『エンタメビジネス全史』

エンタメビジネス全史 「IP先進国ニッポン」の誕生と構造

一条真也です。
『エンタメビジネス全史』中山淳雄著(日経BP)を読みました。素晴らしい名著でした。「『IP先進国ニッポン』の誕生と構造」というサブタイトルがついています。カバー表紙には「興行」「映画」「音楽」「出版」「マンガ」「テレビ」「アニメ」「ゲーム」「スポーツ」と列記され、「A  brief  history of  entertainment  business」という英文タイトルが添えられています。著者は、エンタメ社会学者。Re entertainment代表取締役。1980年栃木県生まれ。東京大学大学院修了(社会学専攻)。カナダのMcGill大学MBA修了。著書に『推しエコノミー』『オタク経済圏創世記』『エンタの巨匠』(以上、日経BP)、『ソーシャルゲームだけがなぜ儲かるのか』(PHPビジネス新書)、『ボランティア社会の誕生』(三重大学出版会、日本修士論文賞受賞作)など。


本書の帯

 

本書の帯には、「けんすう(古川健介)絶賛!!」「とんでもない名著」「日本にこの本があるのとないので、この国の成否を分けてしまいそう。ここ5年で読んだ本の中でダントツかも」と書かれています。


本書の帯の裏

 

帯の裏には、「おもしろすぎるゼロイチ挑戦の物語」「任天堂ポケモン/DeNA/手塚治虫/BL/コミケ/ジャンプ/コロコロ/正力松太郎/ディズニー/東アニ/エヴァンゲリオンジブリ/鬼滅/ソニーナベプロ/ジャニーズ/宝塚/松竹/吉本/力道山グレイシー東映/角川/巨人/新日本プロレス」「『エンタメの歴史は、日本人の英知と野心の宝庫である』佐々木紀彦(PIVOT代表取締役)と書かれています。

 

カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「本書は、エンタメ産業がどんな環境下で誰の手によって生まれ、どんな手段でビジネスモデルを構築していったのか、そのエポックをまとめたエンタメビジネスの教科書である。同時に本書は、ゼロイチでビジネスを生み出すための教科書にもなる。なぜならエンタメは市場ゼロから生み出されたものだからだ。人を喜ばせたいというピュアな発想から生まれ、その可能性を見いだした投資家などの支援者がついて、コンテンツを供給するクリエイターが企業の中に入り、ユーザーが定期的にお金を払う状態に至るまで、並々ならぬ過程を経ている」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
序章
遊びは子供のためのもの」という嘘
混然一体のインセンティブが働いて経済を回す
アニメ、ゲーム、マンガを「生み出す人たち」を愛す
エンタメを産業として分析する
「放置されたサブカル領域」だった日本のエンタメ
クリエイター→IP→メディア→ユーザー
クリエイターは時代に合わせてメディアを選ぶ
ゼロイチでビジネスを生み出す教科書
第1章 興行
1 -1 「一度限りの瞬間」を売る期待値商売
1 -2 明治・昭和に世界行脚した興行師たち
1 -3 日本の興行モデルを作り上げた東宝、松竹、吉本
1 -4 パリ>ロンドン>ニューヨーク>東京 
   エンタメの「本場」の変遷

1 -5 マスメディア凋落のネット社会における
    「唯一の成長市場」

1 -6 ハコを乗り換える興行コンテンツ
第2章 映画
2 -1 ハリウッドに先んじる映画大国だった日本
2 -2 東映東宝によるサバイバル戦争
2 -3 監督育成装置としての
         「ピンク映画」と日活ロマンポルノ

2 -4 ソニーが生み出したハリウッド映画の帝国主義
第3章 音楽
3 -1 エンタメ産業のカナリア
3 -2 対立こそが音楽創造の種
3 -3 「日本一速い企業」ソニー
   音楽コングロマリット

3 -4 アイドルビジネスとしての音楽産業と
   芸能事務所の影響力

3 -5 エイベックスと小室哲哉の時代
   J -POP鎖国化した日本

3 -6 ストリーミングで再び「掛け算ビジネス」が始まる
第4章 出版
4 -1 戦後最大のベンチャー産業
4 -2 大正時代に確立された世界最高の出版流通システム
4 -3 出版市場の3割を超えるマンガ
4 -4 メディアミックスとキャラクタービジネス
第5章 マンガ
5 -1 日本独自の発展過程
5 -2 手塚治虫が築き上げた産業インフラ
5 -3 女性版トキワ荘「大泉サロン」
   から始まるBLとコミケ

5 -4 ホビーやゲームとのコラボという
   新機軸を切り拓いた『コロコロ』

5 -5 電子マンガの急拡大と強敵の出現
5 -6 海外市場が史上最大化
第6章 テレビ
6 -1 日本のテレビはなぜこんなに強いのか
6 -2 「テレビの神」正力松太郎
6 -3 テレビ局の大再編と全国ネットワーク化
6 -4 コンテンツ王者としての存在感
第7章 アニメ
7 -1 ハリウッドに対抗する世界アニメの聖地
7 -2 狂気から生まれたテレビアニメ産業
7 -3 エヴァンゲリオンが時代を変えた
7 -4 アニメを「作品」にしたスタジオジブリ
7 -5 『鬼滅の刃』を実現させた
   アニメコングロマリットのアニプレックス

7 -6 ディズニー&ピクサーが生み出した
     21世紀アニメビジネス

第8章 ゲーム
8 -1 唯一無二の市場開拓者 任天堂
8 -2 ゲームから始まるメディアミックス
8 -3 家庭用ゲームの世界覇権競争
8 -4 そしてすべてオンラインになった
8 -5 妄想と期待値にドライブされるゲーム会社経営
第9章 スポーツ
9 -1 アマチュア主義からプロ化へ
9 -2 オリンピック、その光と影
9 -3 放映権料はなぜこれほど高騰するのか
9 -4 スポーツ関連ビジネスの拡大
9 -5 プロ野球経営に見る日本のスポーツビジネスの未来
9 -6 世界随一の格闘技市場としての日本 
          巨大化する海外企業

終章
クリエイターが変化し、永続性を持つ
決して絶滅はしない、しなやかな特性
団塊世代とともに醸成された日本の消費型エンタメ
海外への影響、子世代・孫世代の育成
欠乏した「海外」へのマーケティング機能
社会の入口/出口に寄り添うエンタメの社会的機能
実験的で前衛的な産業として新時代の予兆となる



序章「『遊びは子供のためのもの』という嘘」では、エンタメ/コンテンツ/遊びは元来、子供向けのものではないと指摘します。エンタメは「大人」こそが熱狂してきた領域で、実は「子供」が消費者として対象になっていったのは、日本では大正時代、欧州や北米でも20世紀に入ってからの話であるとして、著者は「大人が興じてきた遊びが、思考のトレーニングや社会の予行演習になる、もしくは子供向けだからこそ消費・市場が伸びるということで、あとから子供向けに作り替えられたのである。そもそも子供に教育を与えて、社会全体の生産性を高めようという発想自体が近代に入ってからのものであり、それ以前は子供といえども労働力でしかなく、“未熟な大人”として数えられるような時代が一般的であった。子供が労働力であった時代は、彼らは遊びも教育も与えるべき対象ではなかった」と述べています。


著者は、世界最古の遊びとして、紀元前3000年ごろのボードゲームの「セネト」を挙げています。古代エジプト人が楽しんだ2人用のスゴロクのような遊びは、壁画に描かれ、埋葬された墓にも納められているといいます。同じようなスゴロク形式の「バックギャモン」は紀元前2000年のボードゲームで、これは1960年代に再び人気を博し、国際バックギャモン協会も設立されています。こうした遊びが日本に伝来したのが7世紀の奈良時代、ここで「双六」という言葉に変換されて人気を博し、持統天皇から「雙六を禁め断む」と禁止令が出されたことが『日本書紀』にも出てきます。著者は、「遊びの持つ強すぎる魅力は、『賭博』に容易に転化しがちで、支配層はその賭博を常に規制の対象としてきた」と述べます。

