一条真也です。
9日の朝、小倉駅から九州新幹線さくら543号で熊本へ。
熊本駅でサンレー宮崎の尾崎事業部長と合流し、車で宮崎県の椎葉村に向かいました。
椎葉の手打ち蕎麦店の前で
すべて美味しかったです!
いただきます!
食後は、カー子を買いました
椎葉村は、以前からずっと訪れたかった場所です。なぜなら、椎葉村は「日本民俗学発祥の地」だからです。到着すると昼時だったので、名物の手打ち蕎麦を食べました。かけ蕎麦に、トウモロコシのおにぎり、自家製の漬物、椎茸茶・・・・・・すべて美味しかったです。食後は隣の雑貨店で、烏除けの「カー子」を買いました。定価1500円でしたが、消費税は取られませんでした。ラッキー! このカー子は日夜、庭仕事に励んでいる妻へのお土産にしたいと思います。
厳島神社の鳥居の前で
椎葉村は宮崎県の北部、九州山地中央部に位置し、村の全体が九州山標高1000mから1700m級の山々に囲まれた、「風光明媚」という言葉を画に描いたような場所です。現在、村としては日本第5位の広大な面積を有してはいますが、その反面、村域のほとんどは厳しい山々であり、山の中に点々と集落が存在しているかたちになっています。
絶対に見逃しません!(with尾崎)
これよって他の地域から閉ざされたために村内には、近代まで独自の文化が息づいていました。今日も日本で唯一現存している焼き畑農業はその代表であり、このほかに村内の26地区で国の重要無形民俗文化財である椎葉神楽が伝承されています。椎葉村はその地理的特徴・民俗的特徴から、白川郷(岐阜県)・祖谷(徳島県)とともに、日本三大秘境の1つにも数えられています。
椎葉民俗芸能博物館の前で
椎葉は「民俗学発祥の地」です
民俗文化の里・椎葉
猪が吊るされていました
椎葉には上の民俗芸能の他にも、春の的射、秋の臼太鼓などやひえつき節をはじめとする多種多様な民俗音楽が伝わっています。これらを椎葉の四季折々の暮らしぶりと共に紹介するのが「椎葉民俗芸能博物館」です。当館は平成9年4月にオープン。地上4階、地下1階で昔の村の民家風の造りをしています。展示総数はおよそ500点で、臼太鼓踊の展示室では、九州各県及びアジアの太鼓踊に使用される太鼓を展示。神楽のコーナーでは全国の神楽の紹介も行っています。
精霊棚
大宝
太鼓踊りを背景に
神楽面と
柳田国男の肖像と
土俵もありました!
椎葉民俗芸能博物館では椎葉の民俗芸能を九州、アジアの民俗芸能と比較し、地域的・歴史的な位置づけを行うというテーマのもとで貴重な文物を見学することが出来ます。椎葉に伝わる民俗芸能の用具と、日本民俗学にも大きな影響を与えた椎葉の生業の用具も展示されていて、古い日本の姿を考える際の貴重な参考資料にもなります。
博物館に隣接した厳島神社
厳島神社を参拝しました
椎葉村は九州山地の奥深くに位置しますが、そのルーツは、平家の落人が隠れ住んだことに求められるといいます。治承・寿永の乱(源平合戦)によって都を追われ、平家の残党はこの地に落ち延びて住み着きますが、彼らを追討するため、源氏の追っ手として那須大八郎宗久(那須与一の弟とされる)がこの地を訪れます。
山深い椎葉村にて
しかし、平家には既に戦意がないものと判断した宗久は自らも3年間当地に逗留し、平清盛の縁者であるとされる鶴富姫と愛を育んだと伝えられるそうです。これが椎葉を治めた那須氏の発祥といわれており、椎葉村には今でも「那須」姓が多いそうです。かつて日本の覇権をかけて争った源氏と平家が結ばれた場所と考えると、椎葉というのは、ひとつの「ムスビ」のスポットなのかも知れません。
那須宗久と鶴富姫の像
ちょっと、お邪魔します!
