一条真也です。
『日本人の死生観 Ⅱ 霊性の個人史』鎌田東二著(作品社)を読みました。ステージ4のがん患者として如何に死と向か合うか。宗教哲学、神道神学の碩学が古今の死生観を渉猟しつつ大らかな死に方=生き方を提起した一冊です。日本思想史に燦然と輝く宗教哲学者である著者が‟遺作”として発表した本であり、心して読みました。著者は、1951年、徳島県生まれ。京都大学名誉教授、武蔵丘短期大学名誉教授、天理大学客員教授。そして、わが‟魂の義兄”です。2025年5月30日、74歳で逝去。
本書の帯
本書の帯には、「ステージ4のがん患者として如何に死と向き合うか。宗教哲学、神道神学の碩学が古今の死生観を渉猟しつつ大らかな死に方=生き方を提起。「わがいきの いのちのといきどこにふく いのちはてても よはおわりなし (東二)」と書かれています。
本書の帯の裏
帯の裏には、「現在の私の癌の病状は次第に悪化し、脳への多発性転移がfMRIの撮像で認められ、おそらく脳への放射線治療としては最後の手段となる全脳放射線照射を京都大学附属病院で行なうことになった。それとともに、いよいよ『死に臨む態度』に臨床感・臨場感・臨終感が高まってきた。最後の最期をどう迎えることになるか、それはわからないが、最後の最後までやりたいことをつづけて、『ありがとう』と言ってから死にたい。(「あとがき」より)」と書かれています。
本書の「目次」は、以下の通りです。
序章 極私的随想
第一章 死に臨む
第二章 死と死後について―宣長と篤胤の死生観
第三章 「複雑性悲嘆」と「複雑性感謝」ということ
第四章 「グリーフ」と「ウソつく心」
第五章 うたのちから
―ピュタゴラス教団の合唱と
『古事記』『平家物語』と
「ガン遊詩人・神道ソングライター」のうた
第六章 「同行二人」で逝きましょう!
―「おひとりさま」では死ねません
「あとがき――臨終に向かう過程で」
「補記 鎌田家人生会議覚書」
序章「極私的随想」の「春の夜明け」は、著者の父が亡くなった朝について書かれた次の文章から始まります。
「はよ起き! 父ちゃんが死んだんじょ」
震えるような、はりさけるような母の声で目が覚めた。
どんな夢を見ていたのか、何も覚えていない。その後のことも、一切記憶がない。
昭和41年(1966)3月17日、交通事故で突然父が死んだ。私の高校受験の合格発表がある前日のことだった。父は私が合格するかどうか心配していたようだった。だが、合格の知らせも聞かずに、前日の朝、突然死んだのだった。
(『日本人の死生観Ⅱ 霊性の個人史』P.7)
著者は、「私の前にレールも道もなかった。見えなかった。どこから来て何処へ行くのか。自由であったが、どうしていいか、わからなかった。2年後の昭和43年(1968)年4月、九州の青島への一人自転車の旅から帰ってきて、私は口から火山弾を吐き出すようにして詩を書き始めた。言葉は私の口中から反吐のようにどろどろと出てきて、止むことがなかったそれが今もつづいている。私の地殻変動は、父の死から始まっている」と書いています。
その父が、戦争トラウマを抱えていたことを、著者は子どものころから薄々とは感じていたそうです。それが2年前にステージⅣの大腸がんが発覚してはっきりとわかるようになったといいます。著者の父・田中義美は、大正9年(1920)3月3日、徳島県那賀郡桑野村大字桑野字大谷42番地で生まれました。父田中嘉吉、母田中リキの六男末っ子として。著者は、「母リキは、乳飲み子の義美を抱いたまま、ある朝死んでいた。父義美は、生後3~4ヶ月くらいだったのだろうか、冷たくなった母親に抱かれたままある朝目覚めたのだった。当然、そのことの記憶はないはずだ」と書いています。
著者は、最近、父の死を、それとして受け止めることができるようになったそうです。これまでは、みじめとまでは思わないが、つらい死だっただろうと思っていました。しかし、まんざらそうでもないかもしれないと思うようになったといいます。著者は、「実は、父は、いつも早くおれも死にたいと思っていたのではないだろうか。つねに、自分も早く死ぬべきだ、と思っていた。そうにちがいない、と確信するようになった」と書いています。
著者の父の写真
著者は、父の死について、以下のように述べます。
「戦友に対する自責の念、そして、自己処罰の念慮に常に引き戻されていたのではないか。自殺はできない。しかし、事故死であれば。父はオートバイに乗っていた。元優秀な航空兵だったようだから、運転技術には自信があったはずだ。オートバイに乗っている姿は颯爽としていた。いくらか長身で体格もよく子どもの頃は女子児童のあこがれの美少年であったことは、残されている写真からもうかがえる。父は、航空兵として、特攻隊の一員として知覧の飛行場から飛び立つことを当然と考えていただろう。だが彼は知覧から飛び立った特攻隊員の一員にはなれず、靖国神社に英霊として祀られることもなかった」
また、著者は以下のようにも述べています。
「戦友たちは、ほぼ全員靖国の英霊となっている。おれの余生は何だったのか。父の胸裏と脳裏に常に甦る戦友たちとの日々。その時の甘酸っぱくも苦いような切ないような感情。取り戻すことのできない10代の終わりの日々。戦争のさなかではあったが、精一杯生きて、精一杯死んだ。その戦友たちに比べて、戦後のおれはのんべんだらりと子どもたち4人を得て、このようなふがいない日々を過ごしている。彼はどうしようもない自己処罰感に日々苛まれていたのではないだろうか。酒を飲むと、それが一挙に吐き出された。その「反吐」を受け止めたのは、3人の息子たち、中でも二男の鎌田東二、私だった」
「祟り」では、著者の母が「祟り」を恐れていたことに触れられます。それは、まず第1に祖父鎌田藤七が「祟り」で身上をつぶしたから。関東大震災が起こる前、飛ぶ鳥を落とす勢いの大工の棟梁であった祖父は、何十軒?いや、100件近い新築家屋の請負をしていたそうです。県南地方のほぼ全域の建造物を受けたようです。しかし、大正12(1923)年9月1日、関東大震災が起こり、みるみるうちに材木が高騰。契約金内で仕事を完成されねばならぬ請負仕事をしていた祖父は、それにより、仕事を仕上げれば仕上げるほど多大な借財を背負うことになりました。
その年の正月、祖父は「我が家には年末年始の三ヶ日、正味4日間、家の中に酒を置いても飲んでもいけないというしきたりがある。だが、デモクラシーのこの世の中、こんな理不尽な迷信を後生大事に守っていく必要はない。わしは、この家のしきたりを今日からきっぱりと捨てる」と宣言しました。そして、近代主義者の祖父は平安時代の終わりごろから続いてきたという鎌田家のしきたりを破ったのでした。
鎌田家のしきたりの由来は、こうです。
慈円が『愚管抄』で「乱世」とも「武者の世」となったとも嘆いた「保元の乱」(1156年)で、著者の先祖鎌田正清は主君源義朝と共に後白河天皇側に付き、勝利を収めました。しかし、その後の処遇に不満を抱いていたという源義朝は、3年後の平時元年(1159)、ライバルの平清盛が熊野詣に出かけている間にクーデターを起こし、二条天皇と三種の神機を拉致し、政権を奪取したかに見えましたが、その知らせを聞いて急ぎ取って返した平清盛軍との戦いに敗れて、敗走。次々とわが子を失いながら(悪源太源義平、源朝長、源頼朝)を失いながら(ただし頼朝は行方不明)、最期は鎌田正清の妻の父の平(長田)忠致に騙し討ちにあって殺されました。その際、源義朝は風呂場で、鎌田正清は酒に酔わされて殺されたといいます。それが年末から正月にかけての出来事でした。
著者の父が「酔って、転んで、死ぬ。」と新聞に三行で書かれることになった昭和41年(1966)という年の正月元旦、知り合いの人が、鎌田家のしきたりのことを知らずに、正月に鎌田家に酒を持ってきたといいます。著者の母はこのことを大変気にかけましたが、父はそれほどでもありませんでした。しかし、その年の3月17日の深夜のオートバイ事故で、母の不安は的中することになります。昭和47年7月に著者の実家が徳島県下で一軒だけ集中豪雨のため山崩れに呑み込まれて全壊した出来事が起こった年の正月にもある人が正月にわが家に酒を持ってきたそうです。母は大慌てで制止しましたが、遅かった。気が気でなかった母の不安は的中しました。鎌田家は家もなく、金もない家となったのでした。
著者は、「73歳の今に至るまで、正月に神棚に酒を備えたことも飲んだこともない。もっとも今では1年中『酒なし正月』。一滴も酒を飲まない生活がつづいているが。『たたり』というものの物深さを私は感じる」と書いています。その母は、2007年2月26日に亡くなりました。桑野町の母と兄たちの家で行なわれた葬儀の最後の親族挨拶で、著者は何度も泣きながら、「おかあさん、ありがとう。ありがとう。ありがとう!」と叫んだそうです。「最後の最後まで素直でない、世間体をまったく気にしない困らせた息子だったね、かあさん」と書いています。
