お墓について考える

一条真也です。
いま、羽田空港のラウンジです。これから北九州に帰ります。
わたしは、 終活WEB「ソナエ」で「一条真也のハートフル・ライフ」を連載しています。「日本の心」や「心ゆたかな生き方」をテーマに月に2回、コラムをお届けしております。その第17回目が9月16日にアップされました。



終活WEB「ソナエ」



第17回目のタイトルは「お墓について考える」です。
墓参をする喪服姿の男性の写真が使われて、「お墓は『思い出の国』」「あたらしいお墓の『かたち』は?」という小見出しがついています。
8月はお盆をクライマックスとする「死者を想う」季節でした。
9月にはお彼岸があります。お彼岸には、お墓参りをします。
9月は「お墓について考える」季節かもしれません。お墓の「かたち」は非常に多様化してきています。従来の石のお墓もあれば、海や山に遺灰を撒く自然葬を求める人も増えてきています。遺骨を人工衛星に搭載して宇宙空間を周回させる天空葬もあれば、月面をお墓にする月面葬もあります。



お墓について考える」より



わたしは、人間とは死者とともに生きる存在であると思います。それは、人間とはお墓を必要とする存在だということでもあります。現在、血縁も地縁も希薄になってきて「無縁社会」が叫ばれ、「葬式は、要らない」という葬儀不要論に続いて、「墓は、造らない」という墓不要論も取り沙汰されているようです。でも、わたしは生き残った者が死者への想いを向ける対象物というものが必要だと思います。そして、死者を偲ぶ「こころ」さえあれば、その「かたち」は何でもありだと思っています。



これからは既存のスタイルにとらわれず、自分らしいお墓について考えるということが大切になってきます。先祖代々のお墓を引っ越さなければならないという「墓じまい」や、新たにお墓を造るという「墓じたく」も大切な問題です。このたび、わたしは『墓じまい・墓じたくの作法』(青春新書インテリジェンス)という本を上梓しました。この本では、さまざまな「お墓の作法」について述べました。「お墓」をテーマにして、その過去、現在、未来に触れながら、「どのようにお墓と付き合うか」という作法についても紹介しました。



最新刊『墓じまい・墓じたくの作法』(青春新書インテリジェンス)も紹介



大切な「お墓」の作法を1つだけお伝えいたします。
それは「墓」と呼ばずに「お墓」と呼ぶということです。同書のタイトルは、便宜上「墓」という言葉を使っていますが、日常的にはけっして「墓」ではなく「お墓」という言葉を使って下さい。「墓」とは石材をはじめとした単なる物体であり、唯物論的な世界の言葉です。でも、「お墓」と呼べば、そこに「こころ」が入ります。どうも、「墓」と呼び捨てにしている人は自分自身の墓が無縁化する運命にあるような気がしてなりません。一方、「お墓」と呼ぶ人のお墓はいつまでもお参りに訪れる人が絶えないように思います。



なお、終活WEB「ソナエ」では、新連載開始に先立ち、ブログ「老いるほど豊かに」ブログ「『終活』ではなく『修活』」ブログ「『縁』と『絆』の大切さ」で紹介したように全3回で、わたしのインタビュー記事を掲載しています。



次回は10月1日にアップの予定です!



次回の「一条真也のハートフル・ライフ」は、10月1日(木)にアップされる予定です。タイトルは「歌舞伎・能・花」です。先日、「松竹大歌舞伎 中村翫雀改め四代目中村雁治郎襲名披露公演」を鑑賞しました。演劇としての歌舞伎には華があります「華」は「花」に通じますが、歌舞伎にはもともと「花形」や「花道」といった花にまつわる言葉があります。その歌舞伎は能から派生した芸術ですが、能を大成した世阿弥とは「花」を語った思想家でもありました。日本人は「花」の向こう側にも「花」を求める民族です。次回は、10月刊行の『和を求めて』(三五館)の冒頭を飾る日本文化の神髄をコラムを書きます。どうぞ、お楽しみに!



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2015年9月16日 一条真也