『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』

永遠の最強王者  ジャンボ鶴田

 

一条真也です。
5月13日は、ジャンボ鶴田の20回目の命日でした。その日に発売され、その日のうちに読了した『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』小佐野景浩著(ワニ・ブックス)をご紹介いたします。ソフトカバーながら592ページの大著ですが、一気に読みました。それにしても、命日に評伝本が出されるのは、故人にとって最高の供養ですね。

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本書の帯

 

カバー表紙には、往年のジャンボ鶴田のリング上の雄姿の写真が使われ、帯には「普通の人でいたかった怪物」と大書され、「今でも根強い〝日本人レスラー最強説〟と、権力に背を向けたその人間像に迫る!没後20年――今こそジャンボ鶴田を解き明かそう!」「元『週刊ゴング』編集長 小佐野景浩」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

また、カバー前そでには「鶴田の何が凄かったのか、その強さはどこにあったのか、最強説にもかかわらず真のエースになれなかったのはなぜなのか、総合的に見てプロレスラーとしてどう評価すべきなのか――などが解き明かされたことはない。もう鶴田本人に話を聞くことはできないが、かつての取材の蓄積、さまざまな資料、関係者への取材、そして試合を改めて検証し、今こそ〝ジャンボ鶴田は何者だったのか?〟を解き明かしていこう――」という、著者よりのメッセージが記されています。

 

本書の「目次」は、以下の通りです。

「はじめに」

第1章 最強の原点

第2章 ミュンヘン五輪

第3章 エリート・レスラー

第4章 驚異の新人

第5章 馬場の後継者として

第6章 逆風

第7章 真のエースへの階段

第8章 覚醒

第9章 鶴龍対決

第10章 完全無欠の最強王者

第11章 そして伝説へ

「おわりに」 



「はじめに」では、幼少の頃からプロレスファンだったという著者が「怖くて、強いという従来のプロレスラーのイメージとは違い、鶴田は爽やかで明るく、当時の日本の子どもが憧れていたアメリカの自由な空気感をまとっていた。デビュー早々に4種類のスープレックスを華麗に操り、196cmの長身を生かしたダイナミックなドロップキックは驚きだった。アントニオ猪木が好きだった私でも『若くてカッコいいな!』と理屈抜きに鶴田ファンになった」と述べています。



鶴田は豊かなポテンシャルを感じさせながらも、本気で怒らない、必死になる姿を見せないと批判も浴びてきました。しかし、著者は以下のように述べます。
「本人は『いやいや、そんなことはありませんよ』と否定するかもしれないが、天龍と相対した時、三沢光晴らの超世代軍と相対した時には明らかに本気で怒り、時にジェラシーの炎を燃やした。それが怪物的な強さを生んだ。そしていつしかジャンボ鶴田日本最強説が生まれた。だが、鶴田の何が凄かったのか、その強さはどこにあったのか、最強説が根強いにもかかわらず真のエースになれなかったのはなぜなのか、総合的に見てプロレスラーとしてどう評価すべきなのか――などが解き明かされたことはない」
それを解き明かすために、本書は書かれたのです。



本書の冒頭には、鶴田友美(後のジャンボ鶴田)の少年時代が描かれていますが、「朝日山部屋入門事件」というのは初めて知りました。1964年の夏、中学2年生だった鶴田少年は大相撲の朝日山部屋に入門させられたそうです。相撲好きの親戚に連れられて東京見物に行った際に体験入門させられ、自覚のないまま新弟子検査に合格したというのですが、本人の意思ではなかったために夏休みが終わると故郷に戻りました。しかし、地元の人々は「相撲の稽古が辛くて逃げ帰ってきたらしい」「身体は大きくても根性なしだ」と陰口を叩いたとか。それで鶴田少年は「オリンピックに出て、陰口を叩いていた人間を見返してやる!」と思ったとか。それが高校、大学でのバスケットボール、アマレス、最終的にはプロレスに到達することになるのでした。



日川高校に入学したとき、鶴田少年の身長はすでに192cmだったそうです。バスケットボール部に入部し、エースになりました。さぞかし女子にモテたのではないかと思いますが、思春期の少年にとって大きいことはコンプレックスだったようです。鶴田の同級生の池田実氏は「やっぱり大きすぎるという劣等感があったんですよ。ホントに嫌がってましたよ。そりゃあ、目立ちますよね。あれだけ目立てば注目の的ですよ。みんな好奇の目で見ますわ、あの頃は。常に人から見られていたらかなわないですよ。それから、ちょっと吃音があるというのもあったんですよ。なかなか上手くしゃべれなかったんですよね。仲良くなってしまえば大丈夫なんですけど、親しくなるまで、ちょっとナイーブというか」と述懐しています。ルー・テーズ大山倍達などが代表的ですが、格闘技の猛者には吃音がよく見られるようです。鶴田もそうだったとは知りませんでした。



中央大学法学部に入学した鶴田は、バスケットボール部に所属しながら、レスリング部にも出入りするようになります。団体競技であるバスケよりも個人競技の方がオリンピックに出場しやすいと考えたのですが、柔道やボクシングを含む選択肢の中から、最後に残ったのがレスリングでした。中大レスリング部が名門だったことも大きく影響しました。中大レスリング部は多くの五輪メダリストを輩出していますし、鶴田よりも後の世代ですが、桜庭和志や諏訪間もOBです。鶴田はミュンヘン五輪に出場し、グレコローマン100kg以上級に参加しましたが、12選手が参加した中で1勝もできませんでした。当時のレスリング重量級の世界の壁は途方もなく高かったのです。



同時代に活躍したレスリングの選手としては、同じ72年ミュンヘン五輪に韓国のフリー90kg級代表(3回戦失格)として出場した吉田光雄(長州力)、76年モントリオール五輪フリー90kg級代表(4回戦失格)、80年モスクワ五輪フリー100kg級代表(日本のボイコットにより不参加)の谷津嘉章がいます。その中で誰が一番強かったのかというテーマは興味深いですが、中大レスリング部主将でアマレス時代の長州に勝ったこともある鎌田誠は「鶴田、長州、谷津の3人を並べたら、谷津が一番強かったんじゃないかな。アマチュアのルールで試合をやったらね」と述べます。



また、ミュンヘン五輪フリー100kg級以上の代表選手だった磯貝頼秀は「時代が違うけど、やっぱり強かったのは谷津ですよね。鶴田は経験が2~3年だから比較したら可哀相だけど。奴はスタミナもあったし、いい片足タックルも持っていたし、凄く強かった。長州に勝った鎌田さんとか、その時代の人にも勝ち抜いていますから、やっぱり谷津が強かったんじゃないですか?」と述べます。後に全日本プロレスで鶴田と五輪コンビを組む谷津ですが、さすがに「日本アマレス史上最強」と呼ばれただけのことはありますね。



鶴田は、五輪出場も就職のための学歴としてとらえていたといいます。大学卒業前の1972年10月31日赤坂プリンスホテル全日本プロレス入団が発表されました。そのとき、鶴田は「プロレスは僕に最も適した就職だと思い、監督と相談の上、尊敬する馬場さんの会社を選びました」と挨拶しましたが、この発言は非常に有名になりました。著者は、「それまでのプロレス入りは『団体への入門』だったが、鶴田は『会社への就職』と言った。徒弟制度だった日本プロレス界に一石を投じる言葉で、当時のプロレス・マスコミを感心させる一方で、これがのちには『鶴田=サラリーマンレスラー』というマイナスイメージを生むことになってしまう」
全日本に入団した鶴田は、下積みを経験せずにアメリカに送られてデビュー。スタン・ハンセンと一緒に修行しながら、ドリー・ファンク・ジュニアのコーチを受けます。入団記者会見から1年後の73年10月には、馬場と組んでドリーとテリー・ファンクのファンクスが保持するインターナショナル・タッグ王座に挑戦しているのですから、いかに破格の黄金ルーキーだったかがわかりますね。



デビュー以来、鶴田はNWA世界王者をはじめとしたアメリカの強豪たちに胸を借りながら、順調にエリート・レスラーとしての道を歩みます。75年暮れ、全日本は一大イベントを開催します。力道山13回忌追悼&アメリカ建国200年&全日本プロレス創立3周年の記念と銘打った「全日本プロレス・オープン選手権」です。これは、前年74年から馬場に執拗に対戦をアピールし、日本選手権の開催を訴えていた新日本プロレスアントニオ猪木に対して「門戸を開放するので、参加すれば、貴殿が望む馬場線実現の可能性もあり」という返答でした。



猪木は「馬場と戦うのは日本選手権であるべき。お祭りには参加できない」と拒絶しましたが、国際プロレスラッシャー木村グレート草津マイティ井上をはじめ、大木金太郎ヒロ・マツダが参加を表明、全日本からは馬場、鶴田、ザ・デストロイヤーアントン・ヘーシンク、外国人勢はドリー・ファンク・ジュニア、アブドーラ・ザ・ブッチャーディック・マードックホースト・ホフマン、ドン・レオ・ジョナサン、パット・オコーナーハーリー・レイスダスティ・ローデス、バロン・フォン・ラシク、ミスター・レスリング、ケン・マンテルといった錚々たるメンバーが参加しました。これは猪木の参加を想定してのものでした。


この大会の発案者は、馬場のブレーンで、鶴田と天龍の全日本入りを手引きしたことでも知られる森岡理右でしたが、「あれが猪木を黙らせようとしてやったこと。『オープン』という名称にしたのは、〝対戦したがっている猪木さんに対してもオープンな姿勢ですよ″という意味だから。それでガチンコの強い連中を集めてね。僕と馬場、原章の3人で〝一番手はホフマン、次にマードック、そしてレイス、よしんば猪木が勝ち上がってきたとしたら、最後はデストロイヤーをあてて・・・・・・″ってカードを全部考えていた。当時でもデストロイヤーは強かったからね。他にオコーナー、レスリング、ジョナサンといった錚々たる連中がいたわけだから、どうやったって猪木は勝てなかったよ」と語っています。この大会には「ファンが最も観たいカード」の応募企画がありましたが、1位は馬場vs鶴田の師弟対決でした。

 

若き日の鶴田にとって大きな収穫だったのは、〝人間風車ビル・ロビンソンと遭遇したことです。鶴田とロビンソンの対決は〝夢のスープレックス対決″として注目されましたが、76年7月17日に北九州市小倉の三萩野体育館(!)で「ジャンボ鶴田・試練の10番勝負」の第4弾として待望の一騎打ちが行われたのです。三萩野体育館には冷房設備がなく、うだるような暑さでしたが、2人は計65分も戦って引き分けでした。著者は「ロビンソンと戦うようになってから、鶴田はダブルアーム・スープレックスをドリー式の『大きく、ゆっくり』から、徐々にロビンソン式の『速く、強く』に変えていった」と述べています。



また、馬場も鶴田に「ロビンソンからいろんな技を学んだらどうだ?」とアドバイスしたといいます。著者は、「実現できなかったが、馬場はのちの『世界最強タッグ決定リーグ戦』でロビンソン&カール・ゴッチの世界最強コンビを考えるなど、確かな技術を持ったレスラーが好きだったのだ。パット・オコーナーダニー・ホッジ、若かりし頃に指導を仰いだビル・ミラーも馬場が認めていた実力者である」と述べているのですが、ということは、じつはアントニオ猪木というプロレスラーは馬場好みだったのかもしれませんね。馬場は、鶴田を猪木のようなレスラーに育てたかったのではないでしょうか。若き日の鶴田について、馬場は「実力は十分にあるのだから、あとは猪木のような表現力を身につけてほしい」などと語っていたといいます。



ロビンソンに続いて、若き鶴田の好敵手となった外人レスラーは、〝仮面貴族″ミル・マスカラスです。77年8月25日、田園コロシアムにおいて、女性ファンを開拓した鶴田と、少年少女ファンを開拓したマスカラスのドリームマッチ3本勝負が実現しました。1本目はマスカラス、2本目は鶴田が取った後、決勝の3本目はコーナー最上段から場外の鶴田にスーパーダイブを敢行したマスカラスが雨で足を滑らせて客席に突っ込んでしまい、リングアウト負けになりました。著者は、「結末こそ残念だったが、内容はハイレベル。そして若いファンの応援合戦というプロレスの新風景を生んだこの一戦は、77年度のプロレス大賞年間最高試合賞を受賞した。鶴田にとっては、『プロレスは強さを追求する〝実力勝負の世界″と、芸術面を追求する〝観客を魅了する世界″のバランスが大切だ』ということを考えるきっかけになった試合だったという」と述べています。



