人生会議と死生観カフェ

一条真也です。
16日の早朝から松柏園ホテルの神殿で恒例の月次祭が行われました。わが社は「礼の社」を目指していますので、何よりも儀式を重んじるのです。新型コロナウイルス感染症法上の位置付けが季節性インフルエンザと同じ「5類」に移行しましたが、万全を期して全員マスクを着けてソーシャルディスタンスを十分に配慮しました。

月次祭のようす

まだまだ感染対策への配慮を!

玉串を奉奠しました

心をこめて拝礼しました

 

皇産霊神社の瀬津神職によって神事が執り行われましたが、この日も祭主であるサンレーグループ佐久間進会長が不在でしたので、代わりにわたしが玉串奉奠を行いました。一同、会社の発展と社員の健康・幸福、それに新型コロナウイルスの感染拡大が終息することを祈念しました。

東専務に合わせて拝礼

最後は、もちろん一同拝礼

 

この日は、わたしに続いて東専務が玉串奉奠をしました。東専務と一緒に参加者たちも二礼二拍手一礼しました。その拝礼は素晴らしく美しいものでした。わが社が「礼の社」であることを実感しました。儀式での拝礼のように「かたち」を合わせると「こころ」が1つになります!

「天道塾」の開催前のようす

最初は、もちろん一同礼!

マスク姿で登壇しました

マスクを外しました

 

神事の後は、恒例の「天道塾」です。この日も佐久間会長が欠席でしたので、最初にわたしが登壇して開塾の挨拶をしました。そのまま、わたしが講話もしました。冒頭、わたしは「北九州の営業推進部総合朝礼、北陸本部の総合朝礼などでサプライズの還暦祝いをしていただきました。本当に、ありがとうございます。日本には、長寿祝いがあります。還暦・古稀喜寿・傘寿・米寿・卒寿・白寿などです。沖縄の方々は「生年祝い」としてさらに長寿を盛大に祝いますが、わたしは長寿祝いにしろ生年祝いにしろ、今でも「老い」をネガティブにとらえる者が多い現代において、非常に重要な意義を持つと思っています。


神道における「老い」について

 

続けて、以下のような話をしました。神道は、「老い」というものを神に近づく状態としてとらえています。神への最短距離にいる人間のことを「翁」と呼びます。また7歳以下の子どもは「童」と呼ばれ、神の子とされます。つまり、人生の両端にあたる高齢者と子どもが神に近く、それゆえに神に近づく「老い」は価値を持っている。だから、高齢者はいつでも尊敬される存在であると言えます。


「老い」とは「神化」である!


熱心に聴く人びと

 

アイヌの人々は、高齢者の言うことがだんだんとわかりにくくなっても、老人ぼけとか痴呆などとは言いません。高齢者が神の世界に近づいていくので、「神用語」を話すようになり、そのために一般の人間にはわからなくなるのだと考えるそうです。これほど「老い」をめでたい祝いととらえるポジティブな考え方があるでしょうか。「老い」とは人生のグランドステージを一段ずつ上がっていって翁として神に近づいていく「神化」に他ならないのです。

哲学とは、死の学びである

 

かつて、古代ギリシャの哲学者であるソクラテスは、「哲学とは、死の学びである」と言いましたが、「死の学び」である哲学の実践として2つの方法があると思います。1つは、他人のお葬式に参列することです。もう1つは、自分の長寿を祝ってもらうことです。神に近づくことは死に近づくことであり、長寿祝いを重ねていくことによって、人は死を想い、死ぬ覚悟を固めていくことができます。もちろん、それは自殺とかいった問題とは無縁で、あくまでもポジティブな「死」の覚悟です。


長寿祝いの文化を世界に!

