『月を見上げる』

一条真也です。
わたしは、これまで多くのブックレットを刊行してきました。わたしのブックレットは一条真也ではなく、本名の佐久間庸和として出しています。いつの間にか44冊になっていました。それらの一覧は現在、一条真也オフィシャル・サイト「ハートフルムーン」の中にある「佐久間庸和著書」で見ることができます。整理の意味をかねて、これまでのブックレットを振り返っていきたいと思います。 


『月を見上げる』(2006年10月刊行)

 

今回は、『月を見上げる』をご紹介します。2006年10月に刊行したブックレットです。超高齢社会を迎え、安楽死尊厳死と、人間の死をめぐる論議が20世紀末からずっと続いています。また毎年、3万人以上の人々が自ら命を絶っています。これらの問題はいずれも人間をモノとみなし、死を操作の対象ととらえている点で共通していると言えるでしょう。そんな道具的生命観が主流を占めているような社会で切り捨てられてきたのが、人間は自然の一部であるというエコロジカルな感覚であり、かつ宇宙の一部であるというコスモロジカルな感覚でした。21世紀は、これらの切り捨てられた感覚を人間が回復する世紀です。さらには、多くの人々が孤独な死を迎えている今日、動植物など他の生命はもちろん、死者たちをも含めた大きな深いエコロジー、いわば「魂のエコロジー」の中で生と死を考えていかなければなりません。


「魂のエコロジー」について説明しました

 

古代人たちは「魂のエコロジー」とともに生き、死後への幸福なロマンを持っていました。その象徴が月です。彼らは、月を死後の魂の赴く場所と考えました。そうです、月は魂の再生の中継点と考えられてきたのです。多くの民族の神話と儀礼のなかで、月は死、もしくは魂の再生と関わっています。規則的に満ち欠けを繰り返す月が、死と再生のシンボルとされたことはきわめて自然だと言えます。地球上から見るかぎり、月はつねに死に、そしてよみがえる変幻してやまぬ星なのです。また、潮の満ち引きによって、月は人間の生死をコントロールしているという事実があります。さらには、月面に降り立った宇宙飛行士の多くは、月面で神の実在を感じたと報告しました。月こそ神の住処であり、天国や極楽、つまり魂の理想郷「ムーン・ハートピア」なのではないでしょうか。



さて、「葬式仏教」といわれるほど、日本人の葬儀や墓、そして死と仏教との関わりは深く、今や切っても切り離せません。月と仏教との関係も非常に深いです。「お釈迦さま」ことブッダは満月の夜に生まれ、満月の夜に悟りを開き、満月の夜に亡くなったそうです。ミャンマーをはじめとした上座仏教の国々の伝承によると、ブッダの降誕、成道、入滅の3つの重要な出来事はすべて、インドの暦でヴァィシャーカの月の満月の夜に起こったというのです。太陽暦では4月か5月に相当しますが、このヴァィシャーカの月の満月の日に、東南アジアの仏教国では今でも祭りを盛んに行なっています。これは古くからあった僧俗共同の祭典の名残だそうです。また毎月2回、満月と新月の日に、出家修行者である比丘たちが集まって、反省の儀式も行なわれています。


図解でわかる!ブッダの考え方

 

ブッダは、月の光に影響を受けやすかったのでしょう。言い換えれば、月光の放つ気にとても敏感だったのです。私はやわらかな月の光を見ていると、それがまるでヴィジュアライズされた「慈悲」ではないかと思うことがありますが、ブッダという「めざめた者」には月の重要性がよくわかっていたはずです。「悟り」や「解脱」や「死」とは、重力からの開放に他ならず、それは宇宙飛行士たちが「コズミック・センス」や「スピリチュアルワンネス」を感じた宇宙体験にも通じます。満月の夜に祭りを開き、反省の儀式を行なう仏教とは、月の力を利用して意識をコントロールする「月の宗教」だと言えるでしょう。 


ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教

 

仏教のみならず、神道にしろキリスト教にしろイスラム教にしろ、あらゆる宗教の発生は月と深く関わっています。地球人類にとって普遍的な信仰の対象といえば、なんと言っても太陽と月です。太陽は西の空に沈んでいっても翌朝にはまた東の空から変わらぬ姿を現しますが、月には満ち欠けがあります。常に不変の太陽は神の生命の象徴であり、死と再生を繰り返す月は人間の生命の象徴なのです。また、「太陽と死は直視できない」というラ・ロシュフーコーの有名な箴言があるように、人間は太陽を直視することはできません。しかし、月なら夜じっと眺めて瞑想的になることも可能です。あらゆる民族が信仰の対象とした月は、あらゆる宗教のもとは同じという「万教同根」のシンボルなのです。キリスト教イスラム教という一神教同士の宗教戦争が最大の問題となっている現代において、このことは限りなく大きな意味を持っています。



