月に祈りを・・・・・・

一条真也です。
1969年7月、アメリカ合衆国の「アポロ計画」において、アポロ11号が歴史上初めて人類を月面に到達させました。ブログ「月と映像」では、アポロ11号の月面着陸について詳しく書いています。


1969年放送のNHK番組


11日に配信されたAFP=時事のニュースによれば、アポロ11号のニール・アームストロング船長のオハイオ州シンシナティにある自宅から非常に貴重な記念の品々が見つかり、その一部が首都ワシントンの国立航空宇宙博物館に展示されたそうです。Yahoo!ニュースの「月の記念品、アポロ11号船長の自宅から発見」という記事で知りました。


Yahoo!ニュース「月の記念品、アポロ11号船長の自宅から発見」より



記事には、以下のように書かれています。
「アームストロング氏の歴史的な『小さな一歩』の瞬間を撮影するため、月着陸船『イーグル(Eagle)』の窓に取り付けられていた16ミリカメラをはじめとするこれらの品は、自宅のクローゼットを掃除していた同氏の妻が発見、同博物館に寄贈した。アームストロング氏は2012年8月に死去している。発見されたのはこのほか、月面で一度だけ休憩を取った際に体を支えるために使用した2本の腰ひものうちの1本など。これらは白い布製のバッグにしまってあったが、このバッグも宇宙探査機の内部で使用されていた可能性がある。月面に置いてくる予定だったものをアームストロング氏が持ち帰り、保管していたとみられる。国立航空宇宙博物館の学芸員、アラン・ニーデル氏はこれらの品について、『これ以上に胸が高鳴るようなものがあるとは考えられない』と述べている。
ニーデル氏が博物館のホームページで明らかにしたところによると、音声通信を書き起こした記録から、アームストロング氏とバズ・オルドリン宇宙飛行士は月周回軌道上の司令船に戻ってすぐ、マイケル・コリンズ宇宙飛行士とこれらの品について話し合っていたことが明らかになっている。また、これらの品が人目に触れるのは、アームストロング氏の月からの帰還後、初めてのことだという。【翻訳編集】AFPBB News」


わたしは、このニュースを知り、さまざまなことを考えました。アポロ11号の月面着陸といえば、陰謀論の王様のような「アポロは月に行っていなかった」というトンデモ仮説で有名です。月面上の影の出方がおかしいとか、月面には酸素がないのだから旗が揺れるのはおかしいといった類の話です。今でも、月面着陸の映像が捏造であると多くの人が信じているようです。


捏造といえば、「イスラム国」とみられるグループが日本人2人を人質に撮影した映像が合成されたものではないかと疑われたことが記憶に新しいです。人質になった後藤さんと湯川さんの影の出方が不自然だというのです。しかし、専門家が徹底的に分析した結果、この映像は本物であることがわかりました。アポロ11号の月面着陸についての疑惑も、これまでにも納得のいく説明がなされていますが、今回の記念品発見は「あの偉業は事実だった」ということを改めて証明するものとなりました。


ユダヤ教VSキリスト教VSイスラム教―「宗教衝突」の深層 (だいわ文庫)

ユダヤ教VSキリスト教VSイスラム教―「宗教衝突」の深層 (だいわ文庫)

しかし、何より、貴重な記念品発見のニュースは、人類初の月面着陸について思い出させてくれました。そして、全神経を中東に集中させている感のある世界中の人々の視線を月に向かせてくれました。「そうだ、われわれの頭上には月があるのだ」と気づかせてくれました。
ブログ『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』で紹介した著書で、わたしは、宗教間の平和の実現を考えるとき、月が大きな鍵になると述べました。各宗教にとって月はきわめて重要な存在だからです。もともと太陽信仰と月信仰は、地球上のあらゆる場所において存在した見られる普遍的な信仰でした。地球のあらゆる場所から太陽と月は見えるのわけですから、当然と言えば当然です。そして、常に不変の太陽は神の生命の象徴であり、満ち欠けによって死と再生を繰り返す月は人間の生命の象徴にほかなりません。


旧約聖書 創世記 (岩波文庫)

旧約聖書 創世記 (岩波文庫)

