一条真也です。
『実践・快老生活』渡部昇一著(PHP新書)を読みました。
「知的で幸福な生活へのレポート」というサブタイトルがついています。
帯には物思いに耽る著者の写真とともに「ベストセラー『知的生活の方法』から40年」「86歳にして到達した『人生の至福』についての最終結論」「衰えぬ知的生活、家族、お金、健康、『あの世』のこと・・・」と書かれています。
本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
第一章 「歳をとる」とはどういうことか
第二章 凡人にとって本当の幸福は「家族」である
第三章 「お金」の賢い殖やし方、使い方
第四章 健康のために大切なこと
第五章 不滅の「修養」を身につけるために
第六章 次なる世界を覗く――宗教・オカルトについて
第七章 「幸せな日々」のためにやるべきこと
「あとがき」
第一章「『歳をとる』とはどういうことか」では、「歳をとってみないとわからないことがある」として、著者は以下のように述べています。
「私は、この本において、現在の私が到達しえた『人生の幸福』についての考え方、そして『快老生活』すなわち『快き老いの生活』の方法について、率直にレポートしようと思う。自分自身でさえ思いもしなかったことだったのである。まだ86歳という歳に到達していない人には、何らかの参考になる部分もあるのではないかと思う。それに、自分自身が経験し、『なるほど、歳をとるとはこういうことか』と気づかされたことであるから、誰にはばかることもなく書くことができる」
また、「『下流』を杞憂するより自らの足下を固めよ」では、「下流老人」という言葉を紹介した後で、著者は以下のように述べます。
「自分が老人になったあとの生活というものは、自分がそれまでなしてきたことの到達点であり、自らの「実り」の収穫なのだから。究極的にいえば、よほどの不運に見舞われた人以外は、自らの到達点については自分自身で責任を取るしかない。どんなに『社会が間違っている』と叫んだところで、結局のところ、自分、そして自分の愛する家族の生活は、自分で守るしかないのである」
続けて、著者は「下流老人」について以下のように述べます。
「とするならば、『下流老人』という言葉を聞いて、ただ右往左往するのは杞憂以外の何ものでもない。そんなことに心悩まされる暇があったら、まず一歩を踏み出し、自らの足下を着実に固め、自分の老後を充実させる工夫を1つでも重ねたほうがいい。そしてそのときには、恐怖に追い立てられて歩むよりも、『こんな快い老後の生活を送りたい』という希望に向かって歩んだほうがいいに決まっている。若い時分からなら、準備のための時間はたくさんある。もう老境にさしかかった人でも、道はいくらでもある。なぜなら、幸福や満足というものは、畢竟その人の心の内なるものだからである」
「散歩好きだった私が存分に歩けなくなった」では、歳をとると思いもよらぬ顕著な変化があるとして、著者は「散歩が好きでずっと続けていたのに、このごろは足が弱って思うように散歩ができなくなってきたのである。それは私にとって驚くべきことであった」と述べています。また、「食事も変わってきた。私の歳になると1日に1食や2食で十分なのである」とも述べます。そして、著者は以下のように言うのでした。
「論語の中に『70にして心の欲するところに従って矩をこえず』という言葉がある。今、この歳になると、なるほど、その意味がよくわかる。矩をこえようと思っても、もうこえられないのである。平均寿命が延びた現代を孔子の時代と比べるならば、『年齢を0.7で割れ』といわれる。それに準じるならば、孔子の時代の70歳というのは、現在の100歳に相当することになる。100歳では行き過ぎであるというなら、せいぜい90歳くらいであろうか。であるならば、確かに90歳、100歳の人にとっては、矩をこえたくてもこえられないことが、実感としてわかる」
著者は「歳をとると自然に矩をこえなくなる」として、「若いころは、孔子のいう『矩をこえず』というのは、さぞかし高邁な境地なのだろうと思っていた。だが、今にしてわかったことは、孔子は実に正直な人だったのだろうということである。凡人でも、歳をとると自然に矩をこえなくなるのであるから」とも述べています。
