曹洞宗フューネラル講演

一条真也です。
28日の午前中、車で山口県山口市に向かいました。
行き先は、山口グランドホテルです。この日、ここで山口県曹洞宗布教研究会の講演会が開催され、わたしが講師として招かれたのです。
「なぜ葬儀は必要か」と「グリーフケアの時代」の2部構成です。


司会者による開会宣言

会長の挨拶



曹洞宗さんといえば、ブログ「曹洞宗講演」で紹介したように、2012年5月25日に愛知県で曹洞宗寺院の僧侶・寺族・檀信徒役員の方々向けに講演をしました。テーマは「人とのつながり〜有縁社会をめざして〜」でした。
また、ブログ「横浜フューネラル対談」で紹介したように、今年の7月6日にパシフィコ横浜で開催された「フューネラルビジネスフェア2016」で、仏教界きっての論客で知られる全日本仏教青年会顧問の村山博雅老師と「葬送儀礼の力を問う〜葬儀の本質とは」をテーマに対談させていただきました。その村山老師は、「萩の寺」として有名な、東光院豊中市南桜塚)の副住職ですが、こちらは曹洞宗のお寺です。


みなさん、こんにちは!

なぜ葬儀は必要か



わたしはまず、第1部の「なぜ葬儀は必要か」を1時間話しました。
登壇したわたしは、深々と一礼してから、「みなさん、こんにちは! 本日は、お招きいただき、ありがとうございます。曹洞宗の僧侶の方々を前に『葬儀』について話をさせていただくということで、誠に光栄です。また、まさに『釈迦に説法』ですので、恐縮です。仏式葬儀は曹洞宗によって基本的なスタイルが確立され、発展してきました。その仏式葬儀の本質についても考えを述べさせていただきたいと存じます」と言いました。


すべては1991年に始まった(1)



それから、「すべては1991年から始まった」という話をしました。現代日本の葬儀に関係する諸問題や日本人の死生観の源流をたどると、1991年という年が大きな節目であったと思います。最近、往復書簡を交わした宗教学者島田裕巳氏も1991年が日本人の葬儀を考える上でのエポックメーキングな年であると述べていましたが、わたしもまったく同意見です。まさにその年に島田氏の『戒名』(法蔵館)と拙著『ロマンティック・デス〜月と死のセレモニー』(国書刊行会)が刊行されました。ともに既存の葬式仏教に対して大きな問題を提起したことで話題となりました。その他にも「死」と「葬」と「宗教」をめぐって、さまざまな問題が起こりました。


講演会のようす



「死」においては、脳死問題をはじめ、安楽死尊厳死臨死体験と、人の死をめぐる議論がヒートアップしました。91年3月には作家立花隆氏のレポートによってNHKテレビで「臨死体験――人死ぬとき何をみるか」が連続放映され、すさまじい臨死体験ブームが巻き起こりました。また92年1月には、脳死臨調が「脳死は人の死」として臓器移植を認める最終答申を宮沢首相に提出し、さまざまな論議を呼んでいます。


すべては1991年に始まった(2)



「葬」においては、海や山などへの散灰を社会的に認知させる「自然葬」運動によって、法務省が条件つきで「散灰」を認めました。91年2月に「葬送の自由をすすめる会」が発足しています。また、レーザー光線にスモークマシン、シンセサイザーなどを駆使した「ハイテク葬儀」も登場しました。散灰というローテク葬儀とショーアップされたハイテク葬儀は、まったく正反対のべクトル上にあり、この2つが同時期に話題となったことは非常に興味深いと思いました。


宗教界の動きについても説明しました



「宗教」においては、91年1月にはオウム真理教が「救済元年」を宣言して、暴走し始めました。2月には創価学会が「学会葬」を開始し、11月には日蓮正宗創価学会およびSGIを波紋しています。そして、12月には幸福の科学が東京ドームにおいて第1回「エル・カンターレ祭」を開催しました。
その他、宜保愛子というスーパースターの出現による霊能ブーム、チャネリングやヒーリングなどの精神世界ブームも忘れることはできません。これらの「死」と「葬」と「宗教」にまつわる話題は連日マスコミでも取り上げられ、いずれも社会的に大きな関心を集めました。それにしても、これだけの現象がわずか1年の間に集中したのです。改めて、人々の死生観を中心とした価値観が大きな地殻変動を起こし始めたということがわかります。


わが「葬儀四部作」

葬式に迷う日本人』について



それから、わたしは「0葬」について話しました。通夜も告別式も行わずに、遺体を火葬場に直行させ焼却する「直葬」をさらに進め、遺体を焼いた後、遺灰を持ち帰らず捨てるのが「0葬」です。わたしは宗教学者島田裕巳氏が書いた『0葬――あっさり死ぬ』(集英社)に対して、『永遠葬――想いは続く』(現代書林)を書きました。「永遠」こそが葬儀の最大のコンセプトであり、「0葬」に対抗する意味で「永遠葬」と名づけたのです。かつて、島田氏のベストセラー『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)に対抗して、わたしは『葬式は必要!』(双葉新書)を書きました。今回は、戦いの第2ラウンドということになります。そして、わたしたちはついに直接対決を行い、今月22日に『葬式に迷う日本人』(三五館)という共著を上梓しました。「最期の儀式を考えるヒント」というサブタイトルがついていますが、この本で葬儀や墓に関する問題はすべて語り尽くされていると思います。