マスカラスとのアイドルレスラー対決に続いて、鶴田のプロレス人生で待っていたのは「最初で最後の異種格闘技戦」でした。78年2月5日に後楽園ホールで行われた〝柔道王″アントン・ヘーシンクとのUNヘビー級防衛戦です。76年2月、アントニオ猪木ミュンヘン五輪の柔道無差別級および重量級の金メダリストであるウィリエム・ルスカと初めての異種格闘技戦を行いましたが、ヘーシンクは東京五輪の無差別級金メダリストです。東京五輪の直後からヘーシンク獲得に動いていた日本テレビの悲願が実って全日本プロレス入りしましたが、プロレスラーとしては大成しませんでした。鶴田との一騎打ちについて、著者は「結末を先に書いてしまえば、ヘーシンクがエプロンからリング内の鶴田に裸絞めを仕掛けて反則負けという不透明決着で『鶴田のUN防衛戦史上の大凡戦』とされているが、それはあくまでもプロレス的な見方からの評価。異種格闘技戦的な目で見ると、かなり興味深い攻防が展開されている」と述べています。結局、これがヘーシンクの全日本ラストマッチになりましたが、鶴田はヘーシンクのナチュラルな強さを認めていたそうです。



鶴田のライバルといえば、なんといっても天龍の名前が思い浮かびますが、天龍の前にキム・ドクことタイガー戸口がいました。入団した日本プロレス崩壊後、独力でアメリカ各地を渡り歩いてきた戸口は、エリート・コースを歩む鶴田に激しい対抗意識を抱き、72歳になった今も、「鶴田は作られた偽りのスターだ!」と激しい言葉を口にするそうです。その戸口と鶴田の試合では、日本のプロレスファンは〝韓国の龍神″ドクの193cmの長身から繰り出されるスケールの大きなアメリカン・プロレスに目を見張りました。ドクは鶴田と同じように、NWAのファンクス、ジャック・ブリスコ、レイス、マードック、AWAのバーン・ガニア、ロビンソンからもプロレスを学んでいたのです。著者は、「お株を奪うダブルアーム・スープレックスで鶴田を叩きつけ、さらにサイド・スープレックス、ショルダーバスター、ガニアとの構想から盗んだと思われるスリーパー・ホールドなど、大技で鶴田と互角に渡り合うドクに、当時のファンは『もうひとりの鶴田がいた!』という驚きの声を上げた」と書いています。



さて、当時の鶴田について、著者は「鶴田の試合は、相手のリードにしっかり対応して、そこからはみ出ることがなかった。よく言えば安心して観ていられるし、アベレージ以上の内容になるが、一手先がわからないハラハラ感や緊張感はなく、巧くこなしている感が出てしまっていた。その一方で垣間見えたのはプライドの高さだ。頭を掻きむしって『オーッ!』と怒りを表すパフォーマンス、頭を抱えながら痛がる姿、身体をヒクヒクと痙攣させてダメージを表現する姿は、『実はこんなに余裕があるんだよ』ということを暗にアピールしているように見えたのである。それではファンの心は掴めない」と述べていますが、まさに若大将時代のジャンボ鶴田の本質を衝いた分析だと思います。



鶴田は「善戦マン」などと呼ばれ、NWAやAWAといった世界タイトルにも何度か挑戦しますが、いつもあと一歩で王座奪取に失敗しました。そんな鶴田がついに日本人初のAWA世界王者に君臨したのが84年2月23日でした。蔵前国技館で行われたAWA世界王者ニック・ボックウィンクルとインターナショナル王者ジャンボ鶴田のダブル・タイトルマッチで、鶴田はニックにバックドロップ・ホールドを決め、特別レフェリーのテリー・ファンクはしっかりと3カウントを数えました。著者は、「鶴田の快挙は世界タイトルマッチは時間切れ、もしくは反則やリングアウト絡みで完全決着がつくことが少ないという全日本の悪しき伝統を断ち切って、ピンフォールでAWA世界王座奪取をやってのけただけではない。世界王者としてベルトを腰にアメリカに逆上陸して全米をサーキットしたことだ」と述べています。確かに、これは前代未聞の快挙でした。



続いて、著者は「馬場はジャック・ブリスコを1回、ハーリー・レイスを2回破り、NWA世界王座に3度も就いたが、いずれもシリーズ中に王座を奪回されているし、79年11月30日に徳島市立体育館でボブ・バックランドを下して日本人初のWWFヘビー級王者になったアントニオ猪木も、1週間後の再戦は無効試合になって王座を返上。同月17日のニューヨークMSGに王者として登場することはできなかった。しかし鶴田は、84年2月26日に大阪府立体育会館でニックのリターンマッチを退けて初防衛に成功し、3月3日にウィスコンシン州ミルウォーキーのメッカ・オーデトリアムに天龍とのコンビで出場して、『新AWA世界ヘビー級王者』と紹介された」と述べています。結果として、5月13日にリック・マーテルに敗れて王座を失うまで、鶴田は81日間に渡って世界王者として全米をサーキットしたのです。



1985年、全日本プロレスに激震が走ります。前年に新日本プロレスを離脱した〝革命戦士″長州力率いるジャパン・プロレス軍団が全日マットに登場したのです。全日本vsジャパンの頂上決戦が、同年11月4日に大阪城ホールで行われた鶴田と長州の一戦でした。伝説の60分の戦いは今も語り継がれていますが、「鶴田と長州の実力差があり過ぎた」とか「いや、長州が鶴田の強さを引き立てたのだ」とか、諸説が入り乱れています。当の長州ですが、2012年10月5日の髙田延彦とのトークショーで、伝説の一戦を振り返り、「鶴田先輩は本当に強い。もう、全然! やっぱり、鶴田さんのほうが凄かったですよ。僕はあの人のペースに合わせちゃうと、絶対駄目なんですよ。僕は常に動くタイプなんだけど、自分のペースには入れさすことができなかったですね。それで、しんどい思いにはなりましたよね。難しいです。あの人のペースでやっちゃうと、僕はもう完全に自分のキャラはないです。僕はもう2度とやりたくないですね。要するに、流れが絶対合わないというか。流れの奪い合いはやってるんだけど、やっぱりそれは崩せなかったですね」と語っています。著者はこの長州発言について「本音だった気がする」と述べていますが、わたしもそう思います。



長州との一戦で尋常ではないスタミナと強さをプロレスファンに見せつけた鶴田は、次第に「最強」のイメージを濃くしていきます。88年春には、インター王者の鶴田、UN王者の〝風雲昇り龍″こと天龍、PWF王者の〝不沈艦″スタン・ハンセンに、馬場の恩赦によって新日マットから戻ってきた〝超獣″ブルーザー・ブロディを加えた4選手による三冠統一闘争が勃発しました。まずは3月9日、横浜文化体育館でハンセンを首固めで撃破した天龍がUN&PWF二冠王者になりました。次に3月27日、日本武道館で天龍がハンセンを相手に二冠防衛に成功。続いて、鶴田とブロディのインター戦が行われましたが、大方の予想に反して、この大一番をブロディが制しました。キングコング・ニードロップで鶴田を破ったブロディは、号泣しながらリングサイドの観客と抱き合って喜びを爆発させました。こんなブロディの姿を見るのは、誰もが初めてでした。あのブロディが勝利して泣くほど、鶴田は怪物的に強くなっていたのです。



そして、怪物と化した鶴田に戦いを挑んだのが生涯最高のライバルであった天龍です。もともと「週刊ゴング」の天龍番の記者であった著者は「鶴龍対決がプロレスファンの心を掴み、熱狂させたのは、プロレスラーとしての技量、主張をぶつけ合うだけでなく、生き方、価値観、人間性・・・・・・それこそお互いの存在すべてをぶつけ合う戦いだったからだ」と述べ、以下の天龍の発言を紹介しています。
「人生から価値観から、すべてが対極にいる人が反対側のコーナーにいたわけだから、これは面白かったよ。すべてが面白かったね。やってることすべてが・・・・・・変な表現だけど、箸の上げ下げから気に食わないとか、やってることすべてがジャンボにつながるんだからさ。あの頃は毎日すべてがプロレスだったから。それはジャンボの言葉がどうであれ、ジャンボもそうだったと思うよ。余裕を持ちながらやっているっていうのが彼の美学だったからね。あのジャンボが真っ向から来てくれたのは俺の財産。俺はジャンボが〝天龍とやってもいいか″って立ち止まってくれたからこそ、その後の天龍源一郎があると思っているし、みんなにジャンボが怪物だって言わしめたのは〝俺が真っ向から行ったからだ!″っていう自負もあるよ」



さらに天龍は今、「鶴龍対決は俺にプロレスの楽しさを教えてくれたよ。それと〝一生懸命やっていたら、誰かが見ていてくれる″っていう天龍源一郎の存在感を生んでくれたよ。今思うとね、ボロボロにされたっていう印象だね。〝こんなにボロボロにされたのはジャンボ鶴田と真っ向から戦ったからだ″という誇りもあるけどね。長州との闘いとはまた違うんだよ。破壊力と、プロレスのスタイルが違った。長州は一応、テクニックで攻めるプロレスだけど、ジャンボはぶっ壊しにくるプロレスだったからね。本当に俺をぶっ潰そうという気概で攻めてきてくれたよ、そのあとの三沢たちとの試合も凄かったけどね。俺は、あれを堪え切れたから、60すぎになって若いあんちゃんと試合をやっても、〝ジャンボとやった俺がこんなあんちゃんに!″っていうのがやめるまでずっとありましたよ。いいプロレスの基礎と、いい思い出をジャンボによって与えられましたよ」と語ります。著者は、「懐古ではなく、鶴龍対決は今でも最高のプロレスだと私は思っている」と告白しています。



天龍が「三沢たちとの試合も凄かったけどね」と述べたように、三沢光晴をはじめとする超世代軍との戦いも、鶴田の怪物ぶりを強く印象づけました。渕正信によれば、「あの頃は三沢たちが突っ掛かっていって、鶴田さんがムッとした顔をしただけで〝ダメだよ、ジャンボを怒らせちゃ!″っていう空気になった」そうですが、鶴田は後輩である三沢らにナマの感情を引き出されて、かつて馬場に指摘された「技術的に凄いものを持っているのに表現力が駄目なんだ」を克服したのでした。また、和田京平レフェリーは、「三沢の凄さってスタミナなんだけど、そのスタミナを作ったのがジャンボ鶴田。敵わないからジャンボにやるだけやらせて、ジャンボが疲れたのを見極めてやっつけに行く三沢だったよね。ジャンボ鶴田を疲れさせるための受け身によって、あの時代の三沢は出来上がったんじゃないのかな。三沢は受けながら、自分のスタミナをコントロールできた。だから相手の技を全部吸収したよね、逃げることなく」と語っています。



三沢だけでなく、川田利明も鶴田に鍛えられました。著者が川田に「鶴田は怪物だったのか、最強だったのか」を聞いてみたところ、川田は「昔は体力面じゃないところで怪物をアピールするプロレスラーが多かったじゃない。たとえば〝肉をこれだけ食った″みたいな。人とは違った怪物ぶりをアピールして、名前を売っていた時代に比べると、鶴田さんは〝全日本プロレスに就職します″って言ったぐらいだから、入ってきた時からそういう意識はまったくなくて、プロレス界でお堅く生きていこうって思ったんじゃないかなと思うから、それまでの怪物とは全然違うよね。でも、最強かって聞かれれば・・・・・・最強だと思いますよ。プロレスラーとして最強かどうかっていうのは、また別で、お客さんに喜んでもらえるとか、人を惹きつけるとかいう面では違うと思うけど、フィジカル的なものでは最強だと思う。ファンの人たちに共感されにくかったのは、強すぎるがゆえにというのがあったと思うよ。でも超世代軍とやっていた時に指示されたのは、鶴田さんが俺らみんなを余裕を持っていじめたからだよ。もう、みんなが鶴田さんの強さを理解しちゃっていたからね」と語るのでした。



最後に、気になるのは鶴田と馬場との関係です。
77年に起こった全日本プロレスのクーデター未遂事件から両者の間に不信感が芽生えたようにも思えますが、著者は「私は取材をしていて、鶴田は常に馬場と一定の距離を取っていることを感じていた。社長の馬場は、選手たちにとっては近寄りがたい存在だったのはたしかだが、鶴田の場合は、全日本の黎明期からの師弟関係にもかかわらず、何か他人行儀なのだ。馬場にして鶴田に一目置きつつも、明らかに天龍のほうを信頼して、大事なことは天龍に相談していたし、天龍もまた自然体で馬場に接していた」と述べています。また、「馬場は天龍、三沢にはピンフォールを許したが、鶴田にはついに一度も負けなかった」という事実も示しています。プロレス馬鹿に徹することができなかった鶴田に対して、馬場は最後まで物足りなさを感じていたのかもしれません。天龍が全日本プロレスを離脱してSWSへ行くとき、馬場は「お前を社長にするから」と慰留したそうです。



