上海

一条真也です。
20日、10時05分羽田発のNH969便で上海へ。
3時間10分のフライトを経て、12時15分に上海の虹橋空港に到着。
人口2400万人の、世界一の「大気汚染」都市に降り立ちました。


上海・虹橋空港の前のようす

光化学スモッグに霞む上海の市街



「アジア冠婚葬祭業国際交流研究会」の視察研修旅行です。
わたしは、この旅行団の副団長を務めています。これまで、前身の「東アジア冠婚葬祭業国際交流研究会」の時代から、韓国、台湾、ベトナムミャンマー、インドなどを訪問しました。先月は台湾こと中華民国に2度行きましたが、今月は中華人民共和国です。わたしが中国を最後に訪れたのは、約10年前のサンレー創立40周年記念の上海旅行のときです。
あれ以来、ずっと中国に来ていませんでした。
まあ、別に来たいとも思いませんでしたが・・・。


紙幣はすべて毛沢東



Wikipedia「中国」の「概要」には以下のように書かれています。
「現在、アジア大陸の東部に広がる一帯が『中国』と呼ばれている地域であり、中国大陸とそれに付随する島嶼にあたる。現在の中国社会の中心的地位を占めている漢民族を始めとして、一時は中国全土を支配していたモンゴルなど、様々な民族による複数の王朝の出現、滅亡、戦乱を繰り返してきた」


上海のようす



また、Wikipedia「中国」の「概要」には以下のようにも書かれています。
「清代までの中国には『王朝』の概念はあれど『国家』の概念は無く、『天下あって国家無し』と言える状態だったため、王朝の名前が対外・対内的な呼称として用いられていた。19世紀半ば以降、中国が世界的な主権国家体制に組み込まれてゆく過程で、『中国』という用語が主権国家の自称として広く用いられるようになり、次第に固有名詞としての性格を濃くしていった。現在ではその地域に成立した中華民国中華人民共和国に対する略称としても用いられる。また、その地域、文明、民族を広く指し、紀元前からの文明の総体をも含めて用いられている」


上海のようす



中国最大の都市が上海です。
わたしは、これまで交易会などで何度も上海を訪れていますが、今回は10年ぶりの訪問となります。上海は世界有数の世界都市であり、中国の商業・金融・工業・交通などの中心の1つです。2012年6月の時点で、常住人口は2400万人を超えています。市内総生産は2兆3560億元(約45兆円)で、首都の北京市を凌いで中国最大です。中華人民共和国国務院により国家中心都市の1つに指定されています。


上海のようす



Wikipedia「上海」の「歴史」には以下のように書かれています。
「中国の戦国時代、今の上海あたりは春申君の封地だったため、今も『申』と称す。また『滬』(魚を捕る道具の意)とも呼ばれる。
上海の地は唐代には華亭県の一部だったが、蘇州河の南に上海浦という村ができ、宋代に上海鎮とよばれるようになった。これに対し黄浦江下流の現虹口区あたりには下海廟も存在した。元代には上海に市舶提挙司が置かれ港町として発展し始めた。1292年に上海県となったが、それ以前は華亭県に属した」


上海市内のアパート



また、Wikipedia「上海」の「歴史」には以下のように書かれています。
アヘン戦争終結させた1842年の南京条約により、上海は条約港として開港した。これを契機として、イギリスやフランスなどの上海租界が形成され、後に日本やアメリカも租界を開いた。1865年に香港上海銀行が設立されたことを先駆として、欧米の金融機関が本格的に上海進出を推進した。1871年には、香港と上海を結ぶ海底ケーブルが開通し、日本の長崎市にも延伸された。1873年には、日本の岩倉使節団が上海の市内見学をしており、当時の上海の様子を『米欧回覧実記』に記している」


上海のようす



「1920年代から1930年代にかけて、上海は中国最大の都市として発展し、イギリス系金融機関の香港上海銀行を中心に中国金融の中心となった。上海は『魔都』あるいは『東洋のパリ』とも呼ばれ、ナイトクラブ・ショービジネスが繁栄した。こうした上海の繁栄は、民族資本家(浙江財閥など)の台頭をもたらし、階級闘争的な労働運動が盛んになっていた」


上海の空



「1925年に上海から始まった五・三〇事件は、中国における大規模な民族運動とされるが、同時に社会主義的労働運動の台頭を示した事態であった。こうした状況を懸念した浙江財閥は、蒋介石と提携し反共クーデター(上海クーデター)を決行させた。なお、中華民国の下で1927年に上海特別市となり、1930年5月、上海直轄市が成立している」


上海のようす

上海のようす



さらに、Wikipedia「上海」の「歴史」には以下のように書かれています。
「1932年には、上海日本人僧侶襲撃事件などを原因に第一次上海事変が起きた。1935年には、中山水兵射殺事件や日本人が経営する商店が襲撃される事件が起きた。1937年には、大山中尉殺害事件後に第二次上海事変が勃発した。中国軍機の爆撃を受けた上海共同租界では多くの市民が犠牲となったが、日本軍によって上海共同租界への中国軍の侵攻は阻止された。1941年には、太平洋戦争の勃発と共に上海共同租界は日本軍に接収された。1949年の中華人民共和国成立により、外国資本は香港に撤収したが、1950年代から1960年代にかけては工業都市として発展した」


上海のようす

上海のようす



そして、Wikipedia「上海」の「歴史」には、こう書かれているのでした。
「1978年の改革開放政策により、再び外国資本が流入して目覚ましい発展を遂げた。現在も、1992年以降本格的に開発された浦東新区が牽引役となって高度経済成長を続けている。また上海市指導部から江沢民、朱鎔基、呉邦国、曽慶紅、黄菊ら中国共産党の政治局常務委員などの指導部を輩出している」


夜の上海の夜景



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2017年4月21日 一条真也