういった意味で、生年祝いとは生前葬でもあります。
人間は必ず老い、必ず死にます。それは不幸なことではありません。
わたしは「老い」から「死」へ向かう人間を励ます生年祝いという心豊かな文化を、世界中に発信したいと思っています。実際に、わたしも生年祝いに何度も参加しました。泡盛に酔い、カチャーシーを踊れば、本当に死ぬのが怖くなくなってくるから不思議です。


サンデー毎日」2017年7月9日号



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2017年6月27日 一条真也