でも、いくら馬場が物足りなさを感じたとしても、それが鶴田の本質だったのでしょう。「おわりに」で、著者は「昔の真のトップレスラーの条件は、力道山に始まり、ジャイアント馬場アントニオ猪木がそうであったように、自分で団体を起こして、なおかつトップレスラーに君臨することだった。しかし、鶴田はそうした権威、天下獲りに背を向けた。望んだのはリング上のトップだけで、リングを降りたらプロレスを忘れて、家族と人生を謳歌する普通の人でいたかったのだ」と述べています。しかし、「計画どおりにはいかないのが人生。図らずも波乱万丈になってしまった鶴田の後半の人生はドラマチックだ。結局、ジャンボ鶴田は『普通の人』にはなれなかった。その生き様は紛れもなくプロレスラーだった」と述べるのでした。

 

1999年1月31日にジャイアント馬場が死去して間もない2月20日、鶴田は引退記者会見を行い、続いて同年3月6日に日本武道館で鶴田の引退セレモニーが行われました。その後、研究交流プロフェッサー制度によりスポーツ生理学の教授待遇として、オレゴン州ポートランド州立大学に赴任することになりました。 この前後より持病のB型肝炎は肝硬変を経て、肝臓癌へ転化かつ重篤な状態へ進行していました。第三者らの進言もあり肝臓移植を受けることを決断した鶴田でしたが、日本での移植が不可能となり、海外での脳死肝移植に望みを賭けました。オーストラリアで臓器提供を待っていたところ、2000年春にフィリピン・マニラでドナー出現の報を聞き、フィリピンに渡航。国立腎臓研究所にて手術が行われましたが、肝臓移植手術中に大量出血を起こしてショック症状に陥り、16時間にも渡る手術の甲斐なく同年5月13日17時(現地時間では16時)に49歳で死去。この日は、奇しくも1984年にリック・マーテルに敗れてAWA世界ヘビー級王座から陥落した日と同じでした。最後までプロレスラーらしかった鶴田の戒名は「空大勝院光岳常照居士」。



かつて、日本プロレス界のトップにいた馬場と猪木が衰えを見せはじめていた頃、ジャンボ鶴田藤波辰爾長州力天龍源一郎の4人がニューリーダーとして注目されました。著者が編集長を務めた「週刊ゴング」では、4人の頭文字を集めた「鶴藤長天」というコピーを考案。「鶴藤長天」は「格闘頂点」を目指す男たちだったのです。現在、時代は令和です。4人がリング上で活躍した昭和は遠くなりました。しかし現在、天龍、藤波、長州らは「日本プロレス殿堂会」を設立して、さまざまな場で思い出を語り合っています。その場に鶴田がいないのは、やはり寂しいことです。鶴田が生きていれば、彼らとどのように語り合ったでしょうか。しかし、本書を読んで、鶴田の往年の雄姿がありありとわたしの脳裏に蘇ってきました。故人の20回目の命日に刊行された本書は、「永遠の最強王者」にとって最高の供養になったのではないでしょうか。ジャンボ鶴田こと鶴田友美氏の御冥福を心よりお祈りいたします。合掌。

 

永遠の最強王者  ジャンボ鶴田

永遠の最強王者 ジャンボ鶴田

  • 作者:小佐野 景浩
  • 発売日: 2020/05/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

2020年5月14日 一条真也

北九州市健康づくり活動表彰で優秀賞を受賞しました

一条真也です。
14日、安倍晋三首相は新型コロナウイルス特別措置法に基づく緊急事態宣言について、39県の解除を決定します。「特定警戒都道府県」の福岡県と石川県も解除の対象です。もちろん、まだまだ油断はできず、気の緩みは禁物ですが、とりあえず未来への光が見えてきましたね!

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優秀賞に選ばれました!

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優秀賞の表彰状

 

ところで、株式会社サンレーは、このたび、北九州市健康づくり活動表彰で優秀賞を受賞しました。北九州市は平成24年から毎年、市内企業や地域の活動団体が行っている健康増進につながる取り組みを募集し、その中から先進的・効果的な取り組みを企業部門と地域団体部門に分けて表彰しています。今年、サンレーが取り組んでいる「ともいき倶楽部」の活動が地域団体部門の優秀賞に選ばれました。

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表彰状を受け取る

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表彰状を持って

 

3月20日に西日本総合展示場で予定されていた表彰式が新型コロナウイルスの汚染拡大で中止となったため、14日に市健康医療部の岩田光正部長がサンレー本社に表彰状を届けてくださいました。「ともいき倶楽部」は65歳以上のシニア世代の方々が支援を受けるだけの立場になるのではなく、お互いが支え合って生きていくことを目的に本社近くにある研修施設「天道館」を舞台に活動しています。ブログ「ともいき倶楽部」で紹介したように、2014年10月9日に発会し、翌月からは毎月第2木曜日を「ともいき倶楽部の日」として、「笑って長寿! 笑って健康!」を合言葉に「笑いの会」を催しています。


毎日新聞」2015年7月24日朝刊

 

福岡市に本拠地を置くNPO法人「博多笑い塾」から月替わりの芸人を招き、歌謡、舞踊、漫談、奇術、落語など多彩な出し物で地域の皆様に楽しんでいただいています。芸人の方々の交通費や謝礼に充てるため、参加者からは1人500円をいただいていますが、毎回50人近くが集まり、これまでの有料入場者総数は約3000人となっています。多くがリピーターで、毎月1回、この会を通じて知り合いの無事を確認して語り合う場にもなっています。

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「笑いの会」のようす

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「笑いの会」のようす

 

この他、無料開放した天道館で曜日ごとに茶道、気功、ヨガ、フラワーアレンジメントなどの趣味の会が開かれ、地域の皆様の生きがいづくりに貢献してきたことも記して昨年10月に応募し、受賞につながりました。

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次は、オスカー像を狙います!(笑)

 

この日は、新型コロナウイルスへの対応で多忙な中に来訪いただいた岩田部長から、額に入った表彰状と記念のクリスタル像を手渡されました。地域活動部門で株式会社が表彰されるのは初めてということです。ともいき倶楽部は3月以降、コロナ対策のために活動を自粛していますが、サンレーではこれらの取り組みを地域貢献の柱ととらえて今後さらに発展させていきたいと思っています。早く新型コロナウイルスの感染が完全終息して、「笑いの会」を再開したいです!

 

2020年5月14日 一条真也

『"蒙古の怪人" キラー・カーン自伝』


 

一条真也です。
『"蒙古の怪人" キラー・カーン自伝』キラー・カーン緒(辰巳出版)をご紹介いたします。2017年4月に刊行されたG SPIRITS BOOKSシリーズの1冊で、昭和のプロレス界を彩った名レスラー、"蒙古の怪人"キラー・カーンが自身のキャリアを総括する初の本格的自叙伝です。

 

著者は、本名・小澤正志。1947年3月6日、新潟県西蒲原郡吉田町出身。身長195cm、体重140kg。63年2月に大相撲の春日野部屋に入門し、70年3月に廃業。71年1月に日本プロレスに入門。73年3月に同団体を離脱し、新日本プロレスに移籍。77年12月にメキシコに渡り、テムヒン・エル・モンゴルに変身。79年3月月から北米に活動の拠点を移し、キラー・カーンとして各テリトリーで活躍した。84年9月に新日本を離脱し、ジャパンプロレス設立に参加。87年に現役を引退し、以降は飲食業を営んでいます。 

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本書の帯

 

本書のカバー表紙には著者の写真が使われ、帯には「今日から、お前は"人殺しのジンギス・カン"だ」「モンゴル帝国の末裔として全米を震撼させたプロレスラー生涯初の本格的回顧録」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、「リングを降りて、30年が経った 俺の正直な気持ちをすべて明かそう」「『落とし前をつけなければ・・・』日に日に怒りは増幅し、もはや他のことは考えられなくなっていた。この時、俺はどんな顔をしていたのだろう。気が付けば、俺の足は築地に向かっていた。そこで新品の包丁を購入した。大好きな料理をするためではない。長州を殺すためだ。(本文より)」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の通りです。

まえがき 「ガーデン」で浴びたブーイングのシャワー

第1章 雪の日の朝、そこにはお袋の足跡が残っていた

第2章 春日部屋の大広間で観た力道山vsデストロイヤー

第3章 日本プロレスに入門し、
             「モンゴル人」に衝撃を受ける

第4章 なぜ俺のデビュー戦のデータは間違っていたのか?

第5章 吉村道明さんからは、
              プロレスの「戦う姿勢」を教わった

第6章 俺が入門した年に日本プロレスで起きた2つの事件

第7章 大木金太郎さんに誘われて韓国へ行く

第8章 俺の全日本プロレス合流は、
              馬場さんも了承済みだった

第9章  「小沢、お前なら
      ニューヨークに行くのも夢じゃない」

第10章 山本小鉄さんに酒樽で頭を殴られる

第11章 至近距離から見た
                  アントニオ猪木vsモハメド・アリ

第12章 「もしかしたら、
                      今回は猪木さんが負けるんじゃないか・・・」

第13章 メキシコで「テムヒン・エル・モンゴル」に変身

第14章 俺が出世して
                 「人殺しのジンギス・カン」になった日

第15章 妻シンディと師カール・ゴッチの思い出

第16章 ジョージア地区で目撃した
                  マサ斎藤さんのシュートマッチ

第17章 WWFで
                  フレッド・ブラッシーから伝授された極意

第18章 プロレスラーとして成功するには何が必要か?

第19章 藤原喜明との「不穏試合」は、誰が組んだのか?

第20章 俺の人生を変えた
                  アンドレ・ザ・ジャイアント足折り事件

第21章 すべてを出し切れた
                「第5回MSGシリーズ」決勝戦

第22章 『革命軍』は、
                  外国人レスラーのギャラ問題が生み出した

第23章 俺がジャパンプロレス参加を決めた本当の経緯

第24章 85年1月22日、
     無人のトイレでグラン浜田を制裁

第25章 「剛竜馬オイチョカブ騒動」の真相

第26章 俺が「恩知らずのキラー・カーン
     と呼ばれた混迷期

第27章 全米を股にかけてハルク・ホーガンと抗争を展開

第28章 リングを降りた俺は、
     「長州を殺す」と決意した

「あとがき」

f:id:shins2m:20200127202257j:plain大坪飛車角

大相撲からプロレス入りした著者は、日本プロレスの道場で大坪飛車角のコーチを受けます。ブログ『金狼の遺言―完全版―』で紹介した上田馬之助の本では「大坪清隆」として登場しますが、こちらが本名で「飛車角」はリングネームです。本書にはプロレスのロープワークについて言及されているのですが、これが非常に興味深いです。
「プロレス特有のものに、ロープワークがある。これを覚えるための練習も徹底的にやらされた。よくプロレスを白い目で見ている人は、『レスラーはロープに振られると、どうして戻って来るんだ?』と小馬鹿にするが、ロープワークはプロレスをやっていく上で必要な『技術』であり、何度も反復練習をしなければ身に付かない。リングの四方に張ってある3本のロープの中には太いワイヤーが入っており、変な角度で当たるとアバラ骨を痛めてしまうし、骨折する場合もある。だから、実はロープを脇で受け、反動を使って中央に戻る方が安全だという側面もあるのだ」



続けて、著者は以下のようにも述べます。
「このロープワーク、そして相手のショルダータックルを受ける練習も何度もやらされた。自らロープに走り、反動を使ってリングの中央に戻る。そして、相手に左肩から当たっていく。一方が倒れて、受け身を取る。起き上がった頃、ロープに走った選手が戻って来て、再び左肩からぶつかってくる。そういう動きを何度も道場のリングで繰り返した。これはタックルや受け身の練習になるだけでなく、実戦の勘も養えるし、リングの広さも身体で覚えられる。プロレスのロープワークでは、リングの中央で相手をタックルで倒したら、右方向のロープに走るのが基本だ。もし倒れた相手を飛び越えて反対側のロープに走ったりしたら、見た目も不細工だし、理屈的にもおかしい。たまにプロレス中継をテレビで観ると、デタラメに走っている選手を見かけることもあるが、ああいうのは見映えがしないし、怪我の元でもある。こうした練習をした結果、レスラーは受け身を取る時にどちらの方向に倒れればいいのか、ロープに走る時にどちらの方向へ走った方が次の技を出しやすいかなどを瞬時に判断できるようになる。それと同時に、何度もダッシュしたり、受け身を取って起き上がったりしているうちにスタミナも付く」