 

人は長寿祝いで自らの「老い」を祝われるとき、祝ってくれる人々への感謝の心とともに、いずれ一個の生物として自分は必ず死ぬのだという運命を受け入れる覚悟を持つ。また、翁となった自分は、死後、ついに神となって愛する子孫たちを守っていくのだという覚悟を持つ。祝宴のなごやかな空気のなかで、高齢者にそういった覚悟を自然に与える力が、長寿祝いにはあるのです。そういった意味で、長寿祝いとは生前葬でもあります。冠婚葬祭業界の中でも、特にわが社はこれまで長寿祝いに力を入れてきました。わたしは、この長寿祝いという、「老い」から「死」へ向かう人間を励まし続ける心ゆたかな文化を、ぜひ世界中に発信したいと思っています。


朝日新聞」2023年6月14日(夕刊)

 

14日、金沢から小倉に戻り、リーガロイヤル小倉で開かれた第一交通産業の創業者である故黒土始様の「お別れの会」に参加しました。すると、佐久間会長から連絡がありました。今日の「朝日新聞」夕刊に京都大学名誉教授の鎌田東二先生のインタビュー記事が掲載されているとの情報でした。記事は「朝日新聞」の「こころのはなし」欄で、「家族・友人と命語り 最後はお任せ」の大見出し、「突然の病、死と向き合うには」の見出しがついています。リード文には、「心の痛みを対話などで癒やすスピリチュアルケアの専門家で、宗教学者鎌田東二・京都大名誉教授(72)は自身もステージ4のがんが見つかり、治療を続けている。京都の自宅を訪ねた」と書かれています。


トンネルは必ず抜けられる!


熱心に聴く人びと

 

記事の中で、鎌田先生は「生きていれば必ず逆境が訪れます。逆境は暗く長いトンネルです。しかし、トンネルは必ず抜けられます。抜けたら、大きな光が与えられ、その人の人間性に強い力が加わります。ただ、信仰心のある人のほうが逆境に強いことは間違いありません」と述べておられます。「どうしてですか?」という記者の質問に対して、先生は「信仰は心の平安に作用するからです。天国に行って神のもとで暮らす、極楽で先祖に会える、何でもいいんです。ただ、本当に天国に行けるのか、極楽があるのか迷います。目まぐるしく心が揺れ動きながらも、信仰があれば、自分を内観できるだけの余裕を持てます。心にやさしい風が吹き、穏やかに自分の心の状態を見つめられます」と答えています。

 

無宗教の人も多くいます」という質問に対しては、「そういう人たちも自分の生き方に信念を持つことがありますね。自分の死生観を含めた生き方を尊重するには、相手の考え方も尊重しなければなりません。多様な死生観や信仰が交わることで、より生きやすい社会になります」と答えます。まったく同感です!また、死を前にした人の苦しみに対する回答は思い浮かばないとしながらも、鎌田先生は「病で死と直面した人に、他人がどんな言葉をかけても、なぐさめになりません。それほど絶望は深いんです。その状況で生きるかてを得るには、人と人の関係性しかないと思います。家族や友人の支えです」と述べます。

人生会議死生観カフェについて

 

記者が「家族や友人も不安を抱えています」と言えば、「だからこそ、普段から家族や友人と『人生会議』を持つことです。『死生観カフェ』でもいいですね。死をどう捉えたらいいか、死に向かうときにどう過ごしていくか、死生観を語り合うことです。そういう人間関係をいかに築いておくか。恥ずかしがらず、堂々と死を語り合いましょう」と述べます。わたしは、これを読んだとき感動して泣けてきました。さらに、鎌田先生は「若者には古典を読んでほしいと思います。古事記日本書紀プラトンソクラテス論語、仏典、何だって構いません。この世には解決できないこと、答えの出ないことが存在していることを教えてくれます。深く考え、問い続けることで死生観の形成につながります」と述べます。これまた、100%共感いたします。