「薄葬」の流行



ナチスやオウムは、かつて葬送儀礼を行わずに遺体を焼却しました。ナチスガス室で殺したユダヤ人を、オウムは逃亡を図った元信者を焼いたのです。今年になって、「イスラム国」と日本で呼ばれる過激派集団が人質にしていたヨルダン人パイロットのモアズ・カサスベ中尉を焼き殺しました。わたしは、葬儀を抜きにして遺体を焼く行為を絶対に認めません。しかし、イスラム国はなんと生きた人間をそのまま焼き殺したのです。


講演のようす

次第に熱が入ってきました



現在の日本では、通夜も告別式もせずに火葬場に直行するという「直葬」が増えつつあります。あるいは遺灰を火葬場に捨ててくる「0葬」といったものまで注目されています。 しかしながら、「直葬」や「0葬」がいかに危険な思想を孕んでいるかを知らなければなりません。葬儀を行わずに遺体を焼却するという行為は「礼」すなわち「人間尊重」に最も反するものであり、ナチス・オウム・イスラム国の巨大な心の闇に通じているのです。


なぜ「死者を軽んじる」民族に落ちぶれてしまったのか



一連のオウム真理教事件の後、日本人は一気に「宗教」を恐れるようになり、「葬儀」への関心も弱くなっていきました。もともと「団塊の世代」の特色の一つとして宗教嫌いがありましたが、それが日本人全体に波及したように思います。それにしても、なぜ日本人は、ここまで「死者を軽んじる」民族に落ちぶれてしまったのでしょうか?


葬儀は「物語」の癒し

「成仏」という物語がこころを癒す



葬儀によって、有限の存在である“人”は、無限の存在である“仏”となり、永遠の命を得ます。これが「成仏」です。葬儀とは、じつは「死」のセレモニーではなく、「不死」のセレモニーなのです。そう、人は永遠に生きるために葬儀を行うのです。「永遠」こそが葬儀の最大のコンセプトであり、わたしはそれを「0葬」に対抗する意味で「永遠葬」と名づけたのです。


葬儀は人類の存在基盤である!

講演会のようす

講演会のようす



さらに、わたしは『唯葬論』(三五館)を上梓しました。
同書のサブタイトルは「なぜ人間は死者を想うのか」です。わたしのこれまでの思索や活動の集大成となる本です。
わたしは、人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えています。約7万年前に、ネアンデルタール人が初めて仲間の遺体に花を捧げたとき、サルからヒトへと進化しました。その後、人類は死者への愛や恐れを表現し、喪失感を癒すべく、宗教を生み出し、芸術作品をつくり、科学を発展させ、さまざまな発明を行いました。
つまり「死」ではなく「葬」こそ、われわれの営為のおおもとなのです。
そして、いま、超高齢社会を迎えた日本人には「人生を修める」という心構え、すなわち「修活」が必要とされています。


机上には『儀式論』のチラシが・・・・・・

儀式論』を紹介しました

儀式論』全14章の構成

儀式なくして人生なし!



そして、わたしは600ページの大著、『儀式論』(弘文堂)を書き、来月8日に発売されます。同書を執筆するにあたり、わたしは「なぜ儀式は必要なのか」について考えに考え抜きました。社会学者エミール・デュルケムは、名著『宗教生活の原初形態』の中で「さまざまな時限を区分して、初めて時間なるものを考察してみることができる」と述べています。これにならって、「儀式を行うことによって、人間は初めて人生を認識できる」ということが言えないでしょうか。儀式とは世界における時間の初期設定であり、時間に区切ることです。それは時間を肯定することであり、ひいては人生を肯定することなのです。さまざまな儀式がなければ、人間は時間も人生も認識することはできません。まさに、「儀式なくして人生なし」です。


最古にして現在進行形の営為

儀式という営みには普遍性がある!



そして、わたしは、儀式が人類のあらゆる行為の中で最古のものであることに注目しました。ネアンデルタール人だけでなく、わたしたちの直接の祖先であるホモ・サピエンスも埋葬をはじめとした葬送儀礼を行いました。人類最古の営みは他にもあります。石器を作るとか、洞窟に壁画を描くとか、雨乞いの祈りをするとかです。しかし、現在において、そんなことをしている民族はいません。儀式だけが現在も続けられているわけです。最古にして現在進行形ということは、普遍性があるのではないか。ならば、人類は未来永劫にわたって儀式を続けるはずです。


「礼欲」の発見

人間と儀式



じつは、人類にとって最古にして現在進行形の営みは、他にもあります。
食べること、子どもを作ること、そして寝ることです。これらは食欲・性欲・睡眠欲として、人間の「三大欲求」とされています。つまり、人間にとっての本能です。わたしは、儀式を行うことも本能ではないかと考えます。ネアンデルタール人の骨からは、葬儀の風習とともに身体障害者をサポートした形跡が見られます。儀式を行うことと相互扶助は、人間の本能なのです。この本能がなければ、人類はとうの昔に滅亡していたのではないでしょうか。


葬儀が人類の滅亡を防いできた



葬儀は人類の存在基盤です。葬儀は、故人の魂を送ることはもちろんですが、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。
もし葬儀を行われなければ、配偶者や子供、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自死の連鎖が起きたことでしょう。
葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。
葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのではないでしょうか。


書籍販売コーナー

葬式に迷う日本人』も販売されました

書籍販売コーナーに集まる参加者

試し読みもできますよ!



第1部の講演を終えると、盛大な拍手を頂戴しました。
その後、20分間の休憩タイムとなりました。会場後方に設置された書籍販売コーナーを多くの参加者が訪れ、たくさん本を購入して下さいました。
その光景を感謝の気持ちで見つめながら、わたしは「この研究会の方々は、本当に勉強熱心な方ばかりだな」と思いました。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2016年10月28日 一条真也