第9章「小沢、お前ならニューヨークに行くのも夢じゃない」では、日本プロレスが崩壊する直前に、坂口征二らとともにアントニオ猪木が設立した新日本プロレスに移籍した頃のことが、「新日本は猪木さんと坂口さんの二枚看板になったとはいえ、実質的には社長の猪木さんがトップである。俺が日プロの若手だった頃、猪木さんは『雲の上の人』だった。しかし、新日本に移って距離は一気に縮まった。猪木さんは野毛の道場でよく練習していたし、雑談をしながら一緒にちゃんこを食ったりすれば、親近感が増すのは当然だ。俺は新日本に来てから、猪木さんの身の周りの世話をやっていたこともある」と書かれています。

 

続けて、著者はいかのように述べています。
「 俺の他にも付き人は何人かいたが、風呂に入った時に猪木さんの背中を流していたら、こんなことを言われた。
『小沢、お前はもっと身体を大きくすれば、海外でもやって行けるはずだ。俺には夢かもしれんが、お前ならニューヨーク(WWF)に行くのも夢じゃない』
この猪木さんの言葉は、今でも耳に残っている。その時はまさか自分がWWFで活躍できるレスラーになれるとは露ほども考えていなかったが、若手の俺にとっては大きな自信に繋がった一言だった。この頃の猪木さんは『100%プロレスラー』だった。まだおかしなサイドビジネスに手を出しておらず、どうやって観客を入れようか、どうやって視聴率を上げようか、馬場さんの全日本プロレスに勝つにはどうすればいいか――。頭の中は、それだけだったはずである」

 

著者といえば“大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントの足を折った試合がきっかけでトップレスラーとなったことで知られますが、それは81年4月のこと。じつは早くも74年の春には、1対2の変則マッチで著者はアンドレと対戦しています。パートナーは山本小鉄柴田勝久でした。74年11月24日には、鹿児島県川内体育館でアンドレとのシングルマッチも組まれました。著者は回想します。
「5分半で負けてしまったが、アンドレはキャリアの浅い俺を巧みにリードしてくれたし、自分なりに試合を成立させることができたから大きな自信に繋がった。『アンドレは頭が良かった』とよく言われるが、まったく異論はない。アンドレはプロレスというものをよく知っていた。当時、日本のファンは彼を怪物レスラーとして見ていたはずだが、実際には相手を引き立てながら、魅せる試合をちゃんと作れるプロレスの達人である。しかも、アスリートとしても優れており、あれだけ大きいのにスピードも早い。リングサイドで小柄な星野さんが全力で逃げても、大股で足も速いアンドレにすぐ捕まってしまうほどだ」



 また著者は、アンドレについて、「アメリカでアンドレはひとつのテリトリーに長期間定着せず、各地を回る。どこへ行っても絶対的なスーパーベビーフェイスで、アンドレが来ると会場が満員になるからプロモーターたちも大喜びだ。当時、プロレスファンに限らず、一般人でもアンドレのことは知っていた。聞いた話だが、アンドレがどこかに引っ越したら、町全体がパニックになったらしい」と述べています。


「ご存知のように、アンドレは公称で身長が2メートル23センチ、体重が236キロという桁外れの肉体を持っている。ただ、あれだけの巨漢でもありながら、本当にプロレスが巧かった。お互いに殴り合う際もアンドレは相手に怪我をさせないようにしながら迫力のある攻めを見せ、その上で相手のいいところも引き出す術を心得ていた。俺と戦う時も、こちらの見せ場をちゃんと作ってくれた。だから、観客はヒートする。アンドレは『自分はもう少しやられていた方がいい。それから反撃した方が客が喜ぶ』ということを戦っている最中に瞬時に頭の中で計算して、それを実行できるレスラーだった。日本で言えば、猪木さんもそうなのだが、プロレスというものを知り尽くしており、試合の組み立て方は素晴らしいものがあった」


日本には猪木の前に、プロレスというものを知り尽くしていたレスラーがいました。猪木の師匠である力道山です。第17章「WWFでフレッド・ブラッシーに伝授された極意」では、キラー・カーンと改名した著者に対してブラッシーが言った次の言葉が紹介されています。
「カーン、相手が攻撃してきても、すぐに受け身を取るな。受け身を取れば、楽かもしれない。でも、耐えることも大事なんだ。攻撃を耐えて耐えて、3回目、4回目で受け身を取れ。俺が日本の観客をヒートアップさせたのは、力道山の唐手チョップは受けても倒れず、5発目で大きく受け身を取ったからだ。観客が"この男はどうして倒れないんだ!?"と思っているところで、受け身を取るんだ。お前には正直に話すが、力道山のチョップは物凄く痛かった。でも、それを敢えて俺は堪えた。そうすると、観客は熱くなる。もちろん、その時に平気な顔をしていたらダメだ。痛みを堪えながら、耐えることが大事なんだ。それによってレスラーの凄味も伝わるし、受け身を取った時に観客の感情も爆発する」



第18章「プロレスラーとして成功するには何が必要か?」では、著者は以下のように述べています。
「プロレスラーとして成功するには際立った個性や誰にも真似のできない必殺技が必要だ。しかし、俺の持論では、最も大切なのは『人間性』である。『そんな馬鹿な! 強さや巧さじゃないのか?』と思う読者もいるかもしれない。もちろん、それらも必要だが、プロレスラーも人間だ。最終的には人間性の良し悪しが仕事に大きく影響する。これはどんな職業でも同じだろう。性格の悪いレスラーは、どのテリトリーに行っても疎まれる。逆に性格が良ければ、レスラー仲間にも好かれるし、プロモーターにも可愛がられる。そうすれば、ポジションも自然と上がっていくということだ」



新日本プロレスで活躍した著者は、その後、長州力らとともに全日本プロレスのリングに上がります。そこで遭遇したジャイアント馬場ジャンボ鶴田についても述べています。馬場については、「ファンはどう思っているか知らないが、馬場さんは試合巧者だ。猪木さんもそうなのだが、相手をちゃんと盛り立てる術を知っている。馬場さん、猪木さんの両巨頭と対戦経験のある俺の率直な感想は、2人のプロレスの巧さは他の日本人レスラーに比べると群を抜いていた」と語っています。鶴田については、「俺に言わせれば、彼は自分を強く見せるということに長けていた。確かにスタミナはあったし、試合の組み立てもそれほど下手ではないが、自分が弱く見えるようなことはしなかった。そこがプロレスファンに『最強』と言われる由縁だろう。少なくとも、俺は鶴田選手を『強い』と感じたことはない」とコメントしています。



では、長州力についてはどうなのか。85年7月31日、両国国技館で著者は長州とシングルで対決します。試合は流血戦となり、最後は長州が著者をリキ・ラリアットで沈めるという展開でした。著者は「人間性を抜きにしても、俺は長州というレスラーをあまり評価していない。この日、俺のトップロープからのダブル・ニードロップを食らっても、長州は『効いていない』と人差し指を振って客席にアピールした。相手のフィニッシュホールドを大事にしないというのは、三流どころか五流のレスラーがやることだ。長州は、藤波選手と名勝負を何度も繰り広げたことになっている。だが、あれは藤波選手が試合を組み立て、長州を引っ張ったから成立しただけの話だ。そういう面では、長州は恵まれていた。長州はフィニッシュホールドも、人の技をそのまま頂戴して使っている。その神経が俺には信じられない。誰がどう考えても、ラリアットはスタン・ハンセンの技だ」と述べます。



著者と一緒に新日から全日に戦場を移した長州でしたが、なんと古巣の新日にUターンします。しかも、そこには巨額の金が動いていました。それをアメリカで知った著者は「長州の野郎、ふざけやがって! お前は金をもらえれば、何でもするのか!」と怒り狂います。その怒りを抑えることができず、すぐさま日本に帰って、長州をぶん殴ってやりたいほどでした。第28章「リングを降りた俺は、『長州を殺す』と決意した」で、著者は「俺はすべてに嫌気が差した。プロレスそのものが嫌いになりそうだった。『もうプロレスを辞めよう。あんな奴と同じ商売をしているのは、ウンザリだ』だが、WWFのスケジュールがまだ残っている。それをボイコットして試合に穴を空けたら、長州と同罪だ。WWFに迷惑をかけるわけにはいかない。きちんとスケジュールを消化して、プロレス界からスッパリ身を引こう。この話をすると、『小沢さん、怒るのはわかるけど、そんなことでプロレスを辞めなくても・・・』と不思議がる人がいる。だが、俺は我慢ならなかった。この仕事をしている限り、俺を長州と同じような人間だと誤解する人も出てくるだろう。こんな恥さらしとは、死んでも一緒にされたくない」と述べます。

 

日本に帰っても、著者の頭の中では長州に対する怒りが渦巻いていました。こんなことを述べています。「あいつは、どうして仲間を平気で裏切れるのか。新日本が嫌になって、ジャパンプロレスを創ったんじゃないのか。あいつを信じた俺が悪いのか。プロレスの世界から足を洗ったことは後悔していない。俺は俺なりに第二の人生を歩んでいけばいい。だが、長州のことだけは絶対に許せなかった。『落とし前をつけなければ・・・』日に日に怒りは増幅し、もはや他のことは考えられなくなっていた。この時、俺はどんな顔をしていたのだろう。気が付けば、俺の足は築地に向かっていた。そこで新品の包丁を購入した。大好きな料理をするためではない。長州を殺すためだ」



本書の最後には、「そういえば、あの包丁はどうなったのだろうか」などと書かれていますが、ずいぶん物騒な話です。「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」ならぬ「キラー・カーンはなぜ長州力を殺さなかったのか」ですね。現在、著者はJR新大久保駅の近くで「居酒屋カンちゃん」を経営しているそうで、幸せそうで何よりです。一度、お店に伺ってプロレスの話を聞きたいものです。上田馬之助の『金狼の遺言―完全版―』ではセメント・レスリングに焦点が当てられていましたが、本書では「プロレスとは何か」という本質について見事に述べられています。それでも、著者が弱かったわけではありません。上田馬之助はセメント・レスラーの1人として「キラー・カーン」の名前をしっかりと挙げています。本書でも、ミル・マスカラスをセメントで圧倒したり、グラン浜田無人のトイレで制裁したなどの素敵なエピソードが紹介されています。

 

"蒙古の怪人" キラー・カーン自伝 (G SPIRITS BOOK)

"蒙古の怪人" キラー・カーン自伝 (G SPIRITS BOOK)

 

 

2020年5月14日 一条真也

『金狼の遺言-完全版ー』

金狼の遺言 ―完全版― (G SPIRITS BOOK)

 

一条真也です。
『金狼の遺言―完全版―』上田馬之助・トシ倉森/共著(辰巳出版)をご紹介いたします。2012年に刊行された本で、2011年12月に亡くなった名悪役レスラー、上田馬之助が「真実」を語った自伝です。彼が自身の人生を赤裸々に振り返った東京スポーツ紙の人気連載(2007年1月~5月掲載)「上田馬之助 金狼の遺言」に大幅な加筆・修正を加え、単行本化。1996年3月の交通事故後、壮絶なリハビリ生活を送っていた上田が生前に残した「真実」を、彼が最も信頼を寄せていたプロレス記者、トシ倉森氏が口述筆記。日本プロレス界を代表する名レスラーたちの実像や、現役時代に起こした数々の「事件」の真相を激白し、初めて明かす秘話が多数掲載されています。

 

上田馬之助は1940年6月20日、愛知県海部郡出身。大相撲を経て、60年に日本プロレスに入門。73年3月、大木金太郎とのコンビでインターナショナル・タッグ王座を獲得。日プロ崩壊後は全日本プロレスに合流するも、73年10月に離脱。フリーランスとなり、アメリカで活動する。76年5月、国際プロレスに逆上陸。翌77年1月からは新日本プロレスに参戦し、タイガー・ジェット・シンと合体。日本人ヒールとして確固たる地位を築きました。その後は全日本、NOW、IWAジャパンなどに参戦。96年3月、自動車事故で頸椎を損傷し、胸下不随となりました。以降、リハビリ生活を続けていましたが、2011年12月21日に呼吸不全により逝去。

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本書の帯には在りし日の上田馬之助の写真とともに、「プロレス専門誌『G SPIRITS』単行本シリーズ第2弾!」「“昭和の名悪役”上田馬之助が残した最後の言葉を聞き逃すな!!」「日本マット界分裂の引き金となったアントニオ猪木クーデター未遂事件の真相も激白」「寛ちゃん、犯人は俺じゃない。裏切ったのは馬場さんなんだ」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には「試合前からやろうと思い、相手の腕を折ったレスラーは私くらいだろう――」「『セメント』をキーワードに上田馬之助がレスラー人生を赤裸々に振り返る」「道場で行われた俺と馬場、猪木のスパーリング/力道山の命令によりガチンコで開催された日本プロレスの若手トーナメント『関西の牙』/アメリカ人柔道家との知られざる果し合い/テネシーでのトージョー・ヤマモト腕折り事件/誰もが怖れる“最強”ダニー・ホッジとの不穏試合/大木金太郎の依頼で遂行したパク・ソンナン潰し/オリンピック・レスラーたちとの道場マッチ/ライバル団体の旗揚げ戦に殴り込み/賭けアームレスリングで一儲け/俺が認める日米のセメント・レスラーたち」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の通りです。

「まえがき」

第一章 5歳の時、私は左耳の聴力を失った

第二章 相撲部屋を抜け出し、力道山門下生になった日

第三章 力道山道場でセメント・レスリングをマスター

第四章 密室で行われた猪木さん、馬場さん、大木さんのスパーリング

第五章 猪木さんと2人で看取った師・力道山の最期

第六章 心の師・吉村道明さんの教え

第七章 オリンピック・レスラーとの道場マッチ

第八章 ビジネスを守るために挑んだ柔道家との他流試合

第九章 酒場での賭けアームレスリングで一儲け

第十章 トージョー・ヤマモト腕折り事件の真実

第十一章 ボブ・ループとライバル団体の旗揚げ会場に殴り込み

第十二章 NWA世界ジュニア王者ダニー・ホッジは最強か?

