「クイーンズ・ギャンビット」

一条真也です。
本当は3日から東京出張する予定だったのですが、東京の新規感染者2万人超えに衝撃を受けて中止しました。4日に開かれる業界の会議にはリモート参加します。ブログ「全裸監督」で紹介したドラマはネットフリックス・ジャパンを代表する作品でしたが、その後、ネットフリックスで最も観られたという名作ドラマを遅まきながら鑑賞しました。そう、「クイーンズ・ギャンビット」です!


「クイーンズ・ギャンビット」は、冷戦期を舞台にチェスの天才少女を描いたヒューマンドラマです。1950年代の児童養護施設で、人並外れたチェスの才能を開花させた少女エリザベス・ハーモン(ベス)は、薬物やアルコールへの依存症に苦しみながら、想像もしていなかった華やかなスターへの道を歩いていきます。

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ちなみに「クイーンズ・ギャンビット」は、リミテッドシリーズ部門作品賞を含む11のエミー賞と、ゴールデングローブ賞リミテッドシリーズ部門の作品賞と主演女優賞を獲得。全世界63ヵ国で1位、93ヵ国でTOP10を取った、2020年ネットフリックス最高の作品です。



主役のべスを演じたアニャ・テイラー=ジョイが素晴らしかったです。もう、完全に彼女のためのドラマでした。チェスのドラマなので、対局しているときの表情が命ですが、彼女の表情の豊かさには感嘆しました。彼女は1996年、アメリカ合衆国フロリダ州マイアミ生まれ。アルゼンチンを経て、6歳の時にイギリスのロンドンに渡りました。父はアルゼンチンのスコットランド系、イングランド系で元国際銀行家のパワーボートレーサー。母はアフリカのザンビア生まれのスペイン系とイングランド系でインテリアデザインや写真の仕事をしていましたが、現在は心理士です。6人兄弟の末っ子で、バレエなどを習いました。


女優になるため、14歳でロンドンからニューヨークへ移住。 ハイヒールに慣れるため歩いていた時、車で追いかけてきたサラ・ドゥーカスに「止まってくれたら、後悔はしないよ」とスカウトされ、モデルの仕事を始めたそうです。2015年にBBCで放映されたイギリスのファンタジードラマ「Atlatis」に数話登場、米加合作のテレビファンタジー映画「Viking Quest」にも出演。2015年にサンダンス映画祭で初上映され、翌年初頭に全米公開されたロバート・エガース監督のホラー映画「ウィッチ」のトマシン役で高い評価を受けました。


2017年にはブログ「スプリット」で紹介したM・ナイト・シャマランがメガホンを取ったサイコスリラー映画に出演して話題となります。しかし、この映画はどうしようもない駄作でした。とにかく胸糞が悪くなる映画で、鑑賞中はずっとイライラしっぱなしでした。アカデミー賞に「ストレス賞」があれば受賞できると思ったくらいです。シャマラン映画には傑作と駄作が混合していますが、残念ながら「スプリット」は後者でした。当然、彼女の名演技にも気づきませんでしたね。2019年には「スプリット」の続編となる「ミスター・ガラス」に出演。


一連のホラー作品での活躍により、絶叫クイーン(Scream queen)と呼ばれるようになり、英国アカデミー賞 ライジング・スター賞にノミネートされました。2018年は世界最大規模のファッションの祭典であるメットガラに招待され、モデルとしても飛躍を遂げます。2020年には主演を務めたX-MENシリーズのスピンオフ映画「ニュー・ミュータント」が公開。2021年には「クイーンズ・ギャンビット」での演技が評価され、第78回ゴールデン・グローブ賞の「テレビの部・リミテッドシリーズ、テレビ映画」部門で女優賞を受賞。同年に出演した映画がブログ「ラストナイト・イン・ソーホー」で紹介したサイコスリラーの傑作です。わたしは、この作品で初めて彼女の存在を意識しました。「才能に溢れた女優だな」と思いましたが、まさか「クイーンズ・ギャンビット」でここまで凄い演技をしていたとは!