神道や仏教をはじめ、あらゆる宗教の発生は月と深く関わっているとされています。ユダヤ・キリスト・イスラムの三姉妹宗教においても同様です。バビロンでは月は大神シンでした。この最古の月神の聖なるすまいはシナイ山であり、彼はイシュタルの父です。この神に対する信仰が、安息日の遵守をはじめとして、ユダヤ教をはじめとするヘブライの宗教に大きな影響を与えたのです。後にこの神は主神マルドウクと合体しました。モーセがヤハウエから十戒を授かった場所こそシナイ山であり、この月神シンはユダヤ唯一神の原イメージともなっています。


新約聖書 福音書 (岩波文庫)

新約聖書 福音書 (岩波文庫)

キリスト教においては、月は「イエス・キリスト磔刑」を見事に象徴していると言われます。月は毎月、3日間だけ私たちの視野から消える。そしてまた姿を現わし、次第に大きくなって満月になります。人類のために死に、やがて復活して3日目に姿を現わし、人間の命に光を当てたのがイエス・キリストです。キリストにせよ、月にせよ、人間は死を受け入れなければならないとキリスト教徒は言います。人間はそのおかげで、重荷を軽くしてもらい、貪欲な気持ちを抑えてもらい、光り輝く命を再び生きることを教えてもらったというのです。


コーラン 上 (岩波文庫 青 813-1)

コーラン 上 (岩波文庫 青 813-1)

そして、イスラム教。ヒジュラ暦太陰暦ですが、『コーラン』には月に関する記述がしばしば表われます。さらにイスラムの神秘詩人ルーミーは、神とムハンマドの関係を「月が太陽の光を映すように、預言者ムハンマドは、神アッラーを映す」と表現しています。
イスラム神秘主義では三日月の徴(しるし)が重要な意味を持っています。三日月は楽園のイメージであり、復活の象徴なのです。イスラム教が、なぜ月を信仰するようになったかというと、砂漠で誕生したことに原因があると思います。砂漠においては、太陽は人間の敵であり、月が人間の仲間とされています。日没後の世界はそれまでの炎熱の地獄を一変させます。その快適さと安らぎの象徴となったものが月でした。


「日の本」と呼ばれる日本人は太陽を崇拝しますが、砂漠の民は太陽を忌まわしいものと感じ、月に親しみを感じています。
ですから、日本人は国旗に太陽を採用し、イスラム教徒は月を選んだのではないかという説もあります。その月もわざわざ三日月にしたのは、満月では太陽と区別しにくかったからかもしれません。
現在も、イスラムの重要な行事であるラマダーン月の始まりと終わりはこの月の観察から始まり、月の観察に終わります。世界中に散らばるムスリムたちは、その形をコンピュータで用意に知ることができる今日でも、この月の観察を怠ることはありません。このように三姉妹宗教はいずれも月への信仰をそのベースとしています。


また、アポロの宇宙飛行士たちは月面で神の臨在を実感したといいます。月から帰還した後にキリスト教の伝道家になったビル・アーウィンは、「イエス・キリストは神の子だったのだ。イエスは神そのものなのだ。神がこの地上に人間の姿をとって降りてきた。これは人類史上最大の出来事だ」と語りました。同じくチャーリー・デュークも月から帰ってキリスト教の伝道師になった人物ですが、「私は月をこの足で歩いてきた人間として、月を人間が歩いたことより、イエスがこの地上を歩いたことの方が、人類にとってはるかに意味があることだということがよくわかったのだ」と述べています。



アーウィンとデュークの2人は、その月体験によって熱心なキリスト教徒となったわけですが、キリスト教だけがすべてなのではなく、あらゆる宗教の本質は同じであるという「万教同根」的インスピレーションを月で受けた宇宙飛行士もいます。月に2度行ったジーン・サーナンは、宇宙で得たもので何が一番大きかったのかという質問に対して、こう答えました。「神の存在の認識だ。神の名は宗教によって違う。キリスト教イスラム教、仏教、神道、みな違う名前を神にあてている。しかし、その名前がどうであれ、それが指し示している、ある同一の至高の存在がある。それが存在するということだ。宗教はすべて人間が作った。だから神に違う名前がつけられた。名前は違うが、対象は同じなのだ」
サーナンはカトリックの信者であったにもかかわらず、あらゆる宗教の根が1つであることに気づいたのです。


