「唯葬論」講義

一条真也です。
東京に来ています。22日の14時から神田にあるNPO法人東京自由大学の特別企画イベントで講義を行いました。拙著『唯葬論〜なぜ人間は死者を想うのか』についての特別講義です。同大学を訪れたのは4年ぶりです。


NPO法人東京自由大学の入口で

ここが「神田の学び舎」だ!



東京自由大学は小さな市民大学ですが、「現代の縁の行者」の異名を持つ鎌田東二理事長の人脈もあり、これまで信じられないような豪華メンバーが講義をしてきました。山折哲雄島薗進中沢新一茂木健一郎鏡リュウジ松岡正剛細野晴臣玄侑宗久内田樹森達也、矢作直樹、荻野アンナ香山リカといった方々・・・・・それに、あの美輪明宏さんまで!
本当に、多種多様なフロントランナーたちが訪れている「神田の学び舎」ですが、ここでわたしが講義を行うのはブログ「東京自由大学講義」で紹介したように、2011年1月23日以来です。


講師紹介のようす



編集者の方々をはじめ、いつも親しくさせていただいている方々の顔もたくさん見えて、嬉しかったです。司会の鳥飼美和子さんの講師紹介の後、わたしはパワーポイントを使いながら話しました。


講義スタート!



前回は講義前に東京自由大学のスタッフだった故・吉田美穂子さんを追悼させていただきましたが、今回も同じく同大学のスタッフであった故・岡野恵美子さんを追悼しました。ブログ「久高オディッセイ上映会&シンポジウム」で紹介した今年7月5日のイベントでは、受付に岡野さんが座っておられて、「あら、一条先生。今度11月に講義をされるんですよね。楽しみにしています!」と声をかけて下さいました。その後すぐに急逝されたと知ったときは衝撃を受けましたが、この日は姿は見えなくとも岡野さんが聴いていて下さると思って講義をさせていただきました。
まさに、この日の講義のテーマは「なぜ人は死者を想うのか」です。


講義のようす


ブログ「『唯葬論』がアマゾン哲学ベストセラー1位に!」で紹介したように、アマゾンの哲学書ランキングでも1位になった『唯葬論』は、わたしのこれまでの活動の集大成となる本です。この本では、宇宙論/人間論/文明論/文化論/神話論/哲学論/芸術論/宗教論/他界論/臨死論/怪談論/幽霊論/死者論/先祖論/供養論/交霊論/悲嘆論/葬儀論という18の論考から「死」と「葬」の本質を求めました。


唯葬論〜なぜ人間は死者を想うのか』について

さまざまな人間観




わたしは、葬儀とは人類の存在基盤であると思っています。約7万年前に死者を埋葬したとされるネアンデルタール人たちは「他界」の観念を知っていたとされます。世界各地の埋葬が行われた遺跡からは、さまざまな事実が明らかになっています。「人類の歴史は墓場から始まった」という言葉がありますが、確かに埋葬という行為には人類の本質が隠されているといえるでしょう。それは、古代のピラミッドや古墳を見てもよく理解できます。


「唯○論」とは?

宇宙論にはじまる



わたしは人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えています。世の中には「唯物論」「唯心論」をはじめ、岸田秀氏が唱えた「唯幻論」、養老孟司氏が唱えた「唯脳論」などがありますが、わたしは本書で「唯葬論」というものを提唱しました。
結局、「唯○論」というのは、すべて「世界をどう見るか」という世界観、「人間とは何か」という人間観に関わっています。わたしは、「ホモ・フューネラル」という言葉に表現されるように人間とは「葬儀をするヒト」であり、人間のすべての営みは「葬」というコンセプトに集約されると考えます。


パワーポイントを使って話しました

講義のようす



カタチにはチカラがあります。カタチとは儀式のことです。
わたしは冠婚葬祭会社を経営していますが、冠婚葬祭ほど凄いものはないと痛感することが多いです。というのも、冠婚葬祭というものがなかったら、人類はとうの昔に滅亡していたのではないかと思うのです。