また、「私小説な読み物は年寄りには馬鹿馬鹿しい」として、著者は夏目漱石の『こころ』を取り上げます。若い頃に読むと感動したが、老人になってから読むと白けた気持ちになったと告白し、以下のように述べています。
「そもそも漱石にかぎらず、私小説的な読み物は、人生経験の豊富な年寄りには楽しめないものかもしれないのである。先にも書いたように、歳を重ねると、若き日の悩みの多くが実に取るに足りぬものであることが、よくわかるようになるのであるから」
では、高齢者はどのような本を読むのがいいのでしょうか。「純粋なエンターテインメントのおもしろみ」として、著者は以下のように述べています。
「必ずしも子供向けというわけではないが、私が子供のころから愛読していた捕物帳、とりわけ岡本綺堂の『半七捕物帳』は、あいかわらず、何度読んでもおもしろい。『歳をとって頭が子供に返ったのかな』とも思うが、子供を喜ばせるようなストーリーは楽しく感じる。それはつまり、純粋なるエンターテインメントとして成立していることの裏返しなのであろう。最近は読み返していないが、漱石の『坊っちゃん』を読み返すと、案外おもしろく感じるのかもしれない。深刻ぶった私小説よりも、子供にとってもおもしろい話のほうが、歳をとってからも楽しめる。それがこのごろの読書人としての私の率直な感想である」
「時代が変わっても進化しない本物を学ぼう」では、著者はこれまでの数々の著書でも述べてきたことを以下のように繰り返しています。
「自然科学は日進月歩である。逆にいうならば、それだけ未知の領域が多く、不完全な学問であるということを意味する。それと比べた場合、たとえば詩歌などは、時代が進んで進化するというものではない。山上憶良と、万葉風の詩を讃えた斉藤茂吉を比べたときに、斉藤茂吉のほうが進化していると簡単にいえるものではない。あるいは、松尾芭蕉とその後の俳人とを比べてみて、芭蕉後の俳人のほうが芭蕉より進化したともいえない。西洋哲学の分野でも、ソクラテスやアリストテレスと比べて、サルトルやハイデッガーがどれほど進歩しているといえるだろうか。
時代が変わっても進化しないものこそ、本物であろう。自然科学は尊ぶべきものではあるが、進化する余地があるのだから、まだまだ本物とはいえない。ある学説を一心に学び、一生涯かけて取り組んでいたところ、ある日、天才がまったく違う学説を提示して、一夜にして常識が変わってしまうことも起こりうる」
第二章「凡人にとって本当の幸福は『家族』である」では、「長姉が教えてくれた人生のいちばんの幸福」として、市井に生きる普通の人間にとっての幸せというものは、畢竟親しい家族、親族、そして子供や孫などとのふれあいにあると指摘し、著者は以下のように述べます。
「凡人にとって家族生活の幸せこそが、即、人生の幸せなのである。私は、人生における腹の底からの幸せ感は、子供を持ち、孫を持つようになって初めて体験することができた。しかも、若いときから幸福ではあったけれども、ジジババになってからの幸福感は、まことに格別なものである。パスカルは、人間は天使であると同時に動物だといっている。ならば、動物的な幸福の最たるものは、子供を持ったり、孫を持ったりすることであろう。あらゆる生物の営みを見てもわかるとおり、それこそが生を享けたものとしての天与の使命でもあるのだから」
「時を失することなく結婚を奨めよ」では、著者は「結婚」について以下のように述べています。
「日本国憲法には『婚姻は、両性の合意のみに基いて』成立するとある。そのせいばかりではあるまいが、もっぱら恋愛結婚を重んじる風潮も、いつのまにかできた。いつまでも子供が結婚しない場合であっても、見合いも紹介せず、何となく見守るだけになってしまう親御さんも多いのではないだろうか。だが、子供をもうけるには、こと女性は身体的な年限もある。別に恋愛結婚に非を唱えるものではないが、いつ来るとも知れぬ『運命の人』を待ち続けて機会を逸するのは、取り返しのつかぬ悲劇以外の何ものでもない。孫を見るという『腹の底からの幸せ』を味わうためにも、何らかの方法で結婚を奨めるのに躊躇をすべきではないだろう」
また、著者は以下のようにも述べています。
「一昔前までは親族に世話焼きがいて、あれこれとお見合いの手配などをしてくれたものである。現代であっても、親や親族がそのように世話を焼いて悪いことはあるまい。先に見たように最近でも、いつかは結婚したいと考える人が9割にも上るのだから。恋愛結婚よりもお見合い結婚のほうが離婚率が低いということも、最近、つとにいわれることである。また最近は、様々な結婚相談サービスも盛んである」