鶴富屋敷にて
鶴富屋敷の中で
那須宗久と鶴富姫の伝承の舞台となった場所は、鶴富屋敷(那須家住宅)として今日に姿をとどめています。正確には、しかし、この建物は当時のものではなく、およそ300年前に建てられたものだとされています。平地が少ない椎葉村で、傾斜をうまく利用するために、部屋を並列に配置する細長いデザインが採用され、小屋組みは又首を組み合わせ、屋根は寄棟づくりで棟飾りとして九本の千木が組まれ、寝殿造りの形式をのこしたものともいわれています。往時は茅葺きでしたが、昭和38年から火災防止のため銅板葺きに変更されています。
柳田国男ゆかりの地へ
日本民俗学発祥の地で
草に覆われた説明板
「民俗学発祥之地」の石碑
さて、平家の落人に関する伝説は最初に挙げた徳島県の祖谷や富山県の五箇山など、周辺地域と隔絶された場所に発生することが少なくありません。椎葉はその典型で、そうした環境的な要因により、周辺とは異なった文化が醸成されていたようです。そこに目をつけたのが、日本民俗学の祖・柳田国男でした。
後狩詞記 日向国奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故実 (国立図書館コレクション)
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柳田は明治41(1908)年、法制局参事官として奉職していた折、阿蘇を訪れた後に南郷神門より椎葉を訪れ、当地へ一週間滞在しています。その間、当時の村長だった中瀬淳とともに村内でフィールドワークを実施し、その成果として、日本民俗学初の出版物と言われる『後狩詞記(のちのかりことばのき)』を明治43(1910)年に出版しています。 同書は伝統的山村で行われていた狩猟伝承の実態を記しており、狩で用いることばや、狩の作法のほか、「狩之巻」を付録として収載しています。
同地でも近代に入ると鉄砲が普及し、狩猟の姿は従前から一変しますが、それ以前の時代の狩猟の姿や古伝を口頭と文献によって聞き出し、貴重な資料集にまとめたものです。同書は、近代以前の日本の山村の実情を鮮明に書き記したものであり、柳田によってほぼ同時期に記された『石神問答(いしがみもんどう)』や『遠野物語』と共に、黎明期の民俗学における名著として、今日でも読み継がれています。
中瀬村長は後年、この時の交流が「今日ではこれが日本民俗学の出発点のようにいわれている」と自負していたそうで、彼の生家には「日本民俗学発祥の地」の碑が建立されています。柳田を民俗学へむかわせた彼の功績を思えば、先のことばも言い過ぎではないに思えます。また、わが社・サンレーが日本民俗学の事業化を期して創立されたことや、冠婚葬祭互助会そのものが日本民俗学と不離であることを思えば、椎葉村はサンレー、ひいては全国の冠婚葬祭互助会のルーツといえるかもしれません。
國學院大學での特別講義のようす
ブログ「國學院大學オープンカレッジ特別講座」で紹介したように、わたしは2014年11月11日に國學院大學の教壇に立ちましたが、冒頭、「今日は國學院大學の教壇に立て、感無量です」と述べ、國學院との御縁を話しました。わたしの父で、サンレーグループの創業者である佐久間進会長が國學院の出身であり、日本民俗学が誕生した昭和10年にこの世に生を受けています。また、佐久間会長は亥年ですが、ともに國學院の教授を務めた日本民俗学の二大巨人・柳田国男と折口信夫の2人も一回り違う亥年です。佐久間会長が國學院で学び、日本民俗学のまさに中心テーマである「冠婚葬祭」を生業としたことに何か運命的なものを感じます。わたし自身は、佐久間会長から思想と事業を受け継いでおり、幼少の頃から日本民俗学の香りに触れてきました。
「國學院大學と私」
「國學院」の「国学」とは、「日本人とは何か」を追求した学問で、契沖、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤らが活躍しました。わたしの実家の書庫には彼らの全集がすべて揃っており、わたしは高校時代から読み耽っていました。そして、「日本人とは何か」という国学の問題意識を継承したのが、「新国学」としての日本民俗学です。実科の書庫には、柳田国男や折口信夫の全集も当然にように並んでいました。