第十三章 幻に終わったエルヴィス・プレスリーとの対面

第十四章 猪木さんが追放されたクーデター未遂事件の真相

第十五章 日本プロレス崩壊後、馬場さんから受けた屈辱

第十六章 国際プロレス吉原功社長への恩義

第十七章 ‟奥の手”を使って新日本プロレスに参戦

第十八章 憎き馬場さんの全日本プロレスに逆上陸

第十九章 セメントが強かった海外のトップレスラーたち

第二十章 私がセメントの実力を認める日本人レスラーたち

第二十一章 今こそファンの素朴な疑問に答えよう

第二十二章 力道山を破ったアンドレ・アドレーと再会

第二十三章 日本マット界再興のために、本物の強さを取り戻してくれ

第二十四章 96年3月16日、私のレスラー生命は絶たれた

第二十五章 生きる糧を失い、自殺を考えた日々

第二十六章 上田裕司より、最愛の妻・美恵子へ

第二十七章 オヤジの教えは「酒はレスラーらしく豪快に飲め!」

第二十八章 かつての盟友・アントニオ猪木への遺言

あとがきにかえて「上田vsホッジのセメントマッチを目撃したヤス・フジイの証言」


第二章「相撲部屋を抜け出し、力道山門下生になった日」では、プロレス入りする前に入った角界は封建的な事柄があまりにも多すぎましたが、その反面、「後の人生で役に立つ多くのことも学んだ」と書かれています。たとえば、礼儀作法もそのひとつだとして、以下のように述べられています。
「ある武道の達人が『挨拶さえしっかりしていれば、世の中の争いごとが3分の1に減る。それが世界平和にも繋がる』と話していた。まさしく正論だと思う。挨拶は、人間社会においてコミュニケーションの第一歩である。だから、多民族国家アメリカでは、挨拶がなによりも重要視されている。最初に『私はあなたに敵意を持っていませんよ』とお互いに示すわけだ」

f:id:shins2m:20200131205439j:plain吉原功 

 

第三章「力道山道場でセメント・レスリングをマスター」では、上田には2人の偉大なレスリングの師匠がいることが紹介されます。1人が吉原功です。
「吉原さんは、名門・早稲田大学レスリング部で大活躍した人で、アマレス仕込みのテクニックは抜群だった。日本プロレスでも屈指の業師であり、力道山先生にもアマレスのテクニックを教えていた。レスリングのレの字も知らない私に、吉原さんはわかりやすく1から教えてくれた。大学出だけあって、教え方も理に適っていた。私は吉原さんの人柄も尊敬していたから、毎日レスリングを教えてもらうことがとても楽しみだった。お陰でアマレスのタックル、バックの取り方、グレコローマン流の投げ技など大事なレスリングの基礎を叩き込まれた」

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大坪清隆 

 

もう1人の師匠が、大坪清隆です。
「大坪さんは‟鬼の柔道”と謳われた木村政彦さんの団体、国際プロレス団にいた人で柔道五段の猛者だった。その大坪さんからは、スポーツ柔道ではない柔道、つまり柔術に近い関節技を中心に教わった。相手を極める危険な柔道技だ。68年にカール・ゴッチ日本プロレスにコーチに来た時には、アシスタントを務めるぐらい指導者としての腕も最高だった。もちろん実力はピカイチで、大坪さんには徹底的に関節技を仕込んでもらった。それこそ毎日が血ヘドを吐く稽古だった。だが、不思議とそれを苦とは思わなかった。スター候補生の猪木さんも同じ稽古に耐えていた。それを思うと、どんなに厳しくても我慢できたのである。今、私があるのは大坪さんのお蔭と言っても言い過ぎではない。私のバックボーンであるセメント・レスリングの要となるサブミッションは、ほとんどが大坪さんから教えてもらった関節技を自分流にアレンジしたものだ」



第四章「密室で行われた猪木さん、馬場さん、大木さんのスパーリング」の冒頭には、力道山について以下のように書かれています。
力道山先生、ここからは尊敬の念と親しみを込めて『オヤジ』と呼ばせてもらおう。オヤジは、大相撲という実力の世界で関脇まで登りつめた人だから、セメントの重要性を誰よりも知っていた。だから、道場での稽古はセメント重視の内容だったし、マスコミがいない時は若手レスラーにセメントのスパーリングばかりをさせ、セメントによるトーナメントも開催した」



プロレスの覇者・力道山は「強さ」を重要視していたわけですが、61年のある日、力道山は最も信頼していた往年の名レスラーで当時はレフェリーとして活躍していた沖識名だけを道場に残し、他の者を全員外に追い出しました。そして、3人のスター候補生である大木、馬場、猪木にセメントのスパーリングを命じました。上田は述べます。「私が後から聞いた話では、3人の中で、まず最初に馬場さんが脱落した。そして、残った大木さんと猪木さんが勝負した。激しいスパーリングの末、結局この勝負は付かなかった。この時、オヤジは将来を託すレスラーをこの2人に決めたのではないか。おそらくこの日から、猪木さんはライバルの馬場さんに対して絶対の自信を持ったのではないかと思う。だからこそ猪木さんはオヤジ亡き後、日本プロレスでトップとして君臨し続ける馬場さんに対して、挑戦の意志を常に持っていたのだろう。猪木さんの心の奥底では、『セメントができないレスラーがトップに立つのは許せない。セメントの強い者が上に立つのがプロレスの世界だ』というプライドがあったはずだ」



さらに、上田は馬場についてこう述べます。
「私は馬場さんをセメント・レスラーとは思わない。なぜなら、私はスパーリングで馬場さんの実力を知っているからだ。ある時、オヤジに馬場さんとのスパーリングを命じられた。私は馬場さんを首投げでマットに倒すと、得意の腕固めを極めた。すると、オヤジが突然ストップをかけた。オヤジにとっては、予想外の展開だったのだろう。この時、道場にはスポーツニッポンと日刊スポーツの記者もいた。これが結果的に、私にとって不運だった。機転を利かせた吉村道明さんが、中に入ってうまく絵を作った。結局、私は逆に馬場さんの股裂きを食う羽目になったのである。スター候補生の馬場さんだったから仕方がないと思う反面、非常に悔しい思いをした」



上田馬之助が望むレスラーの条件は、次の5つです。

1.基本がしっかりしていること。

2.誰が見ても体がレスラーに見えること。

3.打たれ強いこと。

4.お客さんと勝負できること。

5.いざというとき、セメントで勝負できること。



第五章「猪木さんと2人で看取った師・力道山の最期」では、恩師・力道山の臨終時に猪木と上田が立ち会ったことがリアルな筆致で書かれています。
「オヤジは苦しそうに『水をくれ!』『起してくれ!』と言った。だが、それは看護師さんに止められて叶わなかった。そして、それがオヤジの最後の言葉となった。容態が急変して、息を引き取るまで20分くらいだったと思う。見る見るうちに、オヤジの顔から血の気が引いていくのがわかった。私の頭は真っ白になった。昭和のヒーロー、一番強い私たちの先生が亡くなった。私と猪木さんはお互いに言葉が出なかった。まるで時間が止まったかのようだった。看護師さんが『口に脱脂綿で水を』と私たち2人に促した。最初に猪木さんが、その後に私も震える手でオヤジの口に水を浸した。それからは、看護師さんたちがオヤジに処置をする姿をただ呆然と見ていた」



第六章「心の師・吉村道明さんの教え」の冒頭には、以下のように書かれています。「私がオヤジ以外で最も尊敬するレスラーは、吉村道明さんだ。吉村さんの歴史は、日本プロレスの歴史と言って良い。スター選手たちのタッグパートナーとしても活躍した最高の功労者である。実際に吉村さんは、日本プロレスの6人のスター選手をリング内外でサポートし続けた。その6人とは、まず日プロを創設したオヤジ、継ぐがオヤジ亡きあとの看板だった豊登さん、オヤジの門下生の3人、ジャイアント馬場アントニオ猪木大木金太郎、そして最後は坂口征二だ。オヤジを除けば、吉村さんがいたからこそ誰もがスターの地位を不動のものにできたといっても過言ではない。それほど吉村さんの縁の下の力は大きかった」



吉村道明は、61年4月に初来日したカール・クラウザー(カール・ゴッチ)とシングルマッチを行いましたが、それについて以下のように書かれています。
「2人のテクニックが文字通り流れるようにリング上で繰り広げられた。ゴッチのヨーロッパスタイルのテクニックに対して、吉村さんは日本人レスラーの意地を見せて一歩も引かなかった。テクニックでがっぷり四つに組み、甲乙付けられなかった。この一戦を見て、プロレスファンになった人も多いと思う。まさに西洋と日本を代表するテクニシャン同士の対決で、私も手に汗を握った一戦だった。これだけの実力がある吉村さんが、タッグマッチでは自分を捨ててパートナーを大いに引き立ててみせた。周りの石がみんなダイヤモンドだったら、どれも輝きは同じに見えて目立たない。だが、吉村さんは自分の放つ光を微調整しながら、試合を進めることができたのである。今のマット界には吉村さんのようにうまく光をコントロールしながら試合を展開できるレスラーは、私の知る限り数えるほどしかいない。これは私が勝手に思うことだが、吉村さんは海軍に志願しただけあって日本人特有の潔さがあった、それが‟火の玉レスラー”と呼ばれるゆえんだろう」

 

最強の系譜 プロレス史 百花繚乱

最強の系譜 プロレス史 百花繚乱

 

  

ブログ『最強の系譜』で紹介した本では、真のセメント・レスラーとして、ルー・テーズカール・ゴッチダニー・ホッジらが紹介されていました。第十二章「NWA世界ジュニア王者ダニー・ホッジは最強か?」では、「ホッジは私が対戦したジュニアヘビー級の選手の中で、最強だったことは間違いない」とした上で、さらには「最高のセメント・レスラー」としてルー・テーズの名を挙げています。タッグマッチながら、テーズと2度対戦した上田は以下のように述べます。
「テーズは、オヤジとやり合った世界のチャンピオンである。私は試合の前から、かなり興奮していた。テーズと対戦することが、レスラーになってからの目標であり、夢だった。この時、嬉しさのあまりか試合で初めて足が震えたのを憶えている」



上田が実際に戦ったテーズの印象はどうだったのか?
「私がファーストコンタクトでまず感じたのは、テーズの体が本当にガチガチだったことだ。よく‟鉄人”というニックネームを付けたものだと感心する。まさに全身が鋼鉄のようであった。試合を通して一番うまいと思った点は、相手が力を抜くタイミングを見逃さないことである。テーズは、相手が息を吐く瞬間に攻撃してくる。息を吐く時は、当然どんなレスラーも力が入らない。そこをレスリングの鉄人はちゃんと心得ている。言わば、闘いの極意だ。サブミッションの技術もアメリカのレスラーの中では最高だった。仕掛け方が私のスタイルに似ていた。相手の力を利用し、自分は無駄な力を出さない。肉体もヘビー級ならではの重量感と圧力があった」


 

 