 

「混然一体のインセンティブが働いて経済を回す」では、著者は「労働が光であり、遊びは影である。というのは誰が言い始めたのだろうか」と疑問を呈します。国民国家の時代となってから、「国民」が管理の対象となり、労働をすることが、“向社会的である”と言われ始め、家族はその教育状態から生産人口の増加のための出産に至るまで、計測の対象となったとして、著者は「この400年ほどの間に、エンタメは向社会的なもの(合法な遊び)と反社会的なもの(非合法な遊び)に線引きがなされ、徴税のためにも、やれ刺激が強い賭博は非合法なものだ、などと『遊びの分割統治』がなされるようになった。だが労働だけでなく遊びもまた、経済を回す立派な一要素である。そもそも20世紀になって舞台、映画、テレビ、出版などエンタメのクリエイターによる生産・供給量が爆発的に増えるのは、それが『儲かるから』にほかならない」と述べます。

 

遊びの経済規模は、かつて我々が、“大人の階段をのぼるための道具”として教育に利用してきたときとは隔世の感があります。日本では年間300兆円が民間消費の総額ですが、そのうち衣食住など「生活必需品」と言われるもの以外の、いわゆる「無駄なもの」に消費されるのは50兆円、全体の15%程度に達すると指摘し、著者は「年収300万円の人でも、そのうち45万円くらいは、友達と飲み会に行ったり、映画を観たりコンサートに行ったり、ガチャを回してみたりするものだろう。なかなかの金額である」と述べています。

 

 

「エンタメを産業として分析する」では、著者が参考にしている1冊の本が紹介されます。ハロルド・ヴォーゲルの“Entertainment Industry Economics”です。米国で最重要産業と目されるメディア・エンターテイメントの業界を幅広くカバーし、映画、テレビ、音楽は当然として、ゲームやミュージカル、果てはスポーツからギャンブルに至るまで、10以上ものエンタメ業界の産業構造について解き明かした名著であるとして、著者は「財務会計に始まり、開発やマーケティングなど産業機能まで詳細に説明されており、これほど広く深くエンタメ産業をカバーしている書を私は他に知らない」と述べます。著者ハロルド・ヴォーゲルメリルリンチの産業アナリストとして同書を著し、コロンビア大学などで教鞭をとりながら常にアップデートを続けます。


「クリエイターは時代に合わせてメディアを選ぶ」では、テレビは、人類にとって最初に出会った「1億人が同時に同じものを見聞きするメディア」となり、その中でコンテンツとユーザーを奪い合ってきたことが指摘されます。1980年代のフジテレビはどの時間帯でも面白く視聴率トップを走りましたが、1990年代はその座を日本テレビが奪い取っていきました。2000年代の2チャンネルやニコニコ動画もまたその場所でしか見られないコンテンツがあり、2010年代のユーチューブは様々な動画がとめどなくアップされる夢のようなメディアとなりました。著者は、「2020年代、TikTokで5秒10秒のコンテンツを見ているうちに、油断すると1時間くらい平気で時間をつぶせてしまう。ネットフリックスが年に2兆円近くの資金を使って、世界で最もお金をかけたコンテンツを量産するのも、ネットフリックスというメディアそのものにロイヤリティを持ってもらうためだ」と述べます。


「ゼロイチでビジネスを生み出す教科書」では、本書が対象とするのはコンテンツ市場(12兆円)、スポーツ市場(10兆円)、コンサート・演劇などのライブ市場(6000億円)であり、年間合計20兆円を超える消費市場を「興行」「映画」「音楽」「出版」「マンガ」「テレビ」「アニメ」「ゲーム」「スポーツ」の9つの分野に分けて対象としているとして、著者は「これはエンタメビジネスの教科書だが、かといってエンタメだけに閉じる話ではない。なぜならこの9分野すべてがもともと市場としてはゼロから生み出されたものだからだ。人を喜ばせたいというピュアな発想から生まれ、その可能性を見いだした投資家などの支援者がついて、コンテンツを供給するクリエイターが企業の中に入り、ユーザーが定期的にお金を払う状態に至るまで、並々ならぬ過程を経ている。それはゼロイチでビジネスを生み出す教科書にもなる話だ」と述べます。


第1章「興行」の1-1「『一度限りの瞬間』を売る期待値商売」の「宗教と遊興が同居する場所に興行が栄える」では、能と歌舞伎という2つの芸能を比較します。能が為政者におもねった作品を作ったり宗教色を帯びさせたりといったことを行ってこなかったストイックさゆえに、お金や人を巻き込むことができなかったのではないかと指摘。かたや歌舞伎は江戸時代におけるサブカルであるとして、「歌舞伎は『傾く』というアンチカルチャーから始まり、日本全国を転々とする半分娼婦のような遊女たちが阿国歌舞伎として流行らせたところから始まっている(白拍子なども同じような系統と言われる)。しかしあまりにも煽情的だとして禁止され、今度は美少年たちによって行われた若衆歌舞伎もまた同じ理由で禁止され、男が女役を演じる野郎歌舞伎へと変化を続けてきた」と述べます。


遊びの神話』(東急エージェンシー

 

興行は本質的にカオスの中に生まれます。それは興行が宗教、遊興、芸能とセットで繁栄してきたことからもわかるとして、著者は「昔の浅草は浅草寺の裏に芝居町があり、その横には吉原があり、神仏、芸能、売色が三位一体の文化センターであった。世界各地の宗教的な場所は、ある種の治外法権的な色を帯びる。そこに芸能も一緒くたについてきており、これが興行、ライブの世界の本質、ということなのではないかと思われる。まずはエンタメの歴史をここから始めていきたい」と述べます。これは、わたしが拙著遊びの神話東急エージェンシー、PHP文庫)で追求したテーマと重なってきます。同書で、わたしは「ディズニーランドは現代の伊勢神宮である」として、「遊び」の初期設定とアップデートの両方を求めました。今にして思えば、本書『エンタメビジネス全史』の内容と共通点が多いことに気づきます。

 

1-2「明治・昭和に世界行脚した興行師たち」の「『最強の柔道家木村政彦、世界興行で英雄グレイシーを倒す」では、興行はともすると「見世物」として偏見を助長するものにもなりえることを指摘します。1878年のパリ万博で「黒人村」としてフランス植民地の先住民をオリの中に展示していた事実は、人類の黒歴史とも言えます。日本でいえば、江戸・明治・大正時代に先天的な障がい者を出し物にしていた見世物小屋などもその一例です。だが、偏見や差別に基づくものではなく、同じ人間が磨き上げた技量や芸の展示であれば、何の問題もなく、そこには市場を生み出すタネが生まれるとして、「明治維新期の曲芸一座が世界展開したように、第2次世界大戦後に『柔道』を国内・海外で興行してきた伝説的事例がある。『木村の前に木村なく、木村のあとに木村なし』と言われ、柔道史上最強とうたわれる木村政彦である」と述べます。


その木村が1950年に全日本プロ柔道選手権を東京・芝公園の日活スポーツセンターで行いました。日本のプロレスや格闘技の興行ビジネスはすべてここから始まったのです。木村はその後ハワイ、そして25万人の日系移民がいて格闘技も盛んだったブラジルで、1951年に興行を行っています。この海外興行が、のちに木村と力道山の邂逅につながり、力道山日本テレビのスポンサーのもとでプロレス団体を始めたことで、ジャイアント馬場全日本プロレスアントニオ猪木新日本プロレスにつながり、現在に至るまでの日本プロレス界が作り上げられる話と地続きになっています。