神話論について語る



わが社の社名である「サンレー」には「産霊(むすび)」という意味があります。神道と関わりの深い言葉ですが、新郎新婦という2つの「いのち」の結びつきによって、子供という新しい「いのち」を産むということです。「むすび」によって生まれるものこそ、「むすこ」であり、「むすめ」です。結婚式の存在によって、人類は綿々と続いてきたと言ってよいでしょう。


ヒートアップして上着を脱ぎました



最期のセレモニーである葬儀は、故人の魂を送ることはもちろんですが、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。もし葬儀を行われなければ、配偶者や子供など大切な家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きたことでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。


そして葬儀論へ・・・・・・



オウム真理教の「麻原彰晃」こと松本智津夫が説法において好んで繰り返した言葉は、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という文句でした。死の事実を露骨に突きつけることによってオウムは多くの信者を獲得しましたが、結局は「人の死をどのように弔うか」という宗教の核心を衝くことはできませんでした。


葬儀は人生における最大の儀式



言うまでもありませんが、人が死ぬのは当たり前です。「必ず死ぬ」とか「絶対死ぬ」とか「死は避けられない」など、ことさら言う必要などありません。
最も重要なのは、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということなのです。問われるべきは「死」でなく「葬」なのです。よって、本書のタイトルは『唯死論』ではなく『唯葬論』としました。


「薄葬」の流行に警鐘を鳴らす



ちなみに「宇宙論」からはじまって「葬儀論」へと至る章立ては、2012年に逝去した偉大な思想家である吉本隆明氏の名著『共同幻想論』(角川文庫ソフィア)をイメージしました。同書は、その後の唯幻論や唯脳論の母体ともなった画期的な書物でした。不遜を承知で言えば、わたしは『唯葬論』を『共同幻想論』へのアンサーブックとして書きました。


死を想え!



以前、わたしは『魂をデザインする』((国書刊行会)という本で、2013年に逝去した文化人類学者の山口昌男氏と対談したことがあります。その時、山口氏は「葬式は無駄なこと。しかし、人類は無駄をなくすことはないよ」と言われました。弔いをやめれば人が人でなくなるのです。葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。吉本氏や山口氏をはじめ、本書は多くの死者たちのサポートによって書かれました。わたしは、本書を書きながら「生者は死者によって支えられている」と改めて痛感した次第です。


問われるべきは「死」でなく「葬」である!



未知の超高齢社会を迎える今、万人が「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」を持つことが求められます。そのためには「生者と死者との豊かな関係」が不可欠であり、「人生の卒業式」としての葬儀に対する前向きなイメージと姿勢が重要となります。葬儀を行うことをやめれば、わたしたちは自身の未来をも放棄することになるのではないでしょうか。


90分を語り切りました



今年は終戦70年の年です。日本人だけでじつに310万人もの方々が亡くなった、あの悪夢のような戦争が終わって70年目の大きな節目です。今年こそは、日本人が「死者を忘れてはいけない」「死者を軽んじてはいけない」ということを思い知る年であり、『唯葬論』を上梓できて感無量です。


唯葬論』が完売しました!



最後に、わたしは「大仰な言い方と思われるかもしれませんが、わたしは『唯葬論』を書くために生まれてきたように思えてなりません。日本人の未来はもちろん、人類の未来のために書きました。この本を読まれた方々が、葬儀という営みが、いかに社会にとって、共同体にとって、民族にとって、そして生者と死者にとって必要不可欠であるかをご理解いただければ幸いです。御静聴、ありがとうございました!」と述べると、「神田の学び舎」に大きな拍手が起こり、感激しました。おかげさまで、「出版界の青年将校」こと三五館の中野長武さんが持参してくれた『唯葬論』はすべて完売しました。


唯葬論

唯葬論

*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2015年11月22日 一条真也