小野田寛郎氏、逝く

一条真也です。
小野田寛郎氏が亡くなられました。旧日本軍の陸軍少尉として派遣されたフィリピン・ルバング島の山中で戦後も1974(昭和49)年まで約29年潜伏された方です。小野田氏は、東京都内の病院で16日に逝去されました。


毎日新聞」1月18日朝刊



国内最大のニュースサイト「毎日jp」でも「訃報:小野田寛郎さん91歳=戦後も比の山中に29年」の記事がアップされていましした。
そこには、小野田氏の経歴が以下のように書かれています。
和歌山県生まれ。旧制中学卒業後、商社に入り中国で勤務。42年に陸軍に入隊した。中国語や英語が堪能だったこともあり、情報収集活動などを行う情報将校を養成する陸軍中野学校に入校。敗色濃くなっていた44年12月に日本軍占領下のフィリピンに派遣された」



それにしても、なぜ小野田氏は29年間も山に潜んでいたのか。
記事にはそのあたりの事情も次のように書かれています。
米軍の進攻を想定し山中などに立て籠もって行う「遊撃戦」と、敗退後も現地に残って情報を集める『残置諜者』を任務とされ、死を前提とする『バンザイ突撃』や『玉砕』は禁じられた。このため、戦後も『友軍復帰』を想定し、山中生活を数人で続けたが、自身以外は死亡。
ラジオや入手した新聞などで日本の復興などのニュースに触れていたが、米軍の情報戦略の可能性があると考えていたという。小野田さんらの存在は投降した元軍人らの証言で戦後間もなくに判明し、政府は度々捜索隊を派遣したが接触できず、死亡の認定手続きが取られたこともあった。
74年2月、青年探検家の鈴木紀夫さんが会うことに成功し説得。戦時中の上官に当たる元少佐が現地入りして3月9日、小野田さんに『任務終了と武装解除』を『命令』した結果、フィリピン軍に投降した。同12日、51歳で30年ぶりに帰国し、待ち続けていた父母と対面。72年にグアム島から帰国した元日本兵横井庄一さん(97年に82歳で死去)に続き、国民的ニュースとなった」
 


帰国後の小野田氏はブラジルで牧場を経営。76年に結婚もされました。
日本とブラジルを行き来しつつ、講演活動などを続けられましたが、次世代育成のため、自然との付き合い方などを教える「小野田自然塾」を運営されました。また、福島県塙町でキャンプ活動も行っていました。
96年には、ルバング島を22年ぶりに訪れ、奨学金を贈っています。


「事実は小説より奇なり」といいますが、小野田氏の人生はまさに数奇なものでした。ルバング島から小野田氏が帰国されたとき、わたしは小学5年生でした。小野田氏の厳しく精悍な顔つきに何か凛としたものを感じたことを憶えています。晩年の自然塾の活動などをされている様子をテレビなどで拝見しましたが、今度は打って変わって柔和な表情をされえちました。
文字通り、「人生を二度生きた」方であると思います。



それにしても、戦時中の上官に当たる元少佐が「任務終了と武装解除」を命令して始めて、フィリピン軍に投降したという話には涙が出ます。
何があっても自分のミッションを遂行することをやめなかった小野田氏の存在を知ったとき、「日本人は凄い!」と世界中が驚愕しました。
小野田氏こそは本物の軍人であり、組織人でした。現代日本の企業社会において、小野田氏のような「誠」のある組織人が何人いるでしょうか。



わたしは、小野田氏の享年が91歳と知り、深い感慨に打たれました。
ブログ「永遠の0」で、2005年の「終戦60周年」の意味について述べました。
サンレーグループ社内報「Ray!」2005年9月号に掲載された「終戦60周年に思う 月面聖塔は地球の平等院」において、わたしは次のように書きました。
「今年の8月は、ただの8月ではありません。
日本人だけで実に310万人もの方々が亡くなられた、あの悪夢のような戦争が終わって60年目を迎える大きな節目の月です。
60年といえば人間でも還暦にあたり、原点に返るとされます。事件や出来事も同じ。どんなに悲惨で不幸なことでも60年経てば浄化される『心の還暦』のような側面が60周年という時間の節目にはあると思います。
現在、わたしどもの紫雲閣でお葬儀を執り行うとき、神風特攻隊で生き残られた方など、戦争で兵士として戦った最後の方々の葬儀がまさに今、行われていることを実感します。おそらく10年後の終戦70周年のときには戦争体験者はほとんど他界され、『あの日は暑かった』式の体験談を聞くことはないでしょう。
過去の記憶と現実の時間がギリギリでつながっている結び目、それが60周年であると言えるのではないでしょうか」



そう、再来年の2015年で「終戦70周年」となりますが、2005年には存命だった方々も今ではもうほとんどが他界されています。生存されていても、小野田氏のように90代でしょう。わたしは、たとえ戦後を生き延びられたとしても、戦争に従軍された方々の御魂は「英霊」と呼ぶべきであると思います。
これから、あと何柱の英霊をわたしたちは見送るのでしょうか。


日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ

日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ

小野田氏は、大正11年(1922年)3月19日生まれです。
わたしは小野田氏が大正生まれであったことを知り、最近読んだ『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』安倍晋三百田尚樹著(WAC)の内容を思い出しました。
百田氏の小説の愛読者であるという安倍首相は、国民的ベストセラーとなった『永遠の0』は他人のために自らの人生を捧げた人を描いた作品であるとの感想を述べました。百田氏が『永遠の0』を書いているときに思ったのが、大正生まれの人たちは「他人のために生きた世代」だということだそうです。



その「大正世代」について、百田氏は次のように述べています。
「大正世代というのは、物心ついた時から日本が非常に暗い時代で、小学校ぐらいの時には日中戦争が勃発し、その間に2・26事件など様々な出来事があり、明るく楽しい時代をひとつも経験していない。成人してからは徴兵で戦場に行き、南太平洋や満州、シベリアなどで地獄を体験した。多くの同級生や先輩や後輩が戦地で散っていった。本当に大変な時代を生き抜いた世代です」



これに続いて、両者の間で次のような会話が交わされます。
【安倍】 戦死した200万人にはそれぞれ家族や友人や恋人がいたでしょうから、残された方々も大変辛い想いをされたと思います。
【百田】 地獄の戦場を生き抜いて日本に戻ってみると一面焼け野原で、自分たちを受け入れてくれる祖国はありませんでした。しかし、何もない祖国を一から立て直すために懸命に働き、驚異的な経済成長を成し遂げたのも大正世代なんです。昭和20年の時点で、大正世代というのはちょうど20歳から34歳。その後、僅か20年で日本を戦勝国のフランスやイギリスを追い抜き、世界第2位の経済大国にしたんです。まさに奇跡です。
昭和39年には、どこの国もなしえなかった新幹線を開通させ、東京オリンピックも成功させた。大正世代の先人たちが築き上げてくれた豊かさがあったからこそ、その後の私たちの世代が成り立っているんだとつくづく思います。
(『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』より)


小野田氏は「他人のために生きた世代」である大正人でした。
そして、上官の命令なくしては絶対に投降しない真の武人でした。
わたしたちは、こんな凄い日本人がいたことを忘れてはなりません。
本日、小野田氏の訃報に接し、そんなことを考えました。
92年間の生涯を信じられないほどの強靱な意志で生き抜かれた故小野田寛郎氏に深い尊敬の念を抱きつつ、衷心より哀悼の誠を捧げたいと思います。合掌。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2014年1月18日 一条真也