月面上の思索

月面上の思索

ブログ『月面上の思索』で紹介した本の著者であるエドガー・ミッチェルも月へ行く前は熱心なクリスチャンであり、南部バプティストファンダメンタリスト原理主義者)でしたが、月体験後、キリスト教が教える人格神は存在しないと思うに至りました。神というのは、この世界で、この宇宙で現に進行しつつある神的なプロセスを表現するために用いられている言葉にすぎないと思えるようになったのです。ミッチェルは「スピリチュアル・ワンネス」というキーワードを使って、次のように語っています。
「各宗教の教祖となったような人々は、イエスにしても、ブッダにしても、モーセにしても、ムハンマドにしても、あるいはゾロアスター老子にしても、みな人間の自意識の束縛から脱して、この世界のスピリチュアル・ワンネスにふれた人々なのだ」



また、ミッチェルはあらゆる宗教の神は本質的には同じであるとし、宗教発生の秘密を以下のように語っています。
「宗教はすべて、この宇宙のスピリチュアルな本質との一体感を経験するという神秘体験を持った人間が、それぞれにそれを表現することによって生まれたものだ。その原初的体験は本質的には同じものだと思う。しかし、それを表現する段になると、その時代、地域、文化の限定を受けてしまう。しかし、あらゆる真の宗教体験が本質的には同じだということは、その体験の記述自体を読んでいくとわかる」



キリスト教の神を感じたアーウィンやデュークにしろ、それを超えた万教同根の神を感じたサーナンやミッチェルにしろ、月体験によって神の実在が強く内面に入ってきたことに変わりはありません。スカイラブ4号に乗って宇宙飛行をした物理学者のエド・ギブスンは、「特筆すべきは、宇宙体験の結果、無神論者になったという人間は一人もいない」と言ったように、月に行った宇宙飛行士の大部分は、神とともに地球に帰ってきたのです。


宇宙飛行士たちは、いずれも月面から月を見ている。この意味は、限りなく大きいと思います。アーウインは次のように語っています。
「ただ宇宙体験といっても、地球軌道をまわるだけの体験と、月に行く体験とは、まるで違う。地球軌道からは、宇宙内存在としての地球を本当には見ることができない。地球軌道は地球の一部だからだ。地球軌道からは地球が圧倒するような大きさで見える。しかし、月からは地球がマーブルの大きさで暗黒の宇宙の中に浮かんで見える」



月から地球を見ると、かのエベレストでさえも地球の皺にしか見えないといいます。それと同じように、神という絶対的な存在にとってみればどんな権力者も貧乏人も民族も国籍も関係ない。人間など、すべて似たようなものだ。「アッラーの前には、すべての人間は平等である」と考え、イスラム教を月の宗教としたムハンマドは、このことにおそらく気づいていたのだろう。
月の視線は、神の視線なのである。アポロの宇宙飛行士たちは、まさに神の視線を獲得したのである。そして、すべての宗教がめざす方向とは、この地球に肉体を置きながらも、意識は軽やかに月へと飛ばして神の視線を得ることではないでしょうか。


ロマンティック・デス―月を見よ、死を想え (幻冬舎文庫)

ロマンティック・デス―月を見よ、死を想え (幻冬舎文庫)

月は、おそらく神の住処なのでしょう。『ロマンティック・デス〜月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)に詳しく書きましたが、月はその満ち欠けによる潮の干満によって、人類を含めた生命の誕生と死を司っています。そして、月は世界中の民族の神話において「死後の世界」にたとえられました。死なない人間はおらず、それゆえに死は最大の平等です。すべての人間が死後、月に行くのであれば、これほどロマンのある話はありませんし、そこから宗教を超えた人類の心の連帯が生まれるのではないでしょうか。すべての宗教を超えて、地球上の人類は月を見上げるべきです。
月を見よ、死を想え! 最古の月神シンの記憶を蘇らせよ!
それこそが「人類平等」「世界平和」への第一歩であると確信します。


主の祈り」(アルフォンス・ミュシャ画)