1993年、400戦無敗のヒクソン・グレイシーが来日した際に歴史から掘り起こされたのが、1951年の「マラカナンの屈辱」であった。木村に敗れたエリオ・グレイシーの息子であるヒクソンとその一族がそのリベンジにブラジルから来襲、世代を超えて日本の格闘家たちをなぎ倒していきました。著者は、「ここから日本の総合格闘技はファンタジーのようなマンガのような物語が紡がれた。新日本プロレスからUWFなどの『ガチバトル』が分派してK-1が生まれ、PRIDEが登場し、1990年代後半から10年余り、日本は空前の総合格闘技ブームとなった。それまで半世紀の『プロレスが最強』とうたわれていた歴史がベースとなっている」と述べています。


1-3「日本の興行モデルを作り上げた東宝、松竹、吉本」の「利権者を整理しヤクザを排除し、『場所』にブランド価値をつける」では、土地を持つ者が興行を打つというのは100年以上も続く慣習であると指摘し、著者は「なぜ弱小鉄道会社の小林一三が宝塚少女歌劇団を1912年に作ろうとしたのか。読売新聞社がなぜアマチュア優位の時代に『金儲けのプロスポーツ』と嫌われながら1934年に巨人軍をつくったのか。それは興行が成功すると『場が豊かになる』のである。人々は興行(コンテンツ)の力によって、その場所(メディア)に愛着を持ち集う。集うことで新しい出会いや価値が生まれ、そのブランドができた場そのものが地価という形で価値を上げる。興行のヒット作を生み出すことは、土地を持つ者にとっての収穫期である」と述べています。


「宝塚も吉本も『弱きもの』が作り上げた」では、興行の歴史を牽引してきたのは、三大興行資本と称された松竹、東宝、吉本であったことが紹介されます。1895年設立の松竹は、大阪の松次郎と竹次郎兄弟が京都5座を買い取り、悲願の東京歌舞伎座を手に入れ、歌舞伎・演芸から映画まで展開していった会社です。東宝は、小林一三が鉄道の乗客を増やすために始めた宝塚少女歌劇団が原点です。宝塚が人気になると、買い占めた土地を分譲住宅用に高く売って利益を上げる。日本史上最初の「都市開発」であり、関東の東急や西武もこの手法を模倣していきます。宝塚を成功させた小林は、1932年に演劇と映画の興行のために東京宝塚劇場を開設し、東宝というエンタメ会社として発展するのでした。

 

吉本興行は、芸人道楽で問屋を破産させた夫を助けるために寄席を買って興行を始めた吉本せいから始まっています。吉本が1912年に天満天神裏「第二文芸館」を買い取り、入場料5銭(落語が15銭だったので格安)で見せようとしたものは、当時全盛を誇っていた落語とは違い、技としては見劣りするけれど笑えることには変わりがない「漫才」という会話劇でした。著者は、「当時の漫才は、同じ話ばかりで新作が少ない落語からマクラの時事ネタ部分だけを取り出したもので、曲芸・曲独楽・奇術などと並んで『色物(落語以外の“レベルの低い”興行がこう呼ばれた)』扱いだった。これが落語とは違う笑いの中心軸を築くことになる。吉本は、関西と東京を中心とした寄席の劇場を取得しながら、巨人軍や日本プロレス協会の設立にも関わり、現在もテレビという「場」の価値を興行師として高め続けている」と述べるのでした。


1-4「パリ>ロンドン>ニューヨーク>東京 エンタメの『本場』の変遷」の「劣等感が次のエンタメを育てる」では、演劇の“本場”であるニューヨークのブロードウェイを取り上げ、著者は「野球やプロレスが米国を目指すように、劇団四季や宝塚もブロードウェイを目指してその興行の精度を磨き続けてきた。だが、“本場”の源流をたどると、米国は米国で『欧州』という“本場”と戦ってきた歴史がある。もともと欧州には『オペラ』があった。オペラはあくまで『歌』が主体であり、様式に基づいた歌を通してストーリーを伝える。声を楽器のようにかき鳴らし、その響き自体を楽しむ。ミュージカルも歌うには歌うが、あくまでリアリズムに基づいた演劇が主体であり、歌詞はセリフなのだ。リアリティとエンターテイメント、これが欧州文化に米国が付け加えたスパイスだった」と述べます。


また、著者はアメリカの文化の本質について述べます。
「英国という文化の“最上流”(英国もまた仏や独といった文化的ライバルに劣等感を持つ“田舎モノ”だったが)から独立した米国は、英国のスポーツであるクリケットやサッカー、ラグビーを拒み、あえて野球やアメリカンフットボールを作り出してきた。それは演劇も同じで、オペラを拒み、『ミュージカル』という言葉を定義したのが1893年、130年前の話である。ブロードウェイがそれまでの『英国に比べて質の低い大衆演劇ばかりやっている』状態から脱皮したのは、マンハッタン島が発展していく1900年代に入ってから、英国の1人あたりGDPを米国が抜いたタイミングでもある」


「文化がもたらす経済効果」では、いまやニューヨークを訪れる観光客の3人に1人はミュージカルを見ることが指摘されます。ブロードウェイ、オフブロードウェイを含めてニューヨーク州全体で約2000もの劇場があり、約9万人が雇用され、作品づくりに年1000億円以上の投資がなされ、観光客が5000億円のお金を落とします。総額1兆円を超える経済効果がミュージカル文化によって生み出されている世界最大規模の演劇市場なのだとして、著者は「文化の浸透力というのは侮れない。いまだに世界のスポーツ市場の半分以上は、英国が大英帝国時代に広めたサッカーに牛耳られている。米国スポーツのアメフトも野球も、世界的にはほとんど浸透していない。一度その文化が世界的ポジショニングを獲得した時、それは都市のブランド、国のブランドとなり、多くの人を巻き込む経済圏を築く。米国であればそれが映画、ミュージカルであり、日本ならそれがアニメ、ゲーム、マンガであるわけだ」と述べるのでした。


1-5「マスメディア凋落のネット社会における『唯一の成長市場』」の「音楽がライブをやめず、2.5次元ミュージカルが発展した理由」では、熱狂を生むという1点に関しては興行に勝るものはないとして、著者は「集団の熱狂度を極限まで高める装置としてはライブ興行に勝るものはないのだ。人は同じものを同じように見て皆で感動したい。ライブの持つ魅力は『感染力』であり、人の興奮というのは容易に伝染する。その空気を味わうために、人は入場料ばかりか、交通費や宿泊費までかけてライブに足を運ぶ」と述べています。ラジオの無線放送ができたとき、テレビの全国放送が地方の末端まで届いたとき、インターネットに誰もがアクセスできるようになったとき、「古いメディア」である興行は廃れていくに違いないと、100年以上にわたって何度も言われてきましたが、音楽市場におけるCⅮ売上の比率が9割を超えても、ミュージシャンたちは音楽ライブをやめませんでした。アニメの不出来なキャラコスプレから始まった2.5次元ミュージカルの市場は、2021年に史上最大の239億円と20年ほどで成長を遂げてきたのです。


第2章「映画」の2-2「東映東宝によるサバイバル戦争」の「大手5社と戦後の成長要因」では、日本における戦後の映画産業は松竹・日活・東宝東映大映の大手5社が君臨していたことが紹介され、「映画業界の機能は、大まかに分けると『製作(プロダクション)/配給(流通)/興行(映画館運営)』に3分割される。出版は『出版/取次/書店(小売)』で、ゲームは『開発/パブリッシュ/小売店』である。ラジオ・テレビは『制作/放送(流通・小売を兼ねる)』で放送に強い権力が集中しているが、映画は『配給』に権力が集中し、意外にも制作が弱いのが特徴である」と説明されます。


