儀式は永遠に不滅である

一条真也です。
ブログ「『CORI』創刊」で紹介した冠婚葬祭総合研究所が発行する季刊誌の第4号が送られてきました。今回も情報満載、盛りだくさんの内容です。

「CORI」vol.4の表紙



冠婚葬祭の未来を見つめる「CORI」第4号の表紙には、東京の名門互助会である日冠グループの主催するカルチャー教室のようすがイラストで描かれています。3ページからの特集「人々は今、葬送に何を求めるのか」には姫路の名門互助会である(株)117の山下裕史社長が座談会に登場し、0ページからの「地域に根ざす互助会」では(株)日冠の小泉博久社長のインタビューが掲載されています。山下社長も、小泉社長も、ともに全国冠婚葬祭互助会連盟(全互連)の副会長を務めておられます。いやあ、全互連勢が大活躍ですね。そして不肖わたしは全互連の会長を拝命しています。


「CORI」vol.4より


わたしは、同誌の「Opinion」に冠婚葬祭総合研究所(CORI)の客員研究員の「一条真也」として寄稿いたしました。以下の通りです。

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「儀式は永遠に不滅である」    
                   一条真也

このたび、2冊の新刊を上梓した。CORI客員研究員らしく、いずれも冠婚葬祭がメインテーマである。儀式の重要性および必要性を説いた。

●葬式に迷う日本人
1冊目は、宗教学者島田裕巳氏と私の共著『葬式に迷う日本人』(三五館)である。島田氏と互いに2通ずつの書簡を交わした後、巻末で対談を行った。かつて、私は『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)というベストセラーに対し、『葬式は必要!』(双葉新書)を書いた。それから5年後、再び島田氏の著書『0葬』に対抗し、私は『永遠葬』を執筆した。
島田氏は、葬式無用論の代表的論客として有名だが、私は葬式必要論者の代表のように見られることが多い。そんな2人が共著を出すということに驚く人も多いようである。確かに私たちは、これまで因縁の関係のようにいわれてきた。しかし、意見が違うからといって、いがみ合う必要などまったくない。意見の違う相手を人間として尊重したうえで、どうすれば現代の日本における「葬儀」をもっと良くできるかを考え、そのアップデートの方法について議論を深めていくことが大切である。
島田氏は「0葬」というものを唱えている。通夜も告別式も行わずに遺体を火葬場に直行させて焼却する「直葬」をさらに進めた形で、遺体を完全に焼いた後、遺灰を持ち帰らずに捨ててくるというものである。私は、葬儀という営みは人類にとって必要なものであると信じている。故人の魂を送ることはもちろんだが、葬儀は残された人々の魂にも生きるエネルギーを与えてくれる。もし葬儀が行われなければ、配偶者や子ども、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自死の連鎖が起きることだろう。
葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなる。葬儀という「かたち」は人間の「こころ」を守り、人類の滅亡を防ぐ知恵なのである。
しかしながら、葬儀は時代に合わせて変わっていくべきだと私は考えている。実際、長い歴史の中で葬儀は大きく変わってきた。
「マネジメントの父」と呼ばれるピーター・ドラッカーは、企業が繁栄するための条件として、「継続」と「革新」の2つが必要だと述べた。これは、企業だけでなく、業界や文化にも当てはまることであると思う。
島田氏との対談を終えた私は、「葬儀は人類の存在基盤」だという自説が間違っていないことを改めて確信した次第である。

葬式に迷う日本人

葬式に迷う日本人

●儀式論
もう1冊は、『儀式論』((弘文堂)である。
合計600ページの厚さで函入り、我が表作となる予感がする。結婚式にしろ、葬儀にしろ、儀式の意味というものが軽くなっていく現代日本において、少しの悲壮感と大いなる使命感をもって同書を書き下ろした。
私は、人間は神話と儀式を必要としていると考える。社会と人生が合理性のみになったら、人間の心は悲鳴を上げてしまうのではないか。
結婚式も葬儀も、人類の普遍的文化である。多くの人間が経験する結婚というち慶事には結婚式、全ての人間に訪れる死という弔事には葬儀という儀式によって、喜怒哀楽の感情を周囲の人々と分かち合う。
このような習慣は、人種・民族・宗教を超えて、太古から現在に至るまで行われている。儀式とは人類の行為の中で最古のもの。ネアンデルタール人も、現生人類(ホモ・サピエンス)も埋葬をはじめとした葬送儀礼を行った。またそれは、エジプトのピラミッドや大阪府にある大仙陵古墳など、古の墓が現存することからも分かるだろう。
人類最古の営みといえば、ほかにもある。石器をつくるとか、洞窟に壁画を描くとか、雨乞いの祈りをするとか。しかし現在、そんなことをしている民族はいない。儀式だけが現在も続けられているわけである。最古にして現在進行形ということは、儀式という営みには普遍性があるのではないか。ならば、人類は未来永劫にわたって儀式を続けるはずだ。
実は、人類にとって最古にして現在進行中の営みは、ほかにもある。食べること、子どもをつくること。そして寝ることだ。これらは食欲・性欲・睡眠欲として、人間の「三大欲求」とされている。つまり、人間にとっての本能である。私は、儀式を行うことは人類の本能ではないかと考える。ネアンデルタール人の骨からは、葬儀の風習とともに身体障がい者をサポートした形跡が見られる。儀式を行うことと相互扶助は、人間の本能なのだ。
これはネアンデルタール人のみならず、私たちホモ・サピエンスの場合も同じである。儀式および相互扶助という本能がなければ、人類はとうの昔に滅亡していたのではないだろうか。私は、この本能を「礼欲」と名づけたい。
「人間は儀式的動物である」という哲学者ウィトゲンシュタインの言葉にも通じる考えである。この礼欲がある限り、儀式は永遠に不滅である。そして、礼欲を成す儀式と相互扶助の二大本能を組み合わせた冠婚葬祭互助会には普遍性があるといえよう。
互助会業界の方々は、どうか自信を持っていただきたい。

儀式論

儀式論

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*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2016年1月7日 一条真也