司法修習生講演

一条真也です。
25日(土)の朝、小倉の自宅から車で福岡へ向かいました。
めざすは、福岡市西区小戸3−58−1の「小戸ヨットハーバー」です。
ここのクラブハウスで、慶應義塾大学ロースクール出身の司法修習生を対象に講演しました。「マイ・ローヤー」こと辰巳和正先生が主宰する勉強会である「辰巳塾」での毎年恒例となっている講演です。


小戸ヨットハーバーにて



辰巳先生といえば、北九州を代表する敏腕弁護士であることはもちろん、北九州銀行安川電機、井筒屋など、北九州市に本社のある上場企業の社外取締役を務められている凄い方です。また非常に面倒見のよい親分肌の方で、慶應の後輩のみなさんに利他の精神で尽くしておられます。
わたしは、もう何年もこの辰巳塾で「礼と法について」という講演を行ってきました。講演の最後には、わたしはいつも司法修習生の方々に向けて、「法律的には許されても、人間として許されないことがある」と述べます。
これは、辰巳先生の信条でもあります。


講演のようす



たとえ、酒気帯び検査を切り抜けたからといって、飲酒運転は絶対に許されません。相手が泣き寝入りしようが、セクハラを許してはなりません。いくら証拠がなくても、ウソを言って人を騙してはなりません。結局は、法律とは別に「人の道」としての倫理があり、それこそが「礼」なのです。
現実世界における法律の影響力は非常に絶大です。
しかし、大切なのは「礼」と「法」のバランス感覚なのです。
最後は、次の短歌を詠んで若き法曹の徒に贈りました。
「よく学び法を修めし人なれば 礼も修めて鬼に金棒」


「儀式とは何か」について話しました



しかし、今日は「礼と法について」の話はしませんでした。その内容を記したブログ「司法修習生への講演」などを修習生のみなさんがすでに読んでいるので、他の内容の話をしてほしいとのリクエストがあったのです。それで、今日の講演のテーマは「儀式とは何か」ということにしました。参加者全員に最新刊の『唯葬論』をプレゼントしてから、講演をスタートしました。


儀式とは「魂をコントロールする技術」である



わたしは、最初に「カタチにはチカラがある」と述べました。
「カタチ」というのは儀式のことです。儀式には力があるのです。わたしは、儀式の本質を「魂のコントロール術」であるととらえています。儀式が最大限の力を発揮するときは、人間の魂が不安定に揺れているときです。
まずは、この世に生まれたばかりの赤ん坊の魂。次に、成長していく子どもの魂。そして、大人になる新成人者の魂。それらの不安定な魂を安定させるために、初宮参り、七五三、成人式などがあります。


ホワイトボードに書きながら話しました



結婚にまつわる儀式の「カタチ」にも「チカラ」があります。『結魂論』に書いたように、もともと日本人の結婚式とは、結納式、結婚式という2つのセレモニー、それに結婚披露宴という1つのパーティーが合わさったものでした。結納式、結婚式、披露宴の三位一体によって、新郎新婦は「結魂」の覚悟を固めてきたのです。今では結納式はどんどん減っていますが、じつはこれこそ日本人の離婚が増加している最大の原因であると思います。


儀式の意味を説きました



日本人の冠婚葬祭のカタチを作ってきた小笠原流礼法は「結び」方というものを重視し、紐などの結び方においても文化として極めてきました。
結納とは「結び」を「納める」こと、まさに結納は「結び」方の文化なのです。
そう、結納によって、新郎新婦の魂、そして両家の絆を結ぶのです。それは、いわば「固結び」と言えるでしょう。現代のカジュアルな結婚式とは、いわば「チョウチョ結び」なのです。だから見た目はいいけれども、すぐに解けてしまうのです。つまり、離婚が起こりやすくなるのですね。結納こそは、新郎新婦の魂を固く結び、両家の絆を固く結ぶ力を秘めています。


