「ソナエ」取材

一条真也です。
ニューヨークから帰国して2日目、まだ時差ボケで苦しんでおります。
25日の15時から、ブログ「終活読本『ソナエ』」で紹介した雑誌のインタビュー取材がサンレー本社で行われました。同誌の赤堀正卓編集長がわざわざ東京から北九州に来て下さったのです。


「ソナエ」の赤堀編集長をお迎えしました



サンレー本社に到着された赤堀編集長は、まず、小倉紫雲閣ムーンギャラリーなどの施設見学をされてから、インタビューが開始されました。
インタビューの柱は、(1)「老福論」とは何か?(2)昨今の終活ブームへの思い(3)縁、絆の復権に向けて・・・・・・以上の3つでした。


「老福論」について語りました



まず、(1)の「老福論」についてですが、以下のような話をしました。
人は老いるほど豊かになります。 わたしは、「ソナエ」(の読者の方々と一緒に「老い」の持つ意味と価値について、古今東西のさまざまな視点から考えていきたいと思います。これまで「老い」は否定的にとらえられがちでした。仏教では、生まれること、老いること、病むこと、そして死ぬこと、すなわち「生老病死」を人間にとっての苦悩とみなしています。現在では、生まれることが苦悩とは考えられなくなってきたにせよ、依然として老病死の苦悩が残ります。しかし、私たちが一個の生物である以上、老病死は避けることのできない現実です。それならば、いっそ老病死を苦悩ととらえない方が精神衛生上もよいし、前向きに幸福な人生が歩めるのではないでしょうか。



現代の日本は、工業社会の名残りで「老い」を嫌う「嫌老社会」です。
でも、かつての古代エジプトや古代中国や江戸などは「老い」を好む「好老社会」でした。前代未聞の超高齢化社会を迎えるわたしたちに今、もっとも必要なのは「老い」に価値を置く好老社会の思想であることは言うまでもありません。そして、具体的な政策として実現されなければなりません。
世界に先駆けて超高齢化社会に突入する現代の日本こそ、世界のどこよりも好老社会であることが求められます。日本が嫌老社会で老人を嫌っていたら、何千万人もいる高齢者がそのまま不幸な人々になってしまい、日本はそのまま世界一不幸な国になります。逆に好老社会になれば、世界一幸福な国になれるのです。まさに「天国か地獄か」であり、わたしたちは天国の道、すなわち人間が老いるほど幸福になるという思想を待たなければならないのです。



日本の神道は、「老い」というものを神に近づく状態としてとらえています。神への最短距離にいる人間のことを「翁」と呼びます。また七歳以下の子どもは「童」と呼ばれ、神の子とされます。つまり、人生の両端にたる高齢者と子どもが神に近く、それゆえに神に近づく「老い」は価値を持っているのです。だから、高齢者はいつでも尊敬される存在であると言えます。
アイヌの人々は、高齢者の言うことがだんだんとわかりにくくなっても、老人ぼけとか痴呆症などとは決して言いません。高齢者が神の世界に近づいていくので、「神言葉」を話すようになり、そのために一般の人間にはわからなくなるのだと考えるそうです。これほど、「老い」をめでたい祝いととらえるポジティブな考え方があるでしょうか。人は老いるほど、神に近づいていく、つまり幸福になれるのです。



わたしは古今東西の人物のなかで孔子を最も尊敬しています。
何かあれば、わたしは『論語』を読むことにしています。
その『論語』には「われ十五にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず」という有名な言葉が出てきます。
60になって人の言葉が素直に聞かれ、たとえ自分と違う意見であっても反発しない。70になると自分の思うままに自由にふるまって、それでいて道を踏み外さないようになった。ここには、孔子が「老い」を衰退ではなく、逆に人間的完成としてとらえていることが明らかにされています。
孔子と並ぶ古代中国の哲人といえば老子ですが、老子の「老」とは人生経験を豊かに積んだ人という意味です。また、老酒というように、長い年月をかけて練りに練ったという意味が「老」には含まれています。