第一章「死に臨む」の「1、ステージⅣのがんになって『死を光源として即身を生きる』」では、ステージⅣのがんになってから元気になったとして、著者は「元気が出た。覚悟が定まり、余分なものが削がれて、スッキリしたことは確かだ。生のかたちがシンプルになり、いのちのいぶきに素直になったのだ。だから、ずいぶん楽になったし、ある意味、楽しくなった。というより、たのしいことしかしたくない。私にとって、たのしいことの二大『楽(しい)行動』が比叡山登拝と、『ガン遊詩人・神道ソングライター』として、能の『諸国一見の僧』のように、全国各地を旅して廻り、行脚御祈祷・朗唱歌唱していくことである。後者をやり抜く基礎行として、前者の比叡山登拝=東山修験道(2024年11月25日現在946回)が必要なので、両者の連繋・連結は不可欠である。それが、自分にとって、死を光源として、死を活源として生きることだと思っている」と述べています。
また、死が目の前にあることによって、それによって生のかたちもいのちのいぶきもより鮮明になったそうです。著者は、「解像度が格段に上がる。ぼんやりしていられない。いつも、『一期一会』という言葉が口を突いて出て来るようになった。これが最後かもしれない、という気持ちがどこかで生まれることによって、今ここのありようがかけがえのないもので、とてもありがたく思えるのである。そして、すべてに感謝したくなる。そんな気持ちにスッと入れる。てらいもなければ、気どりもなしに。ありのままの自分の素でそんな感じにスッとなるのだ。だから、じつに楽である。いろいろと考えもしなければ、思い悩むこともない。なるようになる。なるようにしかならない。おまかせ。そんな気楽な気持ちである」と述べます。
「死は光である」では、「死は光である。死は光の元、すなわち、光源である。それは、くっきりと生を、いのちを照らしてくれる。自分の全体ばかりではなく、『在る』、ということの全体を照らしてくれる。なぜなら、死は自分の生と思っているもの、いのちと思っているものが『無い』ものとなる、なくなってしまう、消滅してしまうと思える事態だからである。死ねば無に帰すと思っている人も多い。それに対して、死んだら、肉体を離れて、自由になった霊魂がホンモノの世界に生きることになる、と思っている人もいる。死生観も、一様ではないし、さまざまな考え方、捉え方がある。だが、死生観はさまざまだとしても、死を光源としていのちの輪郭やありようが鮮明になるということは事実である」と述べています。これを読んで、このシンプルにして、深い思想に感銘を受けました。これは後世に残る卓越した死生観であると思います。
また、著者は「死を光源とし、鏡とすることで、生きることが鮮明になり、それによって、より楽しくなったり、より苦しくなったり、よりいとおしく、感謝の思いに包まれたり、その反対に、慚愧の思いにかられ、いてもたってもいられないような不安や恐怖を感じることもある。つまり、死に臨む際の思いもありようもさまざまだということである。そしてそのどれが正しいとか、立派だとかという基準はない(あるという人もいるが)、ということだ。だから、『死に臨む態度』などという決まったガイドラインやマニュアルはないということになる。むしろ、死に逝くすべてのプロセスが『死に臨む態度』で、それに優劣を付ける基準はないのだ」とも述べます。超一流の宗教哲学者が到達した極上の死生観であると思います。
「2、ニーチェの『病者の光学』」の冒頭を、著者は「フリードリッヒ・ニーチェは、デカルトが心身二元論として分離分割した精神と身体を正当な順序に位置づけなおした思想家である。彼は、『ツァラトゥストラはこう言った』の中で、精神を『小さな理性』、身体を『大きな理性』と呼び、デカルト以来の精神―理性―思考(思惟)優位の近代的思考に『身体論的転回』をもたらした」と書きだしています。「身体論的転回」の先駆者であるニーチェは、『この人を見よ』で、「病者の光学」という言い方で病気と健康との常識的な関係を問いなおす視点を提示しますが、著者は「これは、ちょっとすごい!」と述べています。
病気になったことをこれ幸いにとニーチェは「物の見方を切り換える」。そして、人生の「価値の価値転換」をはかる。常識の「ちゃぶ台返し」をしてしまうのです。「病苦の時期」に、身体の「何もかもが洗練された」、と。「超人」の哲学者ニーチェにかかれば、病気は弱体化の衰弱過程ではありません。それどころか、「全器官」の「洗練」の過程です。著者は、「病者が持ち得る『病者の光学』から、『健康な概念と価値』とやらを見渡してみる。これはちょっとブッダが提示した視点に似ている。此岸と彼岸の価値転換を図るという点で」と述べています。西洋思想と近代思想全域におよぶちゃぶ台返しの達人ニーチェの発言には「腑に落ちる」ところが多々あるといいます。ニーチェの確信犯的発言、「身体はひとつの大きな理性だ。ひとつの意味をもった複雑である。戦争であり平和である。畜群であり牧者である。」について、著者は「すごいね、この物言い。思想戦士の凄味と覚悟がある」と述べます。
「即身で生きる」では、「即身成仏」の「即身」とは何かについて言及されます。間違いなく、生まれてくる時にも、死んでいく時にも、この肉体、すなわち「身体に即してある出来事」が起こっているといいます。弘法大師空海は、長い期間修行して悟りに至る「成仏」ではなく、今ここで「即身成仏」する道を説きました。著者は、「その意味でも、洞窟の比喩を語ったプラトンよりも空海の方がありがたい。と、思える。そこのところをクリアにすると、たとえ、欲望やさまざまなスピリチュアルペイン(霊性的な痛み)があったとしても、この身このままで、すなわち『即身』で、『成仏』することができる、という思想があることは、一つの救済である。死を前にして、時間がないと思っている人がいたら、ぜひこの『即身成仏』の思想からヒントをえてほしい」と述べます。
空海は、『即身成仏義』で述べています。
六大無礙にして常に瑜伽なり 体
四種曼荼は各々離れず 相
三密加持すれば速疾に顕わる 用
重重帝網なるを即身と名づく 無礙
法然に薩般若を具足して
心数・心王刹塵に過ぎたり
各々五智無際智を具す
円鏡力の故に実覚智なり 成仏
要するに、宇宙根源の法身大日如来と一体化する身心変容技法を「即身成仏」として説いていくわけです。その具体的な実践段階は、「三密加持」です。
ドラえもんの「どこでもドア」、または、まだ手にはしていない「だれでもドア」。「三密加持」とは、そのようなドアや窓がバンバン開いて、次から次へと存在のつながりが見えてき、感じてき、いのちの全体像に、すなわち、この文脈では、「(大日如来という)光源から照らし出された即身」において「成仏」できる、する、ということになるといいます。その相応、すなわち応じ合いも、まず大日如来の方から「仏日」の放射が加護・加被として先行し、それに応じて、衆生(われわれ苦悩や迷いのあるものたち)の「心水」に反映反射されるという順序になります。このような「三密加持」が説かれるのですが、著者は「これはコロナ下で政府が緊急事態宣言を出して「三密回避」を国民に強制したこととどれほどかけ離れているだろうか? 生きていくために、また、死んでいくために、私たちに真に必要なのは、『三密回避』ではなく、『三密加持』なんだよ、と空海なら大きな声を上げるにちがいない。そのことを、本書の通奏低音として、唱えつづけたい」と述べるのでした。
「3、死に臨む三つの態度」では、死に臨む時、三つの基本態度として以下が挙げられます。
(1)死を怖がる。
(2)死に親しむ。
(3)死に委ねる。
死を怖がっていた人も、ある段階で、気がつくと、けっこう死が親しくなっていることがあるとして、著者は「2023年1月、がんを宣告されて遺言として、『悲嘆とケアの神話論――須佐之男と大国主』(春秋社、2023年5月3日刊)と題する本をまとめていた時、繰り返し聴いた歌がジョルジュ・ムスタキ(1943―2013)の『私の孤独(Ma Solitude)』(1967年リリース)という曲だった」と述べています。
この曲の歌詞は、孤独が最後の唯一のともだち、いつもぼくによりそい、つきしたがってくれた、相棒のような存在、という内容でした。「孤独=彼女(女性名詞なので)」は、世界の隅まで自分をおいかけてきてくれた、というのです。著者は、「ちょうど、手術前の再入院を控えていた正月休みだったので、この歌が琴線にひびき、『遺言』を書く手もスピードアップした。要は、人は孤独に親しむこともできれば、死にしたしむこともできる、ということなのだ」と述べ、その際、
(1)死について学ぶ
(2)死とともに「遊ぶ」(?)