2-3「監督育成装置としての『ピンク映画』と日活ロマンポルノ」の「“作らない映画会社”」では、“作らない映画会社”がスタンダードになっていく中で、実は半ばアングラな市場において“クリエイティビティ”は守られることになりました。それが「ピンク映画」です。映画の製作本数の推移を見ると、「冬の時代」に入っていった1960年代に大手映画会社の製作本数は500本から200本に6割も減り、1970年代にはさらに落ちていきます。その間を埋めたのがピンク映画で、少ない予算で個人事業主に近い監督・プロデューサーが撮影を続け、映画会社に売り込みました。大手の1社だった日活も「ロマンポルノ」と銘打ってピンク映画に参入。著者は、「ピンク映画は多くの人材を育てた。『おくりびと』の滝田洋二郎監督、『Shall we ダンス?』の周防正行監督、『リング』の中田秀夫監督、『世界の中心で、愛をさけぶ』の行定勲監督など、現在50~60代の一線級の映画監督たちは20~30代のころにピンク映画によって実践経験を積んでいた」と述べています。



角川映画とインディーズ映画」では、弱体化する邦画のスキを縫って、洋画のシェアが増えたことが指摘されます。1960年代まで7~8割は邦画でしたが、この時代に4~5割を切るようになります。1980年代は全世界的に洋画、というかハリウッド映画のシェアが大きく上がり、各国の内製映画が軒並み冬の時代を迎えます。著者は、「そうした中で、国内でも新しい映画勢力が生まれてくる。『読んでから見るか、見てから読むか』で一世を風靡した角川春樹率いる角川書店(現KADOKAWA)、そして1974年に大映をのみ込み、のちにジブリを生み出すことになる徳間書店である。出版社が映画を宣伝として使いながら文庫本・コミックスを売る時代に入る」と述べるのでした。


第3章「音楽」の3-1「エンタメ産業のカナリア」の「幾度となく“つぶれて”きた音楽業界」では、音楽業界は、100年の歴史の中で何度もつぶれてきたことが指摘されます。それも1年で市場の9割が吹き飛ぶような事態ばかりだとして、著者は「たとえば1927年に米国で1億4000万枚のレコードが売れたが、世界恐慌によって1929~32年の4年間合計で売れた枚数は600万枚しかない。このレベルの市場消失は、コロナ禍で様々な産業が実感したところだろう。たとえばエアラインの旅客収入は、2020年にはANAもJALも前年比9割以上も減少した。例のない業界激震である。音楽業界の場合はそれが数十年に一度の頻度で起こっている。なぜなら音楽というのはテクノロジーの変化を最前線で味わうからだ」と述べています。

 

「音楽を人に聴いてもらって対価をもらう」というビジネスモデルは、想像以上に脆弱であるといいます。音楽は誰でも作れますし、聴く人は日常的に無料で聴いています。そこに市場を発生させるには、巧妙に構築された「仕組み」が必要です。「仕組み」はテクノロジーに支えられていますが、それゆえ新しいテクノロジーが出現すると「仕組み」そのものが覆され、新しい市場を生み出していきます。著者は、「私はひそかに、音楽業界を『エンタメ産業のカナリア』と呼んでいる。音楽業界で発生した激震は、その後必ず出版や映像、ゲーム業界に派生していくからだ」と述べるのでした。3-2「対立こそが音楽創造の種」の「黒人音楽が生み出した米国音楽市場」では、現在、世界の音楽市場の7割以上を寡占する3社のうち、ワーナー・ミュージックの源流ワーナーレコードを除けば、ユニバーサル・ミュージックの源流NBC、ソニー・ミュージックの源流CBSはいずれも「ラジオ局」が祖業であることが紹介されます。


著者は、米国の音楽について以下のように述べます。
「米国の音楽史は黒人奴隷と切っても切れない。文字文化を持たなかったアフリカ人が口頭伝承や舞踏・演奏によって代々メッセージを伝えてきた文化を米国が取り込んだからだ。『黒人霊歌』から始まりキリスト教に感化されて南北戦争中に生まれたゴスペルも、過酷な農園作業で労働歌として生まれたブルースも、死者の鎮魂の意味で明るく歌い上げられたジャズも、すべて黒人が作り上げた。そのタイミングが南北戦争という時代の切り替わりであったという点も興味深い。「黒人は解放されるべき存在」という“概念”が生まれ、自分たちが奴隷であると自認し始める時期にその葛藤を表す歌が急速に広がったのである。文化とは火力をもたない武器である。異なる思想や様式に染められまいというアイデンティティの強い抵抗が、1つの文化となって現れ、その様式・ふるまいが1つの集団を凝縮させ、思想の共有に多分に貢献する」


「エルヴィス――史上最も成功したソロアーティストの出現」では、エルヴィス・プレスリーが現在においても「史上最も成功したソロアーティスト」としてギネス認定されている背景には、彼が黒人と白人の文化融合に果たした影響も含めて、音楽とアーティストの持つ価値を示したこともあることが指摘されます。著者によれば、音楽はたんなる消費行動ではないといいます。言葉による議論では対立も生まれますが、演奏と歌詞による伝承はそれを阻む手段を講じにくいとして、「すでに南北戦争から100年がたち『黒人奴隷』がいなくなった米国社会でも、当時は歴然とした差別があった。その後、公民権運動として黒人を本当の意味で解放しようという方向に米国社会が向かうきっかけを与えたのは、エルヴィスの音楽である。若者がエルヴィスの音楽を通じて差別的な社会を認識し、黒人音楽・黒人文学に慣れ親しみ、理解を示すようになる。親世代の過ちを糾弾するようになる」と述べます。

 

プロテスタントの試みの先に生まれた『ロック』」では、エルヴィスが生み出した「ロック」は白人文化の代表のようにも扱われますが、その中身は完全に黒人音楽の派生であることが指摘されます。音楽は「対立・分裂」における言語以外の対抗手段として、必要不可欠なものだとして、著者は「戦前世代と戦後世代の対立、黒人と白人の対立がなければロックも生まれなかっただろう。そもそも、音楽を創造する行為自体が宗教対立を母体としている。キリスト教カトリックプロテスタントが対立しなければ、音楽自体が一般化しなかった可能性すらある。教条主義的な言葉ばかりのカトリックと差別化するために、プロテスタントは教会に音楽を取り入れ、人々の感情に訴えた。近代西洋音楽はこのプロテスタントの試みの先に発展し、短調長調といった音楽『学』も生まれている。音楽は対立のないところに生まれない、本質的に『ロック』なものなのである。


3-4「アイドルビジネスとしての音楽産業と芸能事務所の影響力」の「独自のアイドル文化とジャニーズ」では、映画同様、音楽も1970年代までは洋楽・邦楽の間には絶対的な壁があり、レコードの小売価格も洋楽が高かったことが指摘されます。そうした中で芸能事務所が歌番組を使って小柳ルミ子天地真理南沙織の「新三人娘」、森昌子桜田淳子山口百恵の「花の中三トリオ」などのアイドルを売り出す文化を作ったことが、現在まで地続きの日本の音楽市場を作り上げました。日本の音楽市場は、「洋楽」が文化の中心にあったアジア諸国とはまったく違うものだったのです。また女性ファン向けの男性アイドルといえば、日本において寡占市場を築いたのがジャニーズ事務所であるとして、著者は「1970年代までは新興事務所だったが、80年代の光GENJI、90年代のSMAPを代表にテレビ・出版のマスメディアと一体となりながら、ファンクラブ、コンサート、ミュージカルで数百万人にも及び巨大な女性ファン経済圏を創出した」と述べます。現在、創業者のジャニー喜多川氏の性加害問題によって、この巨大帝国は崩壊しようとしています。