孔子が開いた儒教を徹底的に弾圧したのが、秦の始皇帝です。
焚書坑儒」という愚行がよく知られています。2200年以上も前に広大な中国を統一した始皇帝は人類史上に特筆すべき大権力者です。彼がいなければ、中国は現在のヨーロッパのごとく、いまだに複数の国家に分かれていたことでしょう。そして彼は、月から肉眼で見える地球上の唯一の人工建造物である「万里の長城」さえも築いたのです。
それほどの英雄でも、生涯にわたって「老い」と「死」を極度に怖れつづけ、その恐怖を心に抱いたまま死んでいったそうです。そのことは、人の世の常識をはるかに超えた兵馬俑や、徐福に不老不死の霊薬を求めさせた史実からもわかります。人間はいくら権力や金を持っていても、「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」を持っていなければ、心豊かに生きることはできません。


「終活ブーム」に思うこと



次に(2)の「終活ブーム」への思いは、以下の通りです。
これまでの日本では「死」について考えることはタブーでした。でも、よく言われるように『死』を直視することによって「生」も輝きます。
その意味では、自らの死を積極的にプランニングし、デザインしていく「終活」が盛んになるのは良いことだと思います。
一方で、「終活」という言葉に違和感を抱いている方が多いようです。特に「終」の字が気に入らないという方に何人もお会いしました。もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされています。ならば、わたしも「終末」という言葉には違和感を覚えてしまいます。死は終わりなどではなく、「命には続きがある」と信じているからです。そこで、わたしは「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案したいと思います。
「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味です。



戦後の日本人は、「修業」「修養」「修身」「修学」という言葉で象徴される「修める」という心構えを忘れてしまったように思います。老いない人間、死なない人間はいません。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかなりません。人生を卒業するという運命を粛々と受け容れ、老い支度、死に支度をして自らの人生を修める・・・・・・この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないでしょうか。すべての美しい日本人のために、わたしは『決定版 終活入門』(実業之日本社)という本を書きました。ぜひ、「ソナエ」読者の方々に読んでいただきたいです。



それから、わたしは「終活」ブームの背景には「迷惑」というキーワードがあるように思えてなりません。みんな、家族や隣人に迷惑をかけたくないというのです。「残された子どもに迷惑をかけたくないから、葬式は直葬でいい」「子孫に迷惑をかけたくないから、墓はつくらなくていい」「失業した。まったく収入がなく、生活費も尽きた。でも、親に迷惑をかけたくないから、たとえ孤独死しても親元には帰れない」「招待した人に迷惑をかけたくないから、結婚披露宴はやりません」「好意を抱いている人に迷惑をかけたくないから、交際を申し込むのはやめよう」・・・すべては、「迷惑」をかけたくないがために、人間関係がどんどん希薄化し、社会の無縁化が進んでいます。



結果的に夫婦間、親子間に「ほんとうの意味での話し合い」がなく、ご本人が亡くなってから、さまざまなトラブルが発生して、かえって多大な迷惑を残された家族にかけてしまうことになります。その意味で「迷惑」の背景には「面倒」という本音が潜んでいるように思います。みんな、家族や夫婦や親子で話し合ったり、相手を説得することが面倒なのかもしれません。



そもそも、家族とはお互いに迷惑をかけ合うものではないですか。
子どもが親の葬式をあげ、子孫が先祖の墓を守る・・・・・・当たり前ではないですか。そもそも「つながり」や「縁」というものは、互いに迷惑をかけ合い、それを許し合うものだったはずです。
「迷惑をかけたくない」という言葉に象徴される希薄な「つながり」。日本社会では“ひとりぼっち”で生きる人間が増え続けていることも事実です。しかし、いま「面倒なことは、なるべく避けたい」という安易な考えを容認する風潮があることも事実です。こうした社会情勢に影響を受けた「終活」には「無縁化」が背中合わせとなる危険性があることを十分に認識すべきです。
この点に関しては、わたしたちは日々の生活の中で自省すべきでしょう。


「縁」と「絆」の復権方法を語りました



そして(3)の「縁」と「絆」の復権方法については、次のように述べました。
よく混同されますが、「縁」と「絆」は似て非なるものです。
わたしは「縁」とは人間が社会で生きていく上での前提条件であり、「絆」とはさまざまな要因によって後から生まれるものだと考えています。「縁」のない人はいませんが、誰とも「絆」を持てない人はいます。いわば、「縁」とは先天的であり、「絆」は後天的であるとも言えるでしょう。
現在の日本では、「縁」も「絆」も希薄化していると言われていました。
それを大きく見直すきっかけとなったのが東日本大震災ですね。