の2つの「死に臨む態度」があることを実感しました。
著者は、最終的に「学び」は「学び(真似び)」にすぎないといいます。最後まで自分との間に距離があります。でも、自分がどう生きるか、どう死ぬか、は自分一個でしか辿れません。唯一無比の出来事であり機会なのです。プラトンは『パイドン』の中で、ソクラテスの発言として、「哲学は死の練習(リハーサル)」と言わせています。死は、肉体と霊魂が分離することであり、哲学とは、霊魂(プシュケー)の理性と叡智によりイデアに到達することだから、死ぬことを前もって予行演習しているようなものだよ、ということなのです。イデア(真実在)や叡智(ヌース)に最高最大の価値と基盤を置くプラトンなら、そのような表現をすることも理解できると、著者は言います。
世阿弥の芸論のキーワードは、「花」であり、「幽玄」であり、「妙」(あるいは「妙花」)であることはよく知られています。『五位』と『九位』の芸境芸位論では、それらが、天台教学書や『詩経』(毛詩)や儒書などの引用によって説明されているのですが、最高位の「妙風」は「言語道断、不思議、心行所滅之処、謂之妙」、『九位』では、「新羅、夜半、日頭明なり」、「妙と云ぱ、言語道断、心行所滅なり」と説明されます。この「心行所滅」がクセモノで、「心頭滅却」に相応します。問題の一句は、その前にある「新羅、夜半、日頭明」です。
これは、端的に言えば、矛盾言説の代表格で、「真夜中に太陽が輝く」という意味です。その真夜中の太陽を世阿弥は「妙」とし、「言語道断、心行所滅」と説くのです。著者は、「言葉も心も途絶えて沈黙と無の海と空の中に溶けていく時に真夜中の太陽が燦然と耀く。その玄妙神秘を能の元始の元始と定めたのだ、世阿弥は」と述べ、さらに「本居宣長のように、そんなことにはこだわるな、という立場を取るか、いや、平田篤胤のように、だからこそ徹底こだわりでいってやる! という方向になるか、どちらの道もありうる。『死に臨む態度』として、死に親しみながら、死と遊ぶことができれば、サイコー、と思う今日この頃である」と述べるのでした。
「4、選ばす、与えられたものを活かす」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「人生とは選ぶことができるのか、できないのか、考え方は両極ある。プラトンの『国家』によると、人は自分の人生を選んで(「わかっているが、忘却して」)生まれてくる。なので、選ぶことができる、という立場だ。多くの人は、そんなことはないだろう、この人生を選んで生まれてくるなんて不可能だよ、と思うことだろう。だが、無数回の順列組み合わせが瞬時に無数回組み合わされつつ進行している(時には進行しているのか、退行しているのか、わからなくなることもある)とすれば、とくに不都合はない、とも思える。事態は「選んでいる」ように見えて、すでに『選ばれている』という越境フライングが起こっているかもしれないと私はよく考えるし、そのように感じる。それは、子どものころに鬼に『見られている』という経験を何度もしたからだ」
「5、死ぬ力――死ぬにも力が要る」では、日本におけるホリスティック医学の牽引役を果たした医師帯津良一は、創設した帯津三敬病院で、開院当初から気功をがんの緩和医療やターミナルケアに取り入れたことが紹介されます。帯津は、著書『全力往生――あの世とこの世にときめきを』の中で、「ホリスティック医学は人間を『まるごと診る』医学です。人間の、こころ(MIND)、からだ(BODY)、いのち(SPIRIT)を全部まるごととらえます。ですからもちろん、生と死の両方に軸を置き、死後の世界まで見据えています。さらに、人間がもともと持っている自然治癒力を癒しの原点に置き、自然治癒力を高め、増強することを医療の基本とするものです」と述べています。
著者によれば、ホリスティック医学・医療の「まるごと」は、スピリチュアリティやスピリチュアルケアの真髄だといいます。これまで、著者は『宗教と霊性』(1995年)や『霊性の時代』(2001年)や『神道のスピリチュアリティ』(2003年)などの著書で、「霊性(スピリチュアリティ)」の三特性として、
(1)全体性(まるごと)
(2)根源性(ねっこ)
(3)深化・変容
(ふかめる・ふかまる)
を挙げ、「霊性とは生のコンパス(羅針盤)である」と規定してきたので、この帯津良一の主張には深く同意するとともに、その「まるごと」の医療や「生き方」「死に方」の難しさも同時に痛感しているといいます。
身心の鍛練法や健康法としてのインド発のヨーガや仏教瞑想や中国気功。総じて、そのような東洋瞑想はオルタナティブや医学や医療と密接に結びついており、それぞれの独自の人間観や世界観を基盤にして成立しています。それを一括りにすることは困難ですが、仏教が「生老病死」を「四苦」と捉えたように、「老・病・死」のプロセスを多くの人が辿ることは共通の事実ですから、そこに蓄積された思想智と経験値をおもいっきり活かすべきだとして、著者は「たしかに、死ぬにも力がいるし、臨死体験とかでないかぎり、死に逝く過程の経験はこの世では1回かぎりであるから試行錯誤もあれば、おたおたすることもあるかもしれないが、私たちがこのようにこの世に生まれ出てくることができたのだから、あの世に出ていくこともさほど心配せずとも『いける!』と思うものである。楽天的かなあ~?」と述べています。この楽天的な著者の死生観は、死の不安に怯える多くの人々を救うと思います。
死に臨む死者の覚悟は「神」という神道ソングの歌詞に示されているといいます。「この苦しみの中に神が在る この悲しみの中に神が居る 神は森に住んでいるけれど 人の心の森にも住んでいる」から始まって、「開け天地 吹けよ山河 つながれ天地 結ばれよ山河」で終わるポップな歌で、神道における「神」の概念を音魂化したものだといいます。音源は著者ですが、「真言も念仏も題目も御詠歌も神道ソングも、1回2回ではそのこころがわからない。やはり、少なくとも100回以上、1000回、万回以上の称名や詠唱や歌唱歌詠が必要なのだ。空海は、虚空蔵求聞持法ほうを修した際、規定どおり、100日間に100万回唱えたという。なので、100万回とは言わぬまでも、1000回以上、1万回以上には行きたいものだ。京都大学がある交差点は『百万遍』と言うし、ね」と書くのでした。
第二章「死と死後について――宣長と篤胤の死生観」の「1、本居宣長は「安心無きが安心」という死生観――死後のことなどどうでもよい、うっちゃっておけ!」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「本居宣長(1730―1801)は激しいけれども抑制の利いた人でもある。上田秋成と『日の神』をめぐる激しい論争をたたかわせ、秋成を『疳狂人』と評した一面もあるが、今にいう「終活」を見事な遺言書で示し、家族や門人たちに有無を言わせぬ鎮まりをもたらした。相続のこと、命日のこと、お墓の作り方、供養の仕方など、その終活の収め方は見事である。小林秀雄の『本居宣長』は、その遺言書についての考察から始められている」
小林秀雄は同書で、「宣長の遺言書が、その人柄を、まことによく現している事が、わかるだろうが、これは、ただ彼の人柄を知る上の好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言いたい趣のものと考える」とまで言っています。なので、著者は「これは少し立ち止まって考えてみる必要があるだろう」と述べます。本居宣長は明言します。個々人の「安心」などというものはない、と。というより、そのような心配は必要ないし、いろいろと思案を巡らせても詮ないことである、と。天地人倫の道理とか、死後のありようなど、いくら考えてもわからないことばかりなので、その不可解をよいことに、いろいろと小賢しく理論を捏ね上げ作り上げて、無理矢理「安心」を作り出しているのが現実で、それらはみな外来の儒教や仏教などの「さかしら事」であって「無益な空論」なのである、と。つまるところ、わらんものはわからん、と諦め、そんな不明なことに煩わされないよう日々の務めを果たして生きるよりほかない、と。
『古事記と冠婚葬祭』
神道には「安心」はない、むしろ「安心なきが安心」なのだという逆説的な言い方で本居宣長は神道の死生観を示します。『源氏物語』研究から「もののあはれを知る」ことを日本人の心の本質と見立てた宣長は、その心のありようの源泉として『古事記』の「古言」から「古意(古心)」や「古道」を明らかにしようとしました。著者は、「その本居宣長が、『古事記伝』(1764―1798年執筆)や『直毘霊』(1771年成稿)では、『古事記』にあるように、死んだら黄泉の国に逝くのだから、哀しいことは仕方ないことだ、だから、そのようなことについては、これ以上あれこれと詮索する必要はなく、ただそのままにしておくほかない、というような、大変消極的な不可知論を述べていたにもかかわらず、特に山室山の墓の設計まで事細かに詳細に規定する尋常ではない異様ともいえる分量の遺言書を遺したのだから、どうにも奇怪であり、ちょいとねじれている」と述べます。ちなみに、著者との対談本『古事記と冠婚葬祭』(現代書林)で、わたしは宣長の遺言書を「宣長コード」として独自の解釈を述べています。興味のある方は、ぜひお読み下さい。
「2,平田篤胤は『死後の魂の行方の探求なしに『大倭心』の安定はない』、死後世界(幽冥界)の探求が絶対必要だという死生観」では、平田篤胤が自説を本格的に明確に主張し始めたのは、『霊能真柱』からであることが紹介されます。文化8年(1811)12月、36歳の平田篤胤は駿府の門弟柴崎直古の家に寄宿しながら、憑かれたようにほぼ丸1ヶ月間執筆に集中しました。著者は、「これはちょっとニーチェの神懸り的な著作『ツァラトゥストラはこう言った』の執筆過程を想起させる。とくに、この期間に成稿した『腹に一つの神代巻をつくる』という覚悟と意気込みをもって書いた『古史成文』と『霊能真柱』がのちのち最重要な著作となっていく。そこで平田篤胤は、『没後の門人』である本居宣長門下の一人であるというみずからの位置を十分に自覚しつつ、師説に真っ向から挑む議論を展開した。前者では、『古伝』とはそもそも何であるかを問うた。師本居宣長のように、『古事記』を絶対視していては、いつまで経っても『真の古伝』には到達できない。だから、『古史・古伝』の新たな研究が必要であるというとってもアブナイ議論を展開する。また、後者では、黄泉の国・根の国・常世の国を含む死生観をめぐる挑発的な議論を真正面から展開した。この『霊能真柱』が『死を光源として生きた』平田篤胤の死生観探究の最初の本格的で独創的な著作となるものである」と述べます。