最近、わたしが観る映画やドラマには、すべてにグリーフケアの要素がありますが、「クイーンズ・ギャンビット」もまさにそうでした。第1話の冒頭から、9歳の少女ベスが交通事故で母親を失うという、深いグリーフが発生します。コミック・アニメ・映画のすべてで史上最高の大ヒットを記録した「鬼滅の刃」もそうですが、大ヒットする映画・ドラマ・アニメには、物語の冒頭で主人公が大切な家族を亡くすという設定が多いことに気づきます。たとえば、ブログ「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」で紹介した「スパイダーマン」シリーズでは、各作品すべてで主人公の大切な人が亡くなり、その悲しみから回復する物語となっています。また、「バットマン」も両親を自分のせいで亡くした悲嘆から立ち直る物語となっています。

愛する人を亡くした人へ』(現代書林)

 

母を亡くしたベスは養護施設に入れられます。その初日に、唯一の自分の場所であるベッドに腰かけたべスに対して、養護施設の先生は「きっと今は孤独を感じているでしょうね。でも、悲しみで落ち込んだ後には、祈りと信仰で立ち直れるわ。そうすれば、新しい道が見えてくる」と言うのでした。これは、まさにキリスト教という宗教の教えに沿ったグリーフケアの思想です。拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)では、「親を亡くした人は、過去を失う。配偶者を亡くした人は、現在を失う。子を亡くした人は、未来を失う。恋人・友人・知人を亡くした人は、自分の一部を失う」という言葉を紹介しましたが、実の母親を亡くしたベスは大事な過去を失ったのです。しかも、チェスによって実母を亡くした悲嘆からようやく立ち直ったと思ったら、今度は遠征先のメキシコで養母を亡くすという体験をします。「クイーンズ・ギャンビット」は二重のグリーフケアの物語となっているのです。


養護施設では薬物を子どもたちに投与しており、幼いベスは依存症になっていきます。黒人の同級生ジョリーン以外には生徒とも教師とも馴染めないベスはある日ひとり地下室で用務員のシャイベルが打つチェスに興味をそそられ、彼からチェスの手ほどきを受けるのでした。このシャイベルの存在は、ベスにとってあまりにも大きなものでした。彼がいなければ、ベスはチェスの存在に気づかず、そのルールをおぼえることもできず、さまざまな戦略を学ぶこともできませんでした。何よりも、自分にチェスの才能があるという最重要の事実を知ることができなかったのです。


子どもに潜む才能を見つけ、それを育てるのは親の役割ですが、ベスには親がいません。その代わりに、シャイベルが親の役目を果たしたのです。わが社は、児童養護施設のお子さんたちに七五三や成人式の晴れ着の無償提供などを行っていますが、いずれはシャイベルのような才能の発掘、育成のような活動も手掛けたいと思いました。ベスは最初にチェスの大会に出場するときの参加料5ドルもシャイベルに頼りました。いくら感謝しても感謝しきれない恩人の訃報に接したときのベスの涙には胸を打たれました。


シャイベルのおかげでチェスの道に進んだベスは、自らを安定させるための薬物とアルコールへの増していく依存を隠しながら、「世界で最も偉大なチェスプレーヤーになりたい」という願望に突き動かされます。まだジョリーンと親しくなる前で、気の許せず仲間もおらず孤独だった彼女が、養護施設の地下室で初めてチェスに興味を示したとき、シャイベルは「女の子のやるもんじゃない」と言いました。そう、チェスは男社会のゲームだったのです。それにもかかわらず、ベスは男社会でもあるチェスの世界で頭角を現していきます。


ベスの亡くなった母親は数学の博士で、非常にインテリな女性でした。この時代の女性として結婚後は、おそらく才能を活かす場もなく家に押し込められたのでしょう。そうした抑圧から精神を病み、ベスを連れて家を出たことがドラマから窺えます。そして、夫(ベスの父親)が新しい家庭を作って妻子を見捨てたために、彼女は自暴自棄になって交通事故死するのでした。そのときの遺児であるベスが世界中の男どもを破っていく「クイーンズ・ギャンビット」は女性の時代の幕開けを示すドラマです。

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読書で運命を切り拓くベス

 

ベスはチェスの天才ですが、次々と目の前に現れる強豪を倒すために勉強を怠りません。その勉強の基本というのが、チェスの本を読むことです。全7話のドラマを通じて、彼女がチェスの本を一心不乱に読み耽っているシーンが何度も登場します。わたしは、読書の重要性を示すシーンだと思いました。経営者としてのわたしは、『論語』やドラッカーの経営書などを繰り返し読み、その教えを活かしています。よく「読書が大事なことはわかっているけれど、忙しくて読むヒマがない」と言う人がいます。しかし、逆だと思います。本当は「本を読まないから時間がない」のではないでしょうか?

f:id:shins2m:20220203203300j:plain心ゆたかな読書』(現代書林)

 

拙著『心ゆたかな読書』(現代書林)の「まえがき」にも書きましたが、ビジネス書には、努力の末に成功した人の知識や経験やノウハウがたくさん書かれています。その人が何年も何十年もかけて体得した奥義を、わずか1冊の本を読むだけで得ることができるのです。人間は経験のみでは、1つの方法論を体得するのに数十年もかかります。でも、他人の経験を借りて、それを1日で可能にする読書ならば、最短の時間と最小の労力で成功にたどり着けるわけです。そのうえで自分なりの工夫を加えればよいのです。つまり読書とは、時間を短縮するタイム・ワープの方法です。ビジネス書でも、チェスの本でも、読書の本質に違いはありません。読書の効用を「クイーンズ・ギャンビット」は見事にプレゼンテーションしています。