第十七章「‟奥の手”を使って新日本プロレスに参戦」では、上田にとって最高のタッグ・パートナーであったタイガー・ジェット・シンとの出会いを語っています。
「正直に言えば、最初に会った時は『態度がデカいヤツだなあ』と思った。彼も一匹狼としてアメリカやカナダで苦労してトップを取って来たので、ナメられたくなかったのだろう。驚いたことに、タイガーは私のリング内外のアドバイスに最初から耳を傾けた。彼が日本でビッグチャンスを掴もうと考えていたことは間違いない。さすが一流レスラーの頭は柔軟だと感心した。私も彼となら今までにない凄いチームが組めるかもしれない、と直感的に思った。想像していた通り、タッグを組むにつれて、私たちはリング上でも息がピッタリと合ってきた。初対面の印象とは異なり、タイガーは人間性も悪くない。なによりヒールレスラーとしての度胸と実力があった。まさにヒールをやるために生まれてきた男をパートナーに得て、今までにない不思議な感覚が私に芽生えた。その後は、まさに阿吽の呼吸というやつである。タイガーも私とのコンビを大いに気に入ってくれたし、公私ともに私を信頼してくれた」

 

“東洋の神秘"ザ・グレート・カブキ自伝 (G SPIRITS BOOK)

“東洋の神秘"ザ・グレート・カブキ自伝 (G SPIRITS BOOK)

 

 

第二十章「私がセメントの実力を認める日本人レスラーたち」では、日本人のセメント・レスラーとして、アントニオ猪木坂口征二長州力前田日明藤原喜明山本小鉄ヒロ斉藤天龍源一郎ジャンボ鶴田星野勘太郎、安達勝治(ミスター・人)、北沢幹之木戸修鶴見五郎栗栖正伸鈴木みのるアポロ菅原らとともに、高千穂明久ザ・グレート・カブキ)の名前を挙げ、「高千穂クンは早くから海外で活躍し、後に“東洋の神秘”ザ・グレート・カブキとなって全米に旋風を巻き起こした。これは偶然ではなく、彼の努力の結晶だと思う。基礎がしっかりしていてセメントも強いから、本場アメリカでも常に堂々とメインを張っていた。一時期、私はテングーというリングネームでダラスのリングに上がったことがあるが、この時に高千穂クンには公私ともに大変お世話になった。いつも私のことを先輩として立ててくれた。彼に『ここはアメリカで先輩後輩は関係ないよ。それに君がここの大スターなんだから』と言ったことがある。彼の大成功は、私も本当に嬉しかった」と述べています。

 

ケンドー・ナガサキ自伝 (G SPIRITS BOOK)

ケンドー・ナガサキ自伝 (G SPIRITS BOOK)

  • 作者:桜田 一男
  • 出版社/メーカー: 辰巳出版
  • 発売日: 2018/05/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

また、上田の付き人をしていた桜田一男(ケンドー・ナガサキ)の名前も挙げて、こう述べています。
桜田クンは相撲の世界でも将来を大いに嘱望されていたが、十両入り目前でプロレス界に入ってきた。親方も非常に残念がったようである。だから、誰よりも馬力があり、喧嘩も滅法強かった。桜田クン独特の蹴りは、空手の達人も非常に実戦的だと認めていた。後年、桜田クンは総合格闘技の試合に出て敗れたが、レスラーの宿命である相手との『間』を見過ぎたのではないかと思う。彼はストリートファイトでは無敵だった。安達クンの話では、ピストルを持った男に対しても臆することなく向かっていったそうだ。普段は非常に穏やかだが、怒らせると怖い男である」

 

"蒙古の怪人" キラー・カーン自伝 (G SPIRITS BOOK)

"蒙古の怪人" キラー・カーン自伝 (G SPIRITS BOOK)

 

 

さらには、桜田と71年入門同期のキラー・カーンこと小沢正志の名前も挙がっています。
「彼は桜田クンと同じく相撲の幕下まで務めた。幕下まで上がる力士は相撲力が強く、喧嘩も強い。私は桜田クンと同様に、小沢クンにも日プロの道場で稽古をつけた。若手時代から私より体が大きくて、素質も十分だった。いつかは開花すると思っていたが、ニューヨークに行って大きく花が咲いた。WWFで本当のトップを取った日本人はキラー・カーンだけだと思う」



そして、聞いた話を総合すると髙山善廣もトップ・クラスのセメント・レスラーであるとして、以下のように述べています。
「私は、髙山クンとドン・フライが壮絶な殴り合いを繰り広げた試合をビデオで観て唸った。オヤジが観たら、きっと喜んだと思う。あれこそ、レスラー魂だ。私が日プロに入った頃、オヤジがみんなにああいうど突き合いの稽古もやらせていたのを思い出した。髙山クンも脳梗塞という重度の病を乗り越えてリングに立っていると聞いたが、体を大事にしてほしい。ダニー・ホッジが彼の雰囲気を『日本のハルク・ホーガン』と絶賛していたそうである。セメントはホーガンより髙山クンの方が強いだろう」
その髙山は、現在、「頸髄完全損傷」からのリハビリに懸命に挑んでいます。上田馬之助といい、髙山善廣といい、プロレスラーが重傷を負うと、無性に悲しいです。



第二十三章「日本マット界再興のために、本物の強さを取り戻してくれ」では、セメント・レスラーとしての誇りを持つ者として、以下のように訴えます。
「プロレスの人気回復には、本当にセメントが強いレスラーを育成することが先決である。30歳台の現役時代に総合格闘技の出場オファーが来ていたら、私は間違いなく出ていたと思う、そして、プロレスの威信を賭けて戦った。こう見えても、私は打たれ強い。さらにヘッドバットがOKなら、文句ナシである。人間の大きな武器のひとつであるヘッドバットを禁止するのはナンセンスだ。だから、何でも有りでヘッドバットも許されるプロレスが最強だと思う。私の知る限り、昔から頭での攻撃が許されていたのはプロレスと大相撲だけだ」



上田馬之助は、96年3月、自動車事故で頸椎を損傷し、胸下不随となりました。以降、苦しいリハビリ生活を続けました。第二十五章「生きる糧を失い、自殺を考えた日々」では、耐え切れない痛みと生きる糧が定まらない苦しさから自殺を考え続けた後、やっと自分の力で車イスの車輪を押せるようになったことを告白し、以下のように述べます。
「なぜ『押す』という表現を使うかと言えば、握ることができず、上から車輪を押さえながら前に進むからだ。ここに来るまでも、私は革の手袋をいくつか潰しても誰もが驚くほどリハビリに励んだ。日本プロレス時代の厳しい稽古が、いつも脳裏にあった。私は稽古で弱音を吐いたことはない。車輪を1回押すたびに、ヒンズースクワット1回だと思った。これを100回、200回、300回と無意識で数えるようになった。道場で聞いた吉村道明さんの『努力はウソをつかない』という言葉を思い出していた」



そんな上田を献身的に支えてくれたのが妻の恵美子さんでした。本書には、恵美子さんのひとかたならぬ苦労の様子が紹介されています。そんな彼女に上田も心から感謝の念を抱くのでした。
「恵美子は私が事故に遭って不自由な体になってから、籍を入れてくれた。そして、いつも『2人で頑張りましょう』と言ってくれた。これが、なによりの励みとなった。恵美子の支えがあったからこそ、こうして私は最高の“上田病院”で生きていられるのである。すべて恵美子がいなければ、できないことばかりだ。いつも恵美子に言っていることがある。それは今度生まれ変わったら、私はレスラーよりも大統領になりたい。それも、これからは宇宙の時代だから“宇宙の大統領”になりたい。恵美子をもっともっと幸せにしたい。そして、弱者にも優しく住み良い宇宙にしたい。それが私の願いである」この一文を読んだとき、あまりに切なく、わたしは泣きました。これほど感謝と愛情に溢れた妻へのラブレターを他に知りません。



上田馬之助は師匠であった力道山をこよなく尊敬していましたが、第二十八章「かつての盟友・アントニオ猪木への遺言」で、力道山と似ているのが猪木であり、「オヤジの薫陶を得たからか、同じ感覚・感性を引き継いでいる」として、以下のように述べます。
「第一にレスリングの実力だ。レスラーとしても奥の深い猪木さんは相手の力をうまく引き出せるし、その上でベストの試合を提供できた。ドリー・ファンク・ジュニアを筆頭にクリス・マルコフ、カール・ゴッチタイガー・ジェット・シンアンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガンと数えたら切りがないほどだ。ファンのみなさんにはわからないと思うが、猪木さんのスラィディングしてのキックと延髄斬りは、相手に致命的なダメージを与えることができる。これは嘘ではない。試合で何回か食ったが、そこでこちらの攻撃が止まってしまう。単なる見世物的な技ではない。猪木さんはことプロレスに関しては、天才的なセンスを持っている。やはりプロレスラーになるために生まれて来たのだろう」



上田馬之助が、ここまでアントニオ猪木を高く評価していたとは知りませんでした。本書は貴重な証言にが満載で、セメント・プロレスについての第一級の資料であると思います。上田馬之助選手は、2011年12月21日に呼吸不全により亡くなられました。心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。

 

金狼の遺言 ―完全版― (G SPIRITS BOOK)

金狼の遺言 ―完全版― (G SPIRITS BOOK)

 

 

2020年5月13日 一条真也

『プロレス「監獄固め」血風録』

プロレス「監獄固め」血風録―アメリカを制覇した大和魂

 

 一条真也です。
まだ外出自粛が続きますが、こんなときはプロレスラーの破天荒な生涯から前向きに生きる姿勢を学びたいと思います。まずは、『プロレス「監獄固め」血風録』マサ斎藤著(講談社)をご紹介します。じつは、上田馬之助キラー・カーンザ・グレート・カブキケンドー・ナガサキ、タイガー戸口といったアメリカで活躍したプロレスラーの自伝を読み、すでに書評を書いています。最後に、マサ斎藤の自伝や評伝が出たら、その書評と一緒にブログにUPしようと思っていました。しかし、出版不況のせいか、なかなか出ないので、1999年に刊行された本書の書評を書くことにしました。本書は、プロレスラーの自叙伝というより大和魂を持った快男児の物語として非常に面白かったです。

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カバー裏表紙のレスラー集合写真

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カバー後そでの集合写真解説

 

著者は、本名・斎藤昌典。
1942年東京都生まれ。高校時代はアマチュアレスリングに没頭し、京北高校2年でインターハイ関東大会3位、国士舘高校3年で国体3位。明治大学在学中に全日本選手権の個人、団体などタイトルを総なめにしました。海外遠征3回。64年、東京オリンピック代表に。同大学卒業後プロの道を選び、日本プロレスに入団(65年)。半年後のハワイ合宿でアントニオ猪木と出会いました。68年渡米。「ミスター・サイトー」のリングネームでサンフランシスコ、フロリダ、ロサンゼルス、ニューヨーク、ミネアポリスを転戦。各地域でNWA、WWFなどの世界タッグ・タイトルを奪取し、トップ・レスラーとして大活躍しました。87年、猪木との〈巌流島の決闘〉は、日本プロレス史上に残る戦いとなりました。以降、橋本真也長州力と組み、IWGPタッグ・チャンピオンに。88年、アメリカから日本に拠点を移しました。90年、東京ドームでラリー・ズビスコと対戦し、AWA世界ヘビー級シングル・タイトルを獲得。得意技は「監獄固め」と「バックドロップ」。第一線を退いてからは新日本プロレスのブッカーおよび「ワールドプロレスリング」のテレビ解説者として活動しました。信条は「Go for broke」(当たって砕けろ)。

 

本書は古書で購入したので帯がないのですが、もともと帯にはハルク・ホーガンの写真とともに、「マサはいちばんタフで怖い相手だった!(He was the most fearsome and toughest competitor!)──ハルク・ホーガン(プロレスラー)」と書かれています。また帯の裏には、「1人で強大なアメリカという相手に噛みついて、大和魂で生き残る。そいつが俺の人生のスタイルだった。誰からも拘束されず、自分の体一つで勝負してきた。そして全米中どこへ行っても、トップレスラーとして扱ってもらえるようになった。そのことに俺は誇りを持っている。プロレスは戦いのエンターテイメントだ。客を満足させることができなければ、勝っても意味はない。勝ち負けだけの戦いがしたければ、アマチュアの世界にいればいい。俺は自分がヒーローになってはいけない国で、アメリカ市民らの罵声を金に換えてきた。リングに上がったら誰よりも憎まれること。それが6000試合を戦った俺の勲章だった。──本文より」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

マサ斎藤(ミスター・サイトー/
   マサ・サイトウ)の主な戦歴」

第一章◎〈巌流島の決闘〉の真実

第二章◎プロレス王国のメジャーリーグ

第三章◎さらば日本のプロレス界

第四章◎ただ「強い」だけでは生きていけない

第五章◎性と麻薬、そしてシュート・ファイティング

第六章◎監獄日記・「極悪レスラー」のレッテル

第七章◎大和魂で世界に噛みつけ



第一章「〈巌流島の決闘〉の真実」は、1987年10月4日、巌流島で行われた猪木との時間無制限ノーレフェリー・ノールール・無観客マッチについて書かれています。この試合は「巌流島の戦い」と呼ばれ、2時間5分14秒の死闘を繰り広げました。最後は夜になって猪木を倒し、リングを降りた著者の背後から息を吹き返した猪木が忍び寄ってスリーパーホールドをかけ、著者を締め落として勝利しています。



