シベリア抑留を忘れるな!

一条真也です。
今朝の「読売新聞」のトップに「シベリア抑留」の関連記事が大きく掲載されました。シベリア抑留とは、第2次世界大戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜らが、ソ連によって主にシベリアに労働力として移送隔離された強制抑留です。長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により、多数の人的被害を生じました。アメリカの原爆投下と並ぶ、人類史上に残る愚行です。


「読売新聞」4月24日朝刊



「読売新聞」には「抑留死名簿 樺太、大連も」の大見出しが踊っています。
また、「旧ソ連作成188人分」「シベリア含め全名簿 政府、近く公開」の見出しで、以下のように書かれています。
「【ホルムスク(ロシア極東)=緒方賢一第2次大戦終結後、旧ソ連によって南樺太・真岡(まおか、現サハリン南部ホルムスク)と中国・大連の送還収容所に抑留され死亡した日本人の名簿が、ロシアに保管されていたことが分かった。読売新聞はこのうち、188人分を入手した。ソ連が作成した抑留死亡者名簿を巡り、シベリア抑留以外のデータが明らかになるのは、朝鮮半島興南(現在の北朝鮮)にあった『第53送還収容所』の869人分に次ぐものとなる」


亡国日本への怒りの直言

亡国日本への怒りの直言

わたしは、シベリア抑留という人類史上に残る愚行に強い怒りを感じます。わたしの仲人である東急エージェンシー元社長の故前野徹氏は、著書『亡国日本への怒りの直言』(PHP研究所)において「シベリア抑留は戦争犯罪どころか計画的な残虐行為だ」として、以下のように書かれています。
「われわれ日本人には、主張すべきことがある。
アメリカの原爆投下はまさに〈火の原爆〉だったが、終戦後にロシア(旧ソ連)がわが国のシベリア抑留者に行った残虐行為は〈氷の原爆〉だった。
東京裁判の進行中に極寒の地でいったい何が行われていたか。このこともまた戦後の日本では、意図的に封印されてきたのである。
シベリア抑留は終戦直前の8月8日、日ソ中立条約を一方的に破って満州に侵入したソ連軍がスターリンの極秘命令により、関東軍将兵満州国官吏らをハバロフスクなどで最高11年間、強制労働させた悲劇である。
これは日本軍の降伏後、世界各地の戦場に残った日本軍人の帰国を定めたポツダム宣言九条に違反していた」
前野氏の名言のように、アメリカが〈火の原爆〉で多くの日本人を殺したのなら、ソ連は〈氷の原爆〉で前代未聞の大量殺人を犯したのです。戦後70年、わたしたち日本人はこの歴史的事実を絶対に忘れてはなりません。

9000マイルの約束 [DVD]

9000マイルの約束 [DVD]


ところで、わたしはこのゴールデンウィークに観るDVDと読む本のリストアップをしたのですが、その中にシベリア抑留関係のものがあります。
まず、DVDは2001年のドイツ映画「9000マイルの約束」です。
第2次世界大戦で捕虜になったドイツ兵が、戦後シベリアの強制収容所から9000マイル(1万4000km以上)離れた祖国ドイツを目指して歩いて逃げる感動のヒューマン・ドラマです。


我が足を信じて 極寒のシベリアを脱出、故国に生還した男の物語

我が足を信じて 極寒のシベリアを脱出、故国に生還した男の物語

「9000マイルの約束」は実話をもとにしており、原作は『我が足を信じて 極寒のシベリアを脱出、故国に生還した男の物語』ヨーゼフ・マルティン・バウアー著、平野純一訳(文芸社)というノンフィクションです。
また、同ジャンルの本に『脱出記――シベリアからインドまで歩いた男たち』スラヴォミール・ラウイッツ著、海津正彦訳 (ヴィレッジブックス)があります。極限状況においても希望を失わず、がんばり抜いた男たちの壮絶なノンフィクションで、50年間読み継がれてきました。ポーランド陸軍騎兵隊中尉だった著者はソ連当局にスパイ容疑で逮捕され、第2次大戦さなかの1941年、シベリアの強制収容所に連行されました。無実の罪でシベリア送りにされた著者は、意を決して、6人の仲間と脱走を図り、シベリアからインドまで歩いたのです。約4000マイル、6500kmの行程でした。


脱出記―シベリアからインドまで歩いた男たち (ヴィレッジブックス)

脱出記―シベリアからインドまで歩いた男たち (ヴィレッジブックス)

  • 作者: スラヴォミールラウイッツ,Slavomir Rawicz,海津正彦
  • 出版社/メーカー: ヴィレッジブックス
  • 発売日: 2007/11/01
  • メディア: 文庫
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旧ソ連ポーランド侵攻以降獲得した各国人捕虜は389万9397人におよびます。1949年1月1日の段階で56万人が死亡し、54万2576人が未帰還のまま抑留されました。これらの捕虜の多くは内務人民委員部等の各省庁に貸し出され、その監督下で使役されたそうです。特にドイツ人の死亡率は高く、スターリングラード攻防戦での捕虜6万人のうち、帰還できたのはわずか5000人だったとか。


ゴールデンウィークの楽しみです!



『はるかなシベリア―戦後50年の証言』と題して1995年に単行本化された「北海道新聞」の記事には、「ドイツ人捕虜も、シベリア送りとなった。 第二次世界大戦で、捕虜になったドイツ兵は約1100万人で、ソ連兵に捕まえられたのは約350万人、うち110万人が死亡した。日本兵捕虜60万人のうち、1割に当たる6万人の死亡数からみると、ドイツ人の死亡率はかなり高い」と書かれています。ソ連は、戦争において多くの同胞を殺したヒトラーが率いるナチス・ドイツの兵士たちを強く憎んでいたのです。
もうすぐ、ゴールデンウィークです。わたしは、少しでもシベリア抑留の事実を知り、多くの犠牲者の冥福を祈りたいと思います。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2015年4月24日 一条真也