五輪とコンパッション

一条真也です。
最近、土日はずっと実家を訪れているのですが、4日の日曜日もそうでした。パリ五輪が開催中ですが、ブログ「パリ五輪の開会式に思う」に書いたように、7月26日に行われた開会式については、わたしはセリーヌ・ディオンの「愛の讃歌」の歌唱を除き、まったく評価していません。

 

わたしが一番不満だったのは、オリンピックの開会式というのはあくまでもセレモニーであるはずなのに、それを忘れて完全にショーとなっていたことです。もちろん儀式にも演出的要素、ショー的要素は不可欠ですが、それはあくまでも添え物であるはずです。パリ五輪では、完全にセレモニーがショーに化けていました。そのショー自体も趣味が悪く、マリー・アントワネットに変装した歌姫が、切り落とされた首を手に持って歌うという「フランス革命を血なまぐさく想起させる」演出は最悪でした。パリのイメージを下げただけではないでしょうか。マリー・アントワネットをフランスに嫁がせたオーストリアに対しても失礼ですし、「平和の祭典」に斬首刑を持ち込んでどうするのか? 企画そのものが根本から完全にズレています!

 

さらには、エッフェル塔付近の橋で、女装したダンサー「ドラァグクイーン」らがレオナルド・ダ・ヴィンチの名画「最後の晩餐」の構図をオマージュしたシーンがありました。フランス司教協議会は、これについてキリスト教に対するひどい嘲笑」だとし声明を発表。世界中の教徒も連帯で遺憾の意を示したといいます。そして、司教らは、「オリンピックの祝賀会が、一部のアーティストの思想的な好みをはるかに超えていることを、彼らが理解することを願っています」と付け加えたといいます。このシーンを巡っては米実業家のイーロン・マスク氏もXで「キリスト教徒に対する無礼」「公正で正しいことのために立ち上がる勇気がもっとなければ、キリスト教は滅びるだろう」とポストしました。確かに、一部のアーティストの思想的な好みが政治的主張に発展していますね。「平和の祭典」にふさわしくありません!

ヤフーニュースより

 

8月3日、ローマ教皇庁バチカン)パリ五輪開会式にキリスト教徒らを侮辱するような場面があったとして「遺憾に思う」との声明を発表しました。表現の自由は尊重されるべきだとした上で「他者への敬意」を訴えたのです。開会式を巡っては、派手な女装の「ドラァグクイーン」らが登場した場面が、キリストが処刑される前夜の弟子たちとの夕食風景を描いたダビンチの名画「最後の晩餐」をパロディー化したとして、世界中から非難が相次ぎました。バチカンはこの場面を念頭に「悲しみを覚えた」とし、非難の声に「加わらざるを得ない」と表明したのです。当然のことだと思います。わたしは、どんな宗教であれ、それを信仰している人々がいるのなら「聖なるものを貶めてはならない」と考えています。わたしは神道儒教・仏教を精神的支柱とする者ですが、信仰の対象ではないにしろ、イエスムハンマドには敬意を抱いています。それは、イエスムハンマドを信仰する人々を尊重するということであり、「他者への敬意」というのもそういうことでしょう。



このバチカンの声明を報道したヤフーニュースには多くのコメントが寄せられていますが、seiさんという方は「恐ろしく醜い、見るに堪えない表現だった。ああいう構図で自らの価値観を表現する以上、「特定の価値観に対する攻撃の意図はなかった」と言うのは無理がある。冒涜的だと捉えられても仕方がない。あの表現やそれに内包されている価値観に拒絶反応を示す人が多いのは自然なことだと思う。キリスト教のみならず人間の良識に対する挑戦だと思う」と述べています。また、keiさんという方は「パリオリンピックにはジェンダーやSDGsに関する特定の価値観を強制している感じがする。能力不足か経験不足ではないのかと疑われる女性柔道レフリー、ビーガンに拘った食事やエアコンなしの選手村、開会式もしかりだ。国威優先ではあるべきではないのと同様、特定の価値観強要もすべきではない。アスリートのための開催にならないなら、オリンピックはやめたほうがいい」と述べています。いずれも、まったく同感です!