3-5「エイベックスと小室哲哉の時代 J-POP鎖国化した日本」の「レコードと著作権が生み出した『年を越せるキリギリス』たち」では、今日の日本音楽市場のビジネスモデルには先行の成功例があったとして、ビートルズが取り上げられます。日本で初めての大規模コンサートを行ったのは日本人ではなく、1966年に来日したビートルズでした。それ以前、音楽コンサートの会場は収容人員1000人程度の県民会館や公会堂が最大だった日本で、ビートルズがライブをしたのは1964年の東京オリンピックのために出来立てほやほやの日本武道館でした。これ以降、1万人を超えた大規模ライブが普及するのです。

 

英国から米国に市場拠点を移したビートルズが音楽業界にもたらした画期性は、それまでライブ入場料や投げ銭で生きていたその日暮らしのミュージシャンが、レコードという新しいメディアで、「著作権」を持ってビジネスを始められる新世界にありました。そもそも楽器を弾いて、歌を歌って生きていくという発想は、1960年代以前の社会では完全にヤクザ者の考えだったと指摘し、著者は「労働をするアリたちに対峙するかのように、その日暮らしのキリギリスであり、貯えもなく越冬できなかった。そのミュージシャンが『アーティスト』としてブランドを使ったビジネスができるようになるのは、レコードと著作権のおかげだった。それを初めて大規模に実践したのがビートルズである」と述べています。


「J-POPへの傾斜、鎖国された巨大音楽市場」では、日本の芸能事務所ビジネスの強さは、「360度ビジネス」と呼ばれる手広い商売範囲から来るものだと指摘されます。6000億円のCDビジネスにおける著作権印税は6%にすぎませんが、テレビメディアとの共同でスター・アイドルを生み出す芸能事務所は、音楽コンサート事業も展開できれば、グッズの販売事業もできます。CM出演費も期待できますし、ファンクラブを作れば月額固定で一定金額のサブスクリプション収益を期待できます。欧米のようにアーティストが法人格を持ってエージェントを使い回す契約社会と異なり、あくまで就職するかのようにタレントが芸能事務所に育ててもらう日本においては、事務所が1人のスターの全ビジネスを一手に引き受けることも可能なのです。著者は、「その勝機をつかんだのが、貸レコード店から身を立て、小室哲哉という希代のミュージシャン兼プロデューサーとともに日本の音楽シーンを席巻したエイベックスである」と述べるのでした。


第4章「出版」の4-1「戦後最大のベンチャー産業」の「流行の周辺で繁栄を享受する機敏な産業」では、映画もゲームもグローバルな産業であることが指摘されます。それらは「映像」であるがゆえに、言語の壁を越えて世界中に浸透しやすく、世界をハリウッドと任天堂が席巻するような状態が起こりえたのです。だが出版業に関してはそれが当てはまらないとして、「出版は文字を主体としたメディアであり、必然的にローカルな商品となる。各国が等しく言語障壁を持って、それぞれの歴史・事情・時代性を反映させていくものである。実はコンテンツ市場の中でも日本の市場が相対的に大きいのが出版だと言える」と述べています。出版に関しては米国の4.5兆円、中国の3兆円に対して、日本は1.5兆円と、他の産業ほど米中との規模の差が開いていません。しかも輸入・輸出が少なく(全体の数パーセント程度)、日本で生み出された出版物を日本人が消費するという好循環が維持されている産業です。

 

日本において出版の好循環が実現したのは大正時代に普及した「世界最高の(流通)システム」のおかげでした。地方部までゆきとどいた書店・問屋の流通網が、全国民に同時的に印刷物を届ける仕組みによって支えられています。また出版は音楽と並び、投資商品としてわかりやすかったとして、「書籍は『1人の著者と1人の編集者がいれば始められ、1冊出すのに投資は多くて数百万円、結果も見えやすい』という特徴は新規参入を生みやすく、何千社という中小出版社を生み出した」と指摘し、さらに「出版はその時代に最も流行っているものの周辺でサブメディアを作り、必要な情報のキュレーションによって共に繁栄を享受する、機敏かつ重要な産業であったのだ」と述べます。

 

 

「『教育の浸透』と『出版の成長』」では、本や雑誌を読むという娯楽は、ラジオもテレビもなかった時代においては唯一ともいえる家庭でのエンタメであったことが指摘されます。明治・大正において「教育の浸透」と「出版の成長」は軌を一にしていることを紹介し、著者は「小学校就学率は明治初期に3割だったが、19世紀末には7割まで上昇し、学制発布で1910年にはほぼ10割まで引き上がる。読み書きを覚えた人々は、活字に飢え、急激に「出版」を求め始める。識字人口は、1890年に1500万人→1910年に3500万人→1930年に5500万人と急激に増えた。すると円本ブームが起こる。改造社が1926年に『現代日本文学全集』を1円(初任給の2%程度、現在の400円くらいの価値)で販売し、1巻あたり60万~80万部売れた」と説明しています。

 

4-2「大正時代に確立された世界最高の出版流通システム」の「取次流通、委託販売、再販制の3点セットで業界発展」では、日本の出版業界の特徴は「再販売価格維持制度(価格の固定)」と「委託制度(書店が買い取らずに出版社に返品できる仕組み)」、そして出版-取次-書店が生み出す流通構造の3点にあることが紹介されます。本は定価販売で安売りされず、また書店が在庫リスクをもたないので売れない本も店頭に並べやすく、多種類の本をそろえることができます。小売に価格決定権がなく、メーカーが決めた定価ベースで棚に並べる再販制度は、それが始まった1950年代は化粧品や医薬品、写真機などにも適用されていました。


再販制度は、ユーザーにとってはけっして得ではありませんが、価格が安定するがゆえに多様なブランドが育ち、小売の新規参入も促しやすいメリットがあったのです。この流通の仕組みは「世界最高のシステム」との誉れ高いですが、逆に何が売れるかの見立て力をもたない書店が乱立することになります。書店は1980年代に供給過剰となりました。それを取次が資金的に支えたことがかえって事態を悪化させ、出版社はどんどん出版点数を増やすという3層構造で、1995年以降は出版界の困窮が深まります。


「雑誌流通は文具店などの店先で客寄せとして発展」では、書籍はとにかく1作1作で当たりはずれがあるヤクザな商売であることが指摘されます。それに対して雑誌は、定期発行するのは大変ですが、読者がつけば収益が積み上がっていく「座布団商売」になります。もちろん、失敗すると当然ながら赤字も大きくなりますが。著者は、「明治初期に士族階級が起こした出版社(当時は流通も書店も一緒に運営していた)は、丸善有斐閣教文館などいくつか残っているが、ヒットメーカーも例外なくどんどん倒産していった。残っているのは雑誌や教科書など『座布団型』ビジネスを持っていた出版社ばかりだ。同時に雑誌は、その集客力によって『広告収入』という新たなモデルを出版社にもたらす。20世紀の出版業界の躍進は間違いなく、この出版流通の産業構造と雑誌ジャンルへの進展によって引き起こされたと言える」と述べます。


4-3「出版市場の3割を超えるマンガ」の「団塊世代の成長とマンガ雑誌の巨大化」では、手塚治虫の『鉄腕アトム』などから始まる黎明期のマンガ作品は、『巨人の星』『あしたのジョー』など大人向け劇画作品へと緩やかに政権交代していく中で、マンガは世代を超えてユニバーサルなメディアになっていったことが指摘されます。1995年には『週刊少年ジャンプ』が発行部数650万部突破という驚異的な記録を残すことになります。著者は、「テレビにしても、音楽にしても、1990年代半ばのピークに向けて、すべて同じ『団塊世代のためのメディア』であったと言えるだろう」と述べています。


