足利学校

一条真也です。
ブログ「湯島聖堂」で紹介したように、東京の湯島聖堂孔子像に再会した翌日、わたしは栃木県足利市にある「史跡足利学校」を訪れました。
22日の朝、東京駅から新幹線やまびこ“207号”に乗って小山へ。小山駅でJR両毛線に乗り換えて足利へ・・・・・・。


足利駅に着きました

「昌平町」の地名は孔子の故郷に由来します

足利駅から足利学校まで歩きました



足利市は人口15万人ほどの地方都市ですが、足利学校がある街として有名です。足利学校の住所は「昌平町」となっており、これは孔子の生まれ故郷の地名に由来します。そういえば、湯島聖堂はかつて「昌平坂学問所」と呼ばれていました。足利駅からは、足利学校まで歩きました。



史跡足利学校」の前で

論語』のメッセージが・・・・・・

緑ゆたかな場所です



足利市の公式HPでは、史跡足利学校は以下のように説明されています。
足利学校は、日本で最も古い学校として知られ、その遺跡は大正10年に国の史跡に指定されています。
足利学校の創建については、奈良時代国学の遺制説、平安時代小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがありますが、歴史が明らかになるのは、室町時代の永享11年(1439)関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、鎌倉円覚寺から僧・快元(かいげん)を招いて初代の庠主(しょうしゅ=校長)とし、足利学校の経営にあたらせるなどして学校を再興してからです。足利学校は、応仁の乱以後、引き続く戦乱の中、学問の灯を絶やすことなくともし続け、学徒三千といわれるほどに隆盛し、天文18年(1549)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルにより『日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学』と世界に紹介されました。江戸時代の末期には『坂東の大学』の役割を終え、明治5年に幕をおろしましたが、廃校直後から有志による保存運動が展開されるなど、郷土のシンボル、心のよりどころとして足利学校の精神は市民の中に連綿として生き続け、平成2年の復原完成へとつながり、教育の原点、生涯学習の拠点として、新しい学びの心の灯をともしています」


孔子像を発見!!

孔子像の前で

狛犬にかまれる!

稲荷社もありました



ザビエルがイエズス会に報告した当時の足利学校は、寺院を利用しており、本堂には千手観音像が祀られていたようです。
また、本堂の他に「孔子廟」があったとされています。寛文8年(1668年)、徳川幕府四代将軍家綱の時に造営されたもので、中国明時代の聖廟を模したものと伝えられています。現在の足利学校の「孔子廟」には、珍しい孔子坐像が祭られています。


学校門の前で

孔子廟を望む

孔子廟について

珍しい孔子坐像

孔子廟を参拝する

孔子廟を背にして


孔子廟を後にすると、わたしは方丈に向かいました。
ここは学生の講義や学習、学校行事や接客のための座敷として使用されたところです。方丈に隣接して、庫裡(学校の台所。食堂など日常生活が行われた場所)や書院があります。
庫裡の前には非常に珍しいものがありました。「宥座之器」です。
これは、水を入れることによってバランスを図り、いわゆる「中庸」を学ぶための道具です。もともとは孔子の時代に使われていた「欹器図」に由来し、「欹器」とは「座右の戒めをなす器」という意味です。


方丈の前で

庫裡の前に「宥座之器」がありました

「宥座之器」について

水を入れて「中庸」を学ぶ



わたしは庫裡の中に入り、内部でつながっている方丈とともに見学しました。さまざまな資料が展示され、足利学校の歴史が紹介されています。また、国宝となっている多くの稀覯書の複製などもありました。
わたしが特に興味を抱いたのは、「釋奠(せきてん)」という儀式の展示でした。「釋奠」とは儒教の祖である孔子と、その弟子たちをまつる儀式です。「釋奠」という言葉には「供え物を置く」という意味があります。現在、足利学校をはじめ、東京の湯島聖堂、岡山の閑谷学校、佐賀の多久聖廟などで行われています。足利学校では毎年11月23日に行われています。


庫裡の内部のようす

足利学校の歴史を学ぶ

国宝の稀覯書の複製も展示

珍しい「釋奠」の儀式の資料も展示


方丈の脇玄関には、孔子をはじめ、孟子などの聖人たちの像も並べられていました。孔子孟子を尊敬してやまないわたしのような人間には、たまらない場所です。もう、聖人像を眺めているだけで、うっとりしてしまいます。こんな環境の中で儒学を学ぶなんて、なんと贅沢なことでしょうか!