すべての出来事や発言や行為には背景や文脈があります。それが発生してくる偶然や必然の糸(仏教的に言えば「縁起」)があるのです。ここには、その背景基盤に平田篤胤の生育史的痛みがありました。幼少期に里子や養子にやられたりして、今でいういじめや幼児虐待のような大変な目に遭ってきた人生経路があるのです。著者は、「そのドラマチックな経歴は、物静かでいいところのおぼっちゃま然とした本居宣長とは大違いで、まったく正反対と言える。出自の松阪と秋田も、位置も文化も対極的である。秋田生まれの平田篤胤には、人が死んだらお山に還るという民間信仰が生きていた。もちろん、本居宣長も、古典研究者、伝承研究者として、そのような風習があることは知っていた。が、ゆえに、自分は死んだら自分は死んだら『山室山』に逝くと言って、葬儀のことやお墓のことを事細かに記したのである。平田篤胤は、まずその矛盾を突いた」と述べています。
平田篤胤は、2人の男子を亡くし、妻を亡くしました。その篤胤の悲哀。そして、「その母子たちの死後の安寧は果たして得られるのか?」という問いは、篤胤にとって、きわめて切実な問いでした。彼は、『霊能真柱』の下巻に「私は死んだら、今年先立って逝ってしまった妻を伴い、山室山の師匠のお墓に駆け参じて、本居先生とともに、春になれば師匠が植えた桜を楽しみ、夏は緑成す山々を見、秋には紅葉(黄葉)と月を、冬には降る雪を楽しむという、四季折々の物見遊山の楽しみを共にさせていただきたい、愛する妻とともに」と書き残しています。本居先生の本音は、死んだらお山に還って、そこで好きな桜を愛でたり、門人や家族の様子を見守っているということだと、篤胤はいいます。しかし、『古事記伝』には死んだら穢れた黄泉の国に逝く、それは仕方のない哀しいことであると書いてある。「この矛盾を、先生みずからが解消してくれないのであれば、自分で解決するほかない」というのです。
この矛盾を解決しなければ、わが「大倭心」が鎮まり安定しようはずがないというのです。著者は、「いったい、どっちが本当なの? 篤胤は決然とその矛盾を切り裂いて、貼り付ける。そして、死んだら山室山に逝くという方に軍配を上げる。これこそ、素直な大倭心のありようだ。それを、古典、すなわち「真の古伝」を基に敷衍すればどうなるだろうか。死んだら大国主神のうしはく幽世(幽冥界)に逝って、大国主神のめぐみと差配の中で生きる、となる。そのような、顕幽分治の見方を満を持して主張したのであった」と述べるのでした。
「3、平田篤胤の『古道大元顕幽分属図』から、セルフケアと日本神話の死生観を考える」では、本居宣長と平田篤胤の死生観は対照的で、鋭く激しい緊張の中にあるとして、著者は「平田篤胤は、つまるところ、死生観的な探究と確信がないと大和心や大和魂の真の鎮まりと安定はないと考えたのである。そしてその思想的探究のまとめとして、『古道大元顕幽分属図』を表わしたの」と述べます。いずれにせよ、世界はふたつにわかれ、そしてダイナミックに運動しています。その顕幽両界(二界)の最終責任者・運営者が、前者「顕露事」はスメミマ(天皇)、後者「幽冥事」がオホクニヌシ(大国主命)となります。著者は、「そのような世界観を提示したのである、幽界および神界のフィールドワーカー平田篤胤は」と述べます。
「4、死後世界は存在するのか?」では、医療界で「インフォームドコンセント」とか「患者の意志決定」とかと言われても、それを正確に理解し、適切に判断し、主体的によりよい医療を受けることは簡単にできないとして、著者は「医学・医療リテラシーの習得に基づく意志決定などは、患者のほとんどが、さまざまな情報検索をしても、体系的かつ明確に理解し判断できないし、意志決定もできがたい、のが現実である」と述べています。これは父を看取ったわたしからしても納得のいく意見です。著者は、「だから、最終的に『主治医』をたよるしかない。信じるしかない。ゆだね、まかせるしかない。ということになりがちである」と述べます。これも納得できます。
第三章「『複雑性悲嘆』と『複雑性感謝』ということ」の「1、複雑性悲嘆という悲嘆のかたちと複雑性災難」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「次から次へと災難や災厄としか思えない事態に見舞われた時、人はどのような心的状態になるだろうか? 自然災害で複数の肉親を亡くした時、伸ばした手で母親や娘の手や体をつかみながら、次に押し寄せた大きな激しい波で、その手が離れてしまった時、『ああ~』という思い、助けられなかったという悔いや自責の念、必要以上に自分を責めて、過度な罪責感や封印を科してしまう。事態は簡単でも単純でもない。微妙で入り組んでいてほどけない。こうした事態を『複雑性悲嘆』(complicated grief)と名付けたのは、キャサリン・シア(Katherine Shear)である。この「複雑性悲嘆」という『悲嘆』のありようは、グリーフケアやスピリチュアルケアの領域において、心の領域のデリケートさやほどきにくさを再認識させた」
次から次へと災難に見舞われながら、休む間もなくその災難に立ち向かっていく際、「悲嘆」は過度に抑制されたり、蓄積されたり、複雑な絡まりの中でがんじがらめとなって当事者を苦しめます。こうした「複雑性悲嘆」とか「遷延性悲嘆障害」(prolonged grief disorder)という概念は、深い喪失感による悲嘆反応が長く続いて生活に深刻な影響を及ぼす状態を指すようになりました。それは、メンタル面でのうつや自殺念慮、フィジカル(身体)面での高血圧や心疾患に影響することもあります。
「複雑性悲嘆」があるように、「複雑性地質・地形」や「複雑性災害」があります。そして、そのことを前もって認識し、準備し、覚悟しておくことが、悲嘆や災害の「桁数」を変えることがあるということ、この「事実」。であれば、「死に臨む態度」があるとすれば、「災害に臨む態度」もある、ということになります。著者は、「そのような、臨機応変な応用があらゆる場面で必要とされる状況に追い込まれているのだ、昨今の私たちは。何が起こるかわからない、予測不能の羅針盤なき災害多発や複雑性悲嘆多発の時代を生きているために、臨機応変やブリコラージュ(手持ちの材料を最大限かつ大胆巧緻に駆使して困難な事態を乗り越えることが求められている)と述べます。
著者は、ブログ『天災と日本人』で紹介した寺田寅彦の文章を引用しながら、特に「災難」がヒトを「人間」にしたこと、この災難の「進化論的意義」を考えねばならないという寺田の発言に注目します。寺田は、「日本人を日本人にしたのは実は学校でも文部省でもなくて、神代から今日まで根気よく続けられて来たこの災難教育」だったと言いました。著者は、「こんなことを、ズバリと言える知性は只者ではない。さすがに夏目漱石の一番弟子である。ものの見方が「人間中心」ではない。漱石の『則天去私』とまでは言わないが、ヒューマンスケール、人間目線を超えている。これから必要なのは、これまでのヒューマンスケールをいかに外して、物事を大局的にかつ具体的に見るか、見られるか、ということである」と述べるのでした。
「2、回復するという物語と回復を超えて生きる/死ぬる物語」では、病に関するナラティブアプローチを前進させた著作の1つは、ハーバード大学医学部社会医学主任教授を務めたアーサー・クラインマンの『病の語り――慢性の病をめぐる臨床人類学』(江口重幸他訳、誠信書房、1996年、原著1988年)であることが紹介されます。1970年来の畏友長谷川敏彦は、1980年代初頭にハーバード大学でアーサー・クラインマンから直接こうした narrative based medicine に基づく医療人類学の最先端研究を学んで帰国しました。
この『病の語り――慢性の病をめぐる臨床人類学』という本はこの分野の画期をなす著作でしたが、その後、カナダのカリガリー大学医療社会学(medical sociology)教授のアーサー・W・フランクが、みずから心臓発作とガンを体験したことから三人称研究に一人称の当事者研究を加えて「病の語り」についてより踏み込んだ研究を展開して、『傷ついた物語の語り手――身体・病い・倫理』(鈴木智之訳、ゆみる出版、2002年、原著1995年)を著しました。その中で、フランクは「病いの語り」を、
(1)「回復の語り」
(restitution narrative)
(2)「混沌の語り」
(chaos narrative)
(3)「探求の語り」
(quest narrative)
の3つに類型化しました。そして、健康を取り戻すという筋書きを持つ「回復の語り」と、その対極にある苦しみのさ中を生きている筋書きのない「反―語り(anti-narrative)」的な「混沌の語り」に対して、患者が苦しみに立ち向い、旅立ち・イニシエーション・帰還という3つの過程を辿るイニシエーション的な「英雄の旅」を「探求の語り(quest narrative)」として理想化したのです。
病をきっかけとして新しい旅=探究が始まります。そして、自他をともに励まし、よりよく生きる道標となります。そのようなイニシエーション的な探究の旅を、アーサー・W・フランクは「菩薩的英雄の物語」と言い、また身体論のレベルから「伝達する(コミュニカティブ)身体」と類型化。人が病いという問題状況に陥った時に身体は種々の抵抗(resistance)を示す。それを、コントロール(統制)、欲望、他者との関わり、自己の身体との結びつきという4つの指標からチェックして、規律化された身体・支配する身体・鏡像的身体・コミュニカティブな身体、の4つの身体類型をモデル化したのです。
アーサー・フランクのこの原著の刊行は、日本では阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件(オウム真理教事件)の起こった激動の1995年でした。日本では「ボランティア元年」と言われたこの年から「心のケア」が社会的注目を集め、ケアの重要性が認識されはじめました。1995年は米国でも日本でもケア意識の大きな高まりと深化があった年でした。その後、2011年に東日本大震災が起き、2020年から丸3年コロナパンデミックで疲弊し、昨今の激甚化した自然災害に見舞われつづけ、今なおウクライナ戦争やイスラエル―ハマス戦やミサイルの恐怖に慄いているストレスフルな日々がつづきます。
こうした、言わば「複雑性悲嘆」がいっそう深刻化している世界状況の中で、著者は『悲嘆とケアの神話論――須佐之男と大国主』(春秋社、2023年5月刊)において、日本神話の中でもっとも深刻な「複雑性悲嘆」を体験してきた神、すなわち大国主神の「菩薩的英雄」の「コミュニカティブな身体」を通して、その神性・神威・神格、存在特性を考察しました。その「大国主神」論として、三つの命題、
(1)なぜこれほどの重荷を背負わねばならないのか?」
(痛み論)
(2)「たすけはどのようにして可能か?」
(対人援助論)」
(3)「なぜ国譲りなどという和睦(?)