「他国の『3倍の速度』『10分の1の価格』で量産」では、週刊マンガの成立は、出版業界におけるビジネスモデルの革命でもあることが指摘されます。当時の週刊マンガは30円という低価格で原価率90%を超えていました。マガジンもサンデーも13人の編集スタッフを配してマンガ家に毎週遅れず描き上げてもらっていましたが、それは赤字覚悟の展開でした。かつ大人向け週刊誌と違って、マンガ雑誌は広告がつかないことを指摘し、著者は「10年の時を経て、マガジンが100万部を突破した時点でも赤字だったというほどの長期戦に耐えた2社の競争の結果できあがった『奇跡の市場』でもある。それほど低収益のマンガ雑誌がビジネスとして成り立ったのは、連載をまとめるコミックスの販売収入、そしてキャラクター玩具から得られるライセンス収入があってのことである。週刊誌だけでは収支が厳しくても、それを続けることで得られる利益は大きかった」と述べるのでした。


第5章「マンガ」の5-2「手塚治虫が築き上げた産業インフラ」の「『邪道マンガ』から『マンガの神』へ」では、赤本マンガの大家がひしめく東京で新人がデビューできるのは、弟子入りして20年後というのが普通だった時代に、大阪で一旗揚げた若き手塚治虫が絵やマンガの基礎も学ばず、自由に描いた“映画的なコマ割り表現”は異端だったことが指摘されます。当時のマンガは舞台演劇のように全体像をコマに収める『のらくろ』的手法がスタンダードでしたが、手塚は一部をドアップにしたり、コマ選びで臨場感を描いたりしました。手塚はなぜこれほど多くの人に語られ、「マンガの神」と言われるのかについて、著者は「それは彼が一作家を超えて、産業基盤を作ることに加担した作家だからだろう。『アシスタントを長くやりすぎると同じ絵しか描けなくなる』と、手塚は2年以上は雇わずに解雇していました。常に新しいアシスタントを教育し、一定期間で独立させました。巨匠でありながら都合のよい飼い殺しはせず、多くの作家を生み出したのです。


手塚が1953年に住み始めたトキワ荘もまたマンガ産業の重要なインフラとして機能しました。本人が住んだのは1954年末までの2年弱でしたが、『スポーツマン金太郎』の寺田ヒロオ(在住1953~57年)、『ドラえもん』の藤子不二雄(1954~61年)、『おそ松くん』の赤塚不二夫(1956~61年)、『仮面ライダー』の石ノ森章太郎(1956~61年)、『星のたてごと』の水野英子(1958年)、つのだじろう(通い組)など多くの才能を生み出しました。著者は、「キリストは聖書の一字一句すら書き残さなかったのにキリスト教が後世に残されたように、手塚自身の多くの『弟子』が語り部となり、彼は『マンガの神』になった」と述べています。

 

 

5-3「女性版トキワ荘『大泉サロン』から始まるBLとコミケ」の「BLから生まれたコミケ、1975年の参加者700人の9割が中高女子」では、BL(ボーイズラブ)についての説明があります。BLを形式的に語れば「性に奔放になれない・なるべきでない女性の制約ゆえに、『攻め』ができる男性もしくは『受け』として女性役を担う男性に自分を仮託し、ファンタジーの中で行われる代理的な性愛表現」ともなるのだろうかと書かれています。大半は異性愛者の女性によって消費されるBLの起源は、萩尾の『トーマの心臓』と竹宮の『風と木の詩(風木)』であるといいます。『風木』は当時あまりにも前衛的すぎたその内容に、男性編集者から何度も突き返されました。最終的に「人気1位をとれたら『風木』を通してもいい」という言葉通りに、『ファラオの墓』を成功させ、問題作が掲載されることになります。「作者の自慰行為」など多くの非難も受けましたが、あまりにも奔放に表現された少年同士の性描写は、マンガ界を超えて絶大な影響を及ぼしました。あの寺山修司をして「これからのコミックは『風と木の詩』以前・以後という呼び方で変わってゆくことだろう」と言わしめたほどです。


5-4「ホビーやゲームとのコラボという新機軸を切り拓いた『コロコロ』」の「小学生の流行を扇動した月刊マンガ雑誌」では、マンガはスポーツからBLまで様々なジャンルの読者を増やしましたが、「遊び」自体を開拓し、読者の流行を扇動するに至ったマンガ雑誌は『月刊コロコロコミック』をおいてほかにないと指摘し、「ミニ四駆スーパードッジボールビックリマンハイパーヨーヨー、カードゲームなどはコロコロの発信が強力なプロモーションとなって人気化した。小学生向け月刊誌のコロコロは1977年に創刊された。すでにマンガ雑誌は爛熟期を迎え、決して早い創刊だったわけではない」と述べます。

 

コロコロが扱う「ホビー」という領域は、すでに完成された状態で大量生産する「玩具」とは違いました。それは未完成な状態で届けられ、ユーザーが自分なりの技や君タテを加えることで「自分独自のものを完成させていくもの」だったのです。完成品を求めないという姿勢は、コロコロのマンガ作りにも表れていると指摘し、「読者ターゲットは小学生3~6年生の男児だが、彼らの好きな遊びは年どころか数ヵ月単位で切り替わる。難しい内容も好まない。そのためコロコロのマンガは、物語を伝えるよりも、その時一番流行っているものを取り入れて、とにかく変化することを前提とした。ここには小学館の祖業である『小学五年生』など学年誌の『毎年フリダシに戻って作り替える』という伝統がそのまま凝縮されている」と述べます。


「少年ジャンプも嫉妬して追随」では、1995年に「発行部数653万部」という今も世界出版史に残るギネス記録を打ち立てた『週刊少年ジャンプ』も、コロコロに触発されてマンガ以外への展開を推進したことが紹介されます。1982年からの読者投稿コーナー「ジャンプ放送局」や1985年からのゲーム紹介コーナー「ファミコン神拳」では、さくまあきら堀井雄二などゲーム業界の人材を編集工程に入れ込みました。『ドルアーガの塔』を特集した際には、ファミコン神拳は読者アンケートで3位になり、マンガ作品を超える人気を誇るようにすらなっています(当時の1位は『ドラゴンボール』)。


第6章「テレビ」の6-1「日本のテレビはなぜこんなに強いのか」の「国家による電波監理下で競争なき独占」では、日本の全テレビ局が国に払う電波使用料は年50億円であることが紹介されます。テレビ局にとっての「原価」となる電波使用料は、1.7兆円の広告費収入から考えると0.3%でしかありません。著者は、「国が電波を独占し、免許を持つ限られた事業者のみに配給される仕組みは、1912年のタイタニック沈没事故から始まる。タイタニック号の近くを運行する船が氷山の危険を知らせたが、同じ周波数の中で混線してしまい、またタイタニック号が発信したSOS信号も受信されなかった。この事故をきっかけに米国で電波法が整備され、国が電波を管理して周波数ごとに電波の利用者に配給する形になったのだ。欧米からこの仕組みが始まり、日本やアジア諸国でも100年以上この体制が続いている」と述べています。


「ユーチューブやTikTokに視聴者を奪われる」では、1970年代に映画業界が語っていた「テレビは一過性のコンテンツだ。画面は小さく、画質も悪い。視聴者も『ながら見』、手間暇かけて凝った映像ではなく、安く早くそれなりとれる監督がいればよい」と言う言葉が紹介されます。これは、まさに今、テレビがユーチューブに対して言っていることと同じです。1970年代には、優れた映画のヒット作1本の利益とテレビの60分ドラマ年間300本の利益が同じくらいの認識だったそうです。映画会社はジリ貧の状態であっても、品質へのプライドもあり映画製作に固執してしまっていたのです。

 

第7章「アニメ」の7-1「ハリウッドに対抗する世界アニメの聖地」の「世界シェアはハリウッド40%、日本25%」では、日本を代表する産業として、自動車やコピー機などと同様にゲームとアニメを挙げる人も多いことが紹介されます。「たしかに任天堂ソニーのゲーム機はプラットフォームとして世界を席巻した。しかし、『ドラえもん』や『ドラゴンボール』は日本では大人気だが、世界的な広がりは限定的である。アカデミー賞を受賞したスタジオジブリの『千と千尋の神隠し』だってすでに20年前の話だし、新海誠監督や細田守監督のアニメも、日本の高校生をモチーフにした“小さな物語”だ」と述べます。


