「体温」

一条真也です。
「体温」という曲が話題になっているそうです。
ヤフーの「映像トピックス」のトップで紹介されていました。
男女デュオのUHNELLYS(うーねりーず)が発表した新作CD『SCREAMERe.p.』の中に収録されており、MVも公開されています。ガンに侵された妻と、その最期を看取る夫の1日を描いた作品で、実話に基づいているとか。


まるで短編映画のようなMVには、今まさに愛する人を亡くそうとしている人の心の動きが見事に描かれています。このMVは多くの人々の共感を呼んでおり、「まさに15年前の自分・・・時が解決してくれました!」、「21年前を思い出しました。涙とまりません」、「世の中の男性諸君、いつこんなことが起こるかわからないよ。今のうちに嫁さん孝行して、後悔しないように生きて行こう!」といった、男性からのコメントが相次いでいます。



愛する人を亡くしたばかりの人ほど、孤独な存在はいません。その人は、この宇宙の中で一人ぼっちになってしまったような孤独感と絶望感を感じるかもしれません。誰にも自分の姿は見えず、自分の声は聞こえない。亡くなった人と同じように、残された人の存在もこの世から消えてなくなったかのようです。
フランスには「別れは小さな死」ということわざがあります。愛する人を亡くすとは、死別ということです。愛する人の死は、その本人が死ぬだけでなく、あとに残された者にとっても、小さな死のような体験をもたらすと言われています。
もちろん、わたしたちの人生とは、何かを失うことの連続です。
わたしたちは、これまでにも多くの大切なものを失ってきました。
しかし、長い人生においても、一番苦しい試練とされるのが、自分自身の死に直面することであり、自分の愛する人を亡くすことなのです。


愛する人を亡くした人へ ―悲しみを癒す15通の手紙


それでも、死は決して不幸な出来事ではありません。
日本では、人が亡くなったときに「不幸があった」と言われます。わたしたちは、みな、必ず死にます。死なない人間はいません。いわば、わたしたちは「死」を未来として生きているわけです。その未来が「不幸」であるということは、必ず敗北が待っている負け戦に出ていくようなものです。
わたしたちの人生とは、最初から負け戦なのでしょうか。
どんな素晴らしい生き方をしても、どんなに幸福感を感じながら生きても、最後には不幸になるのでしょうか。あの、あなたの大切な人は、不幸なまま、あなたの目の前から消えてしまったのでしょうか。亡くなった人は「負け組」で、生き残った人たちは「勝ち組」なのでしょうか。
そんな馬鹿な話はないと思いませんか。
わたしは、「死」を「不幸」とは絶対に呼びたくない。
なぜなら、そう呼んだ瞬間、わたしは将来かならず不幸になるからです。


また会えるから


「体温」には、夫が死にゆく妻の手を取り、かねて用意していた言葉を伝えます。
それは「俺も、そのうちそっちに行くから、わかりやすい場所で待ってろよ」というものでした。送る言葉として、これ以上のものはないでしょう。
そして、これは「また会おう」という再会の約束にほかなりません。
世界中の言語における別れの挨拶に「また会いましょう」という再会の約束が込められています。日本語の「じゃあね」、中国語の「再見」もそうですし、英語の「See you again」もそうです。フランス語やドイツ語やその他の国の言葉でも同様です。これは、どういうことでしょうか。
古今東西の人間たちは、つらく、さびしい別れに直面するにあたって、再会の希望をもつことでそれに耐えてきたのかもしれません。
でも、こういう見方もできないでしょうか。二度と会えないという本当の別れなど存在せず、必ずまた再会できるという真理を人類は無意識のうちに知っていたのだと。その無意識が世界中の別れの挨拶に再会の約束を重ねさせたのだと。
別れても、わたしたちは必ず再会できるのです。


さよならもいわずに (ビームコミックス)