ができたのか?」(共生世界論)
を問いかけたのです。そして、その大国主神の神道思想や神道神学をガン遊詩人鎌田東二流の「探求の語り」として実験的・実作的に行なってみたとして、著者は「『痛み』を受け止め、その痛みに耐えるには、他者の『たすけ』がいる。また、歌や芸術や芸能による表現や浄化が必要である。そして、そこで棲み分けることのできるような『居場所』をともに見出して、安定する(鎮まる)必要があるのだ」と述べるのでした。
『グリーフケアの時代』(弘文堂)
「3、スピリチュアルケアと芸術」では、2009年に設立された上智大学グリーフケア研究所に著者が関わることになったのは2014年4月からであったことが紹介されます。京都大学こころの未来研究センターを定年退職した2016年からはグリーフケア研究所特任教授となり、2016年度は「宗教学」と「死生学」を担当し、2017年度からは「死生学」から外れて新規科目「スピリチュアルケアと芸術」を担当するようになり、2019年度からはそれに加えて資格認定課程の「文献講読」を担当することになりました。こうして、非常勤講師の時代を入れると、丸10年間、グリーフケア研究所の授業にかかわることになったのです。
著者は、担当時間の冒頭で「グリーフケアやスピリチュアルケアの学びの中で『宗教学』という分野がどのような重要性を持つのか」について以下のように説明しました。(1)「グリーフケア」や「スピリチュアルケア」は、「ケア対象者」(この呼び方はどうも私にはしっくり来ない)にケアが必要な痛み(pain)や悲しみ・悲嘆(grief)があるから起こってくるが、そもそも、そのような痛みや悲しみにトータルに対処してきた最古の文化は宗教にほかならない。たとえば、仏教は「一切皆苦」からの解脱(悟り)を求めて成仏を目指す「抜苦与楽」の修行の探究であり、キリスト教も罪苦に苦しむ人々に愛と赦しと悔い改め(metanoia)と神の国の到来という「福音」(Evangelion)の知らせを伝える救済の実現の実践である。
(2)言いかえると、「グリーフ)」や「ペイン」や「苦悩(suffering,distress)」があるから、その意味と解決を求める「宗教」が生まれ、「救済」や「解脱(悟り)」が実践されることになる。
(3)とすれば、人類の心と行動、また文化や文明の根底・奥底・芯には何があるのか? と言うと、そこに「宗教」ないし「宗教性」があり、広く言えば、「スピリチュリティ(霊性・深い精神性)」に関わる次元や領域があると言える。
(4)そこで、グリーフケア養成講座として、人類の諸宗教文化や死生観に基づいて成立してきたグリーフケアやスピリチュアルケアに関わる自己の実存的問いと他者理解を深めていくためにも「宗教学」を学ぶ意味と必要がある。
(5)こうして、入学早々の1年目の春学期の座学に「宗教学」が置かれ、その後、秋学期に、上智大学の建学の精神「他者のために、他者と共に(For others,with others)」を含む「キリスト教人間学」が置かれているのである。
(6)このように、上智大学グリーフケア研究所人材養成講座のプログラムは、グリーフケアやスピリチュアルケアを学ぶ「ケア提供者」(この用語もしっくりと来ない)に、その領域の専門的な科目や実習はもちろんであるが、そのケア学習の基盤を成すものとして「宗教学」や「キリスト教人間学」を据えているのである。
この「宗教学」の授業の中で、著者は、宗教には神話・儀礼・聖地という三要素があり、それは私たちの存在(痛みや悲しみを伴う)の内奥深く(霊性的次元)に届くものである(がゆえに、少なくとも何万年も維持されてきた)ことを説明しながら、具体的な神道や日本の宗教文化の事例を示しました。また、「からだはうそをつかない。が、こころはうそをつく。しかし、たましいはうそをつけない」と、からだとこころとたましいとの関係性を説明しました。著者は、「医学・医療や体育やスポーツは、自律的に機能する身体のメカニズムや力学に沿った治療や修練を課すことによって、身体(機能)の強化や回復に努めるが、そこには明晰な合理的因果関係が成立する。しかし、実にやっかいなのが『こころ』である」と述べています。
なぜ、「こころ」はやっかいなのか。心は目に見えず、在り処もわからず、中国の古典では、猿のようにすばしこく動くものとされ、「心猿」とか、「意馬心猿」とかと言われます。だから心を治める瞑想など「治心」の技が開発されました。ヨーガや座禅(禅定)はそうした「治心」のワザとして優れた実績の積み重ねがあります。近年注目されている「マインドフルネス瞑想」もこうしたヨーガや座禅やヴィパサナ瞑想の修練法が基礎となってストレス低減法として再編されたものです。
二宮尊徳は、その語録の中で、「神道は開国の道、儒教は治国の道、仏教は治心の道」と明確に示し、これらを1つの丸薬にして飲めばあらゆる病もよくなっていくと説きましたが、簡にして要を得る名言です。しかし、この「治心」なるものがそれほど簡単にはいきません。著者は、「心を治めることは容易ではないのだ。なぜなら、心は嘘をつくことができるからだ。ごまかすことができるからだ。隠蔽することができるからだ。その心の嘘をつくはたらきを逆手に取って、自由自在に『嘘』や想像や空想を伸ばし、進展させ、通常なら考えつかないようなことまでイメージさせて、心の収まりを付けるワザが芸術である」と述べます。
ある種架空の物語やドラマ空間を作り上げて、その中に入り込んだり、感情移入をしたり、批判的にその状況を観照することを通して、自分の感情や認識の調整をするという機能や役割を芸術や芸能は持っているのです。まさにそこでは「嘘は方便」であり、倫理的に「悪い」ということではありません。むしろ、さまざまな状況を仮定することにより、自分自身の感情や認識や行動を吟味したり、ブレーキをかけたり、あるいは促したりする効果を果たすのです。能は日本の宗教文化の二大潮流といえる神道と仏教を合流させて、「乱世」であり「末法の世」とされた中世の『平家物語』の語りを踏まえた死生観を表出しており、同時に、神々や死者の怨念や怨霊などの負の感情の浄化のワザとして、それがゆえに鎮魂供養の芸能として機能しました。能は大変優れたグリーフケアやスピリチュアルケアの臨床実践のワザヲギであり芸能であると総括できます。
著者はかねがね、「日本三大悲嘆文学」は『古事記』『平家物語』『苦海浄土』の三書であると主張してきました。そのような鎮魂供養を伴う「悲嘆文学」という観点から、『古事記』と『平家物語』と『苦海浄土』を「三大古典」として取り上げました。『古事記』は、伊邪那美命―須佐之男命―大国主神につながる出雲鎮魂を主旋律として奏で、『平家物語』は、平清盛の栄光の生涯と源平の合戦における滅亡する敗者として「諸行無常・盛者必衰」の姿を克明に語り出し、哀切な琵琶の音と共に平家の怨霊化を防ぐ鎮魂供養の語りとして機能します。どちらも、国家的権力闘争の中での新秩序構築という大きな転換を背景に持ち、前者は古代の権力や権威の形、後者は中世の権力と救済の形をまことにドラマティックに展開しています。
『古事記』と『平家物語』が、作者不明の伝承や出来事のドキュメント的語りに由来するのに対して、『苦海浄土――わが水俣病』(講談社、1969年)は、石牟礼道子という固有名による個人の著作でありながら、水俣病患者たちの聞き書きや目撃や権力との交渉過程のドキュメントを通して、じつに不思議な叙事詩的なポリフォニックな語りの世界を表現し得ています。著者は、「それは、水俣病患者の喪失や悲劇を鎮魂供養するばかりではなく、権力や文明への深層的な告発・批判としての社会性も有し、複相的な貌を持っている。そしてその書は、水俣病被害者(石牟礼道子は近代的な『市民』という言葉ではなく、深い民俗伝承的世界を背景として『死民』という語を意識的に用いている)のみならず、現代文明社会に生きる人々や体制に対するケアにもなっている。そしてそのことが同時に、それを物語り、書きつける石牟礼道子自身のセルフケアともなっている」と述べます。