「驚くべきコスパの良さで2Dアニメを量産」では、日本アニメで驚くべきは、そのコスパの良さであるとの指摘がされます。ハリウッドアニメは基本的に2時間ものの映画作品を50億~100億円かけて製作します。かたや日本アニメでの成功例でいえば、日本アニメとして北米興行収入1位の『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』は製作費3.5億円ながら全世界で200億円近い売上を上げました。全世界で500億円以上の興行収入を上げ、北米で日本アニメ2位の『鬼滅の刃 無限列車編』ですら10億円足らずで製作されています。つまりシェアで見ると米国4割、日本2.5割ですが、その日本の勢力図は米国アニメの10分の1もコストをかけていない「安い」作品群で実現しているのです。


7-2「狂気から生まれたテレビアニメ産業」の「たまたま生き残った『東洋のウォルト・ディズニー』」では、映画会社の統廃合が進んでいた当時を振り返ると、「東映アニメ」ではなく「東宝アニメ」「松竹アニメ」になっていてもおかしくない状況にあったことが指摘されます。その中で東映社長の大川博は「東洋のウォルト・ディズニーになろう」という野望を掲げたのでした。その時期のディズニーは2000人近くの制作人員を擁し、2200万ドル(現在価値で25億円)もの製作費で1時間16分の大長編『シンデレラ』を作り、開園直後のディズニーランドをテーマとした番組を制作して地上波テレビのABCで放映し(初回の視聴者は7000万人)、世界で唯一無二のアニメ制作・テーマパーク運営の会社に育っていた時期です。東アニは、東映による買収の1年後の1957年末には社員100人、3年後の1959年には社員270人を超えるアニメスタジオに成長していきます。その東アニが初めて制作した79分もの長編アニメ『白蛇伝』(1958年)から日本アニメの歴史は始まります。


7-3「エヴァンゲリオンが時代を変えた」の「子供むけテレビアニメの終焉」では、『サザエさん』は世帯普及率100%に近づいたカラーテレビの電波にのせて、日曜日18時半という習慣化された枠で毎週放送され続け、50年を超えて放送が続くというギネス世界記録を保持していることが紹介されます。このお化けアニメ番組も、1980年代までは視聴率30%を維持していましたが、2000年代には20%台、2010年代末には5%台にまで落ち込んでいます。『ドラえもん』『クレヨンしんちゃん』『名探偵コナン』なども同様の状況であると指摘し、著者は「アニメの視聴率低下は全面的に続いており、個々の作品の出来不出来によるものでないことは一目瞭然だろう」と述べるのでした。


7-4「アニメを『作品』にしたスタジオジブリ」の「パトロンが生んだ奇跡のアニメ作品」では、東映元社長の岡田茂は「ウチ(東映)もそうだが、確実な収益を期待したら、アニメのターゲットは子供向けになってしまう。万が一、映画でコケても、キャラクターグッズの売上で補填することができますから。ところが徳間は、最初から大人の鑑賞に耐えられる作品を創ろうとした。これが、宮崎駿の才能の開花に繋がったのだからね」と語ったことが紹介されます。著者は、「手塚治虫が理想としたアニメスタジオは、ひょっとするとスタジオジブリだったのではないだろうか? それはクリエイターに惚れ抜いて好きなように作らせることができる巨大スポンサーの存在によって、初めて実現した」と述べています。


7-5「『鬼滅の刃』を実現させたアニメコングロマリットのアニプレックス」の「製作会社中心の委員会によるハイブリッドなビジネスモデル」では、作家主義と商業主義の折り合いに1つの解をもたらしたのが『鬼滅の刃』を製作したアニプレックスであることが紹介されます。『鬼滅の刃』の製作委員会はアニプレックス集英社ユーフォーテーブルの3社で形成され、出資の大半は自社で持っているため、大ヒットした際には大きな利益を得られるのです。著者は、「テレビ局や広告代理店を入れずに(その分、彼らが負担をしてくれるはずの放送費や広告費などを自分で負担しなければいけないが)、自由に放送・配信先を選べるようにして、どのチャンネルでも鬼滅アニメを見られる状態を作った。特定のアニメを見るために、特定の放送・配信サイトを視聴するという従来型の枠組みを壊したのである。『鬼滅の刃』はジブリの持っていた興行収入の記録を塗り替えただけでなく、25年続いたテレビ局・広告代理店主導のアニメ製作委員会時代の終わりを告げたのであった」と述べるのでした。

 

第8章「ゲーム」の8-1「唯一無二の市場開拓者 任天堂」の「江戸時代の鎖国をビジネスチャンスにした」では、任天堂の祖業が「花札」であることが紹介。花札は、16世紀には輸入されていたトランプを日本が鎖国によって「禁じた」ことで、日本独自に作り上げられた遊びです。その花札も江戸時代は賭博の対象となり、禁制品として通常の遊びからは遠ざけられますが、アンダーグラウンドで遊び続けられることとなります。任天堂が目を付けたのは、江戸時代に秘密裏に育ち明治期の規制緩和で市場開放されたこの領域でした。「賭場に対する営業」をかけて、全国70ヵ所以上もの賭場を供給先として花札を販売した山内房治郎は、一代で財を成します。アングラな花札を商品とするような企業で、運を天に任せるのがちょうどいい。かくして「任天堂」という会社名が生まれたのでした。



「3代目の山内溥、『危険な市場』に全張り」では、任天堂の中興の祖であり、家庭用ゲーム市場のゼロイチ創業を成し遂げた3代目社長の山内溥は、1953年には日本初のプラスチック製のトランプの販売を開始、1959年にはディズニーとのライセンス契約を成し遂げています。そこでキャラクターライセンスの料率の高さに驚き、自社でIP(知的財産としての作品・キャラクター)を持たなければいけないと強く意識するようになり、ゲーム業界に参入していきました。ちなみに、当時のゲーム産業を担ったナムコ創業者の中村雅哉回転木馬から、セガ中山隼雄外資系企業の日本支社としてジュークボックスの営業から事業を始めています。


8-2「ゲームから始まるメディアミックス」の「ポケモンの登場」では、20世紀におけるメディアミックスの最高傑作は『ポケットモンスター』であるとして、著者は「ポケモンは世界中のキャラクター経済圏の中で最も大きな85億ドル(約10兆円)というビジネスを実現させてきた。『ミッキーマウス』から始まるライセンスビジネスの到達点とも言えるタイトルである。ゲームとアニメのミックスとして、このタイトルが現在の日本ポップカルチャー海外浸透の扉を開けたと言っても言い過ぎではない」と述べています。


8-4「そしてすべてオンラインになった」の「ハードの制約を超える」では、ゲーム業界の新たな成長を演出している人材やノウハウは、じつは広告、出版、音楽、アニメ、映画、テックから取り入れられてきたもので、その流れがこの2~3年で大きく広がってきていると指摘。2020年に世界ゲーム市場は20兆円近くに及び、2025年には30兆円規模になることが予想されています。テレビ・ホームビデオの20兆円、新聞・雑誌市場や広告市場の10兆円、音楽市場の7兆円といったサイズを大きく飛び越えて、エンターテイメント産業の中では最大のコンテンツ市場になります。ゲームはすでにテレビやPCなどハードウェアの制約を超えた商売を実現しています。