『易経』には「霜を履んで堅氷至る」という言葉があるそうです。霜を履んで歩く季節が来ると、氷が張ってきて、やがて堅い氷になるという意味です。著者は「徴候に気がついたときにすぐに手を打たないと、遅すぎることがあることは忘れるべきではない」と述べています。
著者は、「結婚という大博打のリスクを低める方法」として、以下のような結婚観を披露しています。
「結婚というのは非常に大きな博打だ。けれども、兄弟がみなしっかりしている相手と結婚する場合は間違いが少ない博打になる。また、家庭生活を送る場合、相手は相手の親のあり方に多かれ少なかれ影響を受けることも考えておいていい。相手の親や兄弟がしっかりしている人と結婚すれば、結婚後にこちらも変なことはできない。それが結婚生活に不和をもたらさないことにもつながる」
著者は、「見てみろ。あのおばあさんの幸福そうな顔」として、以下のように子供の結婚について言及しています。
「子供が結婚に躊躇するかどうかは、もちろん親が子供にどんな影響を与えたかが大きい。夫婦が円満で、親と過ごす時間が非常に楽しかったという子供は、躊躇なく結婚するはずだ。『よい記憶』を子供に残すことも親の仕事なのである」
「子供に対する教育が成功したかどうかは、子供が偉くなったかどうかだけでは判断できない。私は、子供が結婚をして子供をつくれば、それだけでも教育は成功だと思う。子孫がつながっていくことは本当に素晴らしいことなのだから」
さらに著者は、「子供のいない人生に手応えはあるか」として、「子育て」について以下のように述べています。
「子育てというのは、とても厄介なものだ。『子供がいなければもっとのんびりと暮らせるのに』とついつい思ってしまう親も多いことだろう。しかし、子供を育てることは厄介だけれども、それが人生の手応えになる。配偶者もいない、子供も育てない、親も養わない、たった1人でいる、というのは気楽かもしれないが、人生の手応えのようなものをあまり感じないのではないか」
人間にとって、子供とは何か。著者は以下のように述べます。
「男も女も、子供をつくる肉体を天から与えられている。進化論から見ても子供を持つことは幸せなことだ。キリスト教の聖書でも、人は1人でいるのはよからず、としている。神はアダムにエバを与え、エバにアダムを与えた。子供をつくるにはアダムとエバが結びつくしかない。一方、日本の古事記でも、『わが身は、成り成りて成りあわざるところ一処あり』という女性神の伊邪那美命に対して、男性神の伊邪那岐命が『わが身は、成り成りて成り余れるところ一処あり。このわが身の成り余れるところをもって、汝が身の成りあわざるところに刺し塞ぎて、国土を生みなさむ』といい、国産みがなされたとされる。シンプルであるが、これ以上の真実はない。母乳のことを考えても人間の身体は、主に母親が子供の面倒を見るようにつくれられている。夜中に赤ん坊がぐずった場合、母親はすぐに目覚めるが、男親はなかなかそういうわけにはいかないともいわれる。やはり母親が子供の面倒を見るのが、いちばん自然の法則には適っているのである」
著者は「親の恩は子に送れ」として、「先祖代々続いてきたDNAを子供に確かに渡したという実感は、安心立命の基ともなる。凡人は、孫や曾孫がいれば特別に修行しなくとも大往生できる、とうのは私の年来の確信である」と述べ、さらに以下のように喝破しています。
「結婚式をやらずに籍を入れるだけの夫婦や、家族を呼ばないで友達で集まって会をする夫婦もいる。しかし、できるならば、少なくとも両家の家族親類が集まった披露宴はするべきである。ささやかな披露宴もできないような結婚をしてはいけないと思う。そういう男女の結びつきを『野合』といったものである。昔のように両家の家族が見守る中での結婚のほうが自然であろう」
この「ささやかな披露宴もできないような結婚をしてはいけない」という言葉には深い感動をおぼえました。わたしの座右の銘の1つとし、わが社の冠婚スタッフにも伝えたいと思います。
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著者は、「『金婚式』は『結婚式』よりもさらに素晴らしい」として、「ベターハーフ」という言葉を取り上げ、以下のように述べています。