それにしても、人間の生命を「体温」で表現したセンスは素晴らしい!
たしかに、生きている人間には体温があり、死者には体温がありません。体温とは「いのち」そのものなのですね。「失われていく体温 君がくれる温もりの最後 注ぎ続けてくれた愛を 俺は一生忘れないよ♪」というフレーズがリフレインされ、自分の最愛の人が消えたような錯覚に陥ります。
このMVを観て、わたしはブログ『さよならもいわずに』で紹介したコミックを思い出しました。最愛の妻を失い、一瞬にして世界が一変してしまうという内容の作品でした。妻がこの世から消えたとたん、主人公がいるはずの空間がグニャリと歪み、時間も歪んで過去と現在が交錯する場面が登場しましたが、それはあまりにもリアルで恐ろしいものでした。



愛する人を亡くしたとき、時間も空間も歪みます。
そう、まるでSFのような異次元となるのです。
そんな異次元にそのまま人間が身を置いていたら、必ず、その人の「こころ」は悲鳴をあげてしまいます。そして、そのままにしておけば、「こころ」は壊れてしまいます。わたしは、それを防ぐものこそが「葬儀」であると思います。
葬儀は歪んだ時間と空間を儀式の力でいったん断ち切り、正常な時空に戻す働きをします。それは、愛する人を亡くした人の「こころ」を壊さないために、人類が発明した文化装置と言えるものです。



葬儀の大きな役割に、「悲しみの処理」というものがあります。
これは残された生者のためのものです。残された人々の深い悲しみや愛情の念を、どのように癒していくかという処理法のことです。通夜、葬式、その後の法要などの一連の行事。それらは、遺族にあきらめと決別をもたらしてくれます。
愛する者を失った遺族の心は不安定に揺れ動いています。そこに儀礼というしっかりした形のあるものを押し当てることによって、「不安」をも癒します。



親しい人間が消えていくことで、これからの生活における不安。その人がいた場所がぽっかりあいてしまい、それをどうやって埋めたらよいのかといった不安。残された者は、このような不安を抱えて数日間を過ごさなければなりません。心が動揺していて矛盾を抱えているとき、この心に儀式のようなきちんとまとまった「かたち」を与えないと、人間の心はいつまでたっても不安や執着を抱えることになります。これは非常に危険なことなのです。



「体温」のMVは、夫のケータイにかかってきた1本の電話から始まります。
それは、「奥さんの様態が急変しました。すぐ来て下さい」という病院からの電話でした。この電話を人生最悪の電話だと思い人は多いでしょう。
しかし、実際にはもっと辛い電話がこの後に控えています。それは、妻の死を、自分の両親と妻の両親、そして友人や知人たちに伝えるという電話です。
さよならもいわずに』には、この「人生における最悪の電話」を主人公がかける場面も登場します。その後、彼が眠りについたとき、亡くなった主人公の最愛の妻が携帯の着メロに使っていた曲を思い浮かべます。
それは、平井堅の「瞳を閉じて」でした。



あまりにも悲しい場面でしたが、しかし、その「人生における最悪の電話」には主人公の心を救う側面があることも忘れてはなりません。彼は、その電話によって異次元の世界から抜け出し、外部の世界に接触したのです。
多くの人は、愛する人を亡くした悲しみのあまり、自分の心の内に引きこもろうとします。誰にも会いたくありません。何もしたくありませんし、一言もしゃべりたくありません。ただ、ひたすら泣いていたいのです。
でも、そのまま数日が経過すれば、どうなるでしょうか。残された人は、本当に人前に出れなくなってしまいます。誰とも会えなくなってしまいます。



ここで必要となるものが、またしても葬儀です。
葬儀は、いかに悲しみのどん底にあろうとも、その人を人前に連れ出します。引きこもろうとする強い力を、さらに強い力で引っ張りだすのです。葬儀の席では、参列者に挨拶をしたり、お礼の言葉を述べなければなりません。それが、残された人を「この世」に引き戻す大きな力となっているのです。
「体温」のMVを観て、涙腺を緩ませながら、そんなことを考えました。


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*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2013年5月2日 一条真也