わたしは、「無縁社会」とか「葬式は、要らない」などの言葉が流行したとき、日本人の原点を見直す意味でも日本民俗学の再評価が必要であると思いました。いま、わたしは「冠婚葬祭互助会の使命とは、日本人の原点を見つめ、日本人を原点に戻すこと、そして日本人を幸せにすることだと思っています。この互助会のミッションは日本民俗学からそのまま受け継いだものであることは言うまでもありません。ちなみに、佐久間会長は、互助会の初の全国団体である一般社団法人 全日本冠婚葬祭互助協会の初代会長も務めました。
わたしが椎葉村に興味を持ったのは、ブログ「しゃぼん玉」で紹介した日本映画を観てからです。直木賞作家である乃南アサの小説を基にしたヒューマンドラマです。強盗や傷害を重ねて逃亡中の青年が、ある老人と彼女が暮らす村の人々と触れ合ううちに再起を決意するさまが描かれます。監督はテレビドラマ「相棒」シリーズなどの東伸児で、キャストには、林遣都、藤井美菜、綿引勝彦、市原悦子らが顔を揃えました。人と人の絆の尊さを見つめた物語に加え、ロケを敢行した宮崎県の美しい風景も見どころです。
「椎葉平家まつり」のポスター
映画「しゃぼん玉」には「椎葉平家祭り」という祭りが登場し、非常に重要な役割を果たします。「グルネット宮崎」の「椎葉平家まつり」には、「椎葉に残る鶴富姫と那須大八郎の伝説を現代に甦らせたイベント。毎年11月、紅葉の美しい時期に行われます。鶴富姫を供養する『法楽祭』から始まり、当時の様子が再現される華麗な時代絵巻『大和絵巻武者行列』は圧巻」と説明されています。また、「鶴富姫と那須大八郎の伝説」として、こう書かれています。
「およそ800年前、壇ノ浦の合戦に敗れた平家の武士たち。追っ手を逃れて、各地のふところの深い山奥へ。古文書『椎葉山由来記』は次のように伝えています・・・道なき道を逃げ、平家の残党がようやくたどりついたのが山深き椎葉だった。しかし、この隠れ里も源氏の総大将頼朝に知れ、那須与一宗高が追討に向かうよう命令されるが、病気のため、代わって弟の那須大八郎宗久が追討の命を・・・こうして椎葉に向かった大八郎、険しい道を越え、やっとのことで隠れ住んでいた落人を発見。だが、かつての栄華もよそに、ひっそりと農耕をやりながら暮らす平家一門の姿を見て、哀れに思い追討を断念。幕府には討伐を果たした旨を報告した。普通ならここで鎌倉に戻るところだろうが、大八郎は屋敷を構え、この地にとどまったのです。そればかりか、平家の守り神である厳島神社を建てたり、農耕の法を教えるなど彼らを助け、協力し合いながら暮らしたという。やがて、平清盛の末裔である鶴富姫との出会いが待っていました」
さらに、「鶴富姫恋物語」として、こう書かれています。
「いつしか姫と大八郎にはロマンスが芽生えました。『ひえつき節』にもあるように、姫の屋敷の山椒の木に鈴をかけ、その音を合図に逢瀬を重ねるような・・・
庭の山椒の木鳴る鈴かけて
鈴の鳴るときゃ出ておじゃれ
鈴の鳴るときゃ何というて出ましょ
駒に水くりょというて出ましょ
大八郎は永住の決心を固め、村中から祝福されます。ところが、やがて幕府から、『すぐに兵をまとめて帰れ』という命令が届き、夢ははかな・・・
和様平家の公達流れ
おどま追討の那須の末よ
那須の大八鶴富おいて
椎葉立つときゃ目に涙よ
このとき鶴富姫はすでに身ごもっていました。
しかし、仇敵平家の姫を連れていくわけにもいかず、分かれの印に名刀<天国丸>を与え、「生まれた子が男子ならわが故郷下野(しもつけ)の国へ、女ならこの地で育てよ。」と言い残し、後ろ髪を引かれる思いで椎葉を後にするのです。生まれたのはかわいい女の子。姫は大八郎の面影を抱きながらいつくしみ育てました。後に、婿を迎え、那須下野守と愛する人の名前を名乗らせたそうです」
拙著『隣人の時代』(三五館)にも書いたように、祭りは血縁と地縁を強化する文化装置です。そのような本質をもつ祭りに触れ、伊豆見の心は明らかに変化していきます。また、伊豆見と美知の関係が大八郎と鶴富姫のイメージに重なっていくという構図も見られました。取り返しのつかない罪を犯した若者は、平家の落人集落という伝説の場所で、伝説と一体化していくのでした。神話の国・宮崎の伝説の里で・・・・・・。神話も伝説も物語です。「しゃぼん玉」という映画は、人間が物語を必要とする動物であることを示しているように思いました。とても興味深い、素晴らしい映画でした。実際に椎葉村を訪れて、もう一度観たくなりました。
椎葉村の鉄橋にて
鉄橋の下は川が流れています
椎葉ダム
椎葉ダムにて
2019年10月9日 一条真也拝