「ベターハーフというのは、もともと天国で1つだった魂が、この世では男性と女性に分けられて別々に生まれてくるという発想である。もともと1つだったから、そのような相手と出会って結婚すると、身も心も相性が合うのだという。なるほどロマンティックな考え方だし、そういうこともあるのかもしれない。しかし考えてみれば、もともとが1つであろうがなかろうが、50年もお互いに思いやって生きてくれば、大概はベターハーフになるのである。そして、そういう関係を長きにわたって結びえた人間というのは、かなり信用できる人間だと思う」
これは、拙著『結魂論〜なぜ人は結婚するのか』(成甲書房)で紹介したプラトンの「人間球体説」につながる考え方ですね。
家族蔑視や独身賛美の考え方を著者は「悪魔のささやき」と断じます。
そして、「『悪魔のささやき』を退ける智慧」として以下のように述べています。
「結婚により子供をもうける営みこそが天地のいちばんの大元であることを否定したら、人間社会、ひいては人間の生命そのものが成り立たない。独身主義の聖職者が、世俗における結婚を否定するどころか祝福してきたことこそ、長い歴史で培われてきた叡智であろう。歳をとると、そういう歴史の智慧の妙味を噛みしめることができる。長い人生経験を顧みながら『これは、本当だなあ』『結婚は大事だなあ』と実感を持って受け止められる。もちろん若い人に強制することはできないけれども、それでも年配者が、古より語り継がれてきた天地の理をきちんと若い人に伝えていくことは大切なことなのである」
著者は、「栄えている社会のよき伝統に学ぶ」として、「栄えている社会は、どこかによい伝統を持ち続けている。もし、『人殺しをしてもよい』というような社会であれば、その社会は滅びているに違いない」と述べ、さらに以下のような大きな視野での発言を行います。
「地球環境を考えれば、人口が爆発的に増えればいいというものではないが、国や文明というものを考えたときには、それを担う民族の人口がある程度は増えなければならない。どの国でも、子供がいなくなれば国はなくなる。恐竜のような巨大な動物でも、子供がいなくなれば消えていく。古代文明をつくった国でも、子供もつくれぬような環境になってしまったところは消滅してしまった」
そして古今東西の文化を知り尽くしている著者は、以下のように述べるのでした。
「私が知るかぎり、あらゆる文化が栄えた場所は、家族が重んじられたところである。家族がうまくいっていると、みんなが発展する。少なくとも家族が重んじられる国が滅びることはない。だが、その伝統が崩れていくと、栄えている国でも崩れていく。その伝統の恩恵を次代につないでいくことこそ、歳をとった者の役割であろう」
第四章「健康のために大切なこと」では、「自分を呪っては絶対にいけない」として、著者は以下のように述べています。
「最初に健康というものについて結論めいたことを書いてしまうと、本当に大切なことは2つあるように思う。1つは、身体の病気についても、やはり『心』や『精神』がとても重要なる役割を果たすということ。もう1つは、自分で健康法を試すならば、『その健康法を実践している人が長生きしているものを選ぶにかぎる』ということである」
第五章「不滅の『修養』を身につけるために」では、「漫然とやってはいけない」として、著者は以下のように述べています。
「何らかの目的意識に基づいて、実際にそのテーマに寄り添いながら読んでいけば、間違いなく次々と目前に課題は現われ、次に何を読むべきかも見えてくるのである。そのときにお奨めしたいのは、私がこれまで『知的生活の方法』などで繰り返し書いてきたように、自分の本を買って、重要だと思われる部分に線を引き、メモを記入し、それを自分の蔵書としていく方法である。こうしておけば、何かの機会に、『あの本ではどうだったか』と疑問が湧いたとき、書棚に行ってページを繰るだけで、自分が考え、感じていたことが生き生きとよみがえってくる。自分自身による、自分自身のための、かけがえのない思考の蓄積になるのである」
続けて、著者は以下のように「知的生活」について述べます。
