折口父子の墓

一条真也です。
昨日から北陸に来ています。
今日は、サンレー北陸の施設と営業所を回っています。
気多大社の程近く、石川県羽咋市の一ノ宮町には、折口信夫・春洋父子のお墓があります。ずいぶん前に父とここを訪れたことがありますが、久々に墓参することができました。


折口父子の墓へ・・・

岡野弘彦先生の歌碑



国学者民俗学者であり、國學院大学および慶応義塾大学で教鞭をふるった折口信夫は、歌人としても特異な才能をもっていた人物でした。
ことに門弟であった藤井春洋の歌の才能に惚れ込み、たびたび羽咋の地を訪れています。羽咋市公式HPによれば、藤井春洋は金沢第一中学校を経て、大正14年(1925年)の國學院大學予科入学と同時に折口信夫が主宰する短歌結社「鳥船社」に参加していると記されています。


羽咋市の折口マップ



その後、春洋は昭和11年(1936年)に國學院大學教授に就任するも、軍事召集を受け、昭和19年(1944年)7月硫黄島に着任しています。それと前後して折口の養子となったようですが、昭和20年3月19日に38歳の若さで戦死。折口信夫が春洋の死を嘆き、自ら墓碑を選定、昭和24年に春洋の生家である羽咋の藤井家墓地に春洋のお墓を建立したのです。折口信夫は、昭和28年(1953)9月3日、66歳で逝去しますが、その遺骨は本人の希望通り春洋の眠るお墓に埋葬されました。


古代研究〈1〉祭りの発生 (中公クラシックス)

古代研究〈1〉祭りの発生 (中公クラシックス)

ブログ『古代研究1 祭りの発生』で紹介した本では、折口信夫の弟子で歌人岡野弘彦氏が、次のように述べています。
「柳田も戦争中から、後の『先祖の話』にまとまってゆく魂とそれがよって来るべき所や鎮まるべき所のあり方を考え、折口もそれに近い問題に心を集めはじめている。だが、この主題に関しては、戦争が終局を迎えるころから、折口に身近く肌に迫った動機、要因が生じる。学生の時代から18年間も家族として同居し、身の周りのことから学問上の整理まで一切をとりしきっていた藤井春洋の、硫黄島における戦死である。昭和19年7月、春洋が当人にすら知らされないで派遣されていった先が南海の孤島で、人間の生活し得る土地というよりは、海上の要塞のような非情の島であると知ると、折口は春洋を養嗣とした。間もなくその島が米軍の圧倒的に優勢な科学兵器による集中攻撃を受けて、今次大戦の中でもっとも苛烈で酷い玉砕戦に到るのである」


折口父子の墓



続けて、岡野氏は次のように述べています。
「少し個的な問題に入るけれども、折口は春洋の死後、自分の命の絶えるまでその写真の前に、毎朝茶碗になみなみと注いだ茶をそなえ、陰膳をそなえ、門にかかげた表札をおろすことはなかった。米軍の上陸した3月初めの日曜を忌日と定め、門下の者と一緒に神式のみ魂祭を行った。硫黄島からは20通に余る丹念な春洋の手紙がとどいていたから、抑制したその文面から、水が乏しく悪疫に苦しみながら、敵の攻撃を待ち受ける生活の厳しさは伝わっていた」


折口父子の墓碑



さらに続けて、岡野氏は次のように述べるのでした。
「敗戦の後から没するまでの折口の生活は、春洋が今も眼前に居るものの如くであった。そして昭和24年には、自分のためには墓など作らぬと思い定めていたのを改めて、春洋の郷里に父子墓を築き、墓碑銘に『もつとも苦しきたたかひに 最もくるしみ死にたる むかしの陸軍中尉折口春洋 ならびにその父 信夫の墓』という言葉を刻んだ」
岡野氏の文章からは、愛する者に対する清冽なまでの折口信夫の想いが胸を突きます。折口の深い悲しみがわが心にも伝わってきます。


また、ブログ『日本人は死んだらどこへ行くのか』で紹介した本では、著者の宗教哲学者である鎌田東二氏が、「未完成霊の鎮魂はいかにして可能か」として、折口が戦後、未完成霊の鎮魂の研究に力を注いだことを紹介しています。そして、その背景には硫黄島で戦死した藤井春洋の存在があったことを指摘します。鎌田氏は二人の養子縁組について述べています。
折口信夫と春洋との養子縁組は、『家を守る』という意識よりも、『個と個の関係を確認し強める』ためのものでした。『個と個との関係を確認強化し、死者とともにあるという道を選ぶことによって、死者を成仏させる。死者の魂を完成させる。死者を慰め、鎮魂する』。折口は、そう考えました。つまり折口は、未完成霊に自分がともに寄り添うという、非常に具体的で固有名詞的な方法で鎮魂しようとしたといえるでしょう」


二人の冥福を祈りました

鎮魂の歌碑の前で



わたしは折口父子の墓前において、二人の冥福を祈りました。じつは、前日からサンレー北陸の社員がお墓を掃除してくれていました。きれいに清められたお墓に向かって、わたしは花を捧げ、焼香し、合掌しました。
なぜ人間は死者を想うのか・・・そう、問われるべきは「死」ではなく「葬」である・・・わたしが拙著『唯葬論――なぜ人間は死者を想うのか』(三五館)で提唱したことが間違っていなかったことを改めて感じました。
いま、こうして生かされていることに感謝しつつ、先人たちの偉業を後世に伝えていく大切さを痛感させられました。


唯葬論――なぜ人間は死者を想うのか』(三五館)



2017年6月28日 一条真也