世界をつくった八大聖人』(PHP新書)

 

拙著世界をつくった八大聖人(PHP新書)では、人類の「こころ」に多大な影響を与えてきたブッダソクラテス孔子老子聖徳太子モーセ、イエスムハンマドの8人の聖人を等しく論じました。同書の最後に八大聖人のメッセージを集約した「人類十七条」というクレドを掲げましたが、その第11条は「他者が信仰する神や聖人を侮辱しない」でした。同書でわたしが最も訴えたかったことは、まさにバチカンの言う「他者への敬意」だったのです。世界史を振り返ると、バチカン自身が他の宗教やそれを信じる者たちに対して敬意を抱いてきたかどうかは疑問ですが、21世紀の地球において「他者への敬意」は欠かせません。というか、「他者への敬意」なくして人類は存続できないでしょう。そして、「他者への敬意」を一語で言うと「」になるのではないでしょうか?

ヤフーニュースより

 

人類十七条」には、他にも第6条「他者の生命を奪わず、自分も自殺しない」、第8条「他国を侵略しない」というクレドもあります。その意味で、パレスチナ自治区ガザ地区北部のガザ市で学校の建物2棟にイスラエル軍空爆があり、子どもら17人が死亡、少なくとも63人が死亡したニュースはまことに残念でした。ガザ文民保護当局の報道官が3日に発表しましたが、標的となった2つの学校は隣り合い、校庭を共有していたそうです。両校とも住民の避難所として使われていました。最初の攻撃の後、間を置かずにミサイル3発が撃ち込まれました。同担当者によると、突然の攻撃で多数の死傷者が出た後、救出作業中にイスラエル軍から次の攻撃の予告があったといいます。当局が発表した死者の名簿によると、子どもが大半を占め、少なくとも3人が女性でした。現場では救出作業が続いていて、最終的な死者数はまだ確認されていません。



ガザ保健省によると、昨年10月以降のイスラエル軍の攻撃で、これまでにパレスチナ人4万人近くが死亡、9万人あまりが負傷しました。国連によると、ガザのほぼ全人口に当たる約200万人が避難を強いられています。本来、「平和の祭典」を謳う五輪の開催中は、戦争は停止すべきです。かつて、第一次世界大戦中の1914年12月24日から25日にかけて有名な「クリスマス休戦」が実現し、ドイツとイギリスの敵軍の兵士同士が共にクリスマスを祝った事実がありますが、あの場合は共にキリスト教徒であったという要素が大きかったかもしれません。イスラエル・ガザ戦争の場合は、ユダヤ教イスラム教という宗教の違い(と言っても、ルーツは同じですが)があるために「オリンピック休戦」は難しいのでしょう。先月30日には、イスラム組織ハマスの最高指導者ハニヤ氏がイラン首都テヘランで殺害されました。イスラエルは「ハマス殲滅」を掲げていますが、70年前に「ユダヤ人殲滅」を掲げたナチス・ドイツとどこが違うのか?

コンパッション!』(オリーブの木

 

現在、アウシュヴィッツ強制収容所に代表されるナチスの「ジェノサイド(殲滅)」は人類史上に残る愚行とされています。それと同じ愚行を、なぜ、ユダヤ人国家であるイスラエルは繰り返すのか? 彼らがいくらユダヤ資本であるハリウッドを使ってナチスヒトラーを批判する映画を作り続けようとも、もはや彼らの被害者意識にリアリティを感じることはできません。あれだけの苦難に遭ったユダヤ人たちが悲願として建国したイスラエルだからこそ、人類の闇に光を与えるようなコンパッション国家が築けないのか? 「コンパッション」とは「思いやり」という意味ですが、キリスト教の「隣人愛」、儒教の「仁」、仏教の「慈悲」など、人類がこれまで心の支えにしてきた思想にも通じます。そして、それは「他者への敬意」と不可分です。マリー・アントワネットの斬首ショーや「最後の晩餐」のパロディなど、先日の開会式にはコンパッションの欠片もありませんでした。このたびの五輪が掲げるSDGsやLGBTQなどよりも「他者への敬意」は重要です。地球や動物に優しいのは大変結構ですが、まずは人間への優しさを忘れてはなりません。その意味で、パリ五輪にはコンパッションが決定的に欠けているのです!

 

2024年8月4日  一条真也