「目覚め」と「祈り」。この相互に架橋し合う力がはたらく時、人はどのような運命も受け入れることができるといいます。イエスの過酷な十字架の事例はそのことを教えています。シシリー・ソンダースは、「マタイによる福音書」第26章における「“Watch with me”」の思想をこのようにケアの精神と態度として取り込んでいます。著者は、「私たちは、スピリチュアルケアの先駆者の一人であるシシリー・ソンダースに倣って、この2つの『W』の命題、すなわち“watch”と“with”の思想を掘り下げる必要がある。これを私は、四国遍路における「(弘法大師空海との)同行二人」の思想との関連として問わずにはいられない」と述べます。
四国遍路の旅は、
(1)阿波国=発心
(2)土佐国=修行
(3)伊予国=菩提
(4)讃岐国=涅槃
という、煩悩から菩提(悟り)と涅槃(解脱・ニルヴァーナ)の境地に至る過程として位置づけられています。著者は、「それは悟りと解脱の歩行の過程である。その途次、遍路者(仏道修行者)は誰と一緒に目を覚ましているのか? と言えば、四国遍路の場合、それは言うまでもなく『お大師っさん』、すなわち弘法大師空海である。四国遍路の巡礼者は常に空海と『同行二人』の旅をしているということになっているのだ。その認識の深まりの中で、発心から修行へ、そして菩提や涅槃へと気づきと悟りが深まっていくと位置付けられているのである」と述べます。
シシリー・ソンダースの“Watch”と“With”の「2W」に加えて、著者はもう1つ‟Well”を加えた「3W」の命題とその志向性を読み取り、ここから以下の3つの命題を引き出しました。
(1)With(共に)という根源的存在論
(2)Watch(注意して見る、世話する)
という錬成的認識論
(3)Well(良い)という相互探究的実践論
“With”とは、存在の根源的な形を示しています。“me”はもちろんここでは人間イエスのことですが、それは神(後には、父なる神・子なる神・聖霊と三位一体の教義となる)でもあります。この根源的存在論に基づいて、“Watch”が行為されます。この「目を覚ます(目目覚める)」ことが「メタノイア(悔い改め、回心、視点転換)」ともなる錬成的認識論を深化させ、“Well”というよりよいありようへの相互探究的実践論を生み出すという連関が起こります。このように、シシリー・ソンダースの“Watch with me”への着目は、ケア実践やケア理論において、非常に重要な問題の所在を示しているのです。
「4、キューブラー=ロスの死の需要の五段階説」では、キューブラー=ロスの『死ぬ瞬間――死とその過程について』を取り上げ、その中に出てくる「死に至る悲しみの5段階説」がさまざまな批判にさらされていることを明かします。しかし、重要なことは「否認」から「受容」に至り得るという葛藤の過程があることを広く世に認識せしめた点だといいます。そして人がいかにして死の受容に至るのかが大きな課題となり、今日の「終活」騒ぎの中でも、この点は外せないキーポイントとなっているとして、著者は「私が年来の研究領域の一つとしている『身心変容』あるいは『身心変容技法』という観点からすると、病がもたらす『身心変容』はフィジカル面では不可抗力といえるが、同時に、メンタル面やスピリチュアル面ではそれを1つの警告とか啓示とかメッセージとして受け止めて、それまでとは異なる生き方(ライフスタイル)や在り方に変容させる可能性を持っている」と述べています。
キューブラー=ロスの「5段階説」について、著者は「死の臨床人間学的研究に大きな寄与と前進を与えるものだった。だが、私ががんを告知されて思ったのは、キューブラー=ロスの言う『5段階』を順序だてて辿ることのない、いきなりの『受容』もあるのではないかという実感と、『怒り』ではなく、『感謝』と言うべき感情の生起もあるのではないかという気づきであった。それは、キューブラー=ロスが指摘した五段階説とは異なる見方や状況もあり得るのではないかという観点だ。むしろ、告知後もっとも難しく、悩ましかったのは、医師からの告知を自分自身で受容することよりも、このことを周りの他者、例えば家族や友人にどのように伝えるのかであった。告知を受け取るよりも、告知を伝える方がはるかに気を遣うし、難しい。そのほかにも、予定をキャンセルする過程、然り。どこまで、どのように伝えて、イベントを中止してもらうか、参加をキャンセルしてもらうか。実に悩ましく、難しかった。やけに気を遣った」と述べます。
著者は、「複雑性悲嘆」ならぬ「複雑性感謝」というものがあるのではないかと述べます。何が複雑なのか?
第1に、がんを含め、からだのさまざまな複雑な機構に対しての感謝。
第2に、そのようなからだに向き合うこころやたましいに対する感謝。
第3に、そのようなからだを与えてくれた両親や祖父母や育んでくれた環境などに対する感謝。
第4に、上記の第3に関連するが、食べものや飲みものや、空気や風やもろもろの自然・環境・大自然に対する感謝。
第5に、このような感謝の気持ちを引き起こしてくれる大きなはたらきとちから(それを神とか仏とかと呼んできたように思う)に対する感謝。存在そのものに対する感謝。地球存在、宇宙存在。異次元存在への感謝など。
「5、『死ぬ瞬間』におけるタゴールの詩」では、キューブラー=ロスが『死ぬ瞬間』の全12章の扉にタゴールの詩を掲げていることに注目します。なぜ、彼女は『死ぬ瞬間』の全章をタゴール詩で埋め尽くしたのか? 著者は、「単なるインド熱というには度を越している。というか、この詩の選別自体が感性的にも思想的にも非常に優れていて深遠であると思われるのだ」と述べます。取り上げられた詩の作者であるラビンドラナート・タゴール(1861―1941)は、インドのカルカッタの裕福な家庭に生まれ、1878年にイギリスに渡り、ロンドン大学で英文学を学び、1880年に帰国します。以来、東西文化の交流に関心を持ち、コスモポリタンの理想を強調するようになりました。
タゴールは、1912年にイギリスに渡った際、ケンブリッジ大学で、バートランド・ラッセルにも会っていますが、その折、ウィトゲンシュタインと会っていたか、ニアミスをしていたようです。この時、すでにベンガル語で書いた157篇の韻文詩『ギータンジャリ』を出版していました。それを新たに英語で書き上げて103篇の詩集にしたところ、W・B・イェイツの推薦で英語版『ギータンジャリ』詩集として出版され、それが評判を呼んで、1913年度のノーベル文学賞を受賞することになったのです。アジア初のノーベル文学賞の受賞でした。
日本には、大正5年(1916)に来日し、多大な影響を与えました。ちなみに、宮沢賢治の妹の宮沢トシにも影響を与え、それは兄の宮沢賢治にまで伝わっています。ここで、特筆すべきは、1902年、41歳で妻ムリナリニ・デヴィ(28歳)を亡くし、42歳で次女レヌカ(12歳)を亡くし、43歳で敬愛していた父マハリシ(88歳)を亡くし、1907年、46歳で末子を相次いで亡くしている事実です。妻や我が子や父など、愛する肉親を相次いで亡くしたその喪失の嘆きと思いが、『ギータンジャリ』には込められています。キューブラー=ロスは、その『ギータンジャリ』を始め、『迷える小鳥』や『果実採り』などのタゴールの詩集の中から、各章のテーマと内容にふさわしい詩をから選別したのです。
幼少期からインドに強い関心を寄せていたキューブラー=ロスは、自分の最初の著作をもっとも深いところで共感できるタゴール詩と共演させました。それは類稀なるタゴール詩とのコラボレーションであり、その選択眼は深く鋭く、各章のテーマと事例の本質に届いて見事です。著者は、キューブラー=ロスが選び抜いたタゴール詩を読むことによって、もう1つのキューブラー=ロスの『死ぬ瞬間』のメッセージを聴いたような気がするといいます。そして、著者は「シシリー・ソンダースもキューブラー=ロスも深く『詩』を味わい、解する人たちであった。ヴィトゲンシュタイン、然り。その彼女たちや彼らの『詩心』の中に、ケアに関わる心やスピリチュアリティが滲み出ている。その意味で、『詩』、広く『芸術』は本質的にケアのちからを潜在させ、その前に立つ孤独な人の心と霊性に微妙にかつ深遠にはたらきつづけるのである」と述べます。
第四章「『グリーフ』と『ウソつく心』」の「1、グリーフ」では、グリーフケア(Grief Care)とは、さまざまな種類の喪失などによる悲嘆(グリーフ、Grief)に向き合い寄り添うケアのことで、広義でのスピリチュアルケア(Spiritual Care)の1つであることが紹介されます。著者はスピリチュアルケアを「嘘をつけない自分や他者と向き合い、対話的な関係を結び開いていく試みとその過程」と捉えているといいます。「スピリチュアリティ(Spirituality)」を、嘘のつけない、またごまかしのきかない、心の深みや魂の領域とはたらきだと考えるからです。
