大重潤一郎監督、逝く

一条真也です。
ブログ「久高オデッセイ」で紹介した映画の監督である大重潤一郎さんがお亡くなりになられました。大重さんはかねてより沖縄県那覇市の病院で療養中でした。7月18日に容態が急変し、22日に息を引き取られました。


22日に逝去された故・大重潤一郎監督



「久高オデッセイ」の製作者でもある京都大学こころの未来研究センター教授の鎌田東二先生が20日の12時55分に那覇空港に到着されました。
それから、大重さんの病床につきっきりだったそうです。
今日、鎌田先生から以下のメールが届きました。

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本日、2015年7月22日(水)15時50分、大重潤一郎さんの呼吸が止まりました。その場に、大重生さん、須藤義人さん、伊豆有加さん、わたしの4人が見守っていました。そして、その後、15分以上心臓は動いていました。本当によく頑張ってくれました。
20日(月)に来た時は、いっぱいいっぱい話をしました。凄い活性化していました。そして、21日(火)朝方4時くらいから12時半過ぎまで「起きたい、歩きたい、聖者の行進をする」と言って、何度も起きようとし、みんなでいろいろ手伝いもしましたが、しかしもちろん、体は動きませんでした。
(息子さんの)大重生さん、高橋あいさんが夜通し、付き添ってくれました。生さんは17日(木)からずっと那覇の日赤病院で夜通し看病してくれました。3日間は一睡もせずに。
昨日午後、みんなが沖縄映像文化研究所の片づけなどに行って、わたし一人が見守っている時間が6時間くらいありました。その間、「起きたい、立ちたい、歩きたい」という欲求が繰り返されました。大宮のわたしの家のベランダにいると思って、ベランダに座りたい、立ちたい、歩きたいと繰り返しました。気をそらすために、大重さんが京都のわが家にプレゼントしてくれた金柑のことを話しました。「わが家の金柑は実がなってるよ」と言ったら、笑いながら、「金柑はいいなあ〜。緑の葉っぱが欲しい」というので、「妻に送ってもらうから後2日待って」と言ったら、「わかった。わかった。」と言っていました。それが最期の会話となりました。その後、眠りにつき、その5時間後から酸素マスクを着ける昏睡状態に入りました。
そして21時くらいから昏睡に入りました。そして本日、みんなが見守る中、大重弁慶は立派に「聖者の行進」をしてニライカナイに渡っていきました。
ありがとう、大重潤一郎
ありがとう。
さようなら。
また会えるよ。
また、会おう!

7・22 鎌田東二

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鎌田先生の深い悲しみがメールの文面からも伝わってきます。
それにしても、ブログ「久高オデッセイ上映会&シンポジウム」で紹介したイベントが開催されていて、本当に良かったです。あのとき、大重さんはスカイプの画面で嬉しそうな表情を見せておられました。わたしもスカイプ画面の大重さんに向かって、両国の「シアターX(カイ)」の客席から「大重監督、素晴らしい映画を作って下さって、ありがとうございます!」と申し上げました。あのイベントはまさに大重さんの生前葬でした。
「大重さんほど幸せな方はいない」と心から思います。


大重監督の生前葬となりました

超満員でした!

スカイプで話す大重監督

大重監督にお礼の言葉を述べました



大重監督のお別れのセレモニーは、サンレー沖縄でお世話をさせていただくことになりました。以下の日程です。
いわゆるお通夜=偲ぶ会   7月27日(月)18時〜
いわゆる告別式=お別れ会  7月28日(火)11時〜12時過ぎ
会場はいずれも「豊崎紫雲閣」(住所:沖縄県豊見城市豊崎1−200   
電話:098−850−3004、那覇空港からタクシーで約15分。
サンレーから当日シャトルバスも出る予定です)


偲ぶ会&お別れ会の会場となる豊崎紫雲閣



ブログ「パゴダの防人、逝く!」で紹介した世界平和パゴダを長年支えてこられた三木恭一さんに続き、偉大な魂がこの世を卒業して行かれました。「死者を忘れてはならない」ということを痛感するばかりです。
大重潤一郎監督の御冥福を心よりお祈りいたします。合掌。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2015年7月23日 一条真也