チェスは「世界一難しいゲーム」と呼ばれます。そのゲームで神童と呼ばれ、成長して世界の檜舞台に立ち続けるべスに対して、ある女性インタビュアーが「あなたは孤児だったのね。チェスのキングを父親、クイーンを母親と思わなかったのかしら?」と質問する場面があります。ベスは、「ううん、ただのコマとしか思わなかった。それよりボードの方に目が行った。64マスは世界のすべてだから。チェスは、自分の思い通りに世界を創れるの」と答えたのが印象的でした。ベスは、64マスのチェスボードに自分の居場所を見つけたのです。「創造性と精神疾患は近い」とか「天才と狂人は紙一重」などと失礼な発言をするインタビュアーも登場しますが、確かに強敵との勝負に挑み続けるストレスのあまり、精神安定剤とアルコールに依存した彼女にそういった一面はありました。


パリでボルゴフとの再戦前夜、羽目を外した一夜をきっかけに負のスパイラルに陥るベス。どん底の中、テレビから流れてきた楽曲で踊り狂います。その曲は、日本でもおなじみのショッキング・ブルーの「ヴィーナス」でした。9歳の少女時代からのベスを知っているドラマ視聴者にとっては、彼女が美しい大人の女性へと成長したことがよくわかるシーンです。多彩な音楽もこのドラマの魅力の1つですが、わたし個人としては、ベスの養母がピアノで弾いたエリック・サティの「ジム・ノぺディ」、ベスが強敵ベニーに敗れた帰りのタクシーの中で流れたハーマンズ・ハーミッツの「ジ・エンド・オブ・ザ・ワールド」が特に印象的でした。2曲とも、わたしの大のお気に入りです。


ベニーをはじめ、ベスはチェスで対戦した相手と次々に寝ます。男ならだれでもいいというわけではなく、全力で戦った相手との間に恋愛感情が芽生えるというのは理解できるような気がします。男同士なら、ケンカで殴り合った相手と親友同士になるような感じでしょうか。そのベスと対戦し、愛し合った男たちが大同団結して、最強の敵ボルゴフとモスクワで戦う前に、ベスにアドバイスを与えるのですが、とても心温まるシーンでした。孤児で孤独だった彼女が成長して、多くの仲間や味方を得たことがわかるシーンで、ドラマを最初から観続けてきた者の胸を熱くします。これもベスがたった1人で果敢に人生を切り拓いてきた結果なのです。男だけはありません。親友のジョリーンはずっとベスを支え続け、そんな彼女をベスは「守護天使」と表現します。ジョリーンは、「あたしがあんたを支えてたとき、あんたはあたしを支えてた」と言いますが、これはまさに「ケア」の相互関係であると思いました。


そして、最後に最強の相手ボルゴフと戦うベス。物語も大詰めを迎えます。この勝負の舞台となったモスクワをはじめ、パリ、ニューヨーク、メキシコシティ、ラスベガスなど、世界中の都市が登場します。実際は、パリの場面はベルリンで撮影されたそうですが・・・・・・。ラスボスとしてのボルゴフは最高の紳士でもありました。アメリカのドラマであるにもかかわらず、ソ連の英雄であるボルゴフを人格者として描いたことは素晴らしいと思います。また、モスクワでは、ソ連のアナウンサーが「トマス・ハクスリーは言いました。チェス盤は世界で、駒は宇宙の現象であると。チェスのルールは自然の法則。そして対面するプレーヤーは見えない存在だと」と語ります。


そうはいっても、キングやナイトたちが動くチェスというゲームは戦争の代替行為でもあります。冷戦時の物語ゆえに「クイーンズ・ギャンビット」というドラマには、米ソの緊張を匂わせるシーンも多々ありました。その意味で、チェスに興じるソ連の老人たちの輪の中にアメリカ人であるベスが入っていくラストシーンは、この上なく平和を感じさせてくれました。ラストシーンで彼女が着た白い衣装はチェスのクイーンをイメージしているそうです。母を亡くした孤独な少女は、見事にクイーンになったのです! チェスで負けたときは潔く「投了」しなければならないとシャイベルから教わったベスですが、彼女は自分の人生を投了しませんでした。「クイーンズ・ギャンビット」を観た世界中の女性たちは、ベスのように自分の可能性を信じて挑戦する勇気を得たのではないでしょうか?

 

2022年2月4日 一条真也