どんな形でも連れ帰る

一条真也です。
10日、熊本地震でただ1人行方不明になっていた阿蘇市の大和晃さんの捜索で、晃さんとみられる遺体が見つかりました。行政の捜索が中断した後も晃さんを見つけたいという家族らが捜索活動を続けていたそうです。


10日のNHKニュースでは、以下のように報道されました。
「一連の熊本地震でただ1人行方が分かっていない大学生の捜索が行われている熊本県阿蘇村で、10日午前、車の運転席付近で遺体が見つかりました。警察などは行方不明の大学生の可能性があるとみていますが収容作業は難航していて、11日も引き続き行うことにしています。熊本県阿蘇市の大学4年生、大和晃さん(22)は4月16日に地震で崩落した南阿蘇村の阿蘇大橋付近を車で走行していたとみられ、4か月近くがたった今も行方が分かっていません」



晃さんは4月16日午前0時半ごろ、熊本市内の友人宅から車で阿蘇市内の実家に向かって出発しました。その時、「本震」が発生したのです。阿蘇大橋が崩落し、その土砂崩れに巻き込まれたと見られています。当然、県警や消防なども捜索したが、2度の大揺れで現場の地盤はもろくなり、梅雨時期に入りました。2次災害の危険が高く、捜索は打ち切られました。
行政としてやむを得ない判断だとは理解できましたが、両親の焦りは募りました。家庭での晃さんは、もの静かで、夕食の準備をいつも手伝ってくれるほど、家族思いの青年だったそうです。真っ暗な道を走っていたのも、16日早朝から予定していた田植えの準備を手伝おうと思ったのでしょう。

 

「行政には迷惑をかけられない」と考えた家族は、ほぼ毎日、自宅から50分かけて阿蘇大橋の下流を訪れました。腰の高さほどのやぶをかき分けました。崖崩れの危険は認識していましたが、カメラで撮影して回ったといいます。捜索しない日は、がけの上から河原周辺に目をこらしました。晃さんの所属するバスケットボールクラブの関係者らも手伝ってくれ、自治体やマスコミ関係者を通じて届けられる千羽鶴や手紙も支えになったそうです。


「ヤフーニュース」より



晃さんの父親である大和卓也さんは、遺体発見の前に「産経新聞」のインタビューを受けています。そこで、卓也さんは「正直に言えば、見つけたという事実に直面したくない気持ちもある。いざ見つけると、ことの大きさというか・・・・・・ただ息子は家に帰ろうとする途中で、行方不明になった。どんな形であれ、家に連れて帰る」と述べ、母親の忍さんも「家に連れて帰り、この手で抱きしめてあげたい」と正直な気持ちを語りました。



わたしは、お盆の時期を間近に控えた今日、晃さんの遺体が見つかったことに感銘を受けました。やはり、お盆が近づくと、死者とのコミュニケーションが活発になるのかもしれません。ブログ「死者を思い出す季節」にも書いたように、8月というのは日本人にとって鎮魂の季節です。というのも、6日の広島原爆の日、9日の長崎原爆の日、12日の御巣鷹山日航機墜落事故の日、そして15日の終戦記念日というふうに、3日置きに日本人にとって意味のある日が訪れるからです。 そして、それはまさに、日本人にとって最大の供養の季節である「お盆」の時期と重なります。


墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便 (講談社+α文庫)

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墜落現場 遺された人たち (講談社+α文庫)

墜落現場 遺された人たち (講談社+α文庫)

それから、晃さんの母親の忍さんの「家に連れて帰り、この手で抱きしめてあげたい」という言葉から、1985年の日航ジャンボ機墜落事故のことを連想しました。当時、遺体の身元確認の責任者を務めた群馬・高崎署の元刑事官である飯塚訓氏の著書『墜落遺体』と『墜落現場 遺された人たち』(いずれも講談社)を読むと、看護士さんたちが、想像を絶するすさまじい遺体を前にして「これが人間であったのか」と思いながらも、黙々と清拭、縫合、包帯巻きといった作業を徹夜で行った様子が描かれています。腕一本、足一本、さらには指一本しかない遺体を元にして包帯で人型を作ったそうです。その中身のほとんどは新聞紙や綿でした。それでも、絶望の底にある遺族たちは、その人型に抱きすがりました。その人型が柩に入れられ、荼毘に付されました。どうしても遺体を回収し、普通の葬式をあげてあげたかったという遺族の方々の想いが伝わってくるエピソードです。


葬式は必要! (双葉新書)

葬式は必要! (双葉新書)

人間にとって、葬儀とはどうしても必要なものです。
そして、葬儀をあげるにはどうしても遺体が必要でした。
儒教の影響もあって日本人は遺体や遺骨に固執するなどと言われますが、やはり亡骸を前にして哀悼の意を表したい、永遠のお別れをしたいというのは人間としての自然な人情ではないでしょうか。


遺体: 震災、津波の果てに (新潮文庫)

遺体: 震災、津波の果てに (新潮文庫)

2011年の東日本大震災では、津波の犠牲者があまりに傷みすぎて棺には入れられず、納体袋に入れられた遺体も多かったです。さらには、いくら傷んでいても遺体があるだけで幸いでした。遺体の見つからないまま葬儀を行った遺族も多くおられました。あのとき、普通に葬儀があげられることがどれほど幸せなことかを、日本人は思い知ったのではないでしょうか。



地震津波も、飛行機の墜落事故も、テロも、人間の人情にそった葬式をあげさせてくれません。さらに考えるなら、戦争状態においては、人間はまともな葬式をあげることができません。先の太平洋戦争においても、南方戦線で戦死した兵士たち、神風特攻隊で消えていった少年兵たち、ひめゆり部隊の乙女たち、広島や長崎で被爆した多くの市民たち、戦後もシベリア抑留で囚われた人々・・・・・・彼らは、まったく遺族の人情にそった、遺体を前にしての「まともな葬式」をあげてもらうことができなかったのです。逆に言えば、まともな葬式があげられるということは、平和であるということなのです。最後に、大和晃さんのご冥福を心よりお祈りいたします。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2016年8月11日 一条真也