それにしても、なぜ著者は「巌流島の戦い」に挑んだのか。「〈巌流島〉の相手は俺以外にはいない」として、著者は以下のように述べています。
新日本プロレスが旗揚げされた頃から、俺は助っ人として会社の要望に合わせて戦ってきた。あるときは日本サイド、あるときは外国人サイド。猪木さんや坂口征二と違って、俺はどんな立場にも立てるし、クリーンにもラフにもやれる。それが俺の強みであり商品価値、その持ち味を存分に発揮して客を呼ぶことが俺の役割だと心得ていた。そんな俺のやり方を、アメリカナイズされた合理的なやり方と見るやつもいた。そいつを俺は否定しない。だけど、仕事でも私生活でもアメリカに居場所を持つ俺が、わざわざ日本のマットに上がった理由はそれだけじゃない。本来理想とするレスリング・スタイルが新日本プロレスにはあり、その頂点に立っているアントニオ猪木を追いかけていたからだ」



巌流島の戦い」について、著者はこうも述べています。
「猪木さんが何を考えて〈巌流島〉を思いついたのかは知らない。だけど俺が初めて、会社の方針を無視して『俺と戦え』と呼びかけたあとに、猪木さんはあのプランを発表した。心のどこかで、俺なら乗ってくると思っていたんじゃないだろうか。あれは同時代を生きていたアントニオ猪木と俺が、テレビ番組と興行の枠に縛られているプロレスをぶち壊す行為だったのかもしれない」
「『あれはシュート(戦い)だったのか?』と問われれば、イエスでもありノーでもあると答える。人は簡単にシュートという言葉を口にするけど、シュートといっても1つじゃない。(中略)だけど、こうも言える。戦うことのほかに何もない戦い。そいつをシュートと呼ぶなら、あれは間違いなくシュートだったと。考えてみれば、俺のレスラー人生そのものが1つのシュートだったのかもしれない」



第二章「プロレス王国のメジャーリーグ」の冒頭を、「シュートができなければ生き残れない世界」として、著者は「アメリカのプロレスと日本のプロレスは、今では水と油のように違う。それを見て日本のプロレス・ファンは、『アメリカのプロレスはギミック(まやかし)だ』と馬鹿にするが、俺が20年近く体を張って戦ってきたアメリカのマット界は、そんなに甘い世界じゃない。俺に言わせると、日本よりもはるかに厳しい。何が厳しいかと言えば、そこで生き残ることが、だ」と書きだしています。また、シュート・ファイトで相手の目玉をくり抜いたり、正真正銘のでかい熊と試合をしたこともあるそうですが、「一匹狼として生き残るには、プロモーターやマッチ・メイカーから要請されたことは何でもやるしかなかったからだ」と告白しています。



「もう1つ、俺みたいなイエローが忘れちゃいけないこと」として、著者は以下のように述べます。
「それは、どこに待ち受けているかわからない人種差別の危険な罠だ。もちろんリングの上にも罠がある、日本人の俺を蔑んだり、バカにしたような態度は試合でもわかる。気にしないで済ませたほうがいい場合と放っておけない場合がある。度を越したやつは、リング上でも控え室でも食らわしてやった。抵抗しないで〈弱虫〉だと思われたら、嫌がらせがエスカレートするからだ。だから、ふだんはどんなスタイルで試合をしていようと、シュートのテクニックは絶対に必要なんだ。それを身につけないでアメリカのマットに立つのは、拳銃を持たないでギャングの集団に割って入るようなものだ」



20世紀の終わり、設立当初はNWAに所属していたプロレス団体「WCW」のオーナーにCNNの設立者であるテッド・ターナーが就任し、ペイパービューで一大ブームを巻き起こします。エリック・ビショフによって、WCWは「大男たちの遊び場(Big boy’s play)という愛称を与えられました。「そして、プロレスは市民権を獲得した」として、著者は「ペイパービューにプロレスを乗せるために、WCWがやってきたことは何だろう。答えは簡単だ。子供にも平気で見せられるプロレス、家族全員で楽しめるプロレスにすることだ。これは常識だと思うが、アメリカは日本に比べてはるかに放送コードが厳しい。ポルノや暴力的なものは一般のテレビ番組では厳しく規制されている。だからアルティメットも追いやられたし、ローカルエリアごとに毒s率していた昔のアメリカのプロレスも、ペイパービュー時代には通用しない」と述べています。

 

ペイパービューでは、どれだけ多くの視聴者を獲得できるかが勝負であり、そのためには年齢制限が加わるような内容にはできないのです。明るく華やかで、娯楽性いっぱいのWCWやWWE(前身はWWF)は、そんな事情から生まれてきたのです。それまでのプロレスに比べて、ペイパービューの会場は観客の層がまったく違うとして、著者は「昔は表現は悪いかも知れないが、いわゆるボトム層の溜り場みたいなもんだった。(中略)年がら年中アウトローアルコール中毒覚醒剤中毒たちの祭りみたいなもんだから、銃弾が飛んでこようが、ナイフで刺されようが驚くほどのことじゃない。そんな世界だった」と述べています。それでペイパービュー時代に入った1999年当時はどうだったかというと、「テレビ視聴者がそのまま移行したファミリーの娯楽空間そのものだ。日本でいえば、たぶんプロ野球の観客席で見る顔ぶれに近いんじゃないだろうか。そのくらいプロレスはふつうのアメリカ市民が楽しむスポーツ・エンターテインメントに変貌している」と述べています。



第三章「さらば日本のプロレス界」では、高校時代はアマチュアレスリングに没頭し、明治大学在学中に全日本選手権の個人、団体などタイトルを総なめにしたこと、64年には東京オリンピック代表になったことなどが書かれています。その後、少年時代に力道山に憧れていた著者は、大学卒業後プロの道を選び、65年に日本プロレスに入団します。「幻の最強集団、日本プロレスへの失望」として、著者は「頭に描いていたプロの世界と現実はまったく違うものだった。タコ部屋のような合宿所での生活が始まったのは、昭和40年春のこと。シーツさえもない煎餅布団と黴臭い部屋。入ったとたんに気分が滅入りそうなところだ。同室になったのは平野鬼吉という男で、偶然にもアマレスをかじっていた。それ以外はほとんど相撲出身者。先輩の多くは相撲崩れといったほうがいい連中ばかりだ。俺と入門時期が近い仲間には、木村政雄(のちのラッシャー木村)、高千穂明久(のちのザ・グレート・カブキ)などがいた」と述べています。



入門から半年後のハワイ合宿で、著者は日本プロレスホープだったアントニオ猪木と出会いました。2人はスパーリングを行いましたが、著者は「いくら猪木さんでも、レスリングだったら負けないぜ」と自信満々でした。猪木が下になって著者は上から攻めに入りますが、入った瞬間、著者は「うまい、強えや」と感じたそうです。レスラーは職業柄、こういうことは肌を合わせた瞬間にわかるというのですが、著者はこう述べています。
「もちろん俺たちがやったのはアマチュアのスパーリングではなく、関節を取り合うプロレスの実戦を想定したシュートのスパーリングだ。当時の猪木さんは体重が115キロくらいあり、逆三角形の体は人並外れた柔軟性があった。手足が長くて懐が深く、これだけ大きいのにスピードもスタミナも凄い。まだアマチュアの技術しか知らなかった俺は、必死で食らいついていくのが精いっぱいだった。先輩のしごきにアマチュアの反則技で応戦していた日本でのスパーリングとはレベルの違う、プロのレスリングの奥深さを初めて肌で味わった。ほんとうに気分が良かった。それにしても、猪木さんが日本にいて、大学でアマレスをやっていなくて良かった。もしそうだったら、俺はオリンピック代表の座を奪われたかもしれない。俺は真剣にそう思ったものだ」



本書で圧倒的に面白いのは、第六章「監獄日記・『極悪レスラー』のレッテル」です。1984年4月にウィスコンシン州ワカシャという田舎町で、オリンピック重量挙げ出身のプロレスラーであるケン・パテラが器物損壊事件を起こしました。パテラがマクドナルドのウインドウに投石するという事件でしたが、その逮捕劇に著者は巻き込まれます。宿泊先で著者と同室だったパテラを逮捕しようと部屋に押し入った警官数人をなぎ倒したのです。結果、陪審員裁判で有罪判決を受けました。人種差別を感じた著者はこれを不服として現地の日本総領事館へ助けを求めましたが、大使館や総領事館では釈放や減刑の要求は出来ないため受け入れられず、1985年6月より現地で1年半の刑務所暮らしを送りました。



著者の刑務所暮らしの様子はどんな小説よりも読ませる興味深い内容なのですが、想定外に長い刑期に当然ながら気分は沈みました。しかし、第七章「大和魂で世界に噛みつけ」で、著者はこう述べています。
「あとから思い返してみると、ワカシャの事件前の俺は新進ともに疲れていた。体のあちこちが長年の激闘でボロボロだった。疲れとストレスを抑え込むように、夜ごとの酒の量も増えていた。裁判での俺に対する判決は今でも納得がいかない。しかし、あれは神様が俺に与えてくれた休息の時間だったんだと、今では思えるようにもなった。実際、あの一年半の酒抜きの規則正しい生活とトレーニングのおかげで、俺のレスラー寿命は5年くらいは延びただろう。体が休みを望んでいても、ああいう事件がなければ絶対に休むことはなかったし、酒を抑えることもできなかったはずだ」



さて、刑務所生活を送っているとき、日本から長州力が面会に来ました。長州の特集番組を撮影するテレビ・クルーと一緒でしたが、お土産が大好物のカルピスだったこともあり、著者はゴキゲンでした。1983年から、著者は長州やキラー・カーンとのユニット「革命軍」を経て、長州が結成した「維新軍」(後のジャパンプロレス)の参謀格となって活躍しました。著者と長州は「師弟コンビ」などと呼ばれましたが、著者は「当時、周囲やマスコミは、アマレスのオリンピックボーイからプロへというキャリアの共通点もあってか、俺が長州の心の師匠だなんて、ケツが痒くなるようなことを言っていた。師匠が助っ人としてアメリカから帰国するとなれば、辻褄は合わせやすい。だけど俺は、そんな奥座敷に納まるオヤジのような存在じゃない。年が離れていようが、アマレスの先輩だるが、ただのグッド・フレンドだ。昔も今も、長州とはそういう関係だと思っている」とクールに言い放つのでした。



著者は刑務所内でトレーニングを欠かかさず、肉体改造に成功しました。のちに監獄固めという技を開発するのですが、「〈監獄固め〉と名づけた足の変型技として、著者は「ムショから出てきた男なら、出てきたなりのアピールの仕方がある。それをうまくやるのがプロってものだ。俺はレッグ・ロック(足固め)の変型技を〈監獄固め〉と名づけて、新日本プロレスに乗り込んだ。長州たちがUターンするより一足早く、俺は年明け早々からリングに上がった。久しぶりの猪木さんとの一騎打ちは〈海賊男〉の乱入でファンが暴動騒ぎを起こして、大変なことになった。こいつには、前年の2月にフロリダに遠征していた武藤敬司をリング上で襲撃するという前ふりがあり、それが日本でのマッチ・メイクにつながっていたんだ」と述べています。

 

その後、1987年6月12日、両国国技館でのアントニオ猪木戦の直後に勃発した世代闘争で猪木・坂口らとともにナウリーダー軍を結成し、藤波・長州・前田らのニューリーダー軍と激戦を繰り広げたり、同年10月に猪木と「巌流島の戦い」を行ったり、さらに同年12月にはTPG(たけしプロレス軍団)の刺客としてビッグバン・ベイダーを新日マットに衝撃デビューさせたり、1990年2月10日には、東京ドームでラリー・ズビスコを破ってAWA世界ヘビー級王座を獲得したり、著者の大活躍には目を見張るものがありました。タイトルは2カ月後にアメリカのセントポールにてズビスコに奪還されたものの、47歳での戴冠劇は快挙と称えられました。