さらに、人類の生命は宇宙から来たと言われています。DNAの二重螺旋構造の提唱者として知られるフランシス・クリックが「生命の起源と自然」を発表し、生命が宇宙からやってきた可能性を認めました。その後、ホイルやウィックラマシンジは生命の種子が彗星によってもたらされたと主張しているのです。私たちの肉体をつくっている物質の材料は、すべて星のかけらからできています。その材料の供給源は地球だけではないのです。はるかかなた昔のビッグバンからはじまるこの宇宙で、数え切れないほどの星々が誕生と死を繰り返してきました。その星々の小さな破片が地球に到達し、空気や水や食べ物を通じて私たちの肉体に入り込み、わたしたちは「いのち」を営んでいるのです。わたしたちの肉体とは星々のかけらの仮の宿であり、入ってきた物質は役目を終えていずれ外に出てゆく、いや、宇宙に還っていくのです。宇宙から来て宇宙に還る私たちは、宇宙の子なのです。そして、夜空にくっきりと浮かび上がる月は、あたかも輪廻転生の中継基地そのものと言えます。人間も動植物も、すべて星のかけらからできている。その意味で月は、生きとし生ける者のもとは同じという「万類同根」のシンボルでもあるのです。

ロマンティック・デス〜月と死のセレモニー

 

かくして、月に「万教同根」「万類同根」のモニュメントとしての「月面聖塔」を建立し、「月への送魂」によって地球から故人の魂を送るという「ムーン・ハートピア・プロジェクト」が生まれました。月に人類共通の墓があれば、地球上での墓地不足も解消できますし、世界中どこの夜空にも月は浮かびますから、それに向かって合掌すれば、あらゆる場所で死者の供養をすることができます。また、遺体や遺骨を地中に埋めること、つまり埋葬によって死後の世界にネガティブな「地下へのまなざし」を持ち、はからずも地獄を連想してしまった生者に、ポジティブな「天上へのまなざし」を与えることができます。そして、人々は月を霊界に見立てることによって、死者の霊魂が天上界に還ってゆくと自然に思い、理想的な死のイメージ・トレーニングを無理なく行なうことでしょう。わたしは、21世紀の「葬」としての「ムーン・ハートピア・プロジェクト」について一冊の本にまとめ、『ロマンティック・デス〜月と死のセレモニー』と題して、1991年の秋に国書刊行会から上梓しました。

ロマンティック・デス〜月を見よ、死を想え

 

ロマンティック・デス〜月と死のセレモニー』は、わたしの予想をはるかに超えて多くの方々に読まれました。その後、『ロマンティック・デス〜月を見よ、死を想え』として、幻冬舎から文庫化され、さらに多くの読者を得ました。「ムーン・ハートピア・プロジェクト」には大きな反響があり、数え切れないほどの新聞や雑誌に取り上げられました。もちろんテレビでも紹介されましたし、海外からの取材もたくさんありました。詳しくは、ブログ「月面墓地」を御覧下さい。早いもので、あれからもう30年が経ちました。ブログ「宇宙葬」に書いたように、元NASAの技術者で宇宙葬のパイオニアであるエリジウム・スペースのトーマス・シベCEOも、『ロマンティック・デス』を読まれ、それがきっかけで宇宙葬ビジネスを始められたそうです。それを知り、わたしは非常に感激しました。

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宇宙葬のパイオニア」トーマス・シベ氏と

 

20世紀から21世紀へと時代は移り、2004年2月5日、サンレーグランドホテルのオープニング・イベントにおいて「月への送魂」がついに実行されました。「月面聖塔」の方はまだしばらくおあずけですが、巨大模型をサンレーグランドホールのロビーに展示しており、多くの人の目を引いています。2020年には月面開発が自由化されたので、実際に建立することもできます。小さなミニチュアなら、今でもロケットに積んで月面に置いてくることもできます。でも私は、それはたいして重要なことだとは思っていません。もちろん、モニュメントとしての「月面聖塔には大きな意味があります。しかし、月面に建造物をつくるというよりは、月そのものが地球人類にとっての聖地であり、「万教同根」「万類同根」のシンボルであるのだという考えが、この20年以上のあいだにだんだん強くなってきたのです。ですから今は、月に向かって魂を送る「月への送魂」こそが何よりも重要であり、「月面聖塔」はいつの日にか実際につくるもよし、つくらなくても別によしという考えです。

月への送魂」で、月に届いたレーザー(霊座)光線

 

月への送魂」はかなりのインパクトを見る者に与え、お葬式に対するイメージが変化すると思います。「葬送」という言葉がありますが、今後は「葬」よりも「送」がクローズアップされるでしょう。「葬」という字には草かんむりがあるように、草の下、つまり、地中に死者を埋めるという意味があります。「葬」にはいつまでも「地下へのまなざし」がまとわりついているのです。一方、「送」は天国に魂を送るという「天下へのまなざし」へと人々を誘います。「月への送魂」によって、葬儀は「送儀」となり、お葬式は「お送式」となるのです。


このブックレットの最後に、わたしはこう書きました。
「わたしは21世紀の『お送式』によって、現代人が『魂のエコロジー』を取り戻して幸福になるお手伝いを、死ぬまで、また死んだ後も続けていきたいと思っています。死ぬまでは、月を見上げながら。死んだ後は、月から地球を見ながら・・・・・」
ブログ「神弓奉納祭」に書いたように、11月3日、皇産霊神社において、「神弓奉納祭」が行われました。高名な弓道家である高城久恵先生が、愛用の弓を奉納して下さいました。この神弓は、2007年の「月への送魂」で使用されました。弓にも魂がこもり、「月への送魂」の物語は新たな第二章の幕を開きました。なお、このブックレットは サンレーグループの諸施設にも置いています。

 

2021年6月16日 一条真也