「長寿祝い」について語りました



そして、老いてゆく人間の魂も不安に揺れ動きます。なぜなら、人間にとって最大の不安である「死」に向かってゆく過程が「老い」だからです。
しかしながら、『老福論』に書いたように、日本には老いゆく者の不安な魂を安定させる一連の儀式があります。そう、長寿祝いです。61歳の「還暦」、70歳の「古稀」、77歳の「喜寿」、80歳の「傘寿」、88歳の「米寿」、90歳の「卒寿」、99歳の「白寿」、などです。沖縄の人々は「生年祝い」としてさらに長寿を盛大に祝いますが、わたしは長寿祝いにしろ生年祝いにしろ、今でも「老い」をネガティブにとらえる「老いの神話」に呪縛されている者が多い現代において、非常に重要な意義を持つと思っています。


葬儀について語りました



そして、人生における最大の儀式としての葬儀があります。
拙著『葬式は必要!』にも書いたように、葬儀とは「物語の癒し」です。
愛する人を亡くした人の心は不安定に揺れ動いています。 大事な人間が消えていくことによって、これからの生活における不安。その人がいた場所がぽっかりあいてしまい、それをどうやって埋めたらよいのかといった不安。 残された人は、このような不安を抱えて数日間を過ごさなければなりません。心が動揺していて矛盾を抱えているとき、この心に儀式のようなきちんとまとまったカタチを与えないと、人間の心はいつまでたっても不安や執着を抱えることになりますこれは非常に危険なことなのです。



もし、愛する人を亡くした人が葬儀をしなかったらどうなるか。そのまま何食わぬ顔で次の日から生活しようとしても、喪失でゆがんでしまった時間と空間を再創造することができず、心が悲鳴をあげてしまうのではないでしょうか。また一連の法要は、故人を偲び、冥福を祈るためのものです。故人に対し、「あなたは亡くなったのですよ」と今の状況を伝達する役割があります。また、遺族の心にぽっかりとあいた穴を埋める役割も。動揺や不安を抱え込んでいる心にカタチを与えることが大事なのです。儀式には、人を再生する力がある。「カタチ」には「チカラ」があるのです!


「永遠葬」について説明しました



それから、戦後70年記念として上梓した2冊の内容を話しました。
まずは『永遠葬』について話しました。宗教学者である島田裕巳氏の著書『0葬』に対する反論の書であり、終戦70周年記念の本です。
かつて、わたしは島田氏のベストセラー『葬式は、要らない』に対し、『葬式は必要!』を書きました。それから5年後、再び島田氏の著書『0葬』に対抗して本書『永遠葬』を執筆しました。


「0葬」について説明しました



島田氏の提唱する「0葬」とは何か。それは、通夜も告別式も行わずに遺体を火葬場に直行させて焼却する「直葬」をさらに進めた形で、遺体を完全に焼いた後、遺灰を持ち帰らずに捨ててくるのが「0葬」です。わたしは、葬儀という営みは人類にとって必要なものであると信じています。故人の魂を送ることはもちろんですが、葬儀は残された人々の魂にも生きるエネルギーを与えてくれます。もし葬儀が行われなければ、愛する家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きるでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。儀式という「かたち」は人間の「こころ」を守り、人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。


「成仏」とは何か



葬儀によって、有限の存在である“人”は、無限の存在である“仏”となり、永遠の命を得ます。これが「成仏」です。葬儀とは、じつは「死」のセレモニーではなく、「不死」のセレモニーなのです。そう、人は永遠に生きるために葬儀を行うのです。「永遠」こそが葬儀の最大のコンセプトであり、わたしはそれを「0葬」に対抗する意味で「永遠葬」と名づけたのです。
永遠葬』で、わたしは葬儀の本質と重要性を述べるとともに、通夜も告別式もせずに火葬場に直行するという「直葬」あるいは遺骨を火葬場に置いてくる「0葬」を批判しました。これらの超「薄葬」が、いかに危険な思想を孕んでいるかを声を大にして訴えました。葬儀を行わずに遺体を焼却する行為は、ナチスオウム真理教イスラム国の闇に通じています。