「人生はGO FOR BROKE!」として、著者は「少なくとも俺は、猪木さんや馬場さんとは違う生き方をしてきた。日本のプロレス界では異端児だったかもしれないが、偉大な彼らがつくらなかった別の歴史を、俺なりに少しはつくれたんじゃないかな。1人で強大なアメリカという相手に噛みついて、大和魂で生き残る。そいつが俺の人生のスタイルだった。誰からも拘束されず、自分の体1つで勝負してきた。そのことに俺は誇りを持っている。プロレスは戦いのエンターテインメントだ。客を満足させることができなければ、勝っても意味はない。勝ち負けだけの戦いがしたければ、アマチュアの世界にいればいい。俺は自分がヒーローになってはいけない国で、アメリカ市民からの罵声を金に換えて生きてきた。リングに上がったら誰よりも憎まれること。それが6000試合を戦った俺の勲章だった。欲を言えば切りがないけど、プロレス人生に悔いはない。自分なりに、やるだけのことはやったと満足している」と述べます。



ちょうど本書が刊行された1999年2月14日、著者は日本武道館において自らが発掘したスコット・ノートン引退試合を行いました。この引退試合でも巨体のノートンをバックドロップで投げるなど往年のパワーを見せつけました。2003年、 新日本プロレスを離脱し、長州らとWJプロレス旗揚げに参画。しかしながら、WJプロレス時代、記者会見の席に現れた斎藤は体に振戦が見られ、発語にも難がある状態になっていました。それ以降、著者の身体的不調が知られるようになりましたが、WJプロレスはその後1年余りで崩壊することになります。


著者は、2000年よりパーキンソン病の治療を受け、障害者手帳の交付を受けることになります。2005年、著者を慕っている佐々木健介が「ファンにマサさんのことを忘れてもらいたくない」として健介オフィス株式会社化の際、斎藤をアドバイザーとして招聘しました。著者は寮が無かったジャパンプロレスに入門した当時の健介を自宅マンションに居候させ、「身長がない分、横に筋肉をつけろ」とアドバイスするなど、師匠格の存在でした。健介オフィスの記者会見には著者も姿を現しました。



2016年12月2日、大阪市城東区民センターで行われた元新日本プロレス取締役の上井文彦がプロデュースする興行「Strong Style History~Go for Broke!!Forever~」で、著者はじつに4年ぶりにリングに登壇しました。介助なしではリングに上がれないほどでしたが、海賊男(正体は武藤敬司)の強襲に応戦。大いに会場を沸かせました。2017年1月18日付の「日刊スポーツ」の「東京五輪特集」で、栃木県内の病院でリハビリに取り組む著者の姿が記事で紹介されました。記事には、パーキンソン病の症状が末期状態になっていたものの、著者は1時間のトレーニングを1日3回こなし、2020年東京オリンピックの年にカムバックすることに向けてトレーニングを毎日続けていると書かれていました。



2018年7月14日、パーキンソン病のため死去。75歳没。同月21日に通夜、22日に葬儀・告別式が東京・青山の梅窓院で行われました。通夜では、実況席で共にする機会が多かった辻よしなり、告別式では徳光和夫がそれぞれ司会を務めました。米良明久(ザ・グレート・カブキ)と武藤敬司が弔辞を述べ、通夜・告別式には長州力坂口征二天龍源一郎木戸修アニマル浜口、キラー・カン、前田日明蝶野正洋佐々木健介北斗晶夫妻、永田裕志小島聡西村修古舘伊知郎らが参列。戒名は妻の意向によりリングネームと同様に「マサ斎藤」とされました。式後、桐ヶ谷斎場で火葬されました。



こうして、一代の快男児マサ斎藤は仲間たちに見守られながら、堂々と人生を卒業していきました。自叙伝である本書は1999年の時点で終わっていますが、著者の人生はそれから約20年続いたのです。わたしは、古舘伊知郎が「ずんぐりむっくりの美学」と表現した著者の見た目に愛嬌を感じていましたし、大好物のカルピスを原液で飲むというエピソードも、テレビ解説者時代の天然ぶりも好きでした。戒名が「マサ斎藤」だったということを知って、さらに大好きになりました。何より、著者は「本気になったら、誰も、喧嘩では敵わないのではないか」と思わせる凄味を持ったプロレスラーでした。本書には自叙伝にありがちな自慢話は皆無で、代わりに人種差別、セックス、ドラッグ、獄中生活までが赤裸々に書かれています。何よりも、アメリカに住む日系二世の人々への著者の敬意の念が伝わってきて、感銘を受けました。著者のご冥福を心よりお祈りいたします。

 

 

2020年5月12日 一条真也

オンライン会議

一条真也です。
11日の14時からオンライン会議に参加しました。
一般社団法人 全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)の儀式継創委員会のZoomオンライン会議に担当副会長として参加したのですが、生まれて初めての経験なので、ちょっと戸惑いました。7日にリハーサルは済ませていましたけれども。

f:id:shins2m:20200511173104j:plainこれからオンライン会議です

 

14時になるとモバイルPCの画面に委員のみなさんの顔が続々と写り始めましたが、肝心の浅井委員長がなかなか現れません。ログインするのに手間取られたようですが、それまでの時間、大の大人(それも、社長さんばかり)の顔が画面にずらりと並び、気まずい空気が流れました。そこで、近くにあった一条人形をカメラの方に向けて、場の空気を和ませました。さらには、狐の面、ジェイソン・マスクをかぶって大ボケをかましたところ、そこそこ受けました(微笑)。
こんな時期だからこそ、ユーモアが大切ですね!

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肝心の浅井委員長が現れず・・・・・・

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どうも気まずいなあ・・・・・・

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狐の面をかぶってみました

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ジェイソンに変身してみました

 

そして、ついに浅井委員長が画面に参加してきました。最初は、オートキャンプ場のような場所が背景に写ったのでギョツとしましたが、それはフェイクでした。次に浅井委員長の書斎が写り、会議がスタートしました。冒頭、わたしは副会長として挨拶しました。まず、「新型コロナウイルスの感染拡大で、あらゆる予定が奪われています。私事ですが、昨日はわたしの誕生日でしたが、当然ながら誕生会などは一切開かれず、誰からも祝ってもらえませんでした。1年前の誕生日には、当委員会のみなさまに祝っていただきましたね。あれから、1年。まるで夢のようです」と言いました。すると、みなさんから拍手とともに「おめでとうございます!」の声が相次ぎ、とても感激いたしました。

f:id:shins2m:20200511173056j:plainみなさんから誕生日を祝われました

 

次に、わたしは以下のように述べました。
新型コロナウイルスは、あらゆる儀式を葬っています。卒業式、入学式、入社式もそうですが、その影響は冠婚葬祭にも及んでいます。ほとんどの結婚式は中止あるいは延期され、葬儀においても、新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなった方の葬儀が行うことができない状況が続いています。代表的なものでは3月29日、日本を代表するコメディアンであった志村けんさんが70歳で亡くなられましたが、ご遺族がご遺体に一切会えないまま荼毘に付されました」

f:id:shins2m:20200511173117j:plain冒頭に副会長として挨拶しました

 

そして、わたしは「新型コロナウイルスに感染した患者さんは最期に家族にも会えず、亡くなった後も葬儀を開いてもらえないのです。ご遺族は、二重の悲しみを味わうことになります。さらに、肺炎で亡くなった方の中には新型コロナウイルスかと疑われる方もあるので、参列を断ったり、儀式を簡素化するケースも増えてきています。これから、日本人の儀式文化はどうなっていくのでしょうか。わたしは今、このようなケースに合った葬送の「かたち」、そして、グリーフケアの具体的方法を模索しています。ぜひ、今日の会議を実りあるものにしたいと思います」と述べたのでした。

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オンライン会議のようす

 

その後、浅井委員長の「オンライン会議だからこそ、みなさん全員の顔が見えて、意見も聞けるような気がします」との挨拶があり、会議がスタートしました。途中、冠婚葬祭総合研究所の兼松氏、國學院大學の石井副学長も参加され、活発な議論が交わされました。Zoomを使ったのですが、フリーのやつだったので、40分おきにログインし直さねばならず、大変でした。次回は有料のやつでやりたいです。

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便利な時代になりました!


会議は16時15分の制限時間ギリギリまで行われました。次回は6月12日(金)の14時からに決定しましたが、わたしは金沢に出張中です。金沢からでも参加できるので、オンライン会議は便利といえば便利ですね。でも、やはり実物に会うのが一番。新型コロナウイルスの感染拡大が終息して、リアルなみなさんに早くお会いしたいです!


2020年5月11日 一条真也

社会を明るくするマスク

一条真也です。
「アベノマスク」をはじめ、マスクの話題が出ない日はない今日この頃ですが、本日、素晴らしいマスクを入手しました。小倉にある北九州文化開発という会社がありますが、「倶楽部大田」というお店を経営されています。わたしも時々、接待などで使わせていただいていますが、照明も明るく、清潔感にあふれた夜の社交場です。オーナーママの大田ゆう子さんは小倉を代表する名物ママであり、かつ詩人としても活躍されています。その大田ママから「社光マスク」というのが送られてきました。

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社光マスク(表)

 

中央に窪みのある不思議な形状の布マスクとともに紙が1枚添えられていました。そこには、以下のように「社光マスク」の説明が書かれています。
「社光マスクとは、世界を脅かしたコロナウイルスの緊急事態宣言によって、人と人とがあえなくなった日々の毎日を取り戻す為に、作られたマスクです。只今、特許申請中ですが、このマスクは社会に光をという意味で、倶楽部大田のホステスさん達が休業中、マスク作りをする日々に考えられた、名前です。(社会の新たなる光)が早く取り戻せますように、祈っております。倶楽部大田 大田ゆう子」

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社光マスク(裏) 

 

わたしは、この文章を読んで、大変感動しました。「社光」とは「社交」の意味もあるのでしょう。現在、新型コロナウイルスの感染拡大による緊急事態宣言で日本全国の”社交業”のお店が休業していますが、ただ不安な思いを抱えながら、先の見えない補助金を待つのではなく、従業員のみなさんがマスク作りに励むとは素晴らしいではないですか。これこそ、前向きに生きる道としての「何事も陽にとらえる」ということではないでしょうか。しかも、「社会に光を」という志を込めて、特許申請までするとは感服しました。北九州にも縁の深い安倍総理、麻生副総理をはじめとして国会議員の先生方にも、このような高い志をもって休業に臨んでいる方々がいることをぜひ知っていただきたいと思い、ブログで紹介させていただきました。

f:id:shins2m:20200511125923j:plain社光マスクをつけてみました

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なんと、口の部分が開きます!

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マスクをしたまま、お茶も飲めます!

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マスクをしたまま、笑顔を見せられます!

 

この「社光マスク」を実際につけてみてビックリ!
なんと口の部分の布が二重になっており、開閉が可能です。
これなら飲み物を飲んだりするとき、いちいちマスクを外す不便さがありません。開いたときに笑顔も見せることもできて、まことにハートフル! まさに社会を明るくするマスクです。ただ、マスクが鼻に当たったときに布だと自然に開けてきてしまいますので、マジックテープを利用するなどすればベターかなと思いました。
じつは、「つけたままで飲食ができるマスク」というのは、わたしも考えたことがあるのですが、実際に作ってしまった大田ママのアイデアと行動力には脱帽です。

f:id:shins2m:20200511130031j:plain大田特製の「おしゃれマスク」

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大田特製の「侍マスク」
 

大田のみなさんは、「社光マスク」以前にも、普通の布マスクを作って、販売されていました。それが日本の高級素材を使っていて素晴らしい完成度でしたので、わたしも購入させていただきました。わが社の役員のみなさんに配ったところ、非常に好評でした。それ以外にも、各種の「おしゃれマスク」を製造・販売されています。
そういえば、ブログ「手取紫雲閣竣工式」で紹介した侍マスクも大田の特製品です。ブログに侍マスク姿の写真を掲載したところ、「素敵なマスクですね」といったコメントの他、「どこで買えますか?」などの問い合わせがありました。

f:id:shins2m:20200417153026j:plain近刊『心ゆたかな社会』(現代書林) 

 

この「社光マスク」、何よりも「社会の新たなる光」というコンセプトが素晴らしいですね。これは、100冊目の「一条本」となるわが近刊『心ゆたかな社会』(現代書林)におけるメッセージに通じます。同書では、ポスト・パンデミック時代の社会ビジョンについて書きました。新型コロナが終息すれば、人は人との温もりを求め合います。ホスピタリティ、マインドフルネス、セレモニー、グリーフケアなどのキーワードを駆使して、来るべき「心の社会」を予見し、さらには「心ゆたかな社会」のビジョンを描き出しました。「社光」ならぬ「社交」についても大きくページを割いております。もうすぐ100冊になる「一条本」をいつも愛読して下さる大田ママには、素晴らしい「社光マスク」のお礼として、『心ゆたかな社会』をお送りしたいと思います。


2020年5月11日 一条真也