2010年より叫ばれてきた「無縁社会」の到来をはじめ、現代の日本社会はさまざまな難問に直面しています。
その中で冠婚葬祭互助会の持つ社会的使命は大きいと言えます。
戦後に互助会が成立したのは、人々がそれを求めたという時代的・社会的背景がありました。 もし互助会が成立していなければ、今よりもさらに一層「血縁や地縁の希薄化」は深刻だったのかもしれません。つまり、敗戦から高度経済成長にかけての価値観の混乱や、都市部への人口移動、共同体の衰退等の中で、何とか人々を共同体として結び付けつつ、それを近代的事業として確立する必要から、冠婚葬祭互助会は誕生したのです。



ある意味で、互助会は日本社会の無縁化を必死で食い止めてきたのかもしれません。しかし、それが半世紀以上を経て一種の制度疲労を迎えた可能性があると思います。制度疲労を迎えたのなら、ここで新しい制度を再創造しなければなりません。すなわち、冠婚葬祭の役務提供に加えて、互助会は「隣人祭り」などの開催によって、社会的意義のある新たな価値を創るべきであると考えます。





わたしは現代社会の最大のキーワードは「人間関係」だと確信しています。社会とは、結局、人間の集まりです。そこでは「人間」よりも「人間関係」が重要な問題になってきます。そもそも「人間」という字が、人は一人では生きてゆけない存在だということを示しています。人と人との間にあるから「人間」なのです。だからこそ、人間関係の問題は一生つきまとうのですね。日本人の自殺率上昇が問題になっていますが、その最大の原因も人間関係にありそうです。サラリーマンが会社を辞める理由のトップも人間関係の悩みだそうです。フランスの作家サン=テグジュペリが書いた『星の王子さま』は人類の「こころの世界遺産」ともいえる名作ですが、その中には「本当に大切なものは、目には見えない」という有名な言葉が出てきます。本当に大切なものとは、人間の「こころ」にほかなりません。


星の王子さま―オリジナル版

星の王子さま―オリジナル版

その目には見えない「こころ」を目に見える「かたち」にしてくれるものこそが、立ち居振る舞いであり、挨拶であり、お辞儀であり、笑いであり、愛語などではないでしょうか。わたしたちも社会的使命として、微力ながら具体的な活動を続けております。地域の絆や交流が少しでも深まればとの思いから、「隣人祭り」を2008年より開いています。現在では、年間600回近くの開催をサポートしています。「無縁社会」などと呼ばれていますが、さまざまな取り組みを通じ、ぜひ、地縁や血縁を再生させたいと願っています。



また「月あかりの会」というグリーフケアを目的とした自助グループのサポートをしています。これは、わたしどもでお葬式をお手伝いさせていただいたご家族を中心とした会です。昨今お葬式のお手伝いをさせていただいた後、特に配偶者を亡くされた後、お子様や親戚は遠方におり、近所付き合いも少なく、孤立化していくケースが増えています。
この月あかりの会は、同じ境遇の方にご入会いただき、旅行や学習などのイベントを通じて、交流を深めていただくとともに、新たなご縁に気づいていただければとの思いから発足しました。



そして有料老人ホーム「隣人館」があります。
年金の範囲内で暮らせる老人ホームを目指し、現在はNHK朝ドラ「花子とアン」で有名になった福岡県飯塚市に1号館を建設し、現在北九州市内に2・3号館の準備を進めていますが、これも新たなご縁づくりや孤独死を防ぐためにも大変重要であると考えています。



また、「縁」や「絆」を見直す最高の方法は、自分の葬儀について考えることです。自分の葬儀を具体的にイメージすることは、あなたがこれからの人生を幸せに生きていくうえで絶大な効果を発揮します。ぜひ、自分の葬義をイメージしてみてください。そこで、友人や知人が弔辞を読む場面を想像するのです。そして、その弔辞の内容を具体的に想像するのです。そこには、あなたがどのように世のため人のために生きてきたかが克明に述べられているはずです。葬儀に参列してくれる人々の顔ぶれも想像して下さい