「そのような本を揃えていけば、それは自分にとって最良の『書庫』となり、その場所が自分にとって最高に居心地のよい『書斎』になる。自分自身の思考の蓄積が、目に見えるかたちですぐ手の届く場所にあることは、便利なことこのうえないし、成果も一望できて気分もよい。自分の関心を中心に捉えて書庫を充実させていけば、六畳一間、八畳一間でも十分に威力を発揮するのである」
著者は、「高齢者に適しているのは『修養』」として、以下のように述べています。
「理系の研究者は、若いときには非常に高い業績を残すのに、歳をとると業績を残せなくなることが多い。アインシュタインも30歳を過ぎてからはほとんど凡人だったという説もある。一方、幸いなことに、私は文科系の研究者であった。文科系の研究者の場合、歳をとってもずっと研究を続けられることが多い。文科系は『蓄積』なのだ。歴史にせよ、文学にせよ、進化する余地の少ない普遍的なものを研究していれば、学べば学ぶほど知見は蓄積していく。だから、そうそう若い研究者には負けないで済む。もちろん、新史料の発見などでガラリと見方が変わることがないわけではないが、それすらも目端の利く人であれば十分に対応することができるだろう」
さらに著者は、以下のように述べています。
「私は文科系の中でも、高齢者に適しているのは『人間学』だと思う。『修養』といってもいいかもしれない。人間学の中心になるのは古典や歴史だ。古典というのは何百年間も読み継がれてきたものだから、歳をとってからでも大いに参考になる。もともとが古いものなのだから、若い人に追い越されたり化石扱いされることなど心配せずに、じっくりと学んで益がある。壮年時代に勉強するべきことは、専門の仕事の他の『不易流行』の『不易』のほうだ。人生経験を積んだ高齢者こそ、古典を読めば、いろいろと考えさせられることが出てくる」
では、「修養」とは何でしょうか。「教養」と同じような意味なのでしょうか。
著者は「『修養』と『教養』の違い」として、以下のように述べています。
「私には、『教養』という言葉はどちらかというと青年向きの響きであるように感じられてならない。これは、私が旧制高校のことを知っている年齢であることによるのかもしれない。『教養』と聞くと、旧制高校の人たちがドイツ観念哲学を学んでいるようなイメージを想起してしまうのである。若い人に対しては『教養を高めよう』でいいかもしれないが、高齢者に『教養を高めよう』というのは、どうもしっくりこない。年齢に関係なく自分を磨き、自分を高めることは大事だから、やはり『修養』や『人間学』という言葉を使うべきではないか」
さらに著者は、以下のように述べています。
「様々な読書や勉強を通じて、教養を高めることが大切なことはいうまでもない。だが、それ以上に大事なのは、人としていかに生きるかという心構え、覚悟を知ることではなかろうか。そのために必要なのが『修養』であり、『人間学』なのである。そしてそれは、歳を重ねてからもますます大切になってくる。『修養』は不滅である。人間学を学んで修養を積んでいる人は、いつまでも衰えない」
第六章「次なる世界を覗く――宗教・オカルトについて」では、「パスカルの賭けの理論」として、著者がこれまで何度も紹介してきたパスカルの『パンセ』の一節を取り上げます。
「神様はいると賭けて、もしいたらすべてを得る。もし神様がいないとしても失うものは何もない。神がいるほうに賭ければ、現世においても得をする。神がいるほうに賭けて、損することは何もない。ところが、神がいないほうに賭けて、もし神がいたら大変なことになる。何も得られず、すべてを失うことになってしまう。
このパスカルの賭けの理論は、私にとってとても説得力のあるものだった。それで私は、昭和26年(1951)に洗礼を受ける決心をしたのであった。後年、谷沢永一氏とこれについて対談したとき、谷沢氏は『これは世界最大の脅迫ですな』とおっしゃって、ニコリとされた」
ところで、日本には天皇陛下がおり、日本人の民族宗教は神道です。著者は「外国人に天皇、神社を理解させる方法」として、以下のように述べています。
「2016年の伊勢志摩サミットでは、各国首脳が伊勢神宮を参拝した。このときに安倍首相が各国首脳にどのような説明をしたのかは知らないが、おそらく2つのことを説明したのではないかと、私は想像している。1つは、『日本の神話に出てくる神々の系図と、史実に出てくる天皇の系図が連なっている』こと。もう1つは、『現在の世界の大問題は宗教を背景とした戦争だが、日本ではすでに古代から宗教戦争はなくなっている』ということである」