死を受け入れることは「お任せすること

「死の恐怖は克服できますか」という記者の率直な質問に対しては、鎌田先生は「病が進行し、体が機能しなくなっても、心のなかで起こることは最後まで生き続けます。その一つが、自分のなかに深く刺さった愛する人の言葉であり、自分の核として残っている言葉です。そういう言葉によって、自分の命を納得させられます」と述べています。そして、死を受け入れることは「お任せすること」でもあるという鎌田先生は、「私たちは、あらゆることを対象化し、分類します。あの人はだれ、これは何と認識することも分類です。ただ、命は分類できません。丸ごと、そのままの流れにお任せするしかない。何にお任せするか。神でも仏でも自然でも大いなる何かでもいい。重要なのは、苦しみにあっても、心を開いていく道があると考えられることです。それは命を手放すこと、と言えます。命をまっとうできることに感謝し、最後には手放していく。私も第2幕があるかわかりませんが、ありがとうと言って旅立っていきたいと思います」と述べるのでした。


鎌田東二のメッセージを聴け!

 

鎌田先生とわたしは上智大学グリーフケア研究所で御一緒しました。そのとき、『グリーフケアの時代』(弘文堂)という共著を上梓しましたが、今回の記事の最後に紹介されています。グリーフケアには「死別の悲嘆を軽くする」ことと「自身の死の不安を乗り越える」ことの二大機能があるとされています。今回の鎌田先生のインタビュー記事は、まさに「自身の死の不安を乗り越える」ための最高の叡智です。記事の中にある『古事記』も『論語』も仏典も、ソクラテスプラトンも、すべて「人類の叡智」ですが、鎌田先生の死生観も叡智であると思います。


ウェルビーイング」の真髄を感じました

 

人生会議」や「死生観カフェ」も素晴らしいアイデアで、ぜひ、わが社のような互助会が取り組むべきプロジェクトだと思いました。何よりも、最後の「ありがとうといって旅立っていきたい」という言葉が心に強く残りました。そして、わたしは、そこに「ウェルビーイング」の真髄を感じました。奇しくも、鎌田先生に御寄稿いただいた拙著『ウェルビーイング?』(オリーブの木)がアマゾンにUPされました。双子本である『コンパッション!』と同時刊行で、6月20日発売です。「ウェルビーイング」は「コンパッション」とともに、「ハートフル・ソサエティ」実現のための両輪です。先日、沖縄で全互協の九州ブロック研修会が開かれ、「互助会の進む道」というパネルディスカッションが行われました。その最後に、全互協の前会長でベルコ社長の齋藤斎氏は「互助会の進む道は、ハートフル・ソサエティですよ」と言って下さいました。そのときのコ―ディネーターはサンレー沖縄の佐久間康弘社長でしたが、これから話をしてもらいます」と言ってから降壇しました。


互助会業界将来ビジョンを説明する康弘社長


わたしも聴きました

 

続いて、この日は沖縄から来ていた康弘社長が「互助会業界将来ビジョン研究会」の内容について説明。冒頭、藤子不二雄のSF漫画のような動画が流れ、わたしは「ドラえもんだ!」と思いました。これからの互助会が目指すべき新たな事業分野については「1.健康等に対する不安の解消」「2.人との交流の活性化」「3.助け合いの関係性の回復」という指摘がありますが、わたしは3つとも、すべてウェルビーイングとコンパッションに関連していると思いました。また、互助会には「地域における信頼性」「会員ネットワーク」「施行施設」「多様なイベントコンテンツ」「ホスピタリティマインドあふれるスタッフ」などの有形、無形の資産があるとの説明もありました。


最後に総括しました


最後は、もちろん一同礼!

 

サンレー沖縄の康弘社長が降壇した後、わたしが総括を行いました。わたしは、互助会の最大の資とは「会員に高齢者が多いこと」と「儀式を提供していること」であると思いました。ビジョンの研究というのは限りなく哲学的営為に近づいていきますが、「20世紀最大の哲学者」と呼ばれたルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは「人間は儀式的動物である」と述べています。儀式を行うという人間の本能に根差した互助会は不滅の事業であり、そこにアップデートがなされれば鬼に金棒であると思っています。互助会は心ゆたかな社会としての「ハートフル・ソサエティ」を実現する可能性を大いに秘めています。そして、「ウェルビーイング」と「コンパッション」がその両輪となるでしょう。わたしは、そのように総括しました。

 

2023年6月16日 一条真也