そして、みんなが「惜しい人を亡くした」と心から悲しんでくれて、配偶者からは「最高の連れ合いだった。あの世でも夫婦になりたい」といわれ、子どもたちからは「心から尊敬していました」といわれる。学校の後輩からは「本当の兄のようでした」と言われ、会社の元同僚からは「最高のライバルだと思っていました」と言われる。自分の葬儀の場面というのは、「このような人生を歩みたい」というイメージを凝縮して視覚化したものなのです。
このイメージの通りにこれからの人生を歩めば、きっと満足のゆく人生が送れるはずです。そして、そのためには、これまでの人間関係の核をなす「縁」と「絆」を大事にすることでしょう。


0葬 ――あっさり死ぬ

0葬 ――あっさり死ぬ

葬儀の話題が出たので、わたしは現在執筆中の『永遠葬』(仮題)の内容についても言及しました。いま、島田裕巳氏が提案されている「0葬」が大きな話題になっています。「0葬」とは葬儀も行わない、火葬場で骨も灰も持ち帰らない、墓も作らないというものです。まさに唯物論の極みといえますが、こんな考えが注目されつつあり、非常に憂慮しています。かつて島田氏のベストセラー『葬式は、要らない』に対抗して、わたしは『葬式は必要!』という反論の書を世に問いました。今度も、島田氏の『0葬』に対する反論の書として『永遠葬』を上梓する次第です。


永遠の0 (講談社文庫)

永遠の0 (講談社文庫)

「0葬」という言葉は、百田尚樹氏の大ベストセラー『永遠の0』を意識していると言えます。相手が「0」ならば、わたしは「永遠」で勝負したい。もともと、「0」とは古代インドで生まれた概念です。古代インドでは「∞」というサンレーマークに通じる概念も生み出しました。この「∞」こそは「無限」であり「永遠」です。紀元前400年から西暦200年頃にかけてのインド数学では、厖大な数の概念を扱っていたジャイナ教の学者たちが早くから無限に関心を持ちました。無限には、1方向の無限、2方向の無限、平面の無限、あらゆる方向の無限、永遠に無限の5種類があるとしました。これにより、ジャイナ教徒の数学者は現在でいうところの集合論や超限数の概念を研究していたのです。もともと、わたしは「0」というのは「無」のことですが、「永遠の0」は「空」を意味すると考えています。



また「永遠葬」という言葉には、「人は永遠に供養される」という意味があります。日本仏教の特徴の1つに、年忌法要があります。初七日から百ヶ日の忌日法要、一周忌から五十回忌までの年忌法要です。
対談させていただいた渡部昇一先生は先日、郷里の山形県鶴岡で亡き父上の四十回忌を行われたそうです。四十回忌も珍しいですが、さらに五十回忌を終えた場合、それで供養が終わりというわけではありません。



故人が死後50年も経過すれば、配偶者や子どもたちも生存している可能性は低いと言えます。そこで、死後50年経過すれば、死者の霊魂は宇宙へ還り、人間に代わって仏様が供養してくれるといいます。
つまり、五十回忌を境に、供養する主体が人間から仏に移るわけで、供養そのものは永遠に続きます、まさに、永遠葬です!
ちなみに、「世界最高の宗教学者」と呼ばれたエリアーデは「儀式とは永遠性の獲得である」という言葉を残しています。
「0」を超えるキーワードは「永遠」しかありません!



日本仏教は「葬式仏教」などと言われますが、その本質は「グリーフケア仏教」であると思います。そして、「成仏」というのは有限の存在である「ヒト」を「ホトケ」に転化させるシステムではないでしょうか。ホトケになれば、永遠に生き続けることができます。日本仏教による仏式葬儀とは、ヒトを不死の存在であるホトケに変えるワザなのです。もともと、この宇宙に生まれた分子はその形を変えこそすれ、消滅することなどありません。ヒトを焼いて灰になったとしても、その灰の成分は絶対に消えません。つまり、「0葬」など始めからあり得ないのです。


「ソナエ」の赤堀編集長と



1人の人間が死ぬというのは大事(おおごと)です。
生き残った者は、大騒ぎする必要があるのではないでしょうか。
葬式もやらずに墓にも入れないという暴挙など絶対に許されません。
そんなことをすれば、日本社会がますます狂っていくことは明らかです。
わたしは大いなる使命感を持って、『永遠葬』を執筆するつもりです。
わたしは調子に乗って脱線してしまい、最後はそんなことまで言いました。
赤堀編集長はずっと興味深そうな表情で聴いて下さいました。


*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2014年9月25日 一条真也