第七章「『幸せな日々』のためにやるべきこと」では、「『生前葬』はかけがえのない記憶を残す」として、著者は以下のように述べています。
「今から20年以上前になるが、家内の伯父が亡くなった。会葬には北海道など遠くから親類が集まってきた。そのときに、なんと不合理なことかと感じた。亡くなった人は、自分の死後に北海道から会葬に来てくれた人がいることなどわからない。どうして生きているうちに会わなかったのだろう、と思った。そこで私は、自分の生前葬をやることにした。田舎に帰って、いとこや、いとこの子供たちに声をかけて、温泉旅館で生前葬をした。みんなとても喜んでくれた」
著者は、「遺産相続など案外脆い」として、以下のように述べます。
「正月でも夏休みでもかまわないので、子供や孫を集めて1週間くらいどこかに行って、みんなで楽しく過ごす。兄弟、いとこどうしでも普段は会う機会はほとんどないだろうから、ときどき会う機会をつくってやる。子供や孫には楽しい記憶が残る。お金はかかるが、そういうことにお金を使ったほうがいい。私は、子供3人の結婚式も、派手なものではないけれども仲人さんを立て、たくさんのお客さんを呼んで披露した。経済的にはかなりの負担だったが、結婚した当人たちにとっては、忘れがたき記憶になっていると思う」
また、「この人とまた会えるとはかぎらない」として、著者は述べます。
「思えば私は、世間からは無駄と思われるような式をよくやっているほうだ。大学から名誉博士号をもらったときも、大学を退職するときも、多くの人に集まってもらって祝ってもらった。馬鹿にならないお金がかかったが、そのときに集まっていただいて本当によかったと思っている。そのときにお会いした人の中でも、もう会えなくなった方が少なくないのだ」
続けて、著者は自身の金婚式に言及し、以下のように述べます。
「金婚式は3ヵ所で行なった。生前葬を崩したようなかたちでやった田舎での金婚式、上智大学の関係者に集まってもらった簡単な金婚式、それから正式な金婚式は親しくつきあっている方を中心に集まっていただいてホテルニューオータニで行なった。そのときの写真を見ると、懐かしい顔がたくさんあるが、あれからたった5年なのに亡くなっている方もたくさんいる。『あのときに会っておいてよかったなあ』としみじみ思い、感慨が胸にこみ上げる。私くらいの歳になると、『この人とは人生の中でまた会えるとはかぎらない』ということがよくわかってくる。できるだけ会える機会をつくっておきたい」
そして、「人生の本当の幸せは平凡なところに宿る」として、本書の最後に著者は以下のように述べるのでした。
「好きな本を読み、頭に浮かんだ考えを書いていく生活は、これからも変わるまい。とりわけ読書は、自分よりもずっと偉い人たちの考え方に触れることであり、その人たちと対話することでもあるから、ずっと続けていきたいと思っている。今は、流れるままに日々暮らしながら、幸せを感じている。その幸せのあり方は、本書で書いてきたとおりである。あとは、佐藤一斎の『一死睡るが如し』ではないが、『もう死んでも惜しくない』と感じられる歳まで生きられたらいいな、と思う。
やはり人生の本当の幸せは、家族とのふれあいなど、ごく平凡なところにこそ宿るのではなかろうか。これが私の最終結論である」
わたしは、著者の「最終結論」を読んで、心の底から感動しました。
あれほど膨大な本を読み、あれほど知的生活というものを求め続けた方が、「人生の本当の幸せは、家族とのふれあいなど、ごく平凡なところにこそ宿る」と語ったのです。なんと偉大なことでしょうか!
著者にとっての「知的生活」は「幸福生活」に直結していたのです。
わたしは『永遠の知的生活』(実業之日本社)で「現代の賢人」と呼ばれる著者と対談させていただく機会に恵まれましたが、本書を読んで、ますます著者への尊敬の念が強まりました。生前葬や金婚式のエピソードにも感銘を受けましたが、「ささやかな披露宴もできないような結婚をしてはいけない」という言葉には著者の深い叡智が滲み出ています。本書は、冠婚葬祭業を営むわたしへのエールの書のようにも思えました。
渡部昇一先生の書斎で、先生と
*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。
2016年12月15日 一条真也拝