8-5「妄想と期待値にドライブされるゲーム会社経営」の「カオスこそが望ましい状態」では、ゲーム産業は全世界で20兆円を超え、映画・音楽・出版を上回る最大のクリエイティブ産業となりました。しかし、著者は「1本1本のゲームは、ほぼ個人の『妄想』と『期待値』から生まれていることに、身震いするような感動を覚える。100人で作り、1万人の熱狂するファンと、その背後にデジタルでつながった100万人のユーザーがいるサービスに発展させようとするゲームプロジェクトであっても、それは『あの時、あの瞬間』の1人の人間の妄想に近いアイデアから始まっていく。まさにやめられないアドレナリン・プロセスだ。そして、この40年間に生み出された2万本以上ものゲームのうち、かなりのシェアで日本企業の手によって大ヒット作が生み出されてきたことに、強い誇りを感じざるを得ない」と述べるのでした。


第9章「スポーツ」の9-1「アマチュア主義からプロ化へ」の「新聞販促にプロ野球を利用した正力松太郎、日本刀で暗殺未遂」では、19世紀を通して全世界にスポーツを広げていった大英帝国(サッカー、ラグビークリケット、テニス、ボクシングなどは英国発祥)が、宗主国として植民地に対してもそれまでの民衆娯楽(賭博や動物射撃)を禁じ、代わりに「秩序だった健全な肉体・倫理の育成」のためにスポーツを伝道してきたことが紹介されます。スポーツには、決して金儲けであってはならないという原則があったのです。お金目当てにやっていると、その行為は結果を目的にしてしまいます。スポーツは結果よりも過程が大事というわけです。日本の「テレビの神」である正力松太郎は、野球・プロレスを含めた「スポーツの神」でもあります。商売勘に優れた正力は1934年に日本で最初のプロスポーツ団体「読売巨人軍」を結成。



「10倍に成長した米英VS停滞する日本」では、FIFA(国際サッカー連盟)がプロも参加できるワールドカップを作ったのは1930年。そして長くアマチュア選手のみを出場選手として認め、プロを除外してきたオリンピック憲章からアマチュア規定が削除されたのが1974年。その後、サッカーに遅れてラグビーがワールドカップを開催したのが1987年。“紳士のスポーツ”として保守的だったラグビーさえもプロ化・商業化していったことが紹介されます。9-2「オリンピック、その光と影」の「電通によるスポーツビジネスの寡占化」では、電通は1984年のロス五輪で放映権を単独で800万ドル(当時の為替レートで18億円)で買ったことが紹介されます。前払いでした。広告費を預かり、適した広告スペースを買い取っていき、そのマージンを収益とする「代理店」ではありえない事業判断でしたが、電通は多くの放映先と広告主を調達し、200億円の収益を上げたと言われます。それ以上に、この成功によって「スポーツと言えば電通」のポジションを築いたことはその後大きな収益源となりました。

 

9-6「世界随一の格闘技市場としての日本 巨大化する海外企業」の「日本のプロレス人気と衰退・再生」では、格闘技やプロレスは、野球やサッカーに比べると市場規模は小さいですが、その格闘技やプロレスの世界こそは日本がスポーツ大国であることを証明していると指摘されます。プロボクシングの歴代世界チャンピオンは100人超で、米国、メキシコに次ぐ世界3位(女子は2位)、レスリングの五輪メダリスト数も米国、ソ連に次ぐ世界3位、柔道のメダリストは当然ながら世界1位。プロレスも、K-1からPRIDEまでの格闘技団体も、日本は米国に次ぐ長い歴史を持っています。プロレスは野球と並んでテレビ普及の一端を担っていたスポーツでした。力道山という元力士が外国人レスラーを空手チョップでなぎ倒す様子は、敗戦後の米国管理下におかれた日本人のカタルシスを呼び起こし、1963年のデストロイヤー戦は視聴率64%と、東京オリンピック紅白歌合戦とともに歴代視聴率トップ5を飾っています。

 

終章の「クリエイターが変化し、永続性を持つ」では、エンタメは誰かがトップダウンで始めたわけでもないのに、多様に自然発生し、ボトムアップでいつのまにか成立してしまっていることが指摘されます。1人の偶発的な成功が幾多の「2匹目のどじょう」を狙う野心的なクリエイターたちによって模倣され、それは次第に産業エンジンとなって全体をどんどん回転させます。だがいつしか歴史をもち、大企業が乱立する成熟期になると、環境の変化が脅威に変わり、専守防衛に徹するばかりとなるのです。「団塊世代とともに醸成された日本の消費型エンタメ」では、鉄腕アトムからウルトラマンに至るまでロボットとSFが見せた「科学の未来」は、宇宙戦艦ヤマト機動戦士ガンダムとなって昇華され、玩具とアニメの一大ブームを引き起こしたことが紹介されます。インベーダーゲームが日本全国に50万台という前代未聞の広がりを見せるのは「社会の退廃」とも揶揄されましたが、家庭用ゲームへ続くゲームのファーストジェネレーションを地固めし、電子大国日本が誇るべき一大産業を形成しました。

 

「社会の入口/出口に寄り添うエンタメの社会的機能」では、著者が思いついたという「文化とは入口と出口に生まれる」という言葉が紹介されます。人間も他の生物と同じように“一本の管”でしかなく、ほかの生物と同じように食べては出す生き物です。しかし、いかに他の生物とは違うものであるかを強調すべく、「文化」という薄衣で最も熱心にカモフラージュを行うのは、この「入口(食べるとき)」と「出口(出すとき)」という外界との接触点であるというのです。

 

食と排泄とセックスは、人間が最も動物に近づく瞬間であり、それをいかに装飾するかは、人間の社会が最も深く覆い隠しながらも、最も強く関心を持つ対象でした。だからテーブルマナーからトイレットマナー、房中術に至るまで、社会はこの入口と出口をいかに洗練させるか、極めて高度な「文化的所作」で固めて、「人間らしさ」というアイデンティティを確立してきたとして、著者は「国家や社会を身体とみなしたときに、この入口/出口に最も近い産業の1つが『エンタメ』ではないかと思う。新聞・出版というメディアは16世紀に英国の『国家化』とともに一般化していくが、世の為政者が焚書坑儒をしたり、新聞を完全な許可制にしたりしてきたことは、この社会の入口と出口を知らしめてしまうリスクを孕んでいたからだ」と述べています。

 

人々は、国家・社会・文化がどう成り立ち、どう腐っていくのかということに、深く覆い隠された入口と出口に、興味が絶えません。その興味を一網打尽にし、自らのスター性を演出してくれるものがメディアであると指摘し、著者は「だからコンテンツはメディアの力で成り立ち、メディアはまたコンテンツの力によって成長していく。相利共生するメディアとコンテンツ、言い換えるならメディアとコンテンツとクリエイター、さらに言い換えるならユーザーとメディアとクリエイターによるこの『エンタメのトライアングル』は、社会のインフラとまでは言い難い非実質性をもちながらも、実のところ常に人間社会に並走してきた」と述べます。

 

そして、興味本位で非実質的なものだからこそ、エンタメ産業のビジネスモデル構築は非常に前衛的で実験的であると指摘します。この実験が先行することによって、技術的イノベーションのたびにユーザーがどう変化するかを他産業は時間をかけて受容し、アジャストしていくことができるというのです。「エンタメ産業のカナリア」の音楽産業が先行して受けたダメージを見ながら、他のエンタメ産業も、それ以外の重厚長大産業すらも、新時代の予兆を感じ取るのであるとして、著者は「エンタメは社会構造の入口/出口に恒常的に立ち現れる、『産業の様式美』である」と述べるのでした。本書は、エンタメビジネスの各ジャンルを網羅して、その歴史をわかりやすく紹介してくれるエキサイティングな書でした。著者が新日本プロレスの関係者でもあることから、プロレスや格闘技に関する内容が多かったことも嬉しかったです。こんなに刺激を受けた本はなかなかありません。帯にもあるように「とんでもない名著」でした!

 

 

2023年10月26日  一条真也