ずらりと脇玄関に並んだ聖人像

脇玄関の聖人像の前で

方丈の内部のようす

方丈の内部にて


易経 (中国の思想)

易経 (中国の思想)

中国の古典に「四書五経」があります。四書は『論語』『大学』『中庸』『孟子」』、五経は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』のことです。このうち、『易経』が足利学校と密接な関係があります。五経の筆頭に挙げられている『易経』は、自然界の現象を八つの象に分類した「八卦」(乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤)を組み合わせた「六十四卦」(八×八)で物事の吉凶を占うものです。ことわざにある「当たるも八卦当たらぬも八卦」は、この易経からきています。この『易経』を研究し、解釈する学問が「易学」。占筮術(せんぜいじゅつ)とも呼ばれ、京都五山などでも研究され、伝授されていますが、そのメッカともいえる存在こそ、足利学校でした。易学は、なんと兵学とも密接な関係があったのです。


ブログ『戦国武将の戦術論』で紹介したとおり、戦国大名たちを支えた「軍師」たちは、この易学を極めた者が務めていたのです。『戦国武将の戦術論』榎本秋著(ベスト新書)には次のように書かれています。
「一般的に『戦国の軍師』といえば、大名の傍で状況を判断し、作戦を立てる、近現代の軍隊における参謀のような存在、というイメージがあるだろう。しかし、戦国時代の軍師の本来の仕事は儀式をとり行い、吉凶を見極めるものであり、どちらかと言うと呪術師に近い存在だったのである」


甲陽軍鑑 (ちくま学芸文庫)

甲陽軍鑑 (ちくま学芸文庫)


足利学校は宣教師が「日本唯一の大学」と呼んだ当時有数の教育機関でした。ここからは多くの軍師が誕生しています。しかし、この足利学校についても、本書には「実はこの学校は僧侶を育成するための教育機関であり、その卒業生が諸家に求められたのも、足利学校のカリキュラムにおいて重視されていた易、すなわち占いの技術だったのだ」と書かれています。武田信玄は、家臣から推挙を受けた徳厳という占者(軍師)について、「その者は足利学校で占を習得したのか」と確認し、徳厳は足利学校で学んでいなかったため、不採用としたと『甲陽軍鑑』に記述されています。


遺蹟図書館の前で

孔子さまと背比べ



遺蹟図書館の中には孔子等身大パネルがありました。孔子は2メートル以上あったそうですが、実際に横に並ぶと、やはり大きいですね。177センチのわたしが小さく見えます。遺蹟図書館では「幻燈ガラス展〜孔夫子一代記〜」という企画展示が開催中でした。その内容について受付の女性に質問したところ、彼女は驚いたような顔をして「一条先生ではありませんか?!」と言いました。わたしも驚きましたが、聞くと彼女は孔佩群さんという中国の方で、なんと「孔子の子孫」である世界孔子協会の孔健会長と同じ一族だそうです。ということは、彼女も孔子の子孫ということになりますね。なんでも、ブログ「孔子文化賞授賞式」で紹介した、2012年2月28日に東京・目白の椿山荘で開催された第2回「孔子文化賞」の授賞式で、わたしと初めて会ったとのこと。いやあ、やはりこの世は有縁社会ですね!


孔佩群さんと



さて、孔子の木こと楷の木が、ここ足利学校にも植樹されています。足利学校の学校門をくぐり、正面左手を見ると、遺蹟図書館の前に大樹がそそりたっていますが、これが楷の木です。今から2500年前、孔子の死を悲しんだ弟子たちは、3年の喪に服した後、その墓所のまわりに全国から集めた美しい木々を植えて離れました。これが現存する孔林で、なんと70万坪(200ヘクタール)に及びます。大正4年、東京林業試験場の場長を勤めていた白澤保美林学博士が孔林から種子を持ち帰って育て、大正11年にその苗を日本国内の孔子儒学にゆかりのある施設などに配られましたが、足利学校の楷の木も、そのうちのひとつなのです。足利学校の楷の木は「ナンバンハゼ」とも呼ばれています。


足利学校の楷樹(孔子の木)

「ナンバンハゼ」とも呼ばれています



ブログ「霊山歴史館」で紹介した「孔子の木」の正体こそ、この楷の木です。中国山東省にある孔子廟孔子のお墓)には、弟子が植えた孔子の木(楷の木)が大きく繁っています。もともと、山東省曲阜にある孔子墓所「孔林」に弟子の子貢が植えた櫂の木が代々植え継がれていることに由来します。また各地の孔子廟にも、楷の木が植えられています。時代を経るにしたがって中国では学問の聖木とされ、儒教の試験である科挙の進士に合格したものに櫂の笏を送ったそうです。


この大きさを見よ!

孔子の木の前で孔佩群さんと



99年前、湯島聖堂足利学校閑谷学校、それから佐賀県多久市にある多久聖廟の4カ所に楷の木すなわち「孔子の木」が植えられたそうです。「孔子の木」と聞いては、黙っていられません。「平成の寺子屋」をめざす天道館をはじめ、わが社の諸施設にも近く楷の木の植樹する予定です。じつは、すでにもう数十本の楷の木を購入済みであります。


ビデオで足利学校について学ぶ

「恕」の扁額の前で



わたしが史跡足利学校の存在を初めて知ったのは第2回「孔子文化賞」の授賞式においてでした。そこで、当時の足利市長さんにお会いして、史跡足利学校のお話しを聞いたのです。その後、すぐに訪問したかったのですが、多忙のため行けず仕舞いでした。父は訪問を果たしたようで、「あれは素晴らしいから、ぜひ行ったほうがいいぞ」と言っていました。あれから2年以上が過ぎましたが、もうすぐ第3回「孔子文化賞」の授賞式が開かれます。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2014年5月23日 一条真也