四大「永遠葬」について話しました



今年は終戦70周年の年です。日本人だけでじつに310万人もの方々が亡くなられた、あの悪夢のような戦争が終わって70年目の節目なのです。今年こそは、日本人が「死者を忘れてはいけない」「死者を軽んじてはいけない」ということを思い知る年であると思います。今こそ、「血縁」や「地縁」の重要性を訴え、有縁社会を再生する必要がある。わたしは、そのように痛感しています。そして、わたしたちは、どうすれば現代日本の「葬儀」をもっと良くできるかを考え、そのアップデートの方法について議論することが大切ではないでしょうか。本書で、わたしが現在取り組んでいる葬イノベーション――四大「永遠葬」を紹介します。日本人の他界観を大きく分類すると、「山」「海」「月」「星」となりますが、それぞれが対応したスタイルで、「樹木葬」「海洋葬」「月面葬」「天空葬」となります。
この四大「永遠葬」は、個性豊かな旅立ちを求める「団塊の世代」の方々にも大いに気に入ってもらえるのではないかと思います。


「唯葬論」について説明しました



それから、もう1冊の最新刊『唯葬論』(三五館)について話しました。こちらも、終戦70周年記念の本です。わたしは、葬儀とは人類の存在基盤であると思っています。約7万年前に死者を埋葬したとされるネアンデルタール人たちは「他界」の観念を知っていたとされます。世界各地の埋葬が行われた遺跡からは、さまざまな事実が明らかになっています。
「人類の歴史は墓場から始まった」という言葉がありますが、たしかに埋葬という行為には人類の本質が隠されていると言えるでしょう。それは、古代のピラミッドや古墳を見てもよく理解できます。



わたしは人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えます。世の中には「唯物論」「唯心論」をはじめ、岸田秀氏が唱えた「唯幻論」、養老孟司氏が唱えた「唯脳論」などがありますが、わたしは本書で「唯葬論」というものを提唱します。
結局、「唯○論」というのは、すべて「世界をどう見るか」という世界観、「人間とは何か」という人間観に関わっています。わたしは、「ホモ・フューネラル」という言葉に表現されるように人間とは「葬儀をするヒト」であり、人間のすべての営みは「葬」というコンセプトに集約されます。 


問われるべきは「死」ではなく「葬」である!



オウム真理教の「麻原彰晃」こと松本智津夫が説法において好んで繰り返した言葉は、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という文句でした。死の事実を露骨に突きつけることによってオウムは多くの信者を獲得しましたが、結局は「人の死をどのように弔うか」という宗教の核心を衝くことはできませんでした。言うまでもありませんが、人が死ぬのは当たり前です。「必ず死ぬ」とか「絶対死ぬ」とか「死は避けられない」など、ことさら言う必要などありません。最も重要なのは、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということなのです。問われるべきは「死」でなく「葬」です。よって、同書のタイトルは『唯死論』ではなく『唯葬論』としました。
最後にわたしは「わたしたち生者は、死者を絶対に忘れてはなりません。裁判という営みにも、被害者となった死者の無念を晴らす、または無実の罪を着せられた故人の潔白を明らかにするなどの意味もあるでしょう」と述べ、「みなさんも、ぜひ死者への想いを大切にして下さい」と述べました。


猛暑で気が遠くなりながらも話しました



この日の福岡は34度の暑さでしたが、それに加えてクラブハウスの部屋はクーラーがないので、本当に暑かったです。
わたしも講演しながら、ときどき気が遠くなりそうになりました。
でも、みなさん、わたしの話を真剣な表情で聴いてくれました。中には早稲田大学法学部出身で民俗学に関心があるという修習生の方もいて、講演後に「すごく面白かったです!」と言ってくれました。嬉しかったです。
講演の終了後はヨットに乗って、博多湾セーリングを体験します!



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2015年7月25日 一条真也