「こころ」が重要なのは「うそ」をつくことができるからです。ごまかすことができるからです。その嘘やごまかしの中に人間的な思慮や計らいや隠し事があり、それが複雑な悲嘆や苦悩の表現とも要因ともなってきます。著者は、人間の体と心と魂との3層関係を、「体は嘘をつかない。が、心は嘘をつく。しかし、魂は嘘をつけない」と表わしています。「ウソをつく心、ウソをつかない体、ウソをつけない魂」という3層のそれぞれの特性が私たちの苦悩や痛みの源泉となります。このように、体と魂が嘘をつかないかつけないのであれば、問題の核心は、「ウソをつく心」ということになります。心は体と魂の両方を架橋し、双方に影響を与え、実に複雑で絶妙なはたらきをします。心は、どのような経験をも事象をも毒にも薬にもすることができるのです。
ゴータマ・シッダルタ(釈迦)は、『法句経』の冒頭で、「1 ものごとは、心にもとづき、心を主あるじとし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車を引く〈牛〉の足跡に車輪がついて行くように」とも、「2 ものごとは、心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。――影がそのからだから離れないように」(『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元訳、岩波文庫)と述べています。「心」こそが、そのありようこそが、「苦しみ」や「福楽」をもたらす基幹でありはたらきであると捉えているのです。だからこそそうした認識に基づき、続けて「5 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」と述べるのです。
そうした心の負の感情の浄化法としての仏教をニーチェは『この人を見よ』(1888年)において実に端的に「精神の衛生学」と言っています。そしてゴータマ・シッダルタを「あの深い生理学者仏陀」と称揚しています。「ルサンチマン」という負の感情に冒され覆われているのがキリスト教だと捉えるニーチェからすれば、その「ルサンチマン」を解放・浄化する仏教こそ、「精神の衛生学(Hygiene:衛生学・健康法)」として活用すべき身心変容技法であり、心のワザ学であったといえるでしょう。実際、そのような観点とモデルをニーチェはすでに『ツァラトゥストラかく語りき』(1885年)で示しました。
いかに「心」が問題の核心だとわかっていても、そうやすやすとその心の状態を変えることなどできません。例えば、恋する人の恋を止めさせようとすればするほど、その恋心は燃え上がり、予測のつかない事態や結末を生み出すことがままある。死別という喪失を体験した人の心も同様です。アール・A・グロルマンは、『愛する人を亡くした時』(松田敬一訳、春秋社、2011年)の中で、「愛児を失うと親は人生の希望を奪われる。配偶者が亡くなると、共に生きていくべき現在を失う。親が亡くなると、人は過去を失う。友人が亡くなると、人は自分の一部を失う」と述べました。
『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)
それをもとに、一条真也は「親を亡くした人は、過去を失う。配偶者を亡くした人は、現在を失う。子を亡くした人は、未来を失う。恋人・友人・知人を亡くした人は、自分の一部を失う」(『愛する人を亡くした人へ――悲しみを癒す15通の手紙』現代書林、2007年)と言い換えたとして、著者は「グロルマンはユダヤ教の聖職者であり、グリーフ(悲嘆)ケア・カウンセラーであり、一条真也は株式会社サンレーの社長(本名・ 佐久間庸和)であり、作家である。グロルマンの言葉も一条真也の言葉も、一般論としてそれなりに理解できる。だが、親を亡くそうが配偶者を亡くそうが子供を亡くそうが恋人や友人や知人を亡くそうが、あまりに喪失感が深い場合、過去も現在も未来もすべてを無くしてしまったような虚無や絶望に陥ることがある。死別はどのような場合でも辛く痛いものだ」と述べています。ここで、わたしの名前が出てきました。
続けて、著者は「だが同時に、『死別は単なる喪失ではなく、出会い直しでもある』という側面も否定できない。死別により、愛する者ともう一度出会い直し、語り合うこともできる。死者と対話し、共に生きることもできる。確かにそこには遺された者の主観的な思い込みも多く混じっている。だが、亡くした人の思い出や共有した経験を反芻し、新たな意味の発見や気づきを得ることは辛く悲しい反面、共に在り得たことへの有難さと感謝の気持ちも生まれることがある。そんな死別のもう1つの面も見つめるべきではないかといつも思っている」とも述べています。一条真也つまり自分の発言ではありますが、確かに著者の言う通りかもしれません。
「補記 遠藤周作『死について考える』を読んで」では、気がついたら、著者が遠藤周作の大ファンになっていたことが明かされます。今でも遠藤周作こそノーベル文学賞にふさわし小説家だったと思い込んでいるくらいだそうです。没後授賞が可能なら、真っ先に遠藤周作にノーベル文学賞を授与してほしいとしょっちゅう考えているとか。著者は、「なぜこれほど遠藤に魅かれるのか? それは、『弱さのつよさ』というパラドックスの表現の妙と生涯の妙に感嘆してしまうからである。本書『死について考える』のキーワードを一つ挙げよと言われたら、『死に支度』である。これを『死にげいこ(稽古)』とも言い換えている」と述べています。
第五章「うたのちから――ピュタゴラス教団の合唱と『古事記』『平家物語』と『ガン遊詩人・神道ソングライター』のうた」の「1、ピュタゴラス教団の合唱と魂の浄化」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「私は死んで逝く時、歌いながら死にたい。できれば、近くにいる人がそれに声を合わせて合唱してもらいたい。プラトンにも大きな影響を与えたピュタゴラスは、『天体の音楽』や、そこにおけるコスモスの『ハルモニア(harmonia,harmony)』について深い洞察を示した。高校生のころからピュタゴラス―プラトンの徒であった私は、歌や音楽や合唱についてのピュタゴラスの考えに、それを知った高校生のころから同意してきた。そしてそれが、いつしか、『古今和歌集』仮名序の紀貫之の名言『生きとし生けるものいづれか歌を詠まざりける』にふかく通じていることに気づいて納得した」
続けて、著者は「神秘家というまでもなく、天体や自然の運行や魅力に感応するものは、ほぼ全員、星の歌や天体の音楽、サウンドを聴いているのではないだろうか? 人が宇宙からやってきて、宇宙に帰っていくのなら、宇宙のサウンドとともにこの世に誕生してきて、そのサウンドとともにあの世に帰っていくのだと私は昔から思い込んで生きてきたのだ。だから、生死は歌に取り囲まれていて、考え方によっては、じつにうるさいくらいだ。だから、とてもじゃないが、一人(独り)などではないのだ。一人に見えるものが、何によって支えられているか、取り囲まれているか、測り知れない。気が遠くなるくらいだ。それを思うと、『複雑性感謝』の念が沸き起こるのを抑えることができない」とも述べています。
派手派手にやらせていただきます!
そして、「枕経というのは、日本の仏教的看取りの慣習儀礼のようなものだが、心を込めて読経されると仏教に馴染んできた死に逝く人びとは心落ち着くものがあるのではないだろうか」などと述べた後、著者は「いずれにせよ、葬儀に関しては、わが「魂の義兄弟」である冠婚葬祭業大手の株式会社サンレー社長の佐久間庸和(一条真也)さんに葬儀委員長を20年の前からお願いしているので、彼の好き放題に派手派手にやらかしてほしい。あまりお金をかけずに。人海作戦を駆使して」といきなり述べるのでした。読書中に自分の名前が出てきて大変驚きましたが、もう覚悟を決めました。わたしの好き放題に派手派手にやらせていただきます!