さて、11日には嫌なニュースもありました。「イスラム国」が人質のアメリカ人女性を処刑したというのです。オバマ大統領は「必ず制裁を加える」とコメントしていました。もともとオバマの父親はイスラム教徒であり、その点からも彼には多大な期待をしていたのですが、現状を見る限りは残念です。
キリスト教イスラム教の対立に思いを馳せるたび、わたしは1枚の絵を思い出します。アルフォンス・ミュシャの「主の祈り」です。いうまでもなく、ミュシャはアールヌーヴォーを代表する画家です。もともと好きな画家でしたが、2006年4月の『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』の発売日に東京・丸ビルの丸善ミュシャの展示会が開催されたとき、たまたま会場に足を運びました。するとカラフルなアールヌーヴォーの作品群の中に、ひっそりとモノクロームリトグラフの作品が飾られており、「主の祈り」という題名がついていました。それを見た瞬間、わたしの体に電流が走りました。



なんとそれは、地上でうごめく多くの人間たちが夜空の月を仰いでいる絵なのです。しかも、その月は巨大な天上の眼でもあるのです!
驚いて学芸員の方にお聞きすると、1899年に描かれたこの絵はミュシャが最も描きたかった作品であり、それ以前の膨大なアールヌーヴォー作品の版権をすべて放棄してまで、この絵の制作に取り掛かったとのこと。多忙な彼が下絵を何十枚も描いており、最初は空に浮かぶ巨大な顔(ブッダの顔のようにも見える)だったのが、次第に一つ目になり、それが三日月になっていったそうです。その絵につけられた解説文には、「月は主の眼であり、その下に、あらゆる人間は一つになるのであろう」といった内容が記されていました。つまり、ユダヤ教徒キリスト教徒もイスラム教徒も、月の下に一つになるというのです。



わたしは本当に仰天し、かつ、非常に感激しました。そして日本には1枚だけしかなく、19世紀象徴主義を代表するというその絵を、それこそ「神の思し召し」と思って即座に購入したのです。もちろんミュシャがそのような絵を描いているなどとは、まったく知りませんでした。自著の内容とシンクロして、夢みるように会場へと導かれ、運命の出会いを果たしたのです。わたし自身はスピリチュアルな体験であったと思います。



そのことを宗教哲学者の鎌田東二先生とのWeb上の文通である「ShinとTonyのムーンサルトレター」第8信に書きました。2006年5月10日、わたしの43歳の誕生日に書いたレターでした。すると鎌田先生の返信レターには、「シンさん、ミュシャの『主の祈り』の絵、まさに邂逅ですね。なまなましく、リアルで迫力のある絵ですね。絵でも文学でも哲学でも宗教でも、出逢い、邂逅があると思います、運命的な。シンさんが43歳の誕生日のまさにその日に、丸善のギャラリーで、三日月に向かって祈りを捧げる人々の姿を描いた絵画と出逢い、すぐさま購入したというのは、そのような運命的な邂逅に他ならないと思います」と書かれていました。



この鎌田先生のレターを改めて読んだとき、主の眼としての月は、十字軍も、2度の世界大戦も、4度の中東戦争も、9・11米国同時多発テロも、すべて見ていたのだということに気づきました。そして、イラク戦争から「イスラム国」の台頭に至る一連の流れも、すべて見ていたはずです。天上の眼は、人災も天災も関係なく、人間界のすべての苦しみや悲しみを見つめていたのです。それは、明らかに神の視線でした。


ミュシャは「薔薇十字会」のメンバーだったそうです。メイヴ像やエリン像などに代表されるケルトの女神をたくさん描いていることでも知られます。
非常に秘教的な、宗教の根源に関わる「聖なるもの」を彼の絵には感じます。「主の祈り」を見るたびに、魂が揺り動かされるような気がします。またそれ以来、夜空の月を見ると、神に見つめられているような気がしてなりません。「主の祈り」は現在、サンレー本社内の「ムーンギャラリー」に飾られています。世界が平和になる鍵は月にある・・・・・・わたしには、どうしても、そのように思えるのです。月に平和の祈りを捧げずにはいられません。


ムーンギャラリー内に飾られる「主の祈り



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2015年2月12日 一条真也