「2、『古事記』は「歌物語」であり、歌う鎮魂叙事詩であった」では、著者が『古事記ワンダーランド』(角川選書、2012年)や『悲嘆とケアの神話論―須佐之男と大国主』(春秋社、2023年)などで指摘していることですが、『古事記』はわが国最初のグリーフケア・スピリチュアルケアの物語だと指摘します。それはまず何よりも、生みの親イザナミの死と遺族(夫イザナギと子共スサノヲ)の慟哭と再生への希求として表現されているからです。なかでも、イザナミの死と喪失をもっとも深く「嘘のつけない」霊性的(魂的)次元で受け止めたのがスサノヲでした。
スサノヲ神話は、仏教的な述語を借りるならば、根本的に「抜苦与楽」をもたらす芸能の発生に関与しています。事の発端は、母イザナミの嘆きと悲しみでした。黄泉の国へみまかり(神避・かむさり)、自分の姿を探さないでと、夫イザナギに堅く念押ししていたにもかかわらず、腐乱して蛆のたかった「いなしこめしこめき」醜い姿を見られたイザナミは、「吾に辱見せつ」という、恨みと哀しみと怒りのないまぜになった負の感情を爆発させ、出産・多産の女神が日に1000人を殺すと呪う多殺の殺戮神に変貌します。著者は、「この『辱』を受けたイザナミの恨みと哀しみと怒りの負の感情が世界破壊と世界創造の両極を孕むエネルギーの源泉となり、それが出雲神話形成の原動力ともなっていく」と述べます。
スサノヲの歌は『古事記』の生命哲学である「むすひ」と「修理固成」の具体的な発露であり、全体で112首もある歌謡の濫觴となります。後半部、高天原から追放されて出雲に降り立ったスサノヲは、見違えるような救済神に大転換。これまで泣き叫んで周囲の嫌がることばかりをする荒くれ者とは思えないほど凛々しく迅速にまた的確な判断と行動で八頭八尾の怪物八俣大蛇を退治する英雄神に変化。スサノヲは、そこでは、実に要領よくテキパキと八つの甕を置き、なみなみと酒を注ぎ、八俣大蛇に食い殺される運命にあった櫛名田比売を絶体絶命の窮地から救って、結婚します。その解放と愛の宮殿を作るために出雲の須賀の地に至って生まれて初めて「我が御心すがすがし」と歌を詠います。「八雲立つ 出雲 八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」という愛の讃歌でした。
スサノヲノミコトは、負の感情を制御し、剣と和歌のワザ(技芸・術)を身につけてイニシエーションを達成し、最高の英雄神と成ったのです。これによって、八俣大蛇の破壊力にも比せられる母の怒りと哀しみを鎮魂することができました。この怪物退治の物語は、忌避され追放された者=スサノヲが忌避され怖れられた霊物=八俣大蛇を倒すことによっておのれの凶暴な暴力性を抑え収めることに成功したイニシエーション・ストーリーでもあったのです。著者は、「こうして、スサノヲは、根源的な『痛み(スピリチュアルペイン)』を解放し昇華した。『力=剣による制御(外的世界の鎮め・社会の制御)』と『言葉による制御(内的世界の鎮め・心の制御)』、すなわち、詠歌によっておのれの『痛み』と悲しみを開放・浄化し、それを通じて母の悲しみを鎮魂・鎮撫したのである」と述べるのでした。このように、歌は、『古事記』においては、「むすひ」という根源的な生成力とその具体的発現である「修理固成」の表現となり、ケアの日本文化の核心をなすものだというのです。
「3、『平家物語』も歌い語る鎮魂供養の叙事詩であった」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「『古事記』は『日本書紀』のような勝利者の勝利宣言の書ではない。むしろ、敗者鎮魂の物語といったほうがよい。とりわけ、イザナミノミコトに発出する出雲鎮魂という響きを奏で、哀切を詠う、同様に、『平家物語』も、敗者鎮魂の物語である。もちろんそれは、源平の合戦の末の壇ノ浦での平家滅亡という、日本古代史最後を飾り、中世史の開闢を告げる一大戦争に伴う敗者鎮魂の物語である。先に述べたように、日本古代創世を告げる『古事記』の主調音は、『産巣日(むすひ・産霊)』と『修理固成(おさめ、つくり、かため、なす)』であり、敗残と破壊を組み込みながらもダイナミックな生存の産出力を称揚・讃美する。対して、日本的古代秩序の崩壊と終焉、そして『乱世』『末世』の始まりと道理を示す『平家物語』の主調音は、『無常』と『夢』の儚さと悲哀である。その中での美と栄光と滅びの非情である」
「4、『神道ソングライター』から『吟遊詩人』を経て『ガン遊詩人』へ」では、ブログ「鎌田東二先生、小倉へ!」、ブログ「鎌田東二先生との対談」、ブログ「鎌田先生と二度目の対談」で紹介した2023年3月の著者の小倉訪問について書かれています。著者は、「3月8日―10日、念願の小倉と長崎を妻と一緒に訪問した。小倉では『魂の義兄弟』である一条真也氏と『神道と日本人』をテーマに対談(『古事記と冠婚葬祭』のタイトルで、現代書林から2023年11月刊)した。その後、長崎に向かい、『長崎市遠藤周作記念館』を訪問した」と述べ、YouTubeにも動画をアップしています。
第六章「『同行二人』で逝きましょう!――『おひとりさま』では死ねません」の「2、わが幼少期の病気の祖父母との三人生活で感じ、学んだこと」では、ニーチェが「身体はひとつの大きな理性だ」と指摘したことを紹介します。そして、意識の底に奥深い「無意識」の層とはたらきを見出したのは、フロイトやユングだったことも紹介します。著者は、「彼らは、20世紀という時代が内在させた身体性の回復ないし希求というテーマの先駆者だった。こうした身体知の開発とボディワーク型アプローチは1960年代後半以降に大衆的なひろがりをみせ、ニューエイジやカウンターカルチャーなどのスピリチュアル・ムーブメントを生み出し、それは意識や理性に拠り所を置いたモダンの次に来るオルタナティブなポストモダン的知と考えられた」と述べています。
暗黒舞踏、禅、密教、シャーマニズム、先住民文化などへの関心は、そうした身体知への底深い関心の現われであったといいます。動物や人間の残した足跡からその時の状況や心理状態までも読みとるアメリカ先住民の「トラッキング」なども、身体知が内在させる奥行きを垣間見せるものだったと指摘しながらも、著者は「だが、そうした身体知とボディーワーク・ワークショップ型アプローチは、1995年3月20日(ちなみに、その日は私の44歳の誕生日だった)に起きた地下鉄サリン事件(オウム真理教事件)によって過度な危険視と警戒感と迷走――宗教不信を生み出した。その清算はいまだ終わってはいない」と述べています。
「3、念仏結社『二十五三昧会』とクリュニー修道院の死の作法に学ぶ――現代版オンライン二十五三昧会とミュージック・サナトロジー――里村生英著『ミュージック・サナトロジー――やわらかなスピリチュアルケア』をてがかりに」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「恵心僧都源信(942―1017)の『往生要集』(985年成稿)は、死に臨む日本人が一度はぱらぱらとめくってみるべき本である。そこで源信は、地獄と極楽という死後世界や念仏の方法(観想念仏や称名念仏)を詳述するのだが、死後極楽往生するためには一心に念仏行をするほかない、と説いて、後世に絶大なる影響を与えた」
著者も日々年々「厭離穢土欣求浄土」の思いが強まったそうですが、その思いを明確きわまりないかたちで叙述したのがこの『往生要集』で、大変示唆に富むといいます。そして、「二十五三昧会」とは、この『往生要集』が著された翌年の寛和2年(986)、比叡山の横川の首楞厳院で、源信をふくむ25人の僧により結成されました。この念仏結社では、神社の月並祭のように、毎月15日ごとに、25名の僧が集まり、念仏を誦して極楽往生を願ったのです。その「発願文」には、善友の契りを結んで、臨終の際には相互扶助して念仏することが明記されています。
鎌田先生の死生観に感服しました
「4、『往生力』(帯津良一)と『旅立つ心と力』」では、著者は「『旅立ち』は近い。死も近い。というより、生と死は『あざなえる縄』のごとく、表裏一体を成している。互いに互いを織り込んでいる。切り離せないのだ。だから、死とは、生まれた時から、わが身に立ち会っていてくれている『最初の友人(立会人)』であり、『最後の友人』でもある。その『友人』と親しくなろう! その『友人』と遊ぼうよ! 本書の結論は、ここにある。仏教的に言えば、『遊戯三昧』。神道的に言えば、『神楽三昧』。『むじょう(無常)』も、『むすひ(結び、産霊)』も、矛盾しない。自分自身の左右の手足である。その手足で最後の最期までマーチ(行進)し、歩こうよ! 上を向いたり、下を向いたり、横を向いたり、きょろきょろしながら。鼻歌でもうたいながら。いのちのうたをうたいながら」と書かれています。非常に感動しました。
わが‟魂の義兄”鎌田東二先生と
本書の最後には「死後100日祭「かまたまつり・Tony歌祭り」として、著者の神葬祭の段取りが記されており、その葬儀委員長として小生の名前が明記されています。また、2日にわたる「かまたまつり」の1日目には故人への奉辞の最初に葬儀委員長であるわたしが指名されています。ものすごい大役ですが、本書にも書かれているので覚悟しました。しっかりと務めさせていただきます。それにしても、本居宣長もビックリの死後の段取りの良さ! また、平田篤胤もビックリのぶっ飛んだ死生観! これはもう、著者が本居宣長と平田篤胤を超える国学者であることの証明だと思いました。わたしは、本書を著者の遺書として読みました。‟魂の義兄弟”を見送るのは寂しいですが、所詮はひとときの別れです。必ずや、「かまたまつり」を無事に終わらせますので、どうかご安心下